表情と感情
「すみません、ちょっとよろしいですか」
雨里さんに挨拶をして劇場から出ようとしたとき、一人の男性に呼び止められた。
年齢は40代半ばといったところだろうか。素敵なスーツに身を包み、綺麗な革靴を履いていた。
「あ、はい。どうしましたか」
「いきなりすみません。私、雨里の事務所の社長をしています、
差し出された名刺には、事務所の名前とともに【代表取締役社長
「社長さん…えっと、喫茶店を経営しています、高野です。すみません、名刺はなくて。あ!決して怪しい者では…」
とっさに言い訳してしまった僕に、滝口さんは少し困ったように笑った。立ち話も何だからと、自動販売機で飲み物を買い、劇場の外にあるベンチに腰掛ける。
「雨里から話は聞いていました。行きつけの喫茶店があると。もしかしてそこの店長さんかなと思って、気づいたら呼び止めていました。驚かせてしまってすみません」
缶コーヒーを片手に話す姿でさえ様になっていて、思わず見惚れてしまいそうになった。それくらい頼もしい横顔だった。
「どうしてそう思われたんですか」
「雨里の表情ですよ。さっき話しているところを見て、そうじゃないかなって。すごく、穏やかな顔をしていましたから。長い間一緒に過ごしてきましたけど、あの子のあんな表情は初めて見ました」
まさかの返答。今度はこちらが返す番なのに、言葉が出てこない。そんな僕の様子を見て、笑みを浮かべながら滝口さんは続けた。
「私が見てきた雨里は、いつも一生懸命で前向きで。もちろん、色々なことを乗り越えてきましたから、弱っている姿だって見てきました。それでもいつも、覚悟や意志が伝わってくるような目をしていた。今思えば、ずっと肩に力が入っているような、そんな堅さを感じていたんです。でもね、高野さん。あなたと話しているときは違った。ちゃんと力を抜いて、しっかり息ができていたように見えたんです。あの子の本当の姿を、初めて見た気がしました」
そこまで話すと、缶コーヒーをグッと飲み干して立ち上がった滝口さん。
「これからも、雨里をよろしくお願いします。では、私はこれで。お時間いただきありがとうございました。今度はお店にお邪魔させてもらいますね」
そう言い残し、タイミングよく呼びに来たスタッフさんと一緒に劇場に戻っていった。
滝口さんの言葉を考えながら歩く帰り道。長年一緒にいた人が言うんだから、きっとそうなんだろうとは思う。だけど、自分がそんなふうに安らげる場所を提供できている自信はなかったから、正直驚いた。僕が目指していた喫茶店の存在意義を果たせている、ということでいいのだろうか。
でももしそうなら、僕の感情はなおさら雨里さんにとって邪魔になってしまう。そんなことを、改めて思った。
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