万魔殿(パンデモニウム)
寺城の後を俺と警部、南人氏、それから数名の警官が続き、電気系統が復活し煌々と照らされた廊下に向かった。
警部は部屋を出る前に立ち止まると、振り返り二花に尋ねた。
「何故だ?」
警部は答えが返ってくる事期を待していなかったのか、すぐに廊下に向き直ったが、意外な事に返事が返ってきたのだ。
「私を抱いたあの人達が、私を抱いたあの腕で私以外を抱く事に耐えられなかったの。当然でしょ?愛しているのだから当然よね?」
二花は何処か不思議そうに、それでいて何か嘲笑するようにそう言った。
警部はたじろぐ様に逡巡し、彼には理解できないそれに眉を顰めると、今度こそ廊下に向き直った。
「――警部さん。あの娘も認めてくれたんだものあの人達は私の物よね?キスできるのも、抱きしめてもらえるのも私だけ。警部さんも私をだ――」
警部はあどけのない少女のような笑みに狂気の瞳を貼り付けた二花に振り返る事無く、先に行ってしまった寺城達を追った。
斑の糸を辿る寺城の後に続き、俺達は廊下を進んだ。
葬列にも似たそれの重苦しい空気に――寺城以外の――誰もが息苦しさを感じ、その足取りは重かった。
「寺城さん。よろしいですか?」
俺は息苦しさから気を紛らわせようと、いや、興味心から寺城に訪ねた。
「なんだい。答えの出た後ならボクは何だって答えてあげるよ?」
寺城は少しだけ歩く速度を落すと、小さくこちらを向き妖艶な嘲笑を浮かべる。
「いつから彼女が犯人だと気付いていたのですか?」
寺城は自身の顎を撫でながらすまし顔で言った。
「最初からだよ」
最初から。
これはいつの事指すのか。
捜査を開始した時?愛馬氏が死んだ時?それとも愛馬氏が苦しみだしたその時にもう?
「しかし、彼女はまだ毒が口に残っているかもしれない愛馬氏に口付けをしようとしたんですよ?俺にはアレが演技にはとても見えませんでした」
「演技じゃないからね。本気で口付けをしようとしていた。それだけの事さ」
毒で死なないと思っていた?それとも誰かが止めると思って?いや、とてもそんな風には見えなかった。
彼女は何も考えずに、自分が毒殺したばかりの相手に口づけをしようとしたというのか?
「正気じゃあない」
静まり返った中、誰かの呟きがやけに響いた。
「上手い嘘吐きには大体二種類いる。一つは顔色一つ変えずに平然と嘘を吐き出す人間」
そう言うと寺城は俺の方を見て小さくニヤリと笑う。
「そして、もう一つは彼女のように自分すら騙してしまう狂人。さて、西岩君はどちらかな?」
「寺城さんと一緒にしないで下さい」
俺は少なくとも寺城のように誰に対しても、何の呵責も、何の意味もなく嘘をつくなんて事したくない。
寺城はそんな俺の心見透かすように目を細めた。
「ふんっ。そんな狂人の心を見透かして操るように、あんな罠を仕掛けられる貴様の方がよほど狂人に思えるが?」
警部が胡散臭い目で寺城を見る。
「別に操ったわけじゃあないさ。ただ、選択肢を狭めてやっただけさ」
寺城は容易い事だと言う様に、片手でパイプをプラプラと揺すり、もう片方の手でそれをグワシっと掴んだ。
「それが人を操るというんだ。この悪魔め」
「鬼と恐れられる警部殿に悪魔と褒められるとは光栄の至りだね」
嘲る寺城に警部は苦虫を噛み潰したように怒りを飲み込み尋ねた。
「で、何故彼女が死体に執着していると気付いた?」
「殺人の動機を推理すれば簡単さ」
当然という風に嘯く寺城に警部は納得できないと眉を顰めた。
「百歩譲って、旦那を独占したいから殺したとしても、死体にまで執着するとは考えずらいだろう。異常としか言い様がない」
『異常』その言葉に寺城の瞳が楽しそうに怪しく光る。
「どんなにありえないような事でも、全ての不可能を除外して最後に残った物が事実になるのさ。それに――」
寺城の可愛らしい小さな口がゆっくりと楽しそうに開き、月明かりを浴びた唾液が煌き艶美な蜘蛛の糸を垂らした。
「――殺人に至る最後の引き金を引く要因が、すぐ側にいては心配で堪らなかったんじゃないかな?」
死亡時、愛馬氏の周囲には元愛人である米と恐らく現愛人である若い女中、嫉妬深い二花さんにはそれだけでも精神的負担であったはず、もしかしたら、屋敷外にも愛人の一人や二人いたのかもしれない。
そこに現れた寺城冬華という(見た目だけは)絶世、傾国の美少女。
更にあの意味深な発言。
二花さんの想いは溢れ、常識と倫理という堰はあっけなく崩壊し、正気と共に押し流されてしまったのだとしたら。
納得しずらくはあるが、絶対にないとは言い切れない。
「まて、いくら貴様が人でなしとはいえ、他人の殺人の責任を感じる必要は――」
「何、彼女にとって殺人とは、愛する人を独り占めする為の極有触れた方法に過ぎなかったと言うだけの話さ」
寺城の発言に彼女以外の足が止まった。
「おい……寺城それはどういう事だ」
「さて、この部屋のようだね」
警部の言葉を無視しするように、寺城は一つ扉の前で止まった。
それは他の扉よりも少しだけ大きく、ドアノブや扉そのものの装飾も派手では無いが、細やかで洗練された意匠が施された落ち着きのある気品が漂っている。
寺城は躊躇いもなくノブを捻るが、重い金属音がするのみで扉が開く様子は無い。
「警部、鍵を預かっているんだろう?」
「おい」
警官が差し出した鍵束を受け取ると、寺城はその中から最も古く、意匠の凝った物を選び鍵穴へと差し込んだ。
カチャリ
音を立てた扉を大胆に押し開き、中に進む寺城の後を俺達は先ほどよりも重い足取りで続いた。
部屋の中は強い香水の香りと幼い少女の部屋のように華やかな調度品で囲まれていながら、とある一角から異様な視線を浴びている違和感が漂っていた。
「これはなかなかに楽しそうな部屋だね」
寺城は愉快そうに微笑を湛えながら、異質の原因に手を伸ばした。
それは一つの写真立てだった。
着飾った男女が仲睦まじげによりそう極普通の写真。
それがこの部屋で一番目立つ一角に無数に、それこそ百に届かん数が飾られているのだ。
「これは……」
「うっ」
当然、写った女性はどれも二花さんその人であったが、寄り添う男性は幾人もいた。
複数の写真に写っている男性もいれば、一枚にしか写っていない男性もいる。
二花さんは、その写真全てで恋に焦がれる幼い少女のように、運命の相手と写っているかのような、幸せの絶頂の笑顔を浮かべている。
その一角は禍々しいほどの恋と幸せに満ちていた。
「くくく」
警部を含めた警官達がその異様さにたじろぐ中、寺城は一人何事も無い様に、いや、宝探しに興じる子供の様な足取りで汚れ斑になった赤い糸を追った。
「運命の赤い糸は此処の先を指し示しているようだね」
横幅四尺、高さは七尺もあろうかという大きく、装飾が施された縁飾りのある姿見の下に消えている斑糸。
寺城は舐めるようにじっくりと姿見を観察すると、しゃがみ込み膝下三寸程の位置にある縁飾りの蔓を摘むとそれを引っ張り捻った。
カチャン
姿見から鍵の外れる金属音が響いた。
「よくすぐにわかりましたね」
「あの部分だけ光沢が違ったのさ。それに周りに擦れた後もあった、恐らく頻繁に使用してるんだろうね」
寺城さんはゆっくりと立ち上がると、姿見の縁に手をかけ力を入れる。
すると姿見はそれに合わせ開くと、充満していた香水の香りを侵食するように僅かな薬品の嫌な臭いが部屋を侵食するように噴出し、内から薄暗い通路が姿を表した。
それはすぐに横へと折れ曲がっており、寺城は一歩中に入りその先を懐中電灯で照らした。
「捕らわれの王子様がいたよ」
その声に俺達はそちらを覗き込んだ。
そこには赤い糸巻きが括りつけられた台車とその上にうつ伏せで載せられた愛馬氏の遺体が置かれていた。
「これで一件落着ですね」
そんな気軽か台詞を警官等の誰かが呟いた。
そんなわけがない。
寺城の瞳は愛馬氏の遺体になんて向いてはいない。
その奥、暗い闇の中、地下へと続く階段を楽しげに見ていた。
「さて、宝物殿へと向かおうか」
寺城は俺を振り返り、目の前に広がる闇よりもなお暗い、奈落の笑みを浮かべた。
今までの事はただの前菜に過ぎないと、燃えるような黒い瞳が語っている。
『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』
俺の脳裏に先ほどの警部の言葉が浮かぶ。
急な喉の渇きに唾を飲み込む。
その音が聞こえたのか、寺城は笑みを僅かに細くすると、ゆっくりと階段に足を踏み降ろした。
カツン カツン カツン
寺城と俺、そして警部の靴の音だけが、地下へと続く暗い階段内に響く。
懐中電灯の明かりを頼りに、ゆっくりと階段を降りるにつれ薬品の嫌な臭いが強くなり、地下の黴臭く冷たい澱んだ空気と交じり合ったそれは、なんとも言えない程酷く醜悪で、まるで地を這う病的な色をした地蟲で出来た酸素を取り込むようなおぞましさを感じた。
「さて、この先のようだね」
長く重く感じた黄泉比良坂の如き魔性の階段は、振り返ると一間半ほども降っていない事がわかる。
そして、寺城はまるで幼女が誕生日の贈り物の包装を破る直前のような笑みで、万魔殿へと至る門の如く立ち塞がる重苦しい扉を舐めるように観察していた。
少しして寺城は何もないと判断したのか、暗い金属製のノブに手を伸ばした。
ガチャ
それは、鍵もかけられておらず、あっけないほど簡単に開いてしまった。
扉が開かれるとともに咽返るほどの薬品の臭が噴出した。
そして、懐中電灯の頼りない光が照らし出した暗い室内に無数に並べられた長い箱のような物。
それは、どう見ても西洋式の棺桶であった。
俺の頭の中でありえない。
しかし、そうであると確信する。
冒涜的で最悪の想像が駆け巡る。
寺城と二花という二人の怪物の言動がこれを指していたのだとしたら全て辻褄が合う。
今まで俺が推理していた物はなんて能天気な物だったのか。
今思えば気付く要素はあったのだ。
いや、何処かで気付いていたのだ。
しかし、恐らく何処かで気付いていたが、俺の良心がそれを拒否し、認めず、目を背けていたに過ぎないのではないか?
俺は助けを求めるように振り向いた。
警部は驚愕と怒り、そして何よりも大きな恐れの入り混じった形容し難い表情で、血が滲むほどに拳を握り締め。今にもどうかなってしまいそうな程の感情に震えている。
そんな俺と警部の衝撃を余所に寺城は弾むような足取りで進み、楽しそうに棺桶の蓋を蹴り開けた。
「これはまぁ。ただの頭の悪いお嬢様かと思えば、意外としっかり処理がされているようだ」
寺城は順々に棺桶を覗き込み、楽しそうに納得の表情を浮かべた。
「これだけ数をこなせば腕前も上がるという物か。それが、心から望んでの事なら尚更」
そして、振り返り悪魔が手招きをするように言った。
「そんな所にいないでこっち来たらどうだい?君にもこれを見る権利がある」
見なくてもわかる。
いや、わかってはいけない。
そこに広がるおぞましい行為の創造物を見るべきではない。
そんな悪趣味だなんて生易しいものでは無い、冒涜的な悪夢の存在を人として受け入れてはならない一線を大きく踏み越えた、人という種にとっての悪徳に他ならないそれを俺は知るべきでは無いのだ。
俺は地上へと繋がる扉へ、後へと向き直りこの醜悪な迷宮を後にすべきだったのだ。
しかし、今俺の目の前には、悪夢よりもおぞましい現実が艶かしくも醜悪に艶光りしていた。
「それは死蝋だよ」
寺城はそう言うと躊躇なく手を伸ばし、棺へと納められた死体に手を伸ばした。
手袋を外した白魚の如き美しく繊細な指が、ぬらぬらと不気味に光りを反射するそれの腕を掴むと、そのまま自分の鼻先まで引き寄せた。
「やはりホルマリンは使っていないようだね。触れる事を前提にして処理してるのだろうけど、そうなると防腐にはカリチル酸かそれとも別の物を使っているのかな?」
珍しい花でも愛でるかのように指先でなぞるそれは、まるで今死んだばかりの、いや、今にもぬるりと動き出さんほどに病的に瑞々しく光り、狂気を瞳に宿し、その時間が凍り付いたかのようにしたそれは、紛れもなく男の死体だった。
寺城が指先に少しばかりの力を込めると、その死体は滑らかな見た目とは裏腹に硬質で彼女の細く白い指がさらに白くなるほどだった。
「いや、本当によく出来ている」
まるで生きているかの如く、恐らく生前の体色そのままにそこに存在するおぞましい正への冒涜を恐れる事など一切なく、寺城は見た目相応にお人形遊びに興じるが如く、いや、少年が遊び半分に虫を解体するような無邪気で獰猛な笑みを浮かべた。
「寺城。これは一体なんなんだ」
警部が恐怖や不安を怒りで押しつぶした声で寺城に訪ねた。
寺城は立ち上がり、また別の棺桶に手を伸ばしながら答えた。
「死蝋だってさっき言っただろう?」
そう言って新たに掴んだ死体の指をへし折った。
ペキン
「なっ……!?」
小さな手の平で玩ばれる死体の指、寺城はそれを興味深げに様々な角度から眺めた。
「変化の少ない特殊な環境下で保存された事が原因だろうね。脂肪酸がカルシウムやマグネシウムと結合し酸化するげんしょうさ。ここまでするには弛まない努力が必要だったはずさ」
なんて深く情熱的な愛なんだろうね……寺城はそうクツクツと笑いながら折れた指の断面を見せる。
「この古い遺体の指は以前に一度ならず折れていたようだね。彼女はそれを蝋で補修し繋いでいたようだ」
「彼女は一体いつからこんな気色の悪い事を……っ!」
警部はそのおぞましさと怒りから吐き捨てるように言った。
人が人として超えてはならない一線の遥か先にいる冒涜の怪物の残滓に、警部は怒りを持って正気を保ち、その得体の知れない冒涜的悪行に正義を真実少年のような眼で立ち向かっているのだ。
そして、寺城はその彼の有様を猫が鼠を食べずに遊ぶような目で眺めていた。
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