黒鷲は死なず

土田一八

第1話 長いナイフの夜

 1934年6月30日に日付が変わった夜。親衛隊(SS)による突撃隊(SA)粛清作戦が実行に移された。まず、深夜にバイエルンで粛清の火の手が上がった。それからベルリンでも白昼堂々の粛清作戦が開始されてベルリンのあちらこちらで異変が起こり怒声、銃声、悲鳴の3セットが街中にこだまする。尤も、この時の私は郊外のギムナジウムにいた為に知る由は無かったが。

 この日は土曜日でギムナジウムは午前中で終わり、無事二年次への進級も決まって明日からのバカンスで私は浮かれていた。

「さっさとトラックに乗れ‼」

「私達が何をしたと言うのよ‼」

「うるさい‼」

 パン!

 ドサッ。

 キャーッ‼

 トラムから降りてギムナジウムからの帰り道、武装した黒い制服を着たSSによって一家全員が無理矢理トラックに詰め込まれたり撃ち殺される場面を目撃した私は浮かれた気分などすぐに吹き飛んでしまい、全速力で走って自宅に向かった。私の父、カールは以前から反ナチスを公言していてホーエンツォレルン家で唯一ナチ党員となっていたアウグスト王子とは犬猿の仲であり父は事あるごとに愚痴をこぼしていた。何だか嫌な予感がする。私は家まで全力疾走をした。


 どうか、SS共がいませんように。


 次の角を曲がれば自宅のあるアパートだ。私は希望を強く持って角を曲がった。


 だが、その瞬間、その希望は儚く潰えた。さっきと同じ光景が飛び込んで来たのだ。私は全力疾走をして来た為に勢い余ってSS将校の背中にぶつかる。


 ドン。


 SS将校はよろけたがコケる事は無かった。SS将校はホルスターに手をやりながら振り返った。私の顔を見るとずれた制帽を直し。姿勢を正してニヤリと笑いこう言った。私はコケてしりもちをついたけれど。

「ほう。わざわざ全力疾走して来るとは、殊勝な事ですな。王女様」

 私はハアハア息を切らしていて喋れなかったから、睨んでやってようやく一言言えた。金髪碧眼で背が高くナチスが好む北欧人種的容貌を持つ男だった。その悪魔的な顔は一度見たら忘れる事は無いであろう。

「ラインハルト ハイドリヒ……」

「如何にも。私はラインハルト ハイドリヒ。誉れ高き王女様にお覚えて頂き恐悦至極に存じ上げます」

 ハイドリヒは悪魔的な笑みを浮かべて口上を述べキザな恰好をつけて挨拶をした。


 それから私は両親、妹と一緒に家畜の如くトラックに乗せられた。

「よし、お前達はコロムビア刑務所に行け。私は電話連絡をする」

「ヤボール」

 ハイドリヒはゲシュタポ本部にいるヒムラーに近くの公衆電話から電話連絡をした。

「ハロー?」

「閣下。ハイドリヒです。ノイエンブルク家の一家全員を収容しました」

「上手くいったか?」

「Ja」

「うむ。よくやった。これで何かと目障りなノイエンブルク家はオシマイだな。ホーエンツォレルン家の連中も、君主制を標榜する連中もこれでおとなしくなるだろう」

「Ja!私はこれから別の現場に向かいます」

「うむ。ご苦労」

 ヒムラーはハイドリヒの報告を受けて小躍りした。

「これで、皇帝気取り達も我々に楯突く事は無くなるだろう……アウグストの助言を聞いておいてよかった……」

 ヒムラーは背もたれに寄りかかって一息ついた。



 ドイツ航空省ゲーリング調査局。この日は朝からやけに忙しい日だった。次々と新しい報告が上がって来る。局長は書類にサインする手が中々休まらない。だが、次の書類に目を通した時、彼の動きは止まった。

(これはまずい)

 局長はすぐにプロイセン州首相官邸にいるゲーリングに専用電話をかけた。電話は夜遅い時間だったがすぐに通じた。

「閣下。直接報告したい事案があります」

「俺は今忙しい。用件があるならここで言え。これは盗聴されていないからな」

「分かりました。ノイエンブルク家にSSがを執行したようです」

「な、何だとっ⁉」

 ゲーリングは驚いて受話器を持ったまま立ち上がる。おかしい。リストは何度も確認した筈なのに…?後で追加したのか?それとも、別にリストが存在するのか?いずれにしろ、陰湿なヒムラーと姑息なハイドリヒならやりかねん。

