ギルティタトゥー~脱獄!死刑囚10万人都市~
犬項望
第1話 罪紋島
海原にそびえる島は、禍々しい瘴気に包まれて見えた。
「あの島で十万人の死刑囚が暮らしているのかよ、おっかねえ!」
本城玄太が、脅えたように呟く。
連絡船の甲板に吹きすさぶ夏風が、ちゃらっぽいブラウンの髪を激しく揺らしている。
玄太は子どもの頃から怖がりだった。二十歳を迎えてもそれが直っていないことが今、伏見谷義月の目に微笑ましく映る。
「玄太は怖がりね、死刑囚さんだってきっと根はいい人たちばかりだわ」
祈里が弟の玄太におっとりとした笑みを向けた。
長身を包む純白のサマードレスが潮風に靡き、清楚な女性の魅力をますます引き立たせている。
「姉貴さあ、そんなお人好しでよく二十五年も生きてこられたな」
玄太が引きり笑いでツッコミを入れる。
「二十六年よ? こないだみんなで誕生会してくれたのに忘れちゃった?」
デリケートなお年頃だろうに、祈里はサバを読もうとしないともしない。このおおらかな母性に何度救われてきたことだろう。
彼女と過ごした長い時間が義月の頭によぎる。自分がいなくなった後も、劇団回天座を暖かに包み続けて欲しいと願った。
「義月もなんか言ってやってくれよ」
玄太に求められて、義月は答えた。
「観客が誰であろうと芝居を見せるだけだ」
「今回はその観客が全員死刑囚なのが問題なんだよ!」
「関係ない、俺はいつも通りに芝居をする」
無表情と抑揚のない口調に、玄太が諦めのため息をつく。
「相変わらずアンドロイドみたいなやつだな。七年ぶりに会う息子がそんな風に変わっていたら母ちゃん、びっくりするぞ」
アンドロイド――十二歳だったあの日から、義月はそう呼ばれることが多くなった。
母はやんちゃで快活だった頃の息子しか知らない。冷淡な男に成長した自分を見たら、確かに驚くかもしれないと心の中で自嘲する。
「しっかし、不気味な島だぜ」
玄太は近づきつつある島を、再び忌まわしげに睨んでいた。
罪紋島は日本本土から連絡船で三時間ほどの海上に浮かんでいる。島に存在する建造物は、罪紋島刑務所とその関連施設のみ。
収容されている囚人はすべて死刑相当の重罪人。いわば処刑を待つ人々の隔離地だ。
「凶悪な連中だらけに決まっている! 仕事でなけりゃ一生近づくもんか!」
罵ってから玄太はハッとし、気まずそうに目を泳がせた。
「もちろん、いい人もいるのは分かっているぜ! 義月たちの母ちゃんみたいにさ。でもほら、やっぱ比率としては極悪人が……」
冷や汗を垂らし、必死で言い訳を探している様子だ。
「言いたいことは分かる、構わない」
義月が許すと言葉選びの苦悩から解放された玄太は、ほっとした顔をした
「すまん……あの島に行くのがおっかなくて、つい動揺しちまったぜ」
「玄太は本当に臆病ね、私たちのことは看守さんが守ってくれる約束だから大丈夫よ」
祈里の言葉通り慰問公演の依頼を貰ったときから、刑務所側と何度も打ち合わせをしている。安全の保障をされていなくては、若く美しい女優を二人も連れていけない。
ましてや一人はまだ、高校一年生なのだ。
「姫麟ちゃんは?」
祈里の言葉で、義月は妹の姿が見えないことに気付いた。
「まさか波にさらわれたんじゃないだろうな、姫麟ちゃん細っこいから」
玄太が心配する通り海は荒れ気味だ。姫麟の華奢な体では、風にさらわれて船から落ちていかねない。
「探してくる」
義月は本城姉弟のもとを離れ、甲板を歩き出した。
揺れる船上を舞台稽古で鍛えたバランス感覚でしのぎつつ歩くと、ほどなく船首近くの手すりから身を乗り出して島を眺めている小さな影を見つけた。
義月の足音に気付いてか、三歳年下の妹は振り向いた。
