第8話 驚異の眼差し 2
空気も寒さで凍りつきそうな暗い闇の底で未だルシファーは眠っている。
「なんて美味しそうな果実なんでしょう。」
エヴァはたわわに実った真っ赤な林檎の一つに手を伸ばしながらルシファーに言った。
「駄目だ!」
ルシファーの大きな声に、今にも林檎に触れそうだったエヴァの手が止まる。
「其れは毒だから、果実が食べたいのなら私が旨い果実を探して来る。其まで大人しく待ってなさい。」
エヴァは美しく澄んだ目でルシファーを見詰め
「ありがとう。」
優しく微笑む。
「ルシファー、ルシファー。」
夢の中でエヴァの呼ぶ声が聞こえる。
暗黒の静けさの中、ルシファーの眉がピクリと動いた。
「お前それでも悪魔か!」
アンチョの罵声が部屋中に響き渡る。
「アンチョ様、で、でもこの武器は最高ですぜ、いや~人間も大したもんだなあ」
グズーはライフルを手に取りしげしげと眺めている。
「人間ごときの武器なんぞ使うんじゃねえぞ。自分の武器を使え!」
「えぇ~、俺の武器っすか?」
グズーは右腕を大きく左に振ると持ち手の長い三叉が手に現れた。
「どう考えても此れじゃ時代遅れで恥ずかしいっす。」
グズーはばつが悪そうに頭を掻いている。
「あぁ…他の奴等の武器もお前と同じなのか?」
アンチョはグズーの三叉を見てがっかりした様子を隠せない。
「勿論っす、俺ら下っ羽はルシファー様が此れで充分だろう、とか言って、確かにそうなんすけどね、へへへ…」
戦闘能力の少なさにアンチョは苛立ち
「お前ら三叉持って見張ってろ!ペキの記憶が無いのなら俺一人で充分だろ、全く!」
かじった林檎を捨ててアダムは走り出した。時々後ろを振り返ると薄ら笑いを浮かべてはひた走る。森を駆け抜けると野原の先に
薄雲が広がっている。アダムは野原の真ん中で立ち止まり、薄雲の彼方に向かって大きな声で叫んだ。
「神様~!神よ!大変です!」
神はゆっくり立ち上がり
「やれやれ、とんでもない事をしたものだ」
そう呟くと神は野原に降り立った。
「ルシファーがエヴァをそそのかして林檎を食べさせたんです!その後私にも無理やり林檎を…ルシファーは恐ろしい天使です。どうかルシファーを楽園から追放して下さい!」
「ほほう、其れはけしからんなあ、だが何故ルシファーはそなた達をそそのかしたのじゃ?」
アダムは少し考えて
「ルシファーは、エヴァが私を愛している事が気に入らないのです、だから腹を立て私達を落とし入れたんです。」
「ん?」
神は眉間にシワを寄せて考えた。
アダムは嘘という悪を既に持っていたのか?
「それでルシファーは何処へ行ったのだ!」
「私は此処です。」
ルシファーは、白銀に輝く誰よりも大きくしなやかな翼をゆっくり背中に納めながら、野原に降りた。
「ルシファーよ、何たることをしてくれたのだ!」
アダムはにやりと笑った。
「何故私を責めるのです。貴方は何でもご存じのはず。」
「いや、知らなんだ、お前とエヴァがそんなに愛し会っておるとは…迂闊であった。」
「互いを好きになることは極自然な事では無いですか、それなのに大罪を犯したアダムではなく私を責めると?」
神はため息を小さくついて
「そなたはエヴァの心を奪い、アダムに悪の種をばらまいた。此れが大罪で無くして何であろうか」
「其れは人間の弱き心のなし得るもの、私が犯した罪とは到底納得がいきません。」
ルシファーは整然と言った。
「分かっているであろう、人間は愚かで弱い生き物なのだ、そして私は何よりその人間を大事に思っている。」
「私を落とし入れ様とするアダムをかばうのであればエヴァを連れてこの楽園を去ります。」
「成らん!エヴァを連れて楽園を出ると言うならば堕天使となり北の果てへ追放じゃ!」
アダムの薄ら笑いが風に乗ってルシファーの耳に聞こえてくる。暗い闇の底、未だ眠り続けるルシファーの鼓動が怒りと共に大きく動き出した。
「あっ!パパの車だ!」
玄関先に止めてある車を見つけてオモチが嬉しそうに言うと、ペキとオモチはハイタッチをして家に入った。玄関のドアの開く音と同時にジンジャーの声が奥から聞こえてくる。
「急げ~、ウスおばさんがさっきから何度も電話してきてるぞ。」
ジンジャーは新しいシャツに着替えながら奥から出てきた。
「君達も着替えたら出発だ、其れからジャスは明日の準備は出来てるのか?」
「ああ、バッチリだ。」
ペキは満面の笑みを浮かべて言った。
出掛ける用意を済ませた三人は玄関を開けて外に出た。
「おやおや、お出掛けですか?」
大きく太ったスーツ姿のアンチョがゆっくりペキ達の方へ歩いて来る。アンチョの後ろにはグズーを含めた悪魔の数人がライフルを肩から提げて立っている。
ジンジャーは今まで見た事の無い異様な光景に立ちすくみ、
「君達、い、いったい何なんだ!」
珍しく声を荒げた。に立ちすくみ、
「君達、い、いったい何なんだ!」
珍しく声を荒げた。
「そう怖がる事ねえだろ。」
アンチョはニヤニヤしながら言った。