「ダンケ!」

 ゲーリングは乱暴に電話を切ると、副官のボーデンシャッツを呼んだ。

「ボーデンシャッツ‼」

 ゲーリングに呼ばれたボーデンシャッツはすぐ執務室に現れた。

「ヤボール!」

「すぐに車の準備をしろ!急いでリヒターフェルデに向かう‼」

「ヤボール‼」

 慌てた様子で、早口で指示を出すゲーリングを見てボーデンシャッツはただ事ではないと感じ取った。


 プロイセン州首相官邸を出た時、車はゲーリングとボーデンシャッツが乗った車だけだったが、後から2台の大型乗用車が合流した。これはゲーリングが別途手配したSSの車だった。3台の車列は猛スピードでリヒターフェルデ士官学校に向かった。その間ゲーリングは一言も話さなかった。


 その頃、私達は夜になってから寿司詰め状態だったコロムビア刑務所から再びトラックに乗せられて移動していた。トラックは猛スピードで飛ばしたせいか、すぐに私達は降ろされた。

「全員降りろ‼」

 学校みたいな所だった。

「士官学校か……」

 父は呟いた。

 パパパーン‼

 すると、突然銃声が鳴り響く。ここで私達を銃殺する気なのだろう。

「さっさと歩け‼」

 私達は他の人達と一緒に処刑場に連行される。

 処刑場は射撃場だった。

「銃殺にはうってつけの場所だな……」

 父は歩きながら呟いた。


 射撃場では何人かずつのグループに分けられて銃殺されていた。


「着きましたが…?」

 運転手はゲーリングに困惑そうに尋ねる。校庭にはトラックが何台かヘッドライトの光によって映し出されている。

「処刑場は裏手の射撃練習場だ!そこまで行け‼」

「ヤボール!」

 3台の車列はスピードをあまり落とさず、そのまま裏手に向かう。


「次!並べ‼」

「お姉ちゃん‼」

 マルガレータが叫ぶ。両親と妹は列に並ばされた。

「お前はまだだ」

 SS将校が私を押しとどめる。私は家族と切り離された。

「フォイアー‼」

 パパパーン‼

 一列に並ばされると両親、妹は即座に銃殺された。目の前でバタバタと地面に倒れた。その時、車のヘッドライトが現れて私達の近くで3台の車は急ブレーキで停まった。そして先頭の車から太めの男が降りて走って行って銃殺隊指揮官の所に向かう。ゲーリングだった。

「銃殺、待て‼」

 ゲーリングは命令した。

「何事でありますか?ゲーリング閣下」

 銃殺隊指揮官はナチ党大物幹部の出現に驚く。ゲーリングは親衛隊員ではないが、形式的にとはいえゲシュタポ長官でもあり、ヒムラーやハイドリヒなどが霞んでしまう程の影響力を親衛隊に持っていた。

「銃殺リストを見せろ‼」

「申し訳ありません。リストは見せられません‼」

「黙れ‼お前は、いつ俺より偉くなったんだ‼」

 ゲーリングは怒号を銃殺隊指揮官に浴びせる。銃殺隊指揮官は仕方なく折り畳んだリストを左ポケットから取り出してゲーリングに手渡す。ゲーリングはリストを奪い取ると車のヘッドライトの明かりを頼りにいそいそとリストを調べる。

「シャイセ‼」

 リストにノイエンブルク家の名前を見つけたゲーリングは涙を流してうなだれた。

「ゲーリング‼」

 私はゲーリングの名を呼んだ。ゲーリングはすぐ私の声に気がついた。

「エミリア王女‼」

 そう叫ぶとゲーリングの顔はぱっと明るくなり、すぐさま私の所に走ってやって来た。

「殿下。カール王子は?」

 ゲーリングは私の手を取って質問する。私はゲーリングの手を振り解くと無言で指を差す。ゲーリングは振り返ってその方向に目をやると倒れている私の家族を見て愕然として叫んだ。

「シャイセ‼なんて事だ‼」

 ゲーリングは父の遺体に駆け寄って号泣した。


 それから、私は家族の遺体と一緒に一旦ゲーリングの邸宅である「カリンハル」に引き取られた。車中、ゲーリングは一言も発しなかったが、激怒している事だけはすぐに分かった。私も一言も喋らなかった。それは心も、頭の中も真っ白になっていたからだった。


 翌朝、といってもお昼近くだったが起きて身支度をする。メイドが新しい服を用意してくれた。今日から楽しいバカンスの筈だったが喪失感と失望感が交じり合って頭の中は真っ白だった。ゲーリングは留守でカリンハルにはメイドと警備の親衛隊員がいるだけだった。家族の棺は近くの教会に仮安置されるとの事で午前中に移動したとの事だった。午後、親衛隊員が運転する車でその教会に行って変わり果てた家族と改めて対面する。司祭によれば、明後日の午前中に埋葬するとの事だった。夕食は私一人で済ませる。ゲーリングは多忙らしく帰宅したのは私が寝てからだった。

