7話:オリビアという少女


 オリビア・グレイテッドという少女は、グレイテッド伯爵家の長子として生まれ育った。

 美しく可憐な外見に愛らしい声。貴族としての教育で得た優雅な仕草。

 その少女は誰をも魅了し、幼少の頃から周りの者に愛されて育った。


 彼女の趣味は読書。穏やかに本を読む時間が何より好きで、特に冒険譚や恋愛をモチーフとした物語を好んで読んでいた。

 平穏な日々。それは幼い少女にとってはそれは、退屈極まりないものでしかなかった。

 勇ましい英雄。囚われた姫君。邪悪な魔法使いに、強大なドラゴン。

 それらが登場する世界はとても魅力的で、すぐにオリビアは物語のとりことなった。


 楚々とした立ち振る舞いを見せながらも空想にふける日々を送る中。

 十歳の誕生日に女神教会で祝福を受ける際、オリビアに魔法の才能がある事が発覚した。

 それも尋常な才能ではなく、オリビアは教会のトップである大司祭にも並ぶ程の凄まじい適性を持っていたのだ。


 その事実はオリビアに選択肢を与える事になる。

 貴族として退屈だが平穏な日々を送るか。

 或いは教会の司祭として女神に仕える者として生きるか。

 周りの大人は様々な見解を持ち毎夜のように話し合いを行っていたが、本人にとっては悩む理由も無かった。

 変わり映えの無い生活から抜け出すことが出来る、その一心で。

 オリビアは周囲の反対を押し切り、教会内でも最上位である聖女として生きる道を選んだ。


 教会での生活は劇的では無いにせよ、新鮮な刺激を得ることが出来た。

 仕事を与えられ、人々と交流し、そして読書にいそしみ。日々の暮らしはおおむね満足できるものだった。

 しかし彼女の空想癖は治まる事も無く、むしろ読書によって得た知識を使ってどんどん肥大化して行く。

 この頃のオリビアは日に何度か呆と虚空を眺めるて妄想する事があり、それを目にした人々はオリビアの可憐な容姿から何らかの神秘を行っているのだろうと噂していた。


 そんなある日。オリビアは街の本屋で一冊の書物と出会う。

 児童書や絵本といった子ども向けの物語をつづったものではなく、もっと大人向けな分類の物語。

 テーマ自体はよくある恋物語ではあったのだが、それには非常に過激な性的描写が多々含まれていた。

 官能小説と呼ばれる書物との出会いは、オリビアにとって衝撃的な邂逅かいこうだった。

 書店の中で一冊を読み終えた彼女は、本を閉じながら女神教の司祭に相応しい微笑みを浮かべて、こう言った。


「お手数をお掛け致しますが、このお店の物語本を全て頂けますでしょうか」


 幸いか否か、大して金が掛かる趣味を持っていなかった彼女は日々の貯えがそれなりにあった。

 刺激に飢えていた少女は貪るように官能小説を買い求め、夜な夜な作品群の中に身を投じる想いで読書に熱中していった。

 それからというもの。年頃にまで育った少女の空想は色を変え、英雄譚から耽美的な物語へと姿を変えて行った。

 今までで一切触れたことのない世界に没入し、免疫のないオリビアはどんどんその世界に浸り切っていったのだ。


 その中でも特に好んだのが、身分差のある恋物語。

 貴族令嬢と冒険者がある事情から駆け落ちし、様々な困難に立ち向かいながら愛を育むというものだ。

 オリビアから見た理想の男性。彼がことある事に自身を求め、それに応じて体を重ねる妄想を膨らませる日々。

 酷く淫らで耽美的な物語を脳内で紡ぎ、その魅力的な世界に内心で身もだえる。

 しかし人前では清洒可憐せいしゃかれんたたずまいを崩さず、正に聖女として相応しい立ち振る舞いを見せていた。見た目だけは。


 理性と欲情の狭間で揺れ動くオリビアは、表面的には普段通りの日常を過ごしていた。

 礼拝に来た者に祝福を与え、ある時は治療院で神の奇跡によって傷病を癒し、ある時は教会の前で施しをあたえ、同じ教会に住む孤児達の世話をする。

 そして務めである巡礼の旅を行っていた時、運命の出会いを果たした。


(ほあぁっ!? え、なにあれなにあれ! 凄い格好いい!)