「兄さん……」
まだ幼さを残す顔は、寂しさを帯びている。
海風が揺らす学園制服のスカート。
玄太に囚人を刺激しかねないから、やめたほうがいいとアドバイスを受けていたようだが、姫麟はどうしても高校生になった自分を母に見せたいと、夏用の制服を頑なに着続けているのだ。
「お母さん、まだ見えませんね」
視線を島に戻しながら、姫麟は切なげに呟く。
「刑務所の窓から手を振ってくれていないかなって」
姫麟はまだ幼いうちに母親から引き離されてしまった。それから七年間、再会できる日を心待ちにしている。
そびえ立つ山に阻まれ、まだ島の全容は見えなかった。
「私たちのお芝居見てくれますよね?」
「だといいな」
義月がこんな返事しかできないのは、目下のところ母の生死が不明だからだ。
罪紋島刑務所には投獄された時点で戸籍上は死亡扱いとなる。
現在どうしているのか、処刑がすでに行われたのかなど、外部に一切連絡はされない。
現世にある冥府。いわば彼岸の島だった。
囚人の遺族からすれば非情な扱いだが、文句は言えない。
現政権が定めた法だ。一時期低落していた日本の治安は、人権党が犯罪を厳罰化して以来急速に回復した。
十万人もの死刑囚を収容した罪紋島刑務所は人権党政権成功の象徴なのだ。
「お母さん……連れて帰れませんかね。また三人で一緒に暮らしたいです」
「無理だろうな」
義月が冷たく答えると、姫麟は長いまつげを切なげに伏せた。
「そう……ですよね」
兄としては見たくない表情だったが、甘い期待を抱かせてはならない。
あの島で母と再会できるのか、現時点では分からないのだ。
すでに処刑されている可能性だってある……。
ましてや義月があの島に行く本当の目的や、母が収監された真相を知られれば、姫麟にさらに悲しい顔をさせてしまう。
心ない対応をせざるを得ない。心が壊れかねない痛みに苛まれようと……。
「それでも一目会えるなら……」
姫麟のか細い呟きを、波の音がかき消した。
かすかな望みを乗せ、連絡船は進む。
やがて罪紋島に到着。島と外界の唯一の連絡口だというトンネルをくぐり、船は地下港に接舷した。
入島後、回天座は刑務所関係者に軽く関係者に挨拶をしただけで、看守棟の大講堂に設置された舞台に移動した。そこで公演が開始される。
最初の芝居は“虞美草”。古代中国の楚漢戦争を舞台とした悲恋物語だ。
「おお、虞や虞や、汝をいかにせん」
虞美人が潤んだ瞳で恋人を見上げる。
「ああ、項羽様……その剣をとる前に私の舞いを見てくだいまし」
主人公の項羽は義月、その最愛の人である虞美人は姫麟が演ずる。
見つめ合い、悲しき恋を交わす。この二人が実の兄妹であることを知ってはいても、観劇中に意識するものはいない。
役に入りこめば、項羽と虞美人以外の何者でもなくなり、その認識は観客にも伝播する。伏見谷兄妹はそういうタイプの役者だった。
舞台の右から気迫に満ちた声が飛んでくる。
「項羽よ、諦めよ! そなたに天を抜く力があれど、もはや兵が付いてこぬ!」
祈里の演じる劉邦である。天下統一をなす英雄にして物語上の敵役、さらに男役である。難しい役柄だが、祈里の長身と演技力はそれを見事にこなしていた。
「そーだそーだ! 降伏しろー」
観客の失笑を買うほど間抜けな演技をしているのは、モブ兵士役の玄太である。
彼に関しては演技力が皆無に近い。
祈里に男性役を任せるのと同じく、小劇団ゆえのやむを得ない配役だった。
やがて場面は劉邦の一人語りに移り、義月、姫麟、玄太は舞台袖に移動した。
玄太は兵士姿のまま、観客席を覗き込んでいる。
「あいつら全員死刑囚かよ、おっかねえ~」
玄太も観客慣れはしているが普段と違いすぎる客層に戸惑い、声がうわずっている。
