耳に触れる

甲斐瞳子

耳に触れる

 初めてこんなに声を聞いたな、そんなことを思った。

 受話器の向こうから届くのは何となく思い込んでいたのとは随分違っていて、例えるならきっとシロクマが喋ったらこんな声だろうと思うような優しい、耳障りのいい音だった。


「……聞いてる?」

「あ、はい、ええと、すみません」


ま さか考えていたことを伝えるわけにも行かず、私は曖昧に返事をする。


「一応確認ね。明日は10時集合に変更。体育館で男女合同練習のあと、女子は校庭に場所変えるから、運動靴忘れないで。判った?」

「はい、わざわざありがとうございます」

「でも珍しいよね、スマホないとか」

「お手数かけてすみません」

「いや、それはいいんだけどさ。それじゃ」

 

 素っ気ない言葉とともにプツ、という音。あっ気なく電話は切れる。

 副部長というのはこういう連絡網も回さなきゃいけないんだなぁ、大変だなぁ、そんなことを思って。

 いや私以外はみんなメールかラインで済ませられるのか、と考えて。

 これはもしかしてとてもラッキーな特権なのではないか、ということに気が付いた。


 ◇


 あれから数回先輩から電話があった。

 内容は大体予定変更の連絡で、そのたびに私は先輩と少しだけ関係ないことを話す。


 今日の練習のときの先生、面白かったですね。

 明日って雨じゃないんですか?

 昨日のシュート、格好良かったですね。


 私の言葉に、先輩は律儀に返事をしてくれる。


 あれ、先生の口癖なんだよ。

 曇りに予報が変わったから、外練なんだってさ。

 ……そう?


 学校では滅多に話をしない。

 先輩はかなり無口な方らしくてそもそも同級生ともそこまで話し込んでいるのを見たことがないし、一年と三年、さらに人数が少なくて合同練習が多いとはいえ男子チームと女子チームだから、話す機会もない。それに無口なくせに信頼が厚いのか、先輩の周りにはいつも誰かがいて、話しかけるようなタイミングすらない。

 だから、この電話だけだ。

 私と先輩を繋ぐ、この古臭い家電。


 ◇


「親がダメっていうやつ?」

「何がですか?」


 さらに何度目かの電話で、ふいに先輩の方から伝達事項以外のことを初めて話してきた。

 先輩の方から話を振ってくることは想定外で、私は不意に暴れ出す心音が電話越しに聞こえないかと慌てながら、それでも何とか平静を装う。


「スマホ。みんな持ってるじゃん」


 ああ、ついにこの質問が来てしまったか。

 いつか言われるだろうとは思っていた。近いうちに買えるとは思ってるんですけど。入部届を出すときにそう答えたのは私だ。そのときは確かに買うつもりだったのだ。だけど。


「すみません、私だけ毎回電話とか面倒ですよね。買うつもりではあるんですけど」

「いや、……そういう意味ではないんだけど」


 いや、のあとに続いたほんの僅かな沈黙に、やっぱり面倒だったんだろうなと胸がきゅうとする。

 返す言葉が見当たらなくて、それでもとりあえず後輩としての正しいであろう言葉を早口で絞り出した。


「あの、連絡が大変だったら、誰か一年の女子にメールしてもらえれば私にも伝えてくれると思うんで大丈夫です」

「いや、だから」

「ありがとうございました、失礼します」


 勢いで通話ボタンを押す。

 そうなのだ、判っていたのだ、先輩にとってみれば、他はみんなメールで済むのに私にだけ電話しなくてはならないのはかなり面倒だっただろう。

 スマホは、言えばすぐに買って貰える。

 ただ私が聞いていたかっただけなのだ。

 ただ私が、先輩の声を聞いていたかったのだ。


 と、通話を切ったものの置く気にもなれなくて手にしたままの子機が、また鳴り出した。

 キッチンから、電話出てー!というお母さんの声が聞こえる。

 のろのろと通話ボタンを押す。

 耳に当てると、シロクマの声がした。


「面倒とかじゃなくて!ただ、もっと自由に、その、電話とかメールとか出来たらなって!」


 慌てる声は、少しだけガサガサとした乾いた声で、これもまた初めて聞く声だなと思う。


「……先輩、私以外が電話に出てたらどうするんですか」

「あ、……そうか、そう、だね」


 笑いが込み上げる。


「先輩、スマホ買っても電話してくれますか?」


〈了〉

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