魔法に憧れる少年の始まりの物語

甲斐瞳子

「なんでだよ!」

「17ページからもう一度お願いします」

「だからそこは出来てるってば!」


 テラスから、和やかな会話というにはあまりに耳障りの悪い言葉が聞こえてきて私はこめかみをそっと押さえた。……いつものことではあるのだけれど。

 もうしばらくしたら、どうせ私が仲裁のため二人の間に入らなくてはならない。このあとの何度も繰り返した展開を思って私はため息をつく。


「もう一度始めからです」

「出来てるってば!」

「ならば簡単でしょう?」

「早く次の段落に行きたいんだって!」

「こちらが終わりましたら」


 我が主であるクロード様は、それはそれはとても優秀な方だ。まだ若干十四歳ながら、王都最高教育機関の入学試験に最年少で合格し、それどころか既に全課程修了している。在学中に同年代のコネクションを作るという意味合いもあるためまだ卒業こそしていないものの、創立から今に至るまで彼ほど優秀だった者は数えるほどしかいない。

 侯爵家に生まれた重責をものともせず学業剣舞の才を遺憾なく発揮し、現国王の覚えもめでたい。王太子の側近として迎え入れられる未来がほぼ確定している。

 そんな彼ではあるが、ただ一つだけ苦手分野がある。それが魔法学だ。いや、勿論今のこのご時勢、さほど魔法実技が重んじられる訳ではない。文明がある程度発達した現在、真水を出すことも、火を放つことも、氷を作ることも全て代替の方法なり品がある。それ故か魔力を持つ者も減り貴族の中でも半数程度しかいないし、その個人の魔力も時代とともに減ってきていると聞く。そもそも最も実用性のあると言われる魔法──攻撃魔法と回復魔法──はごく一部の高度魔法師以外は使うことすら難しいのだから、魔法学は知識と教養の範囲で嗜んでおけば問題ない。

 そもそも苦手と言っても人並み以上のことは出来るのだから、その表現も正確ではない。実技はA-評価だが座学ではA+であるし、課題で提出した小論文はその出来栄えが評価され王立魔法院の刊行する専門誌に載ったことすらある。しかしクロード様は、実技でのその小さな陰りすら自らに許さない。側近へと召し上げられるあと数年の間にと、様々なコネクションを駆使して王立魔法院へ家庭教師の手配を依頼した。とは言っても座学は完璧なので、残るのは実技のみ。そして今まさにテラスで行われているのが魔法実習の講義、のはずなのだが。


「だからそれじゃないって!」

「まずはこちらのページです」

「ああもう!」


 そろそろ止めに入ったほうがよさそうだと判断して、私は用意しておいたティーセットを手にテラスへと足を向けた。放置していたポットのお湯はだいぶぬるくなっているので、短い詠唱で熱湯へと戻す。……やはり魔法はそれなりには便利かもしれない。


「そろそろ休憩はいかがですか?」

「うるせぇメガネ!」

「ありがとうございます」


 返ってきた言葉に、そっとため息をついた。


「クロード様、これは眼鏡ではなくモノクルでございます。それから先程から随分とお言葉が乱れていらっしゃいますよ」


 苛立ちを抑え切れなかったのか、注意されると判っているはずなのに私にまで美しくない言葉遣いを浴びせてきたのはクロード様。これで世間には品行方正で通っているのだから噂というものの信憑性は知れているというものだ。そして丁寧なお辞儀とお礼の言葉をかけてくれたのは、クロード様とほぼ同年代の可愛らしい女の子。最年少で王立魔法院所属となった魔法師、それも高度魔法師のリーン様である。ちなみに王都最高教育機関の最年少卒業記録も持つ。