「お母さん、いるかな……?」
姫麟は虞美人の衣装のままだが、観客の目に映らないときは幼さを残す少女の表情に戻っていた。
薄暗い中から母を探し出すのは容易ではない。そもそもこの一回目の公演に観客として来ているのか分からない。それでも……。
義月も母を求めてはいた。そのはずなのに、強烈に目を惹きつけてくる人物が二人いる。
一人目はこの罪紋島刑務所の所長ヨミ。
宵闇色の長い髪に喪服めいたドレスを纏い、冥府の女王を思わせる威厳を発している。
二階席でゴシック調のソファーに座り、生ける人形のように芝居を眺めていた。
もう一人は最前列にいる巨漢の囚人。
黒炎のような髪に、戦傷に彩られたマントが野生の獅子の如く迫力を醸し出している。
パイプ椅子に大股開いて座っているが、立ち上がれば二メートルはありそうだ。衣服越しにも格闘家顔負けに体を鍛えあげているのが分かった。
だが、真に只者ならぬ部分はそこではない。
彼は六人の看守に銃口を突きつけられている。
危険な猛獣の如く、暴れれば射殺できる態勢にあるのだ。
なのに笑っている。数センチ先に死があるというのに不敵な面構えで観劇していた。
このような扱いを受けているものは、広い観客席で一人だけだった。
祈里演じる劉邦の一人語りパートが終わり、再び義月扮する項羽が舞台にあがる。
男は嬉しそうに呟いた。
「史上最強の武人項羽……この荒丸龍登の目指す人間像だぜ」
好戦的な眼光は古の覇王さえ、たじろがせるものがあった。
“虞美人草”が終わり、観客のいなくなった舞台。回天座の四人は次の芝居の準備を始めていた。
今回の慰問公演は観客を入れ替えつつ二日間、六回に分け、三つの演目の芝居を見せる段取りになっている。
二番目の演目は“ボニーとクライド”。一九三〇年代アメリカの実話を元にした犯罪劇だ。
強盗殺人犯が主人公のため、囚人への教育上は不適切にも思えたのだが、刑務所側からの強い希望により演目に組みこむことになった。
「玄太、クライドの衣装は?」
「あれ、ないのか? ……どこだったかなあ?」
玄太は回天座で小道具係及び衣装係を担当している。芝居は不器用だが、手先は器用な男だ。
「やべえ、まじでない! 姉貴、姫麟ちゃん! 一緒に探してくれ!」
ただし整理整頓はできない。公演前にこうして大騒ぎするのはお約束だった。
「もう玄太ったら、何を入れたか箱に書いておきなさいって言っているでしょ」
文句を言いつつも毎度一緒に探してくれる祈里。
「ちゃんと書いたさ、ただ書いたのと別のものを入れただけだ」
玄太も毎度、悪ガキの如く口答えする。
「玄太さん、どうしていつもこうなんですか?」
年下の姫麟にまで怒られている。劇団回天座のいつもの光景だった。
「面倒だからだよ、大人は面倒くさがりなんだ、姫麟ちゃん」
「分母がでかいぞ、玄太」
義月がさらりとツッコンだとき、玄太が嬉しそうに声をあげた。
「お、あった!」
義月は安心したが、時として玄太の報告は斜め下なのである。
「クライドの銃だ! これ、ちゃんと持ってきたか不安だったんだよ」
「……衣装は?」
「どっこかな~? みんなぁ頑張って探そうぜぃ!」
サムズアップしてくる。
義月も、祈里も、姫麟もリアクションをせずに衣装探しに戻った。
舞台上に持ってきた箱の中身は粗方探し終えた。
「ここにないとなると、舞台袖に置いてある残りの箱を持ってこなくちゃな」
この大講堂の舞台袖は暗く、探し物がしづらい。照明のいい舞台上で探さないと見落としが出そうなのだ。
玄太は自分で運ぶのが面倒くさいのか、義月の方をチラチラ見てくる。
「持ってくる」
義月が小さくため息をつきつつ舞台袖に移動しようとしたとき、威厳に満ちた女の声が響いた。
