追加エピソード シリアス系
maid-01: 無力な少女ロゼ
十年ほど前。
ステンドグラスに似た鮮やかな色使いが壁一面を彩る。華やかな二階建ての屋敷がどこまでも並ぶ通りを進んでいく。夜でなければもっと美しいはずの道を小走りで進む二人は、つい半日前までは、もっともっと大きな屋敷に住んでいた。
「お嬢様、次で右に。物陰ですが、声は落としたままで」
使用人の囁きに従い、建物の陰になる小路に入り込んだ。少し奥に行くだけで通りからは隠れられるし、窓もない。相応に手入れが届いておらず、古くなった動物の糞や腐肉が転がる。真上の弱々しい月明かりの他は、角ばった壁だけの寂しい空間だ。
一刻も早く離れたい悪臭だが、ここなら上階からの狙撃に怯えず小休止できる。明らかに薄汚れた子供二人、誰が見てもきっと、何かを盗まれる前に始末する。悪ければその前に体を弄ばれる。建物の外観だけでは決して安心できない。
顔を隠していたぼろ布を緩めて、ロゼ・ブラックは黙ったまま、荒い呼吸を整える。黒い髪に、白い肌。この地ではよく目立つ身体的特徴だ。流言と妬心により目の敵にされた今、肌を晒すのも場所を選ぶ。久しぶりの軽やかな呼吸。カラカラに乾いたぬるい空気が鼻に沁みた。
「ダスク、ありがとう。助かったよ」
「お言葉ですが、まだ助かってないです。ここの隣はパン屋なので、あと三時間もあれば動き始めます。次の行き先を決めますよ」
ロゼは落胆し顔を膝に埋める。家庭教師による高等教育が始まったばかりの今日、地元では有名なギャングの先兵が商談相手の名前を出して扉を開けさせた。雪崩れこんでからは銃声が唸り続けた。守りを固める様子を見せたら、奴らは一般人も利用して火を放った。
「お嬢様、これを」
ダスクはエプロンの裏側に、拾っていた黒い破片で地図を描く。
「このまま街を抜けてこの方角へ行くと、自然豊かな区画があります。ここなら人間より他の動物が多いので、水と食糧を得ながら逃げます」
ロゼは頷く。今は疲れて何も考えられない。静かなはずのこの場でも、頭の中では騒がしい声が聞こえ続けている。似た経験は何度かあった。舞踏会とか観劇とかの、人が集まる場に行った日は必ず、喋り声が寝るまで聞こえ続けていた。耳に飛び込んだままで処理しきれなかった情報を、順々に後回しにした分を、夜までかけて聞いている気がする。楽しいイベントの日の余韻だったが、どうやら楽しくなくてもこうなると知った。
「ダスク、お前はどうして、こんな時にもそんなに動けるの」
ロゼが漏らした言葉に、少し時間を置いてから答える。
「過去には触れない約束です」
「そうだけど、今の話でもある。パパが――こんな状況になったらもう給料も払えない。足手まといの私なんか、見捨ててもいいのに、どうして」
「こんな状況だからこそです、お嬢様。私たちが生きていくにはこうするしかない。一人でいたら簡単に殺されて、全てを奪われる。協力するしか、ないんですよ」
ダスクの目を見たらすぐにわかった。ロゼがこれまで自分の一部だと思っていたものは、着せられた剣や鎧だった。ダスクと会った頃は飲み込みが早い奴だと思ったが、とんでもない。ダスクには経験があった。歳は同じでも屋敷の外を知っていた。そのおかげで今を生きている。
「強いな。見直した」
「お嬢様から教わったんですよ。気高くあれ。今こそ教えを守ります」
「負けてられない。私も――」
「無理をなさらず。まずは傷を癒してからです」
今までみたいに。すべてが炎に消えたのに、まだ過去に縋りつきたくなる。あと少し休みたくなる。今のまま。もう月光は傾いているのに。
ロゼは立ち上がった。脚は生きているので、あとは腕さえ庇えば動けはする。パン屋の朝は早い。パン屋でなくても朝になれば動き出す。その頃に、可能な限り、遠くへ。ダスクも考えは同じで、あと必要なのはロゼの休憩だけだった。本人が立ち上がったなら、もう出発できる。動く前にひとつだけ、ロゼが呼び止めた。
「お嬢様?」
「もう私はお嬢様じゃない。対等な二人、名前を呼び捨てにしてほしい」
「よろしいのですか、お嬢様」
「今までと同じではいられないんだ。全てが昨日とは違う。だったら、私たちの関係だって」
ダスクは決意に満ちた顔つきを受け止めて、少しだけ口角を上げた。深い呼吸をひとつ。こそばゆい感覚を越えて、最初のひと声を出した。他の誰にも聞こえないよう、小さく。
「ロゼ。ふふ、なんだか、照れます」
二人は絶望の淵にいる。全財産は着ている服と、石ころと、たった一本の果物ナイフのみ。お金がなければ買い物もできず、子供にはまともな働き口もない。これが最期の笑顔となっても、誰も不思議には思わない。
それでも二人には相棒がいる。道具がないなら、作るか盗む。食べ物のために、拾うか奪う。生きるためには汚れるしかない日が来る。その時は、二人で一緒に汚れよう。
「いつかまた、綺麗な服を着せます。そんなロゼが好きですから」
「その時はダスクも一緒に、な」
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