「だってさー!こいつが全然難易度上げねぇんだもん、俺出来るって言ってんのに」

「こいつではありません、リーン様はクロード様に教えに来てくださっている先生ですよ」

「教えてくれてねーし!」

「魔法実技は順番通り丁寧に行うことが上達への近道ですから」


 リーン様は、口の端に小さな笑みを浮かべたまま──ここに講師として来た当初からずっとこの表情だ──クロード様に向き直って言葉を発した。さっきからクロード様にだいぶ怒鳴られてウンザリしているのだろうと思うのだが、その表情が崩れることはない。そうは言ってもどうやら魔法に関するところだけは譲れないらしい、答える言葉の圧は若干強い。クロード様は気不味そうに目を逸らして、テーブルの上にある教本をパラパラとめくる。


「俺出来てたじゃん」

「あれはまだ完璧ではありません」

「出来てたよ!」

「とりあえずお茶に致しましょう」


 いつまでも続きそうな会話を無理やり抑え込んで、私はティーセットを少しだけ乱雑にテーブルに置いた。カチャン、という音にクロード様がちらりとこちらを見る。私の視線の意味を正確に理解し、それから左手を自らの髪に差し入れぐしゃぐしゃと意味もなく動かす。緩やかなカーブを描く金の髪が乱れ、そしてクロード様は小さく呟いた。


「……ごめん、先生」

「……いえ」


 二人は小さく互いに頭を下げる。内心リーン様は下げなくていいのではとも思うが、まあ今口にすることでもないだろう。

 私はお茶の準備をしながら、それぞれ違うところを見る二人を視線の端で捉える。少女は目の前に置かれたティーカップをす、と手に取ると、小さく香りを吸い込んだ。


 貴族出身ではない高度魔法師。クロード様と同じ十四歳という年齢は、この世界ではまだ子どもに分類される立場だ。身分、年齢ともにアドバンテージにはならない状況で、ここまで上り詰めるのには随分と苦労しただろう。何せ才能だけでは生きていけないのが貴族社会だ。その中で高度魔法師という、ある意味貴族よりも上の立ち位置を手に入れたのだから驚くしかない。そもそもこの落ち着きは十四歳のそれではない。我々の前では常に微笑みを浮かべ、クロード様にどんなに理不尽な文句を付けられても声を荒げることなく受け流す。貴族を相手にしているからゆえの行動なのか、あるいはこの世界で生きていくために身に着けた処世術なのかは判らないが、この可愛らしい外見とのギャップが空恐ろしく感じた。

 そんな表情が読めない人物であるがゆえに、正直リーン様がどう考えているのかは判らない。これだけ毎日怒鳴られているのに断りもせず来てくれるのは、魔法院から派遣されたという看板を背負った責任感か、それとも魔法を学びたいという向学心への使命感か。まあ少なくとも日頃の行動を思えばクロード様がいい感情を得られているとは思えない。ティーカップを持ったまま庭の花を眺める姿からはやはり何も読み取れないが。


 それに対し、我が主は判りやすすぎた。


 極々単純に言ってしまえば、拗ねている、その一言に尽きる。

 自分と同い年の少女、見た目はとても可愛らしい小動物のような娘。でありながら、既に魔法院に所属する折り紙つきの実力の持ち主であり、クロード様がどうしても欲しかった王都最高教育機関の最年少卒業記録を掻っ攫っていった人物。相手がそれを気にしていなさそうなところがまた癪に障るのだろう。クロード様自身が天才だなんだと誉めそやされて生きてきたからこそ、その自分より優秀だと認められる少女に対抗心を燃やしまくっているのは火を見るより明らかだ。それに付け加えて、恐らくではあるがクロード様は魔法に対する憧れが強いのだ。彼が幼い頃から、魔法師が活躍する物語を好んで読んでいたことを私は知っている。


 リーン様の、おろしたブルネットの髪が風で僅かにそよぐ。クロード様は教本に視線を固定したまま、横目でちらちらとその様子を窺う。憧れと、敵対心と、もろもろ整理しきれていない様は……何というか、子どもである。

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