 馬車の護衛として雇った一人の冒険者。

 彼の姿は正に思い描いた理想の人物だったのだ。

 端正で油断の無い顔立ち。背が高く引き締まった体。飾り気の無い武具。

 背に負った長剣は初めて見る形をしていて、それも何処か物語の人物のようだった。

 しばし見蕩れてしまった後に挨拶を交わそうとするも、無骨で無口な彼は一度頷いた後、足早に馬車の先頭へと向かって行ってしまった。

 残念なような安心したような。

 そんな複雑な心境になりながらも、オリビアは馬車内に乗り込むと日課の妄想に耽っていった。


 しばらく街道を進んで居ると不意に馬車が止められ、御者から魔物が出た旨を知らされる。

 人型の豚のような魔物、オーク。

 単体では大した事はないと聞くが、どうやら六匹もいるらしい。

 慌てふためく周囲の者を他所に、オリビアは護衛の冒険者の元へと急ぎ足で向かった。

 幸いなことに自分は聖女として傷を癒す回復魔法や身体能力を高める支援魔法を扱うことが出来る。

 少しでも彼らの助けになればと思っていると、オリビアの理想を具現化した青年が魔物に向かって駆け出そうとしている所だった。


「お待ちください!」


 つい大きな声を上げて引き止める。

 黒髪に黒衣の青年は、不思議そうな顔でオリビアに振り返った。

 その姿に蕩けそうになりながらも、彼女は腹の底に力を込めて自らの役割を果たそうとする。


「私は戦えませんが、魔法を使えます。せめて貴方に神の祝福を」


 手をかざし、魔法を詠唱する。

 慣れた調べを奏で、祈りと魔力を持って魔法を成す。

 聖女と呼ばれるオリビアの全力を持って、神の奇跡と呼ばれる神聖魔法を行使する。

 天空から神聖さを感じる光が降り注ぎ、彼の身を淡く包み込んだ。


身体能力強化ブースト障壁シールドです。回復魔法も使えるので、サポートします」

「すまない、助かる」


 無骨で無愛想だった青年は、穏やかな笑顔でオリビアに礼を告げた。

 低く、甘やかな声。その一言を聞いた瞬間、危機的な状況にも関わらず彼女の欲情は臨界を越え、腰砕けに座り込んでしまった。


(あああ……声まで理想的なんだけど!? ダメ、腰の奥が疼いちゃう……!)


 異常な程に心臓が高鳴り、体中から力が抜けてしまう。

 オリビアはぺたりと座り込んだまま、彼の姿を目で負った。


 それからの展開はまるで物語の様だった。

 獅子奮迅。彼の歪な長剣は轟音を上げながら、見る間にオークの群れを斬り裂いて行く。

 正に物語の中の英雄の如き活躍に、オリビアは眼を輝かせて興奮していた。


(凄い……凄い。凄い! 何あれ超格好いいんだけど⁉ あの人完璧すぎない⁉) 


 かつてない程にたかぶる感情。

 しかし、今までつちかわれた立ち振る舞いを発揮しており、傍目からは清楚可憐な佇まいで不安げに彼を見守っているように見えている。

 この時ほど実家と教会の教育方針に感謝した時はなかった。

 そうでなければ、オリビアは人前で見せてはいけない状態になっていただろう。


 やがて一分も掛からず全ての敵を倒した後、軽く手を上げながら戻ってくる彼に慌てて声を掛ける。


「大丈夫ですか⁉ お怪我は⁉」

「いや、あんたのおかげで無傷だ。すごい魔法を使うんだな」


 そう言いながら、彼は再び優しく微笑みかけてくれた。

 その事に大きな喜びと欲情が湧き上がり、表情が崩れる寸前で彼に背を向ける。

 彼の姿、彼の声に心が魅了され切ってしまっていて、激しい劣情がオリビアの肉体を苛む。

 衝動的な欲情にモジモジと内股を擦り合わせてしまっていることに気付き、何とか普段の外面に戻ろうと呼吸を整えるが。


「どうした? 怪我でもしたか?」


 更に畳み掛けるかのように、甘い声が掛けられた。


「ひぃえ⁉ だだだ大丈夫ですっ!」

「……そうか? なら良いんだが。他の奴も問題ないか?」


 唐突の事態におかしな声を上げてしまったが、彼は特に気にした様子も無く周りに被害が無いか見渡している。

 改めて腹に力を込め、オリビアは常の微笑みを浮かべて話しかけた。


「あの……お名前を、聞いても良いですか?」

「俺か? 俺はノアだ」

「ノアさん……私はオリビアといいます」

「……オリビアだと? まさか聖女オリビアか?」


 自分の名乗りに不可解そうな声を返され、オリビアはその事に新鮮味を感じた。

 そもそも王都ではオリビアの事を知らない者はいない。

 銀髪紅眼という目立つ色合いに加え、自分でも容姿は整っている方だと思う。

 更には聖女という肩書きを持っている彼女のことを知らない方が稀なのだ。


「はい。私は女神教会から聖女の称号を頂いております」

「そうか。すまない、無礼な態度を取った。俺は礼節が分からないんだ」

「そんな、やめてください。ノアさんは命の恩人なんですから」


 改まった態度を取られ、慌てて顔の前で手を振って辞めるように頼み込む。

 そんなに大層な事をした訳でも無いし、何より彼にはそんな姿は似合わないと思ったから。

 自分の理想の彼は常に自信に溢れており、しかしオリビアに対してだけは優しいのだ。

 そんな都合の良い事を考えていると、彼は自身の胸に手を当て、首を傾げていた。

 なんだろう、と思い声を掛けようとした時には、彼は既に御者に向かって馬車を出発させるよう告げていた。

 その事を少し残念に思いながらも、まだ話す機会はあるかと気を改め、オリビアは自身の馬車へと乗り込んだ。


 非常に強い自覚を持ち。

 歳若い少女の欲望との戦いが始まったのは、この瞬間だった。

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