328 お城の厨房

 一応トラブルは片付いたけれど、さすがにこのまま観光を続行というわけにはいかないらしい。俺たちはマイヤの指示に従い、城に戻ることになった。


『お兄ちゃん』


 三人で路地から出たところで、ふいにニコラから念話が届いた。


『ん?』


『お兄ちゃんは私がおパンツを履き替えるところを見てませんよね?』


『うん、そりゃまあ見てないよ』


 マイヤと紙切れを見てる間に、しれっと現状復帰していたからな。俺の言葉にニコラは思案するように自分の顎に指を添えた。


『ふむ、見ていませんでしたか。……そうなると、これは大変なことになってきますよ? 量子力学的に解釈するとですね――今、私のスカートの中には履き替えたおパンツと履き替えてないおパンツが重なり合って存在していることになるのです。そしてこれはお兄ちゃんがスカートの中を観測しないかぎり確定されません』


『えっ、どういうこと?』


 いきなり何を言ってるのかな、この妹。


『これを学会ではシュレディンガーのおパンツと言うのですが、どうやらお兄ちゃんは知らないようですね。それではもう少し詳しく説明しましょう。量子の世界においては、粒子の状態は観測されることによって――』


『わ、わかった。そうだな、スカートの中は不確定だ。うん』


 正直何を言っているのかよくわからないが、自分は漏らしていないと言いたいことだけはわかった。それでニコラの心の平穏が保てるのならいいと思う。


 そもそも赤ちゃんの時期から一緒に生活しているのでオムツの履き替えなんかも見てるし、いまさらお漏らし程度でからかうつもりもないのだ。


『ふふん、わかればいいのです』


 ニコラは勝ち誇ったように満足げに頷くと、ついさっき痛い目にあったにもかかわらず、再びマイヤの腰に抱きついた。


 マイヤも外す気はないのか、何も言わずニコラを腰に巻きつけたまま歩いている。こうやって慣れていくと、次第に腰に巻き付くのがデフォになっていくんだよな……。


 じわりじわりとニコラに侵食されているマイヤをあわれんだ気持ちで眺めていると、目が合ったマイヤが強引に俺の手を握った。


「ククッ、そういうところはまだまだガキなんだな?」


 どうやら抱きついているニコラをうらやましく見ていると思われたらしい。わざわざ訂正するのもなんなので、俺たち兄妹はそのままマイヤに引きずられるように城へと急いだ。



 ◇◇◇



 城に戻るとマイヤは俺たちを残し、慌ただしく衛兵詰め所へと走っていった。俺は近くにいた使用人に案内され、さっそくポテトサラダのレシピを伝授するべく厨房へ向かう。


 ニコラはセリーヌの部屋に行くそうだ。まだ寝ているようなら添い寝してもらうとのこと。もうすぐ昼食にはいい時間帯だというのに、食欲よりも癒やしを優先したあたり、なんだかんだで精神的ダメージは大きいらしい。


 ニコラと別れ、これまで見てきたどこよりも広くて立派な厨房に入る。俺の顔を見た料理人がすぐさま同僚を数名呼び出し、伯爵城御用達の料理人たちが見守る中、レシピ教室が開催されることになった。


 料理人は皆興味津々の表情でこちらに注目している。俺みたいな庶民の子供が教えるレシピだというのに、この機会を楽しみにしてくれているようだ。トライアンからなんて説明をされたのかは知らないけれど、少しプレッシャーを感じるね。


 そしてその中に意外な顔があった。リアーネである。俺と目が合ったリアーネはむすっと不機嫌そうな顔をした。


「お父様から料理人任せにせず、当家の代表としてマルクさんのレシピを見てきなさいと言われましたの。ところでニコラちゃんはどちらに?」


「町で騒動に巻き込まれまして、怪我なんかはしていないのですけど少し休んでます」


 俺の返事にリアーネが心配そうに眉を寄せる。


「聞いていますわ。人さらいに遭ったんですってね……。ニコラちゃんを怖がらせるなんて、あってはならないことですわ。やはりお父様に頼んで護衛をもっとたくさん付けるべきだったのです」


 護衛か。当然のことかもしれないけれど、やはりマイヤは監視役ではなく護衛だったんだな。人さらいの相手を俺にさせたのはマイヤが暴走した結果のようだ。


 今にもニコラの見舞いに飛び出しそうなリアーネであるが、ここは職務を優先するのだろう、私の顔を見ていないでさっさと始めろと言わんばかりに俺を軽く睨んだ。


 うへ、怖いな。文句を言われないうちに始めることにするか。俺は調理台に足を進めると、改めて料理人たちに向き直った。


「ええと、まずはポテトサラダに欠かせないマヨネーズから作ります」


「マヨネーズ……ですか?」


 料理人の中で一番年配の渋いおじさまが代表して俺に尋ねる。とりあえずそれっぽいので、彼が料理長だと仮定しておこう。


 それにしても使用人に限らず料理人たちも彼に限らず皆イケメンだし、この城で働く男性の顔面偏差値は高さは計り知れない。誰の趣味なのかは考えたくない。


「はい、マヨネーズはポテトサラダには欠かせないソースとなります」


 どちらかといえば、ポテトサラダよりこちらのほうが手間がかかるのだ。さてと、それじゃあレシピ講習会を始めるとしようか。

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