「待て、その銃は本物ではあるまいな」
声の方角は二階席だった。看守を従えたヨミが座っている。
最初の芝居が終わったときに全員退去したものと思っていたが、残って片づけや準備を眺めていたらしい。
「所長さん、この銃おれが作ったんすよ! よくできてるでしょ? そこからだと本物に見えますよね!」
芝居用の銃を掲げて玄太は媚び媚びの笑顔を浮かべる。調子がいいのも、権力に弱いのも昔からだ。
「近くで見たい」
ヨミが静かに告げると、警護をしていた看守の一人が舞台へ立ち入ってきた。
「どうぞどうぞ!」
玄太が看守に銃を渡す。
「看守さんの銃は本物なんすか? やっぱ迫力違うなあ!」
玄太は看守の背負っている銃に興味を示している。
サブマシンガン――刑務所看守の装備にしては大げさに思えるが、大勢の死刑囚がこの大講堂に入っていたのだ。万が一の暴動を考えての牽制用なのかもしれない。
「近づくな」
看守は玄太の銃を受け取っておきながら、自分の銃を見せることは拒んだ。
玄太は肩透かしを食らった様子だが、愛想笑いを続けている。
「ハハッ、実銃ならナイーブになるのも当然っすよね! すまんかったっす!」
一方、看守から芝居用の銃を受け取ったヨミは、それをつぶさに観察していた。
「それ、実際にクライドが使っていたトンプソン・サブマシンガンを参考にしているんですよ! おれなりのこだわりってやつっすね!」
玄太は愛想よく話しかけているが、ヨミは表情を変えない。
木製だし手に取ってみれば明らかに模型だと分かる代物だ。
義月たちは衣装探しを続ける。
数分後、ヨミは銃を精査した末、こう断言した。
「実銃だな」
立ち上がり、表情一つ変えずに宣言する。
「私は人権党より裁判兼を与えられている。 これを行使し、即決裁判を行う」
「へ?」
玄太が間抜けな声をあげた次の瞬間、判決は下された。
「刑務所内への銃火器持ち込みは重罪である! よって本城祈里、本城玄太、伏見谷義月、伏見谷姫麟、以上の四名に死刑判決を言い渡す!」
人権党こと国民人権党は、二十年ほど前より日本の政権与党を務める政党である。
政策の要である犯罪の厳罰化とともに、裁判のスピード化を推進。公職者の一部は特別裁判権を行使しての即決裁判が可能となった。
義務教育の教科書でも繰り返し賞賛されている現政権の成果である。だが、裁きの木槌が自分たちに振り下ろされるとなれば反応も違ってくる。
「私たち何かしましたか、兄さん?」
姫麟が動揺して尋ねてきた。
看守たちが舞台上にあがり、回天座の四人を包囲している。
「何だよこれ? そんなの実銃なわけがないだろ!」
玄太が呼びかけたが、ヨミは意に介さず、大ホールから出て行ってしまった。
「看守長さん、よく調べていただけませんか? 誤解だってすぐに分かると思います」
祈里が穏やかな笑顔で傍にいる男を説得している。挨拶のとき看守長と名乗っていた人物だ。
刑務所長であるヨミに次いで権力があるらしい壮年の彼は、二つに割れたアゴ顔に笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ、お嬢さん。調べましょう」
地位から考えて分別のある人間だと義月は思い込んでいた。そこから下劣さがにじみ出したのは予想外であった。
「脱がせて! ひんむいて! 全身をな!」
看守たちが一斉に襲い掛かってくる。
祈里のまとう劉邦の衣装を、数人の看守があちらこちらから乱暴に鷲掴む。
「きゃ! 何をするんです?」
看守たちは三人で祈里の体を押さえつけ、着物ばかりかアンダーウェアまで強引に剥ぎ取った。
劇団看板女優の美肌が露わになる。慌てて胸を隠す祈里だが、その豊満ゆえに腕から柔肉がはみだしてしまう。
