六月に

甲斐瞳子

forget me not

 雨は嫌いだったはずなのに、傘の端から落ちる水滴がなぜか気になって、どこか愉快な気持ちのまま眺めていた。

 強い雨ではない。霧雨に近いそれは、ゆっくりと集まってぽたり、ぽたり、音を立てて落ちていく。


 ……音?


 水滴の行方を見れば、さっき手渡されたばかりの小さな花束。綺麗にラッピングされたそれが、水を弾く音源だった。

 濡れてしまう、と頭の一部が冷静に考える。けれどこの音を止めてしまうのは惜しいと思う感情に抗えずに、むしろ傘の端に近付けるようにして私はまた水滴を見つめる。また一滴落ちて、ふわり、と優しく香った気がした。

 衣替えはしたけれどまだ肌寒いこんな日に、雨の中にいるなんてどうかしている。さっさと帰らないとまたローファーの中まで濡らしてお母さんに怒られてしまう。

 ぽたり、ぽたり、透明な滴が、薄い青を滲ませる。


 どうして私にこの花を渡したのだろう。

 どうして今だったのだろう。

 どうして何も言わなかったのだろう。

 いくつかの滴が、ぽたり、ぽたり。



 ◇



「この曲、なんだっけ」

「えー知らない」

「かなり古いヤツなんだけど。あー思い出せない」


 通りすがりの学生たちが、眉を顰めながらも楽しそうに通り過ぎていく。

 商店街にかかるのは懐メロばかりで、だから親の影響で知っていたりするのかも知れない。

 ふと呼び止めて、曲名を伝えたくなる。それでも突然知らないおぱさんが話しかけては怪訝な顔ではぁ?と言われてしまう気がして、私はそのまま歩き続けた。


 今でも、忘れられない。

 あのぽたりぽたりと落ちた滴は、私の中で今でも不意によみがえる。


 夕方の止みそうな雨

 突然にどこかから香る優しい匂い

 街中で流れる同じ名前の曲

 キッチンのシンクに置きっぱなしのお皿に落ちる水滴

 テレビの中に広がる広大な海のその色


 私にあの花束を渡した人は、どうしてしまったのか知らない。誰かに聞くのも違う気がして、卒業式にいなかった理由も結局知らないままだ。

 あれから何度も手にする機会はあったけれど、人生で初めて貰った花束は、あの薄い青。

 あのときの風景とともに、私の中にある。


 忘れないで、そうお願いされたから。今でも忘れていないよ。


〈了〉

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六月に 甲斐瞳子 @KAI_Toko

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