第94話 神々の領分
ナギが部屋を辞した後、イシュトヴァーン王はワインを心地よさそうに飲み干し、忠実な宰相をみやった。
「パーマストンよ。相葉ナギをどう思う?」
「良い少年でございます。善良で優しい人柄と見受けました。それに欲得がない御仁です。あれほどの力を有しながら、あれほど高潔な人物は見たことがありません」
「うむ」
とイシュトヴァーン王は頷いた。
(予は相葉ナギを恐れるあまり、その性分を見誤っていたようだ)
とヘルベティア王国の国王は思った。
イシュトヴァーン王は相葉ナギ達と罪劫王バアルとの死闘を間近で見た。そして、相葉ナギとセドナの超人的な戦闘力を目の当たりにして畏怖した。それがイシュトヴァーン王の心を曇らせいた。
だが、相葉ナギと酒を酌み交わして、その人柄に接して先入観が消え去った。権勢も名誉も求めず、金すらも求めなかった。
何ら要求することがないとは予想外だ。薄汚い貴族どもと常日頃接しているせいで、性悪説に傾きすぎていたようだ。
「まさか、望むものが食材とはな」
イシュトヴァーン王が心地良く笑うと、パーマストン宰相もつられて笑った。清々しいナギの人柄に触れて二人の心は晴れていた。
相葉ナギが望んだのは意外なものだった。
「料理がしたいので食材を使わせて下さい。それと調理道具を頂ければ嬉しいです」
王と宰相はナギからこの要求を聴いた時、最初戸惑い、もう少しで笑い出す所だった。イシュトヴァーン王は微笑して、
「いくらでも、好きなだけ食材でも酒でも持って行ってくれ。調理道具が欲しいならそれも好きなだけ持って行くといい。必要ならば新品を買い与えよう」
と答えた。
イシュトヴァーン王とパーマストン宰相は数秒楽しげに笑うと、やがて真剣な顔で互いを見た。
「パンドラ王女殿下と相葉ナギ殿の婚約。正式に考慮されても宜しいのではないでしょうか?」
「うむ。予もそう思った」
パーマストン宰相の進言にイシュトヴァーン王は首肯した。考えてみればパンドラも、もう十歳になる。婚約者がいてもおかしくない年だ。あと五、六年すれば結婚することになる。
国内の貴族には愚物しかいない。かといって国外の王族に嫁がせるにしても、まともな王族の子息など数える程しかいない。
(ならばいっそ相葉ナギに嫁がせるのは妙策ではないか?)
イシュトヴァーン王は顎髭を撫でた。考えれば考える程、良い案だ。何よりパンドラ自身がナギを好いている。
愛しい愛娘を恋い焦がれる相手に嫁がせてやれるならそうしたい。既に救国の英雄としての名声もあり、伯爵の位階も授けた。功績も地位も釣り合う。
加えて来訪者というのも良い。国内外の貴族、王族に嫁ぐと政争の具にされる危険が常にともなうが、相葉ナギは来訪者であり、政治的に後押しする背後の勢力が皆無である。
何より、あの好ましい清廉な人柄が気に入った。会話するだけで、なんとも言えずに心地良い雰囲気になる。娘を嫁がせるなら、あのような好ましい性分の少年にしたい。
「パーマストンよ。仮にパンドラと相葉ナギが結婚すると王位はパンドラが継ぐことになるな」
「左様です。女王としてパンドラ殿下が即位し、相葉ナギ殿は大公として地位と権力をもたぬ存在として、パンドラ殿下を支えます」
「そして、相葉ナギとパンドラとの間に子供が産まれれば、王位を我が孫が継ぐ訳か……」
「はい。王家の血は永続することとなりましょう」
パーマストン宰相が恭しく低頭する。
「良いな。それは良い……」
「はい。正直もうしまして、国内外の慮外者がパンドラ殿下の夫となるよりも相葉ナギ殿のような清廉な御仁が大公となって頂ければ民も喜び、政治も上手く運ぶでしょう。幸いパンドラ殿下は政治的な才覚にすぐれた御方です。女王として君臨されれば我が国は安泰にございます」
「後はパンドラが相葉ナギに好まれるかどうかだな。無理矢理、結婚させることなど出来ぬし……。愛情が生まれるかどうかは、計算しようがないしのぅ……」
イシュトヴァーン王が少しだけ心配な顔になった。これだけはどうなるかは予想できない。イシュトヴァーン王がワイングラスを少し上げるとパーマストン宰相がワインを注いだ。
「若いお二人に愛が芽生えることを神々に祈りましょう。愛が生まれるか、それとも生まれざるか……。これは神々のみぞ知る領分にございます」
パーマストン宰相の言葉にイシュトヴァーン王は微笑で答え、ワイングラスを傾けた。
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