「ひゃあ! この体は反則だろ!」
「絹みたいな肌してやがる、触れているだけでうっとりするぜ」
祈里の胸を、腿を、尻を欲望のままに撫で、さすり始める看守たち。
その姿は刑務官ではなく、ただのならずものだった。
「触らないで!」
祈里は看守長に宝石の剣を思わせる視線を突きつけた。
「それ以上は死んだ主人が許しませんよ!」
彼女は六年前、二十歳のときに一度結婚している。わずか五日だが伴侶だった人に今でも操を立て続けていた。
だが、その情報は男たちにとって興奮のスパイスにしかならなかったようだ。
「その若さで未亡人かよ!」
「旦那に逝かれて、さぞかし体がうずいているだろ! 俺たちが沈めてやるぜ!」
看守たちの顔が、さらなるゲスさを帯びた。
看守たちの多くは豊満な祈里の体に集っていたが、未熟な姫麟の若い体に群がる一団もいた。
「見ないでください……」
露わにされた裸体を腕でかばう少女の肢体を、看守たちは下品な視線で観察している。
「若けえ! どこもプリプリしてやがる!」
「発育途上って感じでたまんねえな」
副看守長だという小柄な男が、姫麟の下着を剥ぎ取り観察しようとしていた。
「だめ! そんなところ見ないでください!」
「いやいや、副看守長として、じっかり調べねばいけないのですよ。 何を隠しているかわからないのですからね!」
副看守長の慇懃無礼な物言いは、万人に嫌悪感を抱かせるものであった。
取り調べとは名ばかりの淫行に、玄太が声をあげた。
「お前らそんなことをしていいのかよ? 訴えるぞ!」
義月や玄太は別の看守たちに銃を突きつけられてしまっていた。身動きすれば撃つと恫喝の上でだ。
声による抗議が精一杯だった。
「残念ながら俺たちはもう訴えられているんでね! この島の住人はヨミ所長以外全員が死刑囚なのさ!」
看守長はケツアゴを自慢げにクイッとあげた。
「俺は強姦殺人の罪で捕まってぶちこまれた。反省した態度を見せたらこうして看守に採用されたんだが……こんなスケベ体見せられたら反省なんて忘れちまうなあ!」
その顔は立場ある人間ではなく、完全なるごろつき。
これからさらに屈辱に満ちた時間が始まるのだと、言葉を使わず表情で宣告していた。
副看守長は、姫麟を組み伏せると看守長に伺いを立て始めた。
「看守長、いただいちゃってよろしいでしょうか? 初物のようなのですが?」
上司は祈里の体に夢中になっていた。
「そんなんだからお前は出世できないんだ! 上司の邪魔をするな! 好きにしろ!」
「承認が下りました! キミ! ワタシが人生最初の男に決定しましたよ!」
これから何をされるのかを悟った姫麟は、細い首を必死に横へ振った。
「いけないです! そういうのは好きな人以外とはダメですよ!」
姫麟は今どきの子にしては真面目すぎるほど真面目な娘だ。女学園に通い、学級委員長もしている。
「ほう、じゃあ誰ならいいんです? 好きな男がおるのですか?」
副看守長に尋ねられる姫麟。返事に戸惑っている間、男たちに全身をまさぐられ、舐められだす。
「いやあ! 兄さん! 兄さぁぁん!」
嫌悪感に悶え、哀しき悲鳴で助けを求めるだけだった。
「ほう? まさかお兄さんが好きだと? いけませんねえ、そういうのは更生させてあげないと……」
副看守長は姫麟の悲鳴を曲解して、下品な笑いを浮かべた。
敬愛する先輩と実妹の痛ましい姿を見せつけられ、義月の魂は怒りに染め上がった。
憤怒の熱に冷く硬い表情が溶ける。
「離せ……下郎!」
突きつけられた銃身を右手で掴んで押し退けた。
「反抗しやがったな、動けば撃つと……」
引き金を引こうとした看守たち。
