order-08: 階級

 ひと通りの安全確認を終えた午前十時だ。レデイアが二階の、玄関から最も遠い部屋の確認を終えて家の中心に戻る途中に、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。家主が戻る予定はない。しかし白昼の空き巣とも違う。生活音を出しているし、使用電力を示すメーターも回っている。警戒しつつ身を隠して様子を探る。すぐに扉が開いた。手元にあるのは鍵で、女性的なシルエットをしている。


「セクレトー?」


 ソプラノの声が家の奥まで届く。続く言葉の前に彼女は靴に気づいた。セクレトの靴がなく、レデイアの靴がある。ユニセックスのテニスシューズだが、大きさは明らかに女物だ。遠くから覗き見ただけでも血圧が高い顔をしている。面倒なことになった。興奮状態の相手には論理がまず通じない。まずは頭を冷やさせる。そのために自らの場所を知らせる。


「こっちです!」


 レデイアの声かけに反応し、女性は顔を赤くして駆け寄った。レデイアは階段を降りるが、女性も真正面からぶつかるように階段に足をかける。冷静な判断とはかけ離れている。これでは転落の危険があり、そうなれば取り返しがつかない。レデイアは咄嗟に階段の手摺りを飛び越えて、一階のカーペットに着地した。これで興奮状態を激化させるか、それとも驚きのあまり落ち着くかは賭けだが、少なくとも平坦な場所に移れた。レデイアはその場で待ち、女性と相対した。


「こんにちは。初めまして。私は家政婦として雇われました、レデイア・ルルでございます。お客様は?」

「どうも。私はアンシィ、聞いているでしょう」

「アンシィ・エダン様でしたか。お名前は伺っておりました。婚約者様ですね。恥ずかしながらお顔を確認しておらず、ご無礼をどうかお許しください」


 どれが決め手になったか、落ち着いたアンシィと話ができる。合鍵について確認したら、製造番号をこっそり確認して用意したと言う。今日が初使用なのでセクレトも情報を得ていなかった。イレギュラーへの対処なので、契約通り対法処はレデイアが判断する。


 時刻と名前を記録し、会話を通じて情報を探った。相手は元より用事があって来た人物なので、時間の問題はない。アンシィに関する情報は写真以外ならば頭に入っている。名前を知っている別人ならば話すうちにやがてボロが出る。追い返すよりも監視下における分だけ安全だ。


「セクレトがあなたを雇ったのはわかった。でも何故? 彼に何かあるの?」

「私も雇い主様の事情に深入りしないよう仰せつかっています。お役に立てず情けない限りです」

「いいのよ。少し安心した。セクレトが私以外にもそうなんだって分かったから」


 アンシィは初めとは別人のように穏やかな喋りになった。口数は少ない側で、言葉に余計な情報をつけずに喋る。しかし匂いと声色は隠さないので情報は得られた。


「アンシィ様、僭越ながらひとつ。なにか不安を抱えていらっしゃるご様子です。私のことでしょうか」

「いやそれは、少しはあるけど、それよりセクレトよ。彼、婚約しても仕事が何かすら言わないのよ。実績の公開くらいされてると思ってるけど、それも何も言わない。六年間ずっとよ」


 レデイアは親身に考える。こうして信用を築いておくと、やがてどこかで重要な助けになる。六年であれば企画の立ち上げから披露までの期間としてもあり得るが、セクレトの場合はやはり明かせない職業と考えるほうが有力と見ている。この話はアンシィには伏せて、時間がかかる業界についての話をした。これだけでは気休め程度であり、時間がたてば似た考えに戻ってくる。


 レデイアは名刺を渡した。書かれた内容は「家政婦の派遣」だけだが、調べ物を家事の一部とする者も在籍していて、レデイアからも交渉すると言い足すと、アンシィは少しだけ笑った。こんな時まで営業なんて、と。


 昼食どきになり、アンシィは調理を始めようとする。レデイアの好みやアレルギーを確認するが、レデイアは食べ物は自前のものだけと答える。遠慮ではなく規律だと説明してようやくアンシィは引き下がり、自分用だけと作り始めた。普段から調理を任されているそうで、道具の置き場所を知っている。


 レデイアにとっては毒味になる。セクレトの仲間ならばよし、そうでないならアンシィは第三勢力で、さらにセクレトが嵌めるつもりだったとわかる。念のため調理の過程を遠目で見る。レデイアはまだ調理器具を確認していなかったので、フライパンの空焚きなどの、毒を用意する方法が一応あり得る。


 念には念を入れたが杞憂に終わった。食事は最後まで無事に済んだ。アンシィは事前に得ていた情報から一般人とわかっている。満腹になり、穏やかな心境を狙って、セクレトとの付き合いについて訊ねた。今日のような出張が以前にもあったなら、ヒントとして使いやすい。


「そういえば、以前に一度だけありました。四年前の夏に、十日くらい」


 ビンゴだ。四年前の夏には、薬物の違法取引をする売人グループがひとつ壊滅している。これが偶然の一致か、セクレトが関わっているかを、レデイアなら調べられる。なおかつ、ここまで読み取った情報と合わせると、疑念より納得の方が大きい。


