第4話 一学期、中間試験【前編】


 中間試験が終わった。中学生になったばかりだからか、やはり範囲は狭く内容も簡単で、授業中に勉強時間が取れたためにテスト勉強というものはしないで済んだ。テストの返却は各教科ごとで、採点ミスが無いかの確認が済んだ後に例の紙で成績が出た。


 天気の良い放課後。穏やかな日差しが教室に差し込む中、ホームルームで成績表が配られ、各々が部活動に行く前にひとしきり騒いだ。 

 私はそそくさと成績表をファイルにしまい込み、いつものように浮田うきたと部活動に行こうとした。浮田は私が鞄を担ぐ前に走ってきて言った。


「すみゃあ! 私二番になった!」

「良かったね」

「すみゃあは何番?」

「一番」

「あらら。霧島きりしまってば大変じゃん」


 私は立ち上がって鞄を担いだ。浮田はしっかりと手に鞄を持っており、「部活行こー」と言って鞄を肩に掛けなおした。

 私たちは部室へと歩きながら話した。体育の授業のスパルタの甲斐あって私も少しは体力がつき、三階までは話しながら上れるようになった。


「あいでんててーの崩壊ってやつだよ」

「どうだっていいでしょ。関わりもない」

「そーだけどさあ」


 四階に着くと、吹奏楽部が楽器を持ってそれぞれの教室に向かっていくところだった。ピーピーとマウスピースを鳴らしている生徒もいてうるさい。

 騒音から逃れるように部室に行こうとした時、「住谷すみたにさん! 浮田さん!」という声が聞こえた。振り返ると、吹奏楽部の中に混じっていた白木がこちらに気付いたようで、先輩らしき生徒に着いていきながら手を振っているところだった。私は掌を見せるように手を上げ、浮田は軽く手を振った。


 白木はこの一か月と少しで私たちにかなり接近していた。朝は会いに来なくなったが、昼休みや、部活動前のタイミングを狙って話しかけてくる。何がそんなに気に入っているのかは知らない。しかし、浮田という前例もあるため、彼女もきっとその類なのだろう。はてさて人の好みの理由は私にはわからない


 すぐにどこかへと行った白木を見届けて私たちは部室に向かった。今日は天気が良いから絵を描くには適していない。しかし、私は日の差し込んだ光景も単純に好んでいた。

 技量はまだまだ毛の生えた素人だが、見る目は確実に出来てきている。世界は前よりも解像度を増した。そして美しいものも増えた。さらには、美しくない物の価値もわかるようになった。それはとても素晴らしいことだった。


「白木も良くやるもんだね」


 浮田が薄く笑いながら言うのを私は隣から見上げた。浮田は白木への考え方を変えた。前の排他的な態度は鳴りを潜め、白木がそこにいることを許容するようになった。

 私は白木よりも浮田の変化の方に関心があった。精神的に成長したのかとも考え、私も変わるべきかと思った時もあった。しかし、どうやら浮田は私が白木のことをまるで気にかけていないのを見ていたようだった。つまり彼女は、白木が私を奪い得る存在ではないと見なしたということだ。私はほっとして自分の変化を急がなくなった。


「結局あいつ、何が目的なんだろう」

「えー? なんだろ。学年ツートップと仲良くしたいとか?」

「……そんなに嬉しかったの」

「まあね」


 浮田はにやにやしながら軽やかな足取りで部室まで走っていき、ドアをガラッと開けた。


「こんにちはー!」

「こんにちは! 元気だねえ。良いことあった?」


 先に来ていたもり先輩が挨拶を返した。私も浮田に続いて部室に入ってドアを閉めた。部室にはまだ森先輩しか来ていなかった。


「こんにちは」

「住谷ちゃんもこんにちは。何かあったの?」

「中間の成績が出ました」


 げえ、とでもいうような表情をした森先輩は、一転して訝し気な顔になった。本当に感情のわかりやすい人だ。私と浮田はテーブルの上に鞄を置き、画材の準備を始めていた。

 森先輩は椅子ごとぐるっと回って尋ねた。


「それで喜ぶって……もしかして浮田ちゃん、頭良いの?」

「学年二番でした!」

「らしいですよ」

「うっわあ。すご」


 少し引いたような様子を見せながら森先輩はキャンパスに向き直った。




 森先輩は以前まで写真を撮っていたらしい。そして、誰かの才能に心をやられて絵の方に転向したのだと言っていた。

 彼女は物の輪郭を捉えるのが上手かった。パースの取り方も流石写真を撮っていただけあり、有象無象とは段違いであると素人目にもわかるほどだった。しかし、絵の腕前に関してはまだまだで、むしろその目に手の技術が追い付いていな分だけおかしな作品が出来上がっていた。

 それでも、彼女はまったくそのことを気にしていなかった。曰く、「絵の道に進むつもりなんてないんだからさ」と。


 一体誰が森先輩の心を折ったのかは知りえないことだ。彼女が撮ったという写真を見せてもらった時、私はお世辞でなく素敵だと思った。しかし、きっと彼女はそれを圧倒する才能を見てしまったのだろう。何かを極めようと思ったことなど無かったが、真剣であればあるほどその瞬間はより大きな絶望をもたらすということは想像に易かった。