迫って来るアンチョの赤黒く吊り上がった目と大きな体に三人は恐怖を覚え後ずさりする。
「あんたに用はねえんだ。後ろのガキを此方に渡してくれたら其れでいいんだよ。」
そう言いながらアンチョはペキの方へ手を伸ばしたが、ジンジャーは咄嗟にペキを自分の後ろへ隠す様に追いやった。
「人違いじゃ無いのか、今から私達は出掛けるから、済まないが其処をどいてくれないか。」
「其れは出来ないなあ、今の内に始末しとかないと、こっちが危なくなるんでね」
ペキとジンジャーはアンチョの言ってる意味が解らず顔を見合わせた。
「俺、本当にあんたの事知らないんだ、俺があんたにひどい事したんなら謝るから。」
ペキは恐る恐るジンジャーの後ろから言った。
「謝る?」
アンチョは吹き出しそうになった。
「お前、欠片も覚えてねえんだな、完璧な戦士か、聞いて呆れるぜ。」
アンチョは苦笑した。
「完璧な戦士って?」
ペキは小さな声で呟く様に聞いたが、すかさず
「おっと、いけねえ、余計な事言っちまったな、さあこっちへこい!」
アンチョの長く伸びた爪がペキの服に触れると
「止めろ!」
ジンジャーはおもわずアンチョの手を払いのけた。
「止めろ?人間ごときが俺様に向かって止めろだと?」
そう言い終わる前に、鋭く伸びた硬い爪がジンジャーの喉を突き刺した。
「キャー!」
オモチが悲鳴を上げた。
ジンジャーの喉元からアンチョの指を伝って血が滴り落ちる。
「悪いなあ、あんたがさっさとガキを渡さねえからこうなるんだよ。」
そう言うとジンジャーを捨てる様に放り投げた。ペキはぼろ切れの様に投げ捨てられたジンジャーを見て呆然となった。
「ジンジャー…」
弱々しい声がペキの口からこぼれる。
「パパ!パパ!」
オモチの泣き叫ぶ声が遠くに聞こえる。
「ジンジャー、駄目だ。」
ペキはゆっくりジンジャーの側に歩み寄ると膝まずいてジンジャーの手を取った。
「ちょっと待ってろ、直ぐに救急車を呼ぶから。」
悪魔の笑う声が遠くに聞こえる。
「頑張ってくれ!お願いだ…」
ペキの目に涙が溢れてきた。
顔も服も血塗れになり横たわっているジンジャーを見ながら
「こんなの駄目だ、そうだろ、ジンジャー。」
ペキは声を出して泣いた。
「こんな事…駄目に決まってんだろうがー!」
ペキは叫んだ。
「ペキ。いやいやジャスだったな。へへへ、ペキよりジャスの方がいい名前じゃねえ、か…。」
アンチョの茶化す言葉が尻すぼみになる。
「お、おい…。」
ただならぬペキの殺気に、アンチョはゆっくり後ずさる。
「許さねえ。」
「ちょ、ちょっと待て!」
「お前の様な奴!絶対許さねえー!」
ペキは両方の腕をアンチョに向け、怒りの限りを手の平から爆発させた。
漆黒の羽根を広げたルシファー。ルシファーが攻撃を構えた先には…。
「ペキ!」
ペキと神の顔が重なる。
ルシファーの心臓がドクリと大きく動き、目が開いた。
暗い闇の底から、今まさにルシファーは目覚めた!
ペキの怒りは手のひらから真っ赤な炎となってアンチョの心臓を貫いた。
「ぐわぁぁ!!」
アンチョは一瞬にして塵となって消えた。其れを見た悪魔が、狼狽えながらも銃をペキ目掛けて一斉に撃つ。だが、ペキは銃口から放たれた弾を、煩わしい虫を払うようにしてあしらった。悪魔達は、ペキのその人成らざる仕草にたじろぐが、ペキは構わず、恐ろしい程静かに歩み寄った。そして弾も切れ、呆然とする悪魔の前に立ちはだかると、抵抗する間もなく両手で頭を掴み、ごく軽く、くるりと回した。ボキボキという音と共に悪魔は塵となる。
「チッ!やっぱ人間の武器じゃ役に立たねぇ!」
グズーは肩から提げていたライフルを捨て、あの三叉を出した。
「きぇ~!」
奇声を上げ三叉を振りかざしペキに向かって走る。
おもいっきり三叉を突き刺そうとしたが、ペキは高く飛び上がりグズーの喉元を蹴って降りた。よろめくグズーの腹を更に蹴ると仰向けに倒れたグズーに馬乗りになり拳で心臓を貫く、
「ぐぇ!」
グズーも一瞬で塵となった。其れを見た残りの悪魔は慌てて逃げて行く。
ペキは追いかけようとしたが、ガクリと膝の力が抜け、その場に座り込んでしまった。
暫く呆然自失となっていたが、ジンジャーを見て、抱き抱えると、大きな声で
「誰か!誰か救急車を呼んでくれ―!」
助けを求めた。
ルシファーはゆっくり立ち上がると、両手を胸元で合わせ、静かに回し始めた。暫くすると青い空気の塊が出来る。真っ暗な何処までも続く闇の中でルシファーの顔が青い光に照らされて浮かび上がる。
片手に青い空気の塊を持つと高く腕を挙げて力を込めて放り投げた。
ヒュウッと、空気を切る音と同時に、バリバリと音を立てて闇の壁が崩れ落ちた。ルシファーは眩しい光に晒されながらゆっくり地上へ降りる。ルシファーは漆黒の傷付いた羽根を背中から剥ぎ取ると、暫く辺りを見渡し、
「サルマンダー!」
ルシファーはサルマンダを呼んだ。
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