死にたくない、その理由
大学の教養科目で何を選択するかと問われたとき、重要なのはいかに講義が手抜きであり、かつ単位が取りやすいかどうかだ。
大学に入ったのは専門的な講義を受けるためなのだから、それ以外の科目なんてどうでもいい。
大半の学生はそう思っているに違いない。
ボクが受けているこの世界史もそんな学生たちが集まる講義のうちの一つだ。
まじめに講義を受けている学生なんて、百人は存在する教室の中で一人いるかどうかも怪しい。
寝ている者。
友人とのお喋りに興じている者。
ゲームをしている者。
内職をしている者。
出席の必要がなければ、この教室の人口密度は半分以下になっていたことだろう。
教師もそんな空気を理解しているのか、その教鞭にもあまりやる気を感じられない。
「はぁ……」
溜息は講義のつまらなさではなく、ボクが抱えている問題に対して漏れた。
死にたくない理由。
それは裏返せば生きていたい理由だ。
人は何のために生きているのか。
それは未だ答えが確立されていない命題であり、二十年弱しか生きていないボクに解明できるわけもない。
(生きてる理由なんて、死にたくないから生きているに決まってるじゃんか……)
死にたくないから生きている。
しかし、死にたくない理由は明確な言葉にはできない。
死の瞬間の苦痛を除去し、死後の願いを叶えると言われても尚、ボクは漠然と死にたくないと思っていている。
死を忌避することは生物の本能だろう。
生物は死を忌避するように遺伝子にプログラムされている。
だからボクは理由もわからないままに死を漠然と恐れ、その理由に頭を悩ませているのかもしれない。
ということは、死にたくない理由には生物としての役割が関わっていると考えられないだろうか。
生物の役割。
まず思いつくのは種の存続だ。
自らの遺伝子を残し、種を永く繁栄させるために本能として死を恐れるようにできている。
つまり、ボクは童貞だから死を恐れているということだ。
「……」
今の結論は忘れよう。
この世には未婚で自死した人も多いし、何よりそれだけが理由なら子を育て終えた人間はみんな死ぬべきということになる。
他の理由。
種の為ではなく、ボク自身の為の理由。
ふと手元のプリントに視線を落とすと、そこには世界中の偉人の顔写真が載っていた。
写真の隣には成した偉業の数々が載っており、細かい字でびっしりとその詳細を説明している。
この偉人たちはきっと生を謳歌したのだろう。
何かに熱中して、苦悩して、努力して、生き抜いた。
だからこうして後世に顔とその生涯が伝わっている。
そしてその逆に、後世に顔も名前も残らない、生きた証も存在しない人も数多くいる。
記録がなく、生きていたことすら忘れられ、生まれなくても世界に影響がなかっただろう人間。
そちら側にはなりたくはないという思いはある。
誰だってそうだろう。
生きてきたことをなかったことにはしたくない。
ボクが死にたくない理由はこれなのだろうか。
まだ何も成し遂げていないから、死にたくないと思っているのだろうか。
教科書に残るとまではいかなくても、何かを成し遂げたいという願望があるからだろうか。
では、その願望とはなんなのか。
「……」
子供の頃は野球選手になりたかった。
だからといって幼少のボクは練習に励むこともせず、その夢もいつのまにかなくなっていた。
今からその夢を叶えるというのは無理だろう。
時間も足りないし、なによりもう熱意が無くなってしまっている。
そう、熱意だ。
ボクには何かをやろうという熱意が欠けている。
だから、死ね神からの問いにも答えることが出来ない。
これをしていないから、あれをやり遂げていないから死ねないと答えられない。
ボクはこの一生を捧げてでも成し遂げたいことを見つけるべきなのかもしれない。
(……それで簡単に見つかるなら苦労しないよな)
ボクだけじゃない。
この教室だけでなく、この大学の中を探し回ってもそんな熱意のある学生なんて簡単には見つからないだろう。
今時の大学生なんてそんなものだ。
大学に通っているのは大卒という肩書きが欲しいから。
サークル活動や研究に心血を注げる人間は一握りだけ。
この教室の惨状を見ればそんなことは一目瞭然だ。
死にたくないから生きている。
それが今の若者のトレンドなのだ。
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