第四話
ヴィクターの目には少なくともライアンとロベリアの縁談は恙無く纏まるかのように見えた。
仄かに燻る思いも二人の幸せそうな姿を見ればきっとすぐに忘れてしまうだろう。そう思っていたのに……その考えはたった二日で破られた。
「ヴィクター殿!」
回廊を歩いていたヴィクターは名を呼ばれ、振り向いた。酷く慌てた様子でライアンの従者が走り寄ってくる。ヴィクターが口を開く前に、顔面蒼白な従者が平謝りをしながら告げた。ライアンが突然護衛騎士を連れて帰国したと。途端にヴィクターの形相が変わる。従者が思わず短い悲鳴をあげた。そのことには触れず、一体どういうことなのかと問い詰めた。従者はひたすら頭を低く下げ謝るばかり。苛立ちが募った。
「謝罪の言葉を聞きたいのではない。どうして、挨拶も無く、予定前に帰国することになったのか、こちらが納得できる理由が知りたいと言っているのだ」
ビクリと従者の身体が震える。————何か言えない事情があるのか。
ヴィクターの眉間がぐぐっと寄った。とりあえず話を聞かなければこの後の対応ができない。目の前の従者から聞き出す方法をいくつか思案していると、ヴィクターを嗜める声が聞こえてきた。
「まぁまぁ、そこまでにしてあげなよ。事情はカイザー殿の部下から粗方聞いといたから。君はもう帰っていいよ」
いつから見ていたのかアドニスが、従者に近づき肩を叩いた。顔を上げた従者はアドニスを見てホッとしたような表情を浮かべ、頭を下げた。アドニスはニコニコと人好きする笑みを浮かべて言った。
「ああ……でも、これだけは伝えておいてほしいな。ちょっとした忠告……アドバイスなんだけどね。『自分に正直なのは結構だけれど、それを他人に押し付けるのはどうかな。そのままだと、きっと大事なモノを失ってしまうよ?』ってライアン君に伝えておいてほしいんだ。少し長いと思うけど、お願いできるかな?」
表情や喋り方はいたって優しい。それなのに、嫌な汗が浮かぶ。従者はアドニスから目を逸らさずひたすら頷き返した。アドニスはその様子を見て満足そうに笑うと、近づけていた顔を離した。ようやくまともに呼吸ができるようになった従者は、挨拶もそぞろにその場から逃げ出した。
遠ざかっていく背中を楽しそうに見送るアドニス。ヴィクターは苛立ちを隠しもせずに、アドニスへと剣呑な視線を向けた。
「一体何があった? 俺の元に連絡が来なかったのはわざとか?」
「ヴィクター。とりあえず、場所を変えよう。ここでその態度はまずいから。俺、一応これでも国王だから」
アドニスの言葉はもっともで、ヴィクターは黙るしかない。いったん、場所を国王の執務室へと移した。
人払いをすませて、ようやくアドニスが話し始める。
「ライアンが予定を早めて帰国したのは聞いたね?」
「ああ」
「そう。……うーん、どう説明したらいいのか。まず、今回の婚約の申し出は実はライアン個人の要望だったんだ。もちろん、ブーベン王国の後押しもあったんだけどね」
ライアンの様子から、そうではないかとは思っていた。ただ……それならば、なおのこと何故帰ったのかがわからない。まさか、ロベリアに手酷く振られたのだろうか。
残念ながらその予想はアドニスの次の言葉で否定される。
「でも、それはねライアンの理想が
「? 今までというのはどういう……」
「ヴィクターはロベリアの評判がどういうものか知ってる?」
アドニスに尋ねられ、ヴィクターは思案する。国民や国外での一般的なロベリアの評価を挙げる。
「『天真爛漫で、それでいて聡明な、まるで天使のような美少女』でしたか?」
言い慣れない言葉を口にして落ち着かないヴィクターの内心を見透かしているのか、アドニスは楽しそうに笑いながら頷いた。
「そう。彼の理想はまさに
ヴィクターは余計に困惑した。
「ライアン王子の理想が高すぎた……そういうことか?」
「いや……うーん。なんというか。これはね……俺の口からは言い辛いと言うか」
言葉を濁して、視線を彷徨わせる。はっきりと口にしないアドニスに、ヴィクターの顔が次第に険しくなっていく。アドニスは仕方がないかと頭をかいて、提案した。
「ロベリアの部屋に行ってきなよ。本人の口から聞いてくるのが一番早い。というか、俺が説明したところで、たぶん理解できないところが出てくると思うんだよね」
だから、さっさといけと片手を振る。もうこれ以上話すつもりはないというアドニスの仕草にヴィクターの顔が般若へと変わるが、すごんだところで、アドニスには効果がない。
ヴィクターはため息を吐き、形だけの挨拶をして部屋を出た。
ロベリアの部屋の扉をノックしようとして、ヴィクターは一度止まった。ここまで勢いできたものの、どんな顔をすればいいのかと迷ったのだ。けれど、引き返すという選択肢はない。『深く考える必要は無い。ライアン王子と何があったのか、それを確認するために来たのだ』————そう自分に言い聞かせて、勢いのまま扉をノックした。
「ロベリア、いるか?」
部屋の中からガタンと音が聞こえてきた。しばらくして、「ヴィクター?」と名前を呼ばれた。声がいつもより低い。泣いていたのだろうか。……ツキンと胸が痛んだ。
「ああ。俺だ。……入ってもいいか?」
「ダメ!」
秒で返されて、思わず握っていたドアノブから手を離した。今度は、ズキンズキンと心臓を刺すような痛みが走る。
