オカリナの聖女

秋空夕子

第1話

 ある一人の娘が死んだ。


 彼女の名はリュミエル。


 オカリナの聖女と謳われた娘であった。


 棺に横たわる彼女の顔はとても穏やかで今にも起きだしそうだが、それが叶わぬことはその冷たくなった体温が教える。


 リュミエルの死の報せを聞き、彼女が暮らした村の人間は勿論、村から遠く離れた町に住む者達も多くの人が駆けつけ、そして皆、涙を流して悲しんだ。


 その中で、村の若い神父は棺に近づき、小さな声で囁く。


「リュミエル、君の願いは確かに果たされた」


 人々を助けたいと健気に願った少女。その切なる願いは叶い、多くの命は救われた。


 で、あれば後は……


「約束を、守らねばね」


 その言葉は誰の耳にも届かなかった。








■■■




<一年前>






 リュミエルは村全体が見渡せる小高い丘に向かっていた。


 夕飯の支度にとりかかる前に少しの間だけそこでオカリナを吹くのが彼女の日課だった。


 太陽が傾き、茜色に染まる村の情景は見る人の郷愁を誘う。そんな美しい景色を眺めながらリュミエルはオカリナに息を吹き込む。


 オカリナから奏でられるのは素朴ながら、聞く人の心を洗うような音色。


 それを気の赴くまま演奏していく。


 人前で披露したことはなかった。技術も旋律も独学のもので聞かせる程の技量ではないと思っていたからだ。


 やがて演奏を止めたリュミエルがオカリナから口を離す。


 家に帰ろうとした彼女だったが、その耳に突然拍手が聞こえた。


「見事な演奏でしたよ、リュミエルさん」


「マルバス神父! いつからそこに!?」


 そこにいたのは昔から村にいた老神父が病死した為にその後任としてやってきた神父のマルバスであった。


「偶然君の姿を見かけて挨拶しようと思ったのですが、あまりに綺麗な演奏で聞き入ってしまいました」


「そ、そうですか。でも、誰かが聞いてると知っていればもっとちゃんとした曲を選んだのに」


「いいえ、実に素晴らしい曲でしたよ」


「ありがとうございます……嬉しいです」


 マルバスの賛辞にリュミエルの頬がほんのり色づく。


 若くも聡明で、優しく穏やか。人々の悩みや懺悔にも真摯に向き合う彼にリュミエルはほのかな想いを寄せていた。


「そろそろ暗くなりますし、帰りましょう。送りますよ」


「はい、ありがとうございます」


 並んで歩く道すがら、リュミエルはマルバスの顔を盗み見る。


 黄金に輝く髪と瞳。リュミエルの父より高く、真っ直ぐに伸びた背筋。そして隣にいる自分を気遣っているのだろう、小さくなっている歩幅。


 どれもが彼女の胸を高鳴らせる。


 彼は神父だ。この恋が叶うことはない。


 リュミエルもそれはわかっている。だから告白するつもりはないし、いつかはこの想いを消さなくてはと思っている。


 けど、今はまだ、この甘くも切ない恋に浸っていたかった。




「それでは、私はここで。おやすみなさい」


「はい、おやすみなさい、マルバス神父」


 リュミエルを家の前まで送ると、マルバスは別れを告げ帰っていく。


 暗がりに消えていく背中を名残惜しげに眺めてから、リュミエルは家の中に戻る。


「ただいま」


「あ、お姉ちゃん、おかえり! ごはんは?」


「ああ、ごめんね。すぐ用意するから」


「おなかへったよー、早くー」


 空腹を訴える妹のマルタに急かされ、リュミエルは早速調理に取り掛かる。


 リュミエルの家は父と妹の三人暮らし。母は元々体の弱い人で、マルタを産んで一年後に亡くなってしまった。


 それ以来、家のことはリュミエルがやっている。


「ただいまー、いい匂いだな」


「あ、おかえりなさい、お父さん」


 仕事から帰ってきた父親に出来たばかりのシチューを出し、三人一緒に食事をとる。


「あ、これおいしいー」


「そうだな。リュミエル、また腕を上げたな」


「本当? ふふ、ありがとう」


 どこにでもある普通の光景。ありきたりで平凡で何一つ特別なことなどない生活。


 けれど、リュミエルは今の生活に満足していた。


 そして、いつまでもこんな風に家族と暮らせるのだと、疑っていなかった。




「ごほ、ごほっ」


「お父さん、大丈夫?」


 食事も終わり、ゆっくりしていると父親が咳き込みだした。


「ん? ああ、ちょっと疲れが出たんだろう。ゆっくり休めば大丈夫だ」


「でも、最近多くない? 無理しないでね」


「ああ、わかっているよ」


 心配するリュミエルを安心させるように微笑む父。


 いつかリュミエルはこの日を振り返ってこう思う。


 この時、父を無理矢理にでも医者に連れていけば何かが変わっていただろうか、と。








 父の体調はその後、日に日に悪化して、ついには高熱を出して倒れてしまった。


 急いで医者に診てもらったが、伝えられたのは残酷な現実だった。


「残念ながら、お父様はもう……」


「うそ……どうにか、どうにかならないんですか?」


「……申し訳ないが、私にはもうどうすることもできません」


「そん、な…………」


 沈痛な面持ちの医者にリュミエルは目の前が真っ暗になる。


 恐らくあと数日が峠になるでしょう。そう言い残して医者は帰っていった。


「お姉ちゃん、お父さんはいつよくなるの?」


 看病の為、父の寝室にいたマルタが不安げな様子でリュミエルに問いかける。


「…………大丈夫よ。きっとよくなるって……」


 その言葉はただのその場しのぎでしかない。


 しかし、まだ幼い妹にどうしても真実を話すことはできなかった。


「そうなの! よかった!」


 きらきらとはじけるような笑顔。


 それがもうすぐ涙で濡れると思うとリュミエルの胸は突き刺されたように痛んだ。


「マルタ、お父さんを見ててくれてありがとうね。夜は私がやっておくから」


「え、でも……」


「大丈夫よ。だから、おやすみ」


「うん、おやすみなさい。お姉ちゃん」




 父の額に絞ったタオルを乗せて、リュミエルは椅子に腰掛けた。


(お父さんが、死ぬ…………)


 今も目の前で呼吸が荒く苦しそうにしている父。母を亡くしてリュミエルが料理を覚えるまで慣れない料理を四苦八苦しながら作ってくれた父。たまに深酒すると、いつか娘達が嫁に行ってしまうと嘆きながらも孫が楽しみだとこぼしていた父。


 その命が、もうすぐ失われる。


(……嫌だ)


 死なないで欲しい。