 その次の日もゲーリングはいなかった。全く勤勉な男だ。私はする事も無かったし新聞すら無く状況も不明だった。そこでSS将校に自宅へ私物を取りに行きたいと言ったがアッサリと断られた。

「申し訳ございません。恐れながら、ゲーリング閣下の指示により敷地外に出る事は叶いません。どうかご理解ください」

 午後にヴィルヘルム皇太子からの使者がカリンハルにやって来た。この使者はヴェルヘルム皇太子家の家宰を務める人物で私も面識があった。

「恐れながら、カール王子、マリア王子妃、マルガレータ王女の葬儀に殿下並びに他のホーエンツォレルン家の方々のご出席は、ドイツ国内情勢の急変に伴い、叶わない事になりました。ただ、ホランドにいらっしゃる皇帝陛下からは皇帝陛下の名代として勅使が下向されます」

 これもアウグスト王子の差金だろう。しかし、父親であるヴィルヘルム二世には通じなかったようだが。

「ドイツ国内情勢の急変とは何か。説明して頂きたく存じます。何も情報が入って来ないので判断しかねます」

「はあ…しかし…」

 使者の歯切れが悪い。外のSSが気になるのだろう。

「ここは『カリンハル』ですよ?誰に遠慮がいるのですか?」

 私の圧力に屈した使者は小声でぼそぼそと話し始める。要約すると、今回の事件はヒンデンブルク大統領がSAの行状を問題視してヒトラーに圧力をかけた事が起因だった。ヒトラー自身はSAや党内の反対勢力の粛清だけを考えていたが、それにヒムラーとハイドリヒがSS及びナチ党の障害となりうる人物の一掃をついでに企てた、というものであった。そして、ゲーリング自身も加担していたが、明らかにやり過ぎなのでリストに修正を加えたものが実行された、と付け加えた。

「私達は漏れたって事?」

 私は声を荒げる。

「ゲーリングは、邪魔されぬよう後から計画的に付け加えられたようだと言っていました」

 使者はハンカチで汗を拭きながら答える。

「お飾りジジイが元凶か」

「お飾りとは……SA自体が元凶のようですぞ」

 絶句しながらも使者はそこだけ普通の声で喋った。SAの評判の悪さは私でも知っている。ヒンデンブルクがお飾りだと言うのは、ヒンデンブルクがでルーデンドルフがだったからであると父が評していたからである。さすがに第一次世界大戦の事は父の評価に頼らざるを得ない部分がある。

「……因みにお飾りとは単に父がそう言ってただけです」

「そうでしたか…」

 その後も私に根掘り葉掘り詰問されて散々情報を引き出された使者は年甲斐も無く這う這うの体でカリンハルから帰って行った。まあ、これでゲーリングを問い質す必要は無くなった。この点は彼に感謝しよう。使者から報告を聞かされた主人はどういう顔をするだろうか。

 夜になってゲーリングが帰宅し明日の葬儀について説明がなされる。その内容は「とっても簡単な葬儀」という事だけは即座に理解できた。


 葬儀の日。近くの教会で行われる。参列者は私、ヴィルヘルム二世から遣わされた勅使、ゲーリングだけだった。ヴィルヘルム皇太子家からは誰も来なかった。弔電はドイツ皇帝ヴェルムヘルム二世とデンマークにある母の実家からだけだった。


 私は父、母、マルガレータの順にサヨナラを言った。棺は隣接する墓地に埋葬された。


 もう、会えないのだ。



 それから翌々日、ゲーリングは夕方に帰宅し夕食を共にする。

「殿下。明朝五時に起きてください」

 とゲーリングは言った。


 翌朝五時に私は起きる。運転はいつもの運転手では無く、副官のボーデンシャッツが担当し、ゲーリングも同行する。朝食は車の中でサンドイッチで簡単に済ます。車が着いた所は私達家族が住んでいたアパートの前だった。

「じゃあ、行きましょう」

 ゲーリングが私を促す。私の後にゲーリング、ボーデンシャッツがついて来る。

「では王女様。お願いします」

 とはいえ、住んでいた部屋の玄関ドアは施錠されておらず、室内は荒らされて金目の物は無くなっていた。引き出しが全て引き出され転がっているタンスを見ると、私やマルガレータの服や下着まで無くなっていた。

「SSって貧乏性ね。女の子の下着まで没収したの?」

「ヒムラーの薄汚い趣味ですよ」

 ゲーリングは私の嫌味を笑って躱す。この男はそういう器量の持ち主だった。容貌こそは変わってしまったが、皇帝陛下に仕える帝国軍人としてのプライドは変わっていなかった。プロイセン王族である父が唯一認めた上官という事はある。子供部屋も荒らされていたが壁に造っておいた隠し棚は見つけられなかったようだった。私は壁紙を捲って書類一式を取り出す事に成功した。それをゲーリングに手渡す。