だが、義月の睨みを受けた瞬間、警告の声は途中で止まり、銃を持つ手が震え出した。
「その女を誰と心得る!」
看守たちは恐怖に駆られ義月の体から離れる。
彼らを睨みつける男は、もはや義月ではなかった。
中国史上最強の武将。圧倒的な武勇で一度は天下を制し、西楚の覇王と呼ばれた男の気迫が、総身から湧き上がっている。
「この項羽の女に手を出したものたちよ!」
殺気を籠めて、銀鎧の腰鞘から剣を抜く。
「生きては帰さん!」
義月、否、項羽の怒号に看守たちが選択したのは――逃走であった。
銃を持っていることを忘れ、甘美な香りを漂わせる二つの女体さえ捨て、舞台から飛び降り、敗軍の兵となって逃走してゆく。
もはや欲望を貪る余裕などない、生命を脅かす敵がすぐそこにいるのだ。
彼らがあげる悲鳴はボス猿に餌を奪われた猿の如く、悲し気で言葉をなさない悲鳴だった。
看守たちの姿は大講堂から消えた。
武力としては絶対的に有利な銃器を持ちながら、戦場に生きた武人の気迫に抗えなかったのだ。
完全に役になりきり、その人物と同等の雰囲気を発する。名女優だった母から才を受け継ぎ、長年の稽古で磨き上げた技能の賜物だった。
敵が去ったことを確認すると、義月は背中のマントに手をかける。
「これを」
外したマントを妹の裸体にかけた。
「ありがとうございます、項羽様」
姫麟はマントで体がくるみ立ち上がる。義月の芝居に引き込まれ少女の頬は、恥らいと恋に染まっていた。
祈里と姫麟は舞台袖に移動し、芝居を始める前に着ていたサマードレスと学園制服を着直した。
それを確認すると、義月は走り出した。
「逃げるぞ、魔法が解ける前に」
この場合の魔法とは演技力のことである。
看守たちは義月から古の武人の殺気を感じ、逃亡した。
だが、あくまで演技だ。剣の扱いは殺陣を通してしか知らない。
荒くれものたちに対抗できる力など、義月は持っていない。
看守たちがそれに気づいて戻ってきたら、終わりだ。
回天座の四人は舞台袖裏の扉を駆け抜けた。
「さっき来た道を戻りましょう」
祈里の声に義月は振り向かないまま頷く。
扉を開け看守棟の廊下にでる。
「地下港を目指すぞ」
乗ってきた連絡船がまだ停泊しているのかは分からないが、島の出入り口はそこしか知らなかった。
モルタル床の無機質な廊下をひたすらに走る。
「玄太さん、急がないと!」
自分の後ろを走っている玄太に、姫麟が焦って呼びかける。
役者としての体力作りを心掛け、毎朝走り込みをしている義月、祈里、姫麟に比べて玄太の足は明らかに遅い。
「た、たんま……肺が苦しい、脇腹痛い」
「だから煙草はやめなさいって!」
祈里が姉として、劇団の先輩として度々注意してきていたことだが、ここへきて深刻な欠陥となって返ってきた。
「遅れたら殺されるぞ」
義月も心を鬼にして発破をかける。
「ハハ、まさか殺されまでは……」
「玄太、俺たちは死刑囚だ」
「そうだった……」
顔を引きつらせる玄太。
慰問にきた劇団員から急転直下で囚人となってしまったのだ。
ましてや自分たちが今しようとしている行為は脱獄に値する。射殺さえされかねない。
「ここを左に曲がれば地下港よ! 玄太、頑張って!」
祈里が弟を叱咤したとき、向かうべき廊下の奥で金属扉が開いた。
ヘルメットとアーマーで完全武装した看守たちが、こちらに向け走ってくる。
「捕まえろ!」
先導しているのは看守長だろう。ヘルメットの下からケツアゴがでている。
彼らの手には、サブマシンガンが抱えられていた。
「マジか!?」
「仕方がない、別の道を!」
地下港に直結している左の通路を捨て、右の廊下を走る四人。
この道がどこに通じているのかは分からない。だが、逃げなければ射殺もありうる!
