友達契約満了の日

みむけい

友達契約満了の日

 卒業はあっけなく訪れた。僕にとっての高校生活はあっけなく終わりを迎える。卒業式が終わって教室に戻る道すがら泣いている生徒も少なくない。小学校中学校と卒業式を経験してきても、それらと高校の卒業式とでは重みが違うのかもしれない。残念ながら僕の目から涙は出なかった。残念ながら、というのは何も皮肉っぽくそう付け加えるわけではなく、本当に残念に思っているのだ。涙がにじむような高校生活にしてこなかったのは僕自身だから仕方のないことなのだけど。

 ちら、と後ろに目をやると篠原こずえが同じように歩いている。その目には涙が浮かんでいた。それを見て僕は少し驚いた。


「友達契約しませんか」

 篠原こずえと友達契約を始めたのは高校二年生の春だった。既に高校で一年間過ごして、ここが相当に辛い場所なのだと身に沁みてわかっていた僕は、向こうからのその申し出を、ついうっかり承諾してしまった。

 契約の内容はシンプルで最低限のものだった。たとえばペアを組むときとか、昼食を食べる時とか、とにかくこの教室であぶれそうな時に、そうならないようにすること、ただそれだけ。

 言わずもがな、僕も篠原も友達がいなかった。そして高校で一年間過ごしてみて、友達なしで高校生活を過ごすのはかなり不便で、かつ精神的にきついことが僕にもわかっていた。だからそんな話を、二十分後のバスを一人で待っているときに聞けば、嬉しくなってしまうのも仕方のないことだった。僕は家に帰ったあと、少し小躍りしてしまった。

 今にして思えば、この時その申し出を断ってさらに二年間孤独な精神的修行をしていたらどうなっていただろうか。修行のかいあって独立独歩、独立自尊、独立不羈の精神を持つことができていただろうか。あそこであんな契約を結んだことで、僕は半端な人間になってしまったのではないだろうか。いや、どんな自分だって半端者だったろうけれど、半端者なりの知恵をつけて、一人で不自由なく生きていくための心構えくらいは体得できたかもしれない。

 篠原こずえは目立たないことによって逆に少し目立っているような女子だった。きれいだったりかわいいわけではなかったけれど、不細工というわけでもない、少しそばかすのある、普通の女子だった。だから友達がいないのは不思議だったけれど、まあそんなものだろうなと思った。僕もそうだったのだけれど、やむにやまれず友達がいない、ぼっちになっているのだとわかった。わかった、というのは、二年になって彼女と同じクラスになったときの印象が僕にそう思わせたわけなのだけれど、それはどこかおずおずとしていて、どこかびくびくしていて、それを悟られないように取り繕って、それができていると思っているような、そんな感じ。少し姿勢が悪く、そのために暗い印象で、しゃべりかけられても一言返すだけ、そして自分から話しかけはしない。言ってしまえばこのクラスにおける自分の女バージョンを見つけたようだった。

 そんな印象だったから、篠原こずえが僕にあんな突飛なことを言いだすとは露ほども思わなかった。もっとも、相手の方もそれが承諾されるとは夢にも思わなかったかもしれないけれど。

 それから僕たちは昼に一緒に食べたり、体育で二人組を組んだり、修学旅行の班分けで一緒になったりした。僕は男で彼女は女だから、その関係で一緒になることができない時もあった。そういう時にはお互いに孤立を守った。それが契約のうちに入っていたかどうかは知らなかったけれど、僕も彼女もそうした。おそらく彼女は同性の友達が欲しかったのだろうけれど、同性で声をかけられるような人がいなかったのだろう。

 二年の時から始まった関係は、三年の時にもクラスが同じだったので変わらずそのまま続いた。まわりのクラスメートからどのように思われていたのかは僕も知っていた。前述の通り僕も男だから悪い気はしなかった。友達はいない癖に彼女はいると思われているのは面白かった。だけど特に話しかけて否定しようとも思わなったから、たぶんそのままそう思われているんだと思う。

 そうして僕と彼女は高校生活を無事にすごしていった。少なくともやりすごしていった。受験期に突入するともはや大したイベントもないし二人組を作る機会もない。一人で黙々と参考書を読みながら昼食を食べていれば、それはそれで目立たない。だからだんだんと一緒になる機会も減っていった。LINEも何も知らないくらいだったし、必要なこと以外何も話さなかったから当然ではあった。けれど僕は、どこかで彼女とつながっていると思っていた。彼女の方もそうだろうと思っていた。

 彼女は勉強ができたから難関大学を受験するようだった。僕は勉強が嫌いだったし、頭も良くなかったのでこのへんの企業に就職することにした。ぼんやりと、彼女とはもう一生会わないのだろうなと思った。でも多分その他の、この学校にいる人間全員とももうこの先会わないはずだし、仮に会っても顔も名前もわからないだろう。

