7話:大義であった



 雨を吸い、膨れ上がった体が二人を正面に捉えた。


 前回は中央部に見えていた仮面が、今は膨らんだ左右の肉に埋もれて見えなくなっている。その場にどっしりと構えて、三本の触手をレーニに向けて、胎児の匂いまで一直線に放った。


「魔界武器を信じて。あの太さでも弾ける」


 イテュードの鼓舞を背にして、レーニは歩いて距離を詰める。片刃の長剣を構えて、いつ飛来してもすぐに動くための視界を確保している。焦って走るよりも隙が小さく、確実に受けられる。


 最初の一撃を長剣で打ち返した。触手の一部が抉れて落ちる。割合はささくれ程度だが、反撃を予測する知能がなかったようで、驚いたように引っ込める。以前と異なり声は聞こえない。発声器官も肉に埋もれているのか、それとも効いていないのか、判断は後回しにしてレーニはさらに距離を詰める。狙いは本体の奥まで剣を刺し、体液を蓄える器官に傷をつける。


 トルーエンは巨体を蠢かせて、徐々に後退している。触手を使わずとも移動ができると見せているが、速度はレーニの徒歩には劣っている。接敵するまでのタイム・リミットはおよそ二分で、それまでにレーニを行動不能にするか、さもなくばレーニの勝ちだ。前回とは逆に、制限時間を課せられるのはトルーエンの側だ。


 後退するトルーエンに合わせて、イテュードも前進する。触手が届かないぎりぎりの距離を維持し、レーニの援護に集中できるよう構えている。生体一体型の銃を正確に構えて、レーニに迫る触手を打ち返す。勢い余って触手が建造物を破壊するたびに「送電線が落ちた! 水溜りから離れろよ」と指示を送る。


 じりじりと距離を詰めるうちに問題が起こった。


 トルーエンは背後の民家を踏み潰して進んだ。平屋が崩れて、壁や天井の破片と家具が散乱する。レーニが通るには足場が不安定となり、迂闊に進めばおそらくは、触手に打たれて転倒し、尖った破片に頭をぶつける。小さな残骸だが足止めには十分だ。


 距離の詰め合いは振り出しに戻った。同じ動きを何度も繰り返せる分は不利に戻ったとも言える。ならば、次に狙うのはトルーエンの武装解除だ。これまでの打ち合いで、触手が徐々に短くなっている。同じ動きを繰り返し、やがてレーニが追われる側になった頃を勝利条件とする。


 不確定要素はトルーエンの行動だ。いくら知能が低いようでも、自らの武器を失えば、何をしでかすかわからない。それでも今は他の策を切らしている。次の情報を得るまではこの策で行く。


「レーニ、次でリロードする。耐えて」


 迫る触手に対する、剣を振る角度を変えた。初めは表面を抉る鋭角で振っていたところを、今は直角に近づけて、輪切りにする角度で振る。断面から微量の体液が滴り、水溜りを作る。これに触れたらどこへ飛ばされるかわかったものではない。決して踏んではいけない。


「イテュード、前へ」


 やがてトルーエンの触手すべてがごく短くなり、動きはすっかり大人しくなった。この状況は最も警戒を要する。打つ手なしと思って油断すれば、小さな一手でも大打撃になる。警戒したままで観察し、二人が声で連絡できるまで近づく。同時に、共倒れを防げる程度には離れる。トルーエンを頂点とする直角に並んだ。


「レーニ、やっちゃいな。表での変異以外なら、もう何もない」


 胴体部を長剣で突き刺す。感触の変化が二度あり、引き抜いた傷口から体液を噴き出した。触手からよりも柔らかい液体が、名も知らぬ誰かの庭に吐き出されていく。トルーエンの体が徐々に萎んでいく。やがて埋もれていた仮面が見えたら、レーニの長剣を叩きつける。真っ二つに割れて、下のコアが破壊された。あとは萎みきったあとで死体ごと溶けていく。


 その様子に対し、背後からテノールの声が届いた。


「レーニ?」


 振り返った先にいたのはキマだ。街の状況とは不釣り合いな、最後にタバコ屋で会った日以上にラフな服装をしている。シャツはゆったりした半袖で、ポケットは薄く、鞄や手荷物もない。おまけに髪が、ついさっきまで昼寝をしていたように無雑作になっている。


「なぜここに?」

「そりゃこっちの台詞だよ。気づいたら家が無くなってるんだ。実家に戻ったはずなのに、まるで別世界だ」

「キマ、瞳を見せて」


 レーニは顔を近づけて、キマの瞳を覗き込んだ。互いの鼻息が聞こえる距離でじっと見つめる。


「お二人さん、なぜ急に?」

「そうだぞレーニ。やけに積極的だ」

「瞳孔がおかしい。怪物を見たはずなのに落ち着きすぎている。ねえキマ、どこで何をしていた?」


 レーニの問いに対し、キマは観念して家の残骸を指した。


「地下室だよ。そこにいたから気づかなかったんだ」

「行きましょう。あと、彼女が話をしたいって」


 イテュードを紹介し、二人の話を聞きながら地下室の階段を降りた。まず金庫と扉があり、扉の先にはクッションだらけの部屋があった。ドアノブを含むあらゆる突起に柔らかなカバーがつけられ、壁や床も弾性の材質になっている。レーニが見た中では、捕虜の自殺を防ぐ部屋に似ている。都会の喧騒を離れて、地下にそんな部屋を作る理由といったら、明らかに有力な候補がある。


「ねえキマ。話と状況を合わせると、この部屋は確実に捜索される。見つかりたくないものがあるでしょう。たぶん菌か紙だね」

「ある。紙のほうだ」


 幻覚剤のリゼルグ酸ジエチルアミドだ。依存性や身体への害は低いが、後になってもふとした拍子に再び幻覚を見ることがある。イテュードの話と合わせて時期を確認すると、その幻覚として見たのが魔界の光景らしい。キマは安全のために必ずこの部屋を使っていた。魔界で対応する場所の、ノッペクサのアトリエで見かけたのはそのためだ。


「で、どうする? 証拠がなければなんとかなるけど」

「処分しようにも、ここじゃあな」


 表の二人の話に対し、イテュードには最適な回答がある。


「私が貰っていい? 研究が進むし、私自身もあまり見つかりたくない」

「ゲートまでは?」

「ここに作る準備もあるよ。場所が対応してるって仮説が正しければ、この部屋はちょうどいい」


 イテュードは靴に隠し持っていた小瓶を開けて、銀色に反射する液体を広げた。ゲートとして使える状態を確認し、金庫の中身を放り込む。最後にレーニの長剣とイテュード自身が通る。別れの言葉はごく短く済ませる。


「さようなら。もう会わないことを願います」

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