 セクレトはおそらく公安警察だ。職業を隠す理由があり、家を空ける理由があり、情報工作をする理由がある。今ごろはきっと、セクレトを邪魔にする誰かがこの家を監視していて、セクレトがここにいると思っている。居所が割り出された尻拭いになりそうではあるが、それなら言うほどの困難ではない。


 閑静な住宅街では、派手な手を考えにくいものの、地味な手がいくらでも思い当たる。レデイア自身が使ってきた内容も含めて身近に見てきた。


 考えは後にして、今はアンシィとの話を弾ませる。ここで情報を取れるだけ取っておきたい。女二人、どちらも同等の知性を持っていて、前提とする情報に違いがある。時間は飛ぶように流れ、アンシィが「もう三時間も!」と気づいてお開きの準備になった。


「レデイアさん、今日は会えてよかった。楽になりました」


 アンシィは帰り際に、満足げな顔をレデイアに向けた。門で見送り、戻ると同時に時計が三時を知らせた。広い家に再びレデイア一人きりになった。仕事はまだ残っている。取り掛かる前に、昨日のケーキを食べた。血糖値の下がりすぎを防ぐと、体型や健康の維持に繋がる。


 一人になり、警戒の必要性が薄まると、途端に家の広さが気になるようになった。アンシィの話を振り返る。セクレトは親元にいた頃も大きな屋敷に住んでいたらしい。幼少期から家族と円満な関係で、そのままで今日まで続けてきた、レデイアにはないもので、少しだけ妬く。考えても変えられないとわかっている話だ。破裂音で強引に思考を切り替える。


 日が沈み、二度目の夜がきた。虫の鳴き声が外の様子を教えてくれる。同じように鳴き続けている今は異常なしだ。風呂の時間までに夕食と歯磨きを済ませておく。荷物を丸ごと浴室に持ち込み、すぐに行動に移る準備を整えている。


 体を洗うときに、音が少なくなるよう洗面器の湯を手で掬いあげて、少しずつ体を濡らす。時間がかかるが、レデイアはそれ以上に音の聞き逃しを嫌う。遠くの音が建物で反響した数まで聞き分けられるよう、静かに汚れを落としていく。ごく少量の皮脂を落とすだけなので難しいことは何もない。


 虫の声が変わった。何かを警戒している。他の家は遠いので住民ではない。車の音は聞こえていないので通行人ではない。徒歩ならば隣の道のほうが歩きやすい。土地勘がなく迷い込んだか、そのように見せたい何者かか。レデイアはすぐに動けるよう服を着た。最優先は地下足袋で、靴を取りに戻れなくても外に出られるよう常備している。


 支給されるワンピースのメイド服は素早い着脱のための細工が付いている。袖を通したら中央よりやや右側にずれた線ファスナーを上から下へ弾く。動作は滑らかで、勢いで下まで滑り降りて、端に届いたら裏返ってロックされる。


 二階に向かった。すべての方角への窓を巡ってカーテンの隙間から見下ろす。遮光性能が高いカーテンを使っていて、揺れない限りは中の人物の姿はまず気取られない。家主が特殊な仕事人だったが故に都合のいい調度品を使っているが、同じ理由でこの行動が必要になっている。手放しにいい結果とは言い難い。


 人影が一人分だけ動いている。小柄だがアンシィではない。下半身のシルエットからパンツスタイルと見える。人影は堂々と門の中まで侵入し、窓から中の様子を窺おうとしている。手際は悪く、使い捨ての素人らしさが遠くからでもわかる。この様子では足跡も残るので、今の段階では動く必要がない。証拠を確保してから警察を呼ぶだけで済みそうだ。


 腕時計の機能で連絡を済ませた。レデイアから所長のテルへ、テルから警察の適切な部署へ。特殊な経路になるのでやってくる人員も通常の時間や装備ではない。レデイアは到着まで、様子を確認しながら、必要ならば足止めをする。今回は楽なもので、もたもたしている間に警察が到着した。


 レデイアは玄関から出る。警察たちは黙ったままで敬礼し、車載の印刷機から情報をレデイアに渡した。すぐにレデイアは屋内に戻り、内容を確認する。テルからの追加情報もあるようで、内容は想定よりも多い。


 招かれざる客の名前はフィン、使い捨ての闇バイトだった。想像通りだ。元締に関しては調査中だが、潜入している顔ぶれから特定が近そうにみえる。こいつらはレデイアとは違い、多少の汚れた手段を使ってでも動く。


 追加で注意すべき名前が記されている。弁護士のトラク・アーリという男が、セクレトに関する情報を集めている。延長上でレデイアが巻き込まれる場合に備えるよう指示があった。


 情報を頭に入れたら、すぐに紙を燃やす。今夜のレデイアに残った内容は、風呂の続きと、その後は寝るだけだ。わざわざ情報が送られた以上、トラク弁護士が関わるのはほぼ確実だ。今回も楽に終われはしない。弁護士ならば関わるのは日中と見込んで、十分な睡眠を確保しておく。仕事は明日と、明後日の半分。この範囲での要求はさほど多くはない。

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