243 風呂上がり
屋上風呂でゆっくりと汗を流した後、ボルダリング壁の頂上で風に当たって体を冷ましていると、岩風呂に入浴していた三人が外壁から入ってくるのが見えた。ニコラは軽い足取り、エステルは肩を落としながら、セリーヌはいつも通りといった様相だ。
「みんなー、おかえりー」
俺は風魔法を駆使して頂上からふわりと地上に飛び降り、三人のもとへと歩いていった。ディールに教えてもらった
セリーヌが同じように高い場所からふわりと降り立っているのを見た時はどういう理屈なのかさっぱりわからなかったのだけれど、一度、
「とりあえず家の中で冷たい物でも飲んでいかない?」
俺は玄関扉を開けて皆を中へと招き入れた。それには明らかに疲れ切っているエステルを労う思惑があったんだけど――
「ううっ、マルク、マルクゥ……」
絨毯の上のちゃぶ台に冷えた果実ジュースを置き、皆に振る舞って胡座をかいた瞬間、エステルが膝立ちですり寄ってきたかと思うと背中から抱きしめられた。
「うわっ、どうしたの?」
「なんだかよくわからないけど、すごく疲れたんだ。しばらくこうしてていい?」
エステルは風呂のお陰で普段よりもぽかぽかと温かく、白い肌から立ちこめる香りの強くない石鹸の匂いとエステルの匂いが混ざり合った匂いを嗅ぐと、なんとも言えない安らいだ気持ちになる。
俺は気持ちいいしエステルもこれで落ち着くというのなら、しばらくこのままでもいいだろう。風呂に入ったのに疲れているのというのも不憫な話だし。
「はあ、いいよ。飲み物を零さないように気を付けてね」
俺は力を抜くと遠慮なく背中のエステルにもたれ掛かる。なんだかエステルがベタベタするせいか、俺の方も無遠慮になってきた気がする。柔らかくて温かくていい匂い。人を駄目にするソファーの上位互換だね。
『くっ……。美少女ソファーうらやまぴい……』
『お前がストレスを与え過ぎたせいなんだからな』
俺の首筋に顔を埋めるエステルを嫉妬の眼差しで見つめるニコラに、俺は呆れ声で念話を返す。するとジュースをぐいっと一気飲みしたニコラが動き始めた。
『私だって、やってやる、やってやるぞ!』
「セリーヌお姉ちゃ~ん」
ニコラは甘えた声を出すと、俺の対面に座っていたセリーヌの胸元に抱きつく。そして俺と同じようにセリーヌの胸にもたれかかると勝ち誇ったような笑みを浮かべ、どこかの猫型ロボットの声色で念話を送ってきた。
『美女ソファ~』
よせ、ドラ◯もんはそんなこと言わない。
「あらあら、ニコラちゃんは本当に甘えん坊ね~」
セリーヌはニコラの頭をひと撫ですると、両手を添えて抱きかかえた。ニコラの容姿も相まって、まるで大きな西洋人形を抱いているようにも見える。表情はドヤ顔の人形だけど。
そしてセリーヌはニコラの頭を撫でながら、俺の後ろのエステルを見て苦笑を浮かべた。
「お風呂の中でニコラちゃんに甘えられちゃって、少し疲れたのかしらん? エステルはほんとに恥ずかしがり屋さんなのね~。そのくせマルクには抱きついても何ともないんだから不思議だわ~」
「マルクは友達だからね。何をされたって平気だよ」
首筋に顔を埋めたままエステルが答える。息がかかって首がこそばゆい。
「な、何をされても? そ、そうなの……」
エステルの答えにセリーヌがポッと頬を染めた。おい、ナニを想像した。というか、すぐにそう言う物言いをするのが良くないと、反省してもらいたかったんだけどな。それにしても未だに背中から離れないエステルの精神的ダメージは思っていたよりも大きそうだ。
『ニコラ、お前エステルに一体なにをしたの? セクハラしまくったんじゃないだろうね』
『失敬な。私はお触りひとつしてませんよ。今回だけで終わらせるのは惜しいですから、次に繋げる為にさりげないタッチですら封印したんですよ。しかしそれを差し置いても、大変有意義な入浴となりましたけどね!』
そう言うと鼻息荒く語り始めた。
『エステルは私がエロい目で見ていることを本能的には勘付いているんです。それで私が近づくとビクッと怯えるんですけど、約束もあってか、すぐに平気そうな顔をして微笑むんですよ。どうです? 健気でしょう? なんて言うかですね。枕営業にきたアイドルを目の前にした社長の気分でしたよ! こういうのもいいですねえフヒヒ!』
ニコラがセリーヌソファーに深く腰をかけると、IT企業の社長のように両手でろくろを回しながら更に言葉を続ける。
『勘のいいエステルは手を出さなくても、私が気配を送るだけで敏感に察知してしまうってことはですよ? つまり視線を送る素振りをするだけでエステルは恥ずかしがってしまうんです。でも私は何もしていないわけですから何も言うこともできず、ただただ、困ったような笑みを浮かべるのです……! その表情を見るだけで私はもうお腹いっぱいでした。お兄ちゃん、エステルを説得してくれてありがとう!』
気功の達人の技を食らうには、相手も気功を感じ取る達人である必要があるという話を聞いたことがあるけれど、達人同士でセクハラが行われると、このような結果になるらしい。
これならエロい目で見られることはなく、お触りされることもなくても、エステルの精神はガッツリと削られたことだろう。後さらっとセクハラの片棒を担がされた。
確かにエステルに「嫌がることはしないよ」と言い切ったのは俺だったが、俺にはこんなハイレベルなセクハラまでは見抜けなかったな。ある程度覚悟をさせてからなら結果も違っていたかもしれない。エステルごめんよ。
俺は首筋に顔を埋めたままのエステルの頭をポンと撫でると「お疲れ様」と一言労った。
かくしてエステルの受難の日は終わった。
そんな悪い事の後には良い事があってもいいはずだ。エステルが苦難を乗り越えてから数日後、彼女にとって喜ばしい日を迎えることとなった。ついにスティナの子供が、エステルの妹が、この世に産声を上げたのだ。
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