「こんにちは」


 部室に新しく部員がやってきた。彼は佐々良ささら。私や浮田と同じ一年生で、例の絵画教室に通っていた人だ。彼はこんな普通の中学校にいるのが信じられないくらい絵が上手い。さらに、白木と同じ小学校に通っていたらしく、そこでは学年トップの成績だったそうだ。とはいえ、白木の小学校は人数が少ないため成績については参考にならない。しかし、成績などどうでもいいと言ってしまえるほどに彼の絵は才能に満ちていた。


「ああ、佐々良くん。こんにちは」


 森先輩は思うところがあるようで、彼に対してだけは少し愛想が悪い。私の記憶が確かであれば彼の絵を見てから態度が変わったはずだ。何となくだけれど、私にもその気持ちがわかるような気がした。


「佐々良くん、ちわあ」

「こんにちは」


 浮田と私も挨拶すると佐々良は軽く頭を下げて、自分のスペースまでさっさと歩いて行った。彼の目に見える欠点を上げるとするなら社交性の乏しさだろうか。しかしながら、社交性に関しては私の言えたところではないし、それさえ才能を際立たせるのに一役買っていると思えば欠点にはなりえないのかもしれない。


 あ、と掠れた声が聞こえて私は佐々良の方を向いた。彼の声のように思われたのだ。彼がぎこちなく私を見たので首をかしげると、浮田も私たちの様子に気付いたようだった。


「佐々良くんどうかした?」

「……白木さん、が……」

「白木?」


 意外な名前に私は思わずオウム返しした。佐々良から白木の名が出たことは今まで無かった。一学年に一クラスしかないような彼らの小学校では、同じ学年で知り合いでないことの方が難しいだろう。しかし、仲良くなるかどうかは別だ。だからこそ、佐々良の口から白木の話題が出なくともおかしいとは思わなかったのだ。

 それが今、なぜこのタイミングで。


「関わりあったんだ」


 誰に伝えるつもりもなく呟いた。白木は態度も才能もぱっとしないが、佐々良は確実に才能ある人間だ。外野があれこれと言うべきではないにしろ、関わる必要もないと思う。しかも、白木は行動力があるだけで社交的というわけではない。どう交われば他者に話すような話題が生まれるのか見当がつかなかった。


 発話を促すわけでもない私に代わり、浮田が佐々良の相手をするように言った。


「白木さんがどうかしたの? 佐々木くんが白木さんの話するなんて初めてじゃん」

「いや、そんな大したことじゃなくて……」


 佐々良が何かを話そうとした時、部室のドアがガラリと開けられた。一年生は私たち三人だけであるため顧問か先輩であることが確定している。社交辞令としての挨拶は教育されていた。

 ドアを開けたのは部長だった。その背後には同じく三年生の三人がいた。私たちはそろって挨拶をして、彼らも応えるように挨拶をした。これでレギュラーメンバーは全員だった。

 そこまで広くない部室に八人が入ると人口密度は高くなる。狭いと感じるほどではないが、常に誰かの存在を認識する程度だ。個人的な話をするのははばかられる。


「後でいいよ」


 そう言うと佐々良はこくんと頷いてキャンバスに向き合った。彼のスペースはすぐに制作に取りかかれるよう準備されていた。

 浮田はちらりとこちらを見て、物言いたげな様子で椅子に座った。大方私が佐々良と話すことに気を悪くしたのだろう。どうでもいい。

 かく言う私は油が切れていることに気付いて備品を取りに向かった。そして、佐々良の側を通る際にそのキャンバスを見た。




 100号のキャンバス。部員の中でもひときわ大きく存在感のあるそれは一面に黒が塗られている。

 彼はこれまで10号の下描きを何枚か描いていたが、そのどれも一旦真っ黒に塗り潰してから描き始めていた。それは顧問に習った油絵の描き方のどれとも異なっていた。絵画の技法には詳しくないため、疑問に思った私は彼に尋ねたことがある。


「何で真っ黒にするの」

「……描き方は色々ある、けど。こうした方が……なんていうか、光が見えやすい」

「目を閉じた方が想像しやすい、みたいな?」

「そう、そうかも」

「へえ」


 黒の上にパレットナイフで色を乗せていく様は、絵と関係のない人生を送ってきた身には魔法のように思われた。黒と、黄と、青と……そうやって足されていった色がいつの間にか輪郭を表し、形をつくり、光となって、意味を帯びる。乱雑に置かれたように見えた色は全体を構成する精確な一部としてはたらき、無駄と思われた細部のこだわりも完成度を高める要因になっていた。


 天才、と結論付けていいのか迷った。私が知らないだけで、彼の描き方にはたくさんの経験と技術が詰まっている。もしかすると、練習すれば同じように素晴らしい作品をつくれるようになるのかもしれない。天才と呼ぶのは彼の努力を軽んじることになるのかもしれない。私にはまだ、彼がただの才能ある努力家なのか、生粋の天才なのか、判断をつけられないでいた。


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