139 回復魔法

 階段を降りて周辺を見渡す。床にはガラスの破片が散乱し、ネイとぶつかった客がおろおろしている。場所が酒場の隅っこな上に周囲は騒がしく酔っぱらいだらけのこともあり、ぶつかった客と俺以外はまだ誰もネイの負傷には気づいていないようだ。


「ねえ、おじさん。チリトリと箒を借りてきてくれる?」


「おっ、おう」


 早くガラスの破片を取り除いたほうがいいだろう。俺の声に素直に答えた客は慌ててカウンターへと向かった。


 ネイは床に膝立ちしたまま、手の平の傷をじっと見つめているようだ。勢いよく倒れ込み、床に手をついたところにガラスの破片があったんだろう。手の平の付け根に近いところから、少なくない量の血が流れ続けている。俺の方からはネイの表情は見えない。


「あの……、大丈夫?」


 ガラスを踏まないように気を付けながら近づいて尋ねる。まぁ、ガハハ唾付けときゃ治る! とか言いそうだけど……。


 俺の声に反応したネイがくるっとこちらに振り向いた。


 ――その顔からは俺と会話を交わしていた時のような勝ち気な表情は消え去っていた。不安げな表情を浮かべたネイの瞳には涙が溜まり、今にも溢れ出しそうになっている。


 そして俺が声をかけたのが、涙腺決壊のタイミングになったようだ。


「……うううううぅ~、痛い、いだい、いだいよぉ……」


 ついにネイは瞳から涙を溢れさせた。負傷していない方の手の甲で涙を拭うが、はらはらと流れる涙は止まりそうにはない。どうやら十歳の、年相応の子供らしいところが出てしまったようだ。


 その間にも手の平からは血は流れ続け、ネイはその血を見て更に涙を流しながら嗚咽の声を漏らす。大声で喚かないだけ立派だろう。


 俺はネイの血濡れた方の手の手首を掴むと傷口をよく観察する。ざっくりと深く切れてはいるが、ガラスの破片はもう刺さってないことを確認した。


「大丈夫だよ。すぐに痛くなくなるから」


「うぐっ、うぐっ、……ほんとう?」


 ネイが涙を流しながら縋り付くように尋ねる。どうやら体面を気にしてる余裕もないらしく、子供らしい話し方になっていた。


 俺は頷くと手首を掴んだまま、もう片方の手をネイの傷ついた手と合わせる。回復魔法は直接触れたほうが効きが早い。ネイは傷口が擦れる痛みに体を震わせる。


「いたっ、やめ――」


 俺はすぐに光属性のマナ――回復魔法を傷口に流し込んだ。俺とネイが手を合わせている部分を中心に強い光が溢れる。俺の手を振りほどきかけたネイだったが、突然輝きだした光の奔流に驚きの表情を浮かべた。


 最近はポーションに活躍の場を取られていたような気がするけれど、そのポーションを作るのに必要なのは光属性のマナだ。


 ひたすらポーションを作るために光属性のマナを注ぎまくっているお陰か、俺は土属性の次に光属性が得意になっている。これくらいなら傷跡を残すことなく治るだろう。……今までこんなに深い切り傷を治療したことないけど、多分。


 そして回復魔法を止めるとすぐに光が収まった。俺は手を離すとネイを落ち着かせるように、なるべくやさしい声でゆっくりと話しかけた。


「ほら……、もう痛くないでしょ?」


「――本当だ……。痛くない……」


 ネイの瞳からはいつの間にか涙は止まり、ぼんやりと口を開けながら不思議そうに血濡れた手を見つめている。


 流れた血が消えるわけではないので、体を拭うのに使おうと思っていたタオルをアイテムボックスから取り出し、ネイの手のひらの血を拭った。思った通りに傷口はきれいさっぱりと無くなっている。回復魔法がしっかり効果を発揮したようで安堵の息を吐く。


 俺は自分の手に付着した血を拭い、床に流れた血も軽く拭くと、


「はい、元通り」


 食事の時のお返しとばかりにポンッと背中を叩いてやった。


 するとポカンとしていたネイがハッと表情を改め、服の袖で乱暴に涙を拭う。そして俺と目線を合わせず下を向きながら矢継ぎ早に話しかけてきた。


「あっ、あの! お、お、お前すごいな! ありがとな! それじゃガラスが危ないからチリトリと箒を持ってくるから!」


「あっ、それなら――」


 俺が呼び止めようとしたところで先程の客が戻ってきた。


「おーい、チリトリと箒持ってきたぞ! ……って、あれ? ネイ、血が出てなかったか? 俺の見間違いなのか? やっぱ飲みすぎたのかな……」


 少し間を空けて落ち着きたかったんだろうが、それも叶わぬネイは立ち止まると客から掃除道具を受け取った。そして顔を真っ赤にしながらすごい勢いで掃除を始める。


 ガシャガシャとチリトリが立てる音を聞いて、周囲の客もようやく騒ぎに気づいたようだ。


「なんだネイ、またジョッキを割ったのか? この辺りじゃ安く売ってるとはいえ、程々にしろよなー」


「う、うっ、うっせ! 黙って飲んでやがれ!」


 ガハハと周囲の客が笑う。どうやらジョッキを割るのはよくあることらしい。まぁこれだけの客を一人で捌いていれば、仕方のないことなのかもしれない。


 そして掃除が終わり、それを一部始終眺めていた俺の元に再びネイがやってくる。


「あ、あの、さっきは本当にありがとうな! ……それとあたしが泣いてたのは内緒に――」


「大丈夫だよ。十歳なんだもの。痛かったら泣くことだってあるよ。恥ずかしがらなくたっていいんだからね」


「えっ、あっ! 馬鹿っ! あたしが恥ずかしいんだ! とにかく内緒だからな! えっと、本当にありがとな!」


 ネイは再び顔を真っ赤にすると、掃除道具を持ってカウンターへと走って行った。



 その様子を微笑ましく眺めていると、いつの間にか近くにいたセリーヌがニマニマとした顔を浮かべていた。


「この辺はガサツな男しかいなさそうだしね~。あの子、初めて男の子にやさしくされたんじゃない? マルク~、あんたもやるわねえ」


 そう言って俺の頭をポンポンと撫でた。どうやら一部始終を見ていたらしい。


 ニコラもそうだけど、どうしてそういう方向に持っていきたがるんだろうね。俺が照れてアワアワするところでも見て、からかおうとでも思っているんだろうか。しかし残念ながら俺にそう言ったリアクションを求められても困るのだ。そういうあざとかわいいのはニコラの領分である。


「あー、はいはい。それじゃ僕は井戸で体を拭いてくるね」


 俺は適当に答えると、これ以上いじられないうちにこの場をさっさと立ち去るのだった。

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