序章 黒い人物

 西せいれき二〇XX年、東京。

 けんそうが全身を包み込む。道行く人々が織り成す不規則な音が、東京駅の構内に満ちていた。

 その中で、とつじよとして聞き慣れた通知音が耳に飛び込んでくる。

 すぐさま、けいたい電話の画面に指をすべらせた。母からのメッセージだった。

 いわく、祖母の家に着いたら一度れんらくを入れてくれ、とのことだ。

 首に巻いたストールに口元をうずめ、私──こうさか飛鳥あすかは携帯電話から顔を上げる。

「結局、社会人になってから一度も会わないままだったな……」

 つぶやきはすぐにざつとうの中へ消えた。

 祖父のほうがもたらされたのが、先月のことだった。

 とんの中で、ねむるようにったと祖母から聞いている。


「若いもんがこんなところで何をしている! 若いんだから、こんな老いぼれの相手などしてないで遊べ遊べ! 人生はあっという間だぞ!」


 学生のころ、祖父母の家によく遊びに行った。そのたびに、祖父はそう言って顔をしかめた。

「そんなこと言ってぇ、さびしいくせに」

 寂しがり屋な癖に、そうやって照れかくしに強がるから「がんじじい」などと言われるのだ。

「ったく、口の減らない……だれに似たんだか」

「お母さんはおじいちゃんそっくりだって言うよ」

 言葉にまる祖父。そんな祖父をにやにやと笑いながら見つめ返す。

「よし、勝負!」

「受けて立つ!」

「夕飯までには決着つけなさいよぉー」

 祖母の声を背に、二人して争うように居間へ駆けむ。

 何も言い返せなくなった祖父が勝負をもちかけ、私が応じる。

 トランプ、しよう、テレビゲーム……内容はその時々で変わった。

 子どもの頃は私が勝負をける側だったのに、いつからかそれが逆転していた。

 勝敗は一進一退でなかなか決着がつかなかった。負けずぎらいの祖父と私は、どちらかの勝敗が決まるたびに相手へ再戦の申し込みをり返していたからだ。

「本当にきないわよね、二人とも」

 祖母があきれ顔でため息をつくのも毎度のことだ。

 月日がっても、私と祖父のやり取りは変わることがなかった。正直、高校に上がる頃にはそこまで勝敗にこだわってはいなかった。どちらもやめようと言い出さなかったから、続けていただけ。私だけでなく、祖父もこの勝負を通した交流が楽しかったのかもしれない。


「最後の勝負は囲碁だったっけ。結局、おじいちゃんの勝ちげか……」


 うるむ目元に手をやって、軽くんでした。

 携帯電話ケースのポケットにしのばせたお守りをでる。

「必勝がん」のお守り。就職祝いにもらった、祖父らしいおくり物だった。

「泣いているひまがあったらその分、前に進め。止まってちゃ、何もできんぞ」

 祖父のくちぐせだ。たとえおしばであっても、祖父は誰かの泣き顔を見ることを極度にきらっていた。だから、泣いたらダメだ。祖父と約束したではないか。

 その言葉に背を押されるように、電光けいばんに目を向ける。

 から立ち上がった。

「さて、そろそろホームに行くか」

 呟いて、自分に気合を入れた。荷物を持って、待合室を出る。

 目の前を真っ黒いひとかげが通った。

「えっ……?」

 私は思わずり向く。

 人影と呼んでみたが、その様相はあまりに異質だ。

 身長は私と同じくらいだろうか。それをえるほど長いりよううでに、全身から黒いもやが立ち上っている。

 そして何をおいても、文字通り「黒い」のだ。

 まるで子どもが絵の具で黒くりたくったような姿のソレは、人々が行きかう通路に何のまえれもなく現れた。長い両腕に比べ、細すぎるどうたいをふらふらと左右にらしている。

 黒い人影はたよりない足取りで、ひとみの中を彷徨さまよっていた。

 何? あれ……。

 思わず周囲を見回す。しかし、誰一人ひとりとして、その黒い人物に目を向ける様子がない。

 ハロウィンはもう終わった。何よりこんな混雑した東京駅で公然とあやしいかつこうをするなど、テレビ番組のドッキリすらかくしないだろう。

「まさかこのとしになってれいかんに目覚めたとか?」

 それこそ、ありえない話だ。ほおをつねる。つうに痛い。

 なんか……気味悪い。

 こんわくしつつも、とにかくかかわらない方がけんめいだろうと判断した。

 すぐに黒い人物から視線を外す。乗る予定の新幹線がとうちやくするホームをかくにんした。

「十六番線、か……」

 再び顔を上げると、目の前に黒い顔があった。

「──っ」

「ああ……見つけた」

 ひどくしわがれた声が言った。ソレは目も、口も、鼻もなく、どこまでものっぺりとしている。眼球の収まるべき場所に、ぽっかりと開いた穴だけがこちらに向けられていた。

 私は浅い呼吸を繰り返した。その異様な形相を、ただ見つめることしかできなかった。

 誰か、だれかっ……。

 心の中で何度も助けをう。しかし、人々は足早に私のわきをすりけていく。その場で立ち止まっているのは、私と黒い人物だけだった。さわがしいとさえ思った音が、波が引くように消えていく。世界からかくされているようなさつかくすら感じた。

 黒い人物が、小枝のような細い腕をばす。

 そのまま、私を指し示した。

「助けて……お願い──」

 黒い人物の言葉は、そこでれた。

 私が最後におくしているのは、耳をつんざばくはつ音と視界をおおこくえん

 そして、ほうらくしてきたてんじようが私へ覆いかぶさってくる光景だった。


 それが、私──「紅坂飛鳥」の、最後の記憶だった。

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