「あったわよ」

「お預かりします」

 ゲーリングは書類一式を大事そうに受け取ると、ボーデンシャッツに手渡してボーデンシャッツはカバンにしまう。父の書斎も調べてみるがこちらはもっとひどい有様だった。荒らされているどころか全くのがらんどうだったからだ。私は壁に手を当てて隠し棚があるか試してみたがここには無かった。

「では、出ましょうか」

「これだけは持って行きたいわね」

 居間の壁にノイエンブルク家の紋章である赤い盾に黒鷲が描かれた古びたペナントが無傷で残されていた。ドイツ国の紋章である黄色い盾を赤に変えただけのデザインではあるが、これはかつての領地であったノイエンブルクがスイスとの二重領だった為であったからだと聞いている。その後、ノイエンブルクはヌーシャテルとしてスイス領になって現在に至る。姓がノイエンブルク=プロイセンという二重姓なのは、プロイセンがノイエンブルク(ヌーシャテル)を治めていたという事実を後世に残す為だと父から教わっている。

 色褪せたペナントを見上げて動かない私を見たゲーリングはリビングで転がっていた椅子を二つ持って来て並べ、椅子の上に上がってポケットからナイフを取り出してペナントを丁寧に剥がす。剥がし終えるとゲーリングはペナントの汚れを手で払い、ペナントを軽く丸めて私にうやうやしく進呈してくれた。

「ダンケシェーン」

 ペナントを受け取った私はゲーリングに微笑んだ。「長いナイフの夜」事件以来、初めて私が微笑んだのでゲーリングは感激した。

「エミリア王女殿下。誉れ高き皇帝陛下に仕える帝国軍人としてお安い御用です」



 それからゲーリングは精力的に動き回って方々に手回しをしていた。私が霊導騎士候補だと知ってからはスイスにあるロットソルトオルデン本部と連絡を取り合っていた。通称ロットソルトはスイス・ベルンに本営を置く国際霊導騎士団で女性だけがそこの所属になれるのだ。日本時代に簡易検査は受けていたがスイスで正式検査を受ける事になったのだ。今はとにかくドイツを離れてスイスに入国する口実を作らなければならなかったが、当局を納得させられる口実はできた。私は「スイスでロットソルトオルデン入団試験を受ける」という表向きの理由でスイス大使館からビザの申請が降りた。ビザが降りた以上、私は一刻も早く出国したかったがゲーリングはとても慎重だった。

 

 土曜日、ゲーリングの副官ボーデンシャッツの指示でカリンハルを出てベルリン中央駅近くのホテルに泊まった。その夜にゲーリングと夕食を共にした。その後、部屋の前にまで送ってもらい別れの挨拶をした。

「エミリア殿下。明日スイスに向けて出発してもらいます。詳しい事は後程手紙にしたためておきます。殿下のご活躍を祈ってますよ」

「ダンケシェーン。父の戦友たる上官」

 その言葉を聞いたゲーリングは涙を浮かべた。


 第一次世界大戦当時、リヒトホーヘン大隊三代目指揮官だったヘルマン ウィリアム ゲーリング大尉と父であるヘルベルト カール フォン ノイエンブルク=プロイセン中尉は同じ列機で戦友だったのだ。そして、ゲーリングは部下でもある戦友達をとても大事にしていた。それはナチ党の幹部になってからも変わらなかった。



 日曜日、朝起きると手紙が二通ドアの下にあった。それを拾い上げて開封する。最初の封筒にはゲーリングからの手紙で、便箋数枚に渡って今後の指示が細々と書かれてあった。ベルリンからハノーファー経由ハンブルクまでの2等切符とハノーファーからバーゼル経由ベルンまで1等の切符も入っていた。二通目は、「手に負えない時に開封せよ」と書かれてあった。それから私は時間が来るまで一通目の手紙を熟読した。


 やがて、手紙で指示する時間になり、私は部屋を出てフロントに行きチエックアウトをする。

「チエックアウトをお願いします」

 私は鍵を差し出す。お金は持っていないが。手回しされている筈ではあるが、心臓が心なしかドキドキする。

「かしこまりました。代金は既にゲーリング様から頂いております。それから、こちらのお荷物をお渡しするように承っております」

 フロントマンはそう言って一般的な大きさのトランクを私に引き渡した。

「ダンケ」

 私はそれを受け取り、ベルリン中央駅に徒歩で向かった。手に提げると割と重い。


                                 つづく

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