 そんな風にして僕の高校時代も、彼女の高校時代も終わろうとしていた。


 卒業にまつわるいろいろなことが終わって、ホームルームも終わって、卒業生たちが名残惜しいのか、教室の中やら外やらに手持ち無沙汰にたむろしていた。僕にもそういう気持ちがないわけではなかったけれど、他の人より深い思いがあるわけでもないので、ここらでドロンさせてもらおうかというときに、篠原から声をかけられた。

「ここだとあれだから、グラウンドのわきとか行きませんか」

 あれがどれなのかはともかく、実を言えば、こうやって声を掛けてくれないかと期待していたのだ。最後だから。でも自分から声をかけるのは照れくさかった。

 グラウンドに足を向けるのは半年ぶりくらいかもしれなかった。ここにももう来なくなるんだと思うと少し寂しいような気もした。僕の感覚としては、思い出と寂しさは必ずしも繋がってはいないらしい。思い出がなくても寂しさはあるのだ。

「どうでしたか、高校生活は」

 何を話そうかといろいろと話題を思案していたのだけれど、向こうは話したいことが決まっているらしかった。

「別に。面白くもなかったし、だからって不満があるわけでもない、フツー」

「わたしはもっと楽しみたかったです。でもできなかった」

 僕は意外な言葉に、教室に戻る時の彼女の涙を思い出した。空を見上げながら話す彼女の顔にわずかに涙の跡が認められた。

「だから大学に入ったら、ちゃんと友達を作って、ちゃんと青春をしたいんです。そこがわたしの最後の青春ですから」

 その言いぶりからすると、大学に行かない僕の青春はもう終わったらしい。そして僕と彼女はちゃんとした友達ではなかったらしい。

 僕も空を眺めた。一筋ひこうき雲が青空に道を作っていた。それは既にもやもやとしていて鮮明さを失いつつあった。視線を下げると誰もいないグラウンドがある。全体として寂しい風景だった。少なくとも僕はそう感じた。

「寂しいですね」

 心を覗かれた気がした。

「思い出があるから寂しいんでしょうか。想い出がないから寂しいんでしょうか」

「さあ、知らない。……でも、まあいんじゃない? 頑張れば」

「うん。頑張ります。頑張って言います」

 何を、と言う前に僕は何を言うか何となくわかっていた。

「今日をもって友達契約は満了しました。今までありがとうございました」



 彼女は僕を正面から見て言った。そして深々と頭を下げて、そして僕を残してどこかへ行った。

 僕はその後のセリフにも期待していたけれど、残念ながらその言葉が出てくることはなかった。

 何で泣いていたのか、なんてことを聞くのは野暮というか不遜だろう。聞かなかったことで僕は彼女に敬意を表したことにしたい。

 恋に恋するように青春に青春する。よく意味はわからないがそういうことなんじゃないかと思う。結局彼女にとって僕は力不足だったのだろう。それ以上に自分自身が力不足だった。だから次は、いや、次が最後だから、頑張る。頑張るためには覚悟が必要だ。それが友達契約の終了、更新なし、ということだ。それにどんな作用があるのかは知らないけど、きっと彼女にとっては何か意味があるのだろう。

 彼女は思い出がどうとか言っていた。僕はここに思い出なんて特にない。それでも寂しい時もある。思い出と寂しいを「だから」でつなぎたくない。思い出がある。だから寂しい。思い出がない。だから寂しい。そんな感じで結びたくない。僕がそう思いたくないだけかもしれないけど。

 きっと彼女は思い出がなかったから寂しかった、と言いたかったのだろう。数少ない僕にとっての思い出。僕は篠原こずえとの思い出で十分不満はなかった。一緒に昼食を食べたり二人組を組んだり。でも篠原こずえにとってはそんな「寂しい思い出」では不満だったのだろう。寂しかったのだろう。それこそ泣くほどに。

 契約という言葉に縛られていたのは僕だけだったのかもしれない。彼女は彼女で現状の安心から脱して、違うところに行くことに必死だったのかもしれない。人によってはそれを「成長」と呼ぶのかもしれないし、「退行」と呼ぶのかもしれない。僕としては「錯覚」と呼びたいところだけれど、穏当に「変化」と呼んでおく。

 彼女は変化した。僕は変化しなかった。彼女は僕の中で残り続ける思い出で、僕は彼女から脱ぎ捨てられる思い出だ。五年後くらいに僕のことをさっぱり忘れていれば上々だろう。

 取り残されたように輪郭のくずれたひこうき雲がある。僕はそれがほつれ、ほどけきるまで眺めていた。

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