「帰って……ヴィクターとはまだ会えない」
「では、いつならば会える? 顔を見せてくれるだけでいい。ダメか?」
ライアン王子との話を聞きにきたはずなのに、気が付けばそんな言葉が口から出ていた。
「っ……」
ロベリアが小さな声で何かを言ったようだが、扉越しでは上手く聞き取れない。もう一度言ってくれと頼もうとしたところで、部屋の中からくぐもった苦しげな声が聞こえてきた。気づいたら、扉を開けていた。
部屋の中をぐるりと見渡す。ロベリアの姿を視認できず、焦燥感に襲われる。
小さな呻き声が聞こえた。
入り口に背を向けている方のソファーに駆け寄り回り込む。ロベリアは目を閉じ、苦しそうに胸元を押さえ、横たわっていた。こめかみには脂汗が浮かんでいる。
慌てて医師を呼びに行こうとしたができなかった。ロベリアの手がヴィクターの服を掴んでいた。引き離して行くべきかと迷っているとロベリアがヴィクターの名を呼んだ。
医師を呼びに行くのは一旦諦め、少しでも楽になればと、ロベリアの頭を撫でる。閉じている瞼の隙間から涙がポロリと零れ落ちた。
「ごめんなさい。ごめんなさいヴィクター」
「ロベリア?」
睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。ロベリアの瞳にヴィクターが映った。心臓がドクンと大きな音を立てる。目の前にいるのは確かにロベリアのはずなのに、ヴィクターが知るロベリアとは違って見えた。子供らしさは隠れ、女性特有の色香がのぞいている。
喉がゴクリと鳴り、動揺している自分に気づいた。
「これで最後にするから。もう、やめるから」
「やめる、とは、何を?」
聞かなければいいのに、聞かずにはいられなかった。すでに意識が朦朧としているのだろう。ロベリアはヴィクターの手を取ると、己の頬に触れさせた。
「こうして甘えるのも、
そう言ってロベリアはヴィクターに手を伸ばして抱きついた。いつかと同じように胸元に頬を寄せる。ヴィクターも同じように頭を撫でようとした。そのつもりだったのだが、気づけばロベリアを抱き締めていた。ロベリアが息を呑むのが触れた身体越しに伝わってくる。それでも、ヴィクターは黙ってロベリアを抱きしめ続けた。
どのくらいそうしていたのだろうか。互いにそっと身体を離した。至近距離で目と目があう。目を閉じたのはどちらが先か……そんなことは気にも留めなかった。ただ、何かに導かれるようにロベリアに口付けた。
ゆっくりと唇を離す。後悔はない。むしろ、酷く満たされていた。
先に口を開いたのはロベリアだ。
「同情?」
そう思われても仕方がないと苦笑するが、少々心外でもあった。
「そんな理由で俺が好きでもない女に口づけると思うか?」
先程まで不安気に瞳を揺らしていたのに、今は顔を真っ赤に染めて唇を震わせている。
「そ、そんなこと言って……私が、責任をとって結婚してと言ったらどうするつもり?」
挑発的な言葉で誤魔化そうとしているが、『今ならまだ取り消せるよ』と言っているようにしか聞こえない。そんなロベリアがいじらしく見えて————余計に愛おしく思えた。
己の気持ちを自覚してしまえば、もうダメだった。ロベリアが他の誰かのモノになるなど到底許せそうもない。一瞬想像しただけでもドロドロとした独占欲が湧き出てくる。自分の中にこんな感情が存在していたのか…と驚くが、悪い気分ではない。
ロベリアが瞠目して俺の顔をジッと見てくる。……そんな顔すら可愛い。
「望むところだ。むしろいいのか? 年の差は十歳そこらじゃないんだぞ? 周囲には色々言われるだろうし、死ぬのだって確実に俺の方が…ん」
ロベリアの唇が一瞬重なって離れた。呆気に取られていると、ロベリアがクスクスと笑い声をもらす。その笑い方は
「そんなこと、六歳の時から理解していたわ……女はね、小さい時からすでに女なのよ?」
「……似ているのは見た目だけじゃなかったのか」
思わず呟くとロベリアの片眉がぴくりと上がる。どうやら、『父親と似ている』というのは禁句だったらしい。アドニスのショックを受けた顔が浮かび上がり、堪えきれず声に出して笑った。
ひとしきり笑った後我に返り、ロベリアの機嫌を損ねたのでは……と様子を伺う。
ロベリアはヴィクターを見て嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間、ヴィクターの心が温かいなにかに満たされた。
ヴィクターは立ち上がるとロベリアから距離を取った。急な行動にロベリアが驚いた表情を浮かべている。何も言わずロベリアの足元で片膝をつくと手を取った。ロベリアがハッとした表情へと変わる。
「今度は俺から言わせてくれ。ロベリア」
「は、はい」
ロベリアが緊張した様子で頷く。
「俺と結婚してほしい。俺の
ロベリアの目を真っすぐに見つめ告げ、手の甲にキスを落とした————瞬間、ロベリアが勢いよく抱き着いてきた。今にも泣きだしそうな声でロベリアが呟く。
「絶対、もう逃がさないんだから」
「それは俺のセリフだな」
決して逃がしはしないという意味も込めてきつく抱きしめた。
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