パートカラー

甲斐瞳子

パートカラー

 私は、色をなくした。


 ◇ 


 芋虫になったわけでもなければ、誰かと入れ替わったわけでもない。

 ある朝目覚めた私を待っていたのは、モノクロの世界だった。


 カーテンの隙間からこぼれる光を感じた私は、時間を確認するためにスマートフォンに手を伸ばして触れる。

 6:55、と表示された文字は、いつもの明るい青ではなく、少し暗い灰色だ。

 まだ寝坊という時間ではないことに安堵して、だから次に頭に浮かんだのは、とうとうスマホが壊れたかな、というため息混じりの諦観だった。

 けれど、そのスマートフォンに触れる自分の指もまたグレイのコントラストで出来ていることに気付いて、初めて私はことの異常性に気付いた。

 スマートフォンは壊れていない。私の目が壊れたのだと理解した。


 眼科では、思うような結果は出なかった。

 異常はどこにも見つからず、検査結果を丁寧に説明してくれた先生はどこか少し気の毒そうに、心療内科への紹介状を書いてくれた。

 どうやら壊れてしまったのはスマートフォンでも目でもなく、私の心ということだったようだ。

 こういうことはたまにあるのよ、と落ち着いた声で言うカウンセラーと名乗った女の人は、なんの解決策を伝えることもないまま次回の予約の時間だけを私に教えてくれた。


 ◇


 思ったよりも、不便はなかった。

 チョークの色は少し判別しづらいけれど、古典の先生以外はあまり赤いチョークは使わなかったし、信号は色がよく判らなくても位置で判断出来る。

 親には一応話したけれど友達には何も伝えてなかったので、友人と放課後リップを買いに行ったときは少し困ったけれど、どれが似合うかな?と結局選んでもらうことで何となくごまかすことが出来た。

 強いて言えば、たまに会わなくてはならないカウンセラーが、思春期の心の揺れ、だの抑圧された何たら、だの無理やり引っ張り出してきたような大層な理由付けをしてくる無駄話に付き合わなくてはならないのが一番の不便だった。

 でも、それなりに気に入っていたのだ。退屈な私の人生には、モノクロくらいがちょうどいいのだと思っていたのだから。


 最初に気付いたのは、図書館にいるときだった。

 スマートフォンの電源を切る理由が欲しくて図書館に向かった私は、けれど特に読みたい本もなく、かと言って勉強する気にもなれず、雑誌コーナーの隅で手近な情報誌をペラペラとめくっていた。

 流行のアイテム紹介、芸能人のインタビュー記事、特集ページときて、街角スナップのようなページに差し掛かったところで、ふいにページの一部分だけが鮮烈な色を主張していることに私は気付いた。

 よくあるCM演出のように、モノクロ写真の一部だけが鮮やかな色を放つ。

 赤いハイカットのスニーカーだった。


 次にその出来事に遭遇したのは、学校の近くにあるパン屋さんだった。

 中に入ったわけではなく、ちょうど店の前を通りかかったときだった。自動ドアが開いて中から出てきたサラリーマン風のスーツの男性、その男性が首に巻くマフラー。

 無機質なモノクロの世界で異国の森を思わせる深い緑は、風になびいて柔らかく揺れた。


 太陽の光を吸い込んだような茶色味を帯びた髪。

 少しダメージのある、掠れた紺のジーンズ。

 錆びた鉄を思わせる、赤みがかった革のワンショルダーバッグ。


 あれから、ぽたりと落としたインクのように、視界の中に一箇所だけ鮮やかな色彩が混じる瞬間がたまに訪れるようになった。

 それは町中で遭遇することもあれば、テレビの中の風景で起こることもある。夢の中の混沌とした世界観、あるいは部屋の中のポスター。

 朝日の中で、眩しい日差しの中で、光そのものを吸い取っているかのような闇の中で、それは起きた。


 人が多いところはあまり好きではない。

 それが雨の日ともなればなおさらで、道行く人々の表情もどこか陰鬱としているように見えて、いつも薄暗いモノクロの世界がより陰影を増すように思えた。

服を買いに行こうと待ち合わせ場所を指定した友人は、まだ来ない。

 何もわざわざ人の溢れた街で買わなくてもいいのにと思うけれど、ここにしかないショップに行きたいのだと言われれば強く反対する気も起きなかった。今そのことを少し後悔している。視界を埋め尽くす傘の群れは、どれも灰色でうんざりとした。

 友人には悪いけれど場所を変えよう。

 そう思って振り返った視線の先に、それはあった。


 鮮やかな赤のハイカットスニーカー。

 深い森の色をしたマフラー。

 日の光を吸い込んだ茶色の髪。

 濃紺のジーンズはところどころダメージで色褪せている。

 錆色のワンショルダーバッグを肩にかけて。

 

 モノクロの世界で、その人はただ一人鮮やかに立っていた。

 一度も会ったことのない懐かしいその人は、きっと私がそうしているのと同じようにひどく驚いた顔をしている。

 何かを言おうとするけれど、言葉が出ない。

 きっと何か伝えなければいけないのに。

 と、ふいに視界の端が何かをとらえる。

 歩道の隅に咲いた、小さな白い花。黄色い花芯がゆらゆらと揺れている。

 その人もまた、私の視線を辿ったのかその花に気付き、少し考えるようにしてからその花に歩み寄ると茎の中程を手折った。

 

 近付いてくる花。目の前に差し出されたその花に少しだけ躊躇して、そして触れた瞬間。

 

 ぶわり、とまるで見えない何かが爆発したかのように色彩が広がった。

 色とりどりの傘の群れが、鮮やかな街並みが、その花から溢れるように広がって、モノクロの世界は突然に終わりを迎えた。

 

 ああ、そうか。


「おはよう」

「おはよう」


 私たちは、今目覚めたのだ。


〈了〉

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パートカラー 甲斐瞳子 @KAI_Toko

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