キャンバス

甲斐瞳子

キャンバス

 女の子でも落ちてこないかな、と空を見上げた。

 いや、本当に落ちてきても困るけれど。

 見上げた空にはいくつかの雲と、目に痛いほどの青と、そしてはるか上空を飛ぶ飛行機があるだけだった。


 暇だなぁ、そんなことを思う。

 もちろん、今は営業の真っ最中だし、会社に戻れば書類の束が待っているし、家に帰れば溜まった洗濯物と洗い物と部屋の埃を何とかしなければならないし、はっきり言って暇なんてどこにもない。

 けれど、暇だと感じてしまう。

 職業ではないけれど、職業には出来なかったけれど、職業病だな。そんな自虐的なことを考えて、可笑しくなって少しだけ笑った。


「何か面白いもの見えるんすか」


 不意に背中からかけられた声に、自分の肩が僅かに揺れるのを感じた。公園でサボっているところを見つかってしまったからか、それとも声の主のせいか。

 振り返れば、一年後輩の男。このそつがない後輩に既に営業成績を抜かされつつある僕は、あまりこの男が得意ではない。

 まあこうして営業中にサボっている時点で追い抜かされても当然であるわけなのだが。


「いや、何も。何だよ、お前もサボりか?」


 見れば、手にスターバックスのマグを持っている。自分の手元にあるマクドナルドの紙カップに目を落として、こんなところですら差が出てしまうんだなとまた笑いがこみ上げそうになった。


「人聞きが悪いこと言わないでください、休憩ですよ。先輩もそうでしょ?」


 ほら、こうやってさり気なく人のフォローまでするような奴なのだ。好きになれない。

 彼は、そのまま近付いてくると僕が座っているベンチのすぐ隣のベンチに腰掛けた。


「せっかく外回り向きの季節になったと思ったのに、今度はもう冬ですよ、秋短すぎますよね」

「営業の運命だよ、これで文句言ってるとあっという間に夏が来るんだ」

「恐ろしいこと言わないでください、去年の夏の暑さはちょっとキツ過ぎました」

「でもお前成績良かったじゃん」

「たまたまですよ」


 課長に表彰された売上成績をたまたまだとさらっと流して、彼はさっきまでの僕のように空を見上げた。


「女の子でも落ちてこないですかね」


 エスパーか。

 いや、誰もが思うようなよくある思考なのだろう。僕と同じことを考えたらしい男は、自分の発言が恥ずかしくなったのか誤魔化すように小さく笑った。


「落ちてきたらお前全速力で走れよ、俺絶対間に合わないから」

「ゆっくり落ちてくるから大丈夫じゃないすか?」

「間に合っても支えられる腕力もない」

「あ、それちょっと自信あります。オレ大学のときラグビーやってたんで。補欠ですけどね」


 どうでもいい呟きが笑い飛ばされなかったのが嬉しかったのか、彼はいい笑顔で力こぶを作ってみせた。

 ああ、言われてみれば如何にもそういうスポーツマンタイプだ。どこまで行っても人生の日向を歩き続けるタイプだ。


「俺の大学も、ラグビー有名だったな。全然交流はなかったけど」

「……先輩、オレの大学知ってます?」

「知らないけど」

「オレ、先輩の後輩ですよ。あ、今もですけど大学も」

「あ、……そうなんだ」


 じゃあ、さっきのは完全に謙遜じゃないか。僕の通っていた大学はラグビーの名門で、そこで活動していたのなら補欠だとしても相当な実力のはずだ。

 本当に嫌味なほどにそつがない奴だな。そんなことを思って、だからそのあとに彼が言い出した話がすぐには頭に入ってこなかった。


「先輩、ミス研でしたよね。会報、オレ毎号買ってたんですよ」

「……ん?」

「会報、一回人に借りて読んだら連載が気になっちゃって。だから買ってました」

「…………ん?」


 確かに僕はミス研、ミステリー研究会に所属していた。会報も出していたし、活動費のためにそれを外部に販売もしていた。

 それを、買っていた?

 この日向一直線の男が?日陰まっしぐらの出す会報を?

 しかも今連載と言わなかったか。当時、と言うよりもそこそこ長い会報の歴史の中で、連載という形を取ったのは後にも先にも一人だけだ。先輩たちに前例がないと怒られながら(物語を完結させるというトレーニングも兼ねていたからだ)それでも僕は、何とか連載をさせてもらっていた。そう、僕だ。


「先輩の、面白かったっす」


 屈託のない笑顔とともに落とされた爆弾に、どんな返事を返せばいいのかさっぱり判らなくて、僕はもう一度空を見上げた。


「だから、書き続けてくださいね」


 こいつ、どこまで知っているのだろう。

 この感じだと、僕が生意気にも休筆宣言(それでも断筆と言えないところが思い切りの悪いところだ)をした研究会OB主催のホームページも見ているに違いない。

 プロになることも出来ず、他に何の目的も見出すことも出来ず、こうやって燻っているしかない僕をすぐ近くで見ていたくせに。

 空にはいくつかの雲と、目に痛いほどの青と、そしてはるか上空を飛ぶ飛行機があるだけだ。

 他に何があるわけでもない。

 それでも。


「……休筆だからな、ネタが溜まったらまた考える」

「楽しみにしてます、堂入さん」

「ペンネームで呼ぶのやめろ!」


 もう暇ではない。

 目まぐるしく動き出す次のトリック。そのキャンバスに、何もない空はちょうどよかった。


〈了〉

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キャンバス 甲斐瞳子 @KAI_Toko

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