「やべえ、何でこんなやべえことになったんだよぉ」
玄太は、ぜぇぜぇ息を荒げ泣きべそを掻いた。
脇腹を抑えている。まだ二十才なのに運動不足による体力の低下が伺えた。
「おれは諦める、置いて行ってくれ」
「バカね、そんなわけにはいかないでしょ」
息を切らしながら座り込んだ玄太の手を祈里が引っ張る。
その傍らで、義月の目に活路が映った。
「出口だ」
開いているドアがあり、外の世界からの光が入ってきている。
明らかに地下港とは異なる方角だが、選んでいる暇はない。
「玄太!」
「わ、分かった」
玄太を無理やり立ちあがらせ、義月は仲間とともに未知へ通じる扉に飛び込んだ。
扉の向うは都市だった。
商店が立ち並び、アスファルトの道路を自動車が走っている。
「ここは……? この島、刑務所のはずですよね?」
姫麟の問いかけに頷く。
山が邪魔をして船からはその様子を伺うことはできなかったし、入島してからも窓から外が見える場所には案内されていない。看守棟外の景色を今、初めて目の当たりにしたのだ。
ビルや店舗が立ち並び、デパートらしき建物まである。
片田舎と呼ぶには発展しすぎている地方都市だ。
「何でこんな街が?」
玄太も事態を飲み込めず、どちらに逃げていいのかも分からず戸惑っている。そこへ背後から黒い一団が追ってきた。
「さんざん手間かけさせやがって」
看守長がヘルメットのバイザーをあげ、にやついたケツアゴ顔を晒す。
逃げようとすると彼らはサブマシンガンを構えた。
「動くな! 一歩でも動いたら撃つ!」
気づけば四方から囲まれていた。
「失せろ下郎!」
義月は雄たけび、再び覇王の気を放つ。
「もうそんなハッタリは通じんよ、項羽大王」
看守長のナメた態度は、魔法が解けていることを示していた。
「男どももすぐには殺さないでおいてやる。それなりに需要があるんでな……特にお前は高く売れそうだ」
義月は顎に銃口を突きつけられた。同じ仕打ちが他の三人にもされる。
動きを封じられた眼前で、再びそれは始まった。
「離してください!」
「いいですねえ! やはり制服は素晴らしい!」
副看守長は姫麟を看守棟の前の草むらに押し倒した。
「制服姿の美少女とこんなことをする! 得られなかった青春が今、ここに!」
副看守長は、顔を近づけ高校生女優の頬を嘗め回す。
姫麟の目は嫌悪感と絶望に光を失っていった。
「走ったお陰で汗まみれじゃねえか、このレベルの美女だと香水の匂いになるんだな! 最高のご褒美だぜ!」
看守長に組み伏せられた祈里は、長身をよじり逃れようとしている。
「いやです! そんなところかがないで!」
だが、ガタイのいい男が相手では女体が蠢くだけ。情欲をそそるスパイスにしかなっていないようだった。
玄太は涙を流して看守たちに懇願していた。
「頼む! 殺さないでください! オレの命は安物だけど、どこにも売ってないんですぅ!」
「てめぇの命なんか売り物になるか!」
玄太の特技は命乞いである。地元の不良たちに絡まれたときは、大変ウケが良かったそれが、ここでは通じず若い看守に銃で頬を殴打されていた。
助けてやろうにも義月も同じく、複数の看守に腕を極められており動くことができない。
「兄さん! 兄さん!」
鼓膜を震わせる姫麟の悲鳴にもなすすべがなかった。
演技という唯一の切り札はすでに使ってしまった。
未知の地ですべてが壊されていくのを、ただ見ているしかない……。
奥歯を噛みしめる義月。
その耳に、男の声が響いた。
「不快なものを見せてくれるじゃねえか」
義月の瞳に男が映る。
黒い炎の如く逆立つ髪と、傷だらけのマントを風に靡かせ駆けてくる。
「てめぇら、まとめて処刑してやるぜ!」
漆黒の瞳に憤怒の眼光、その男――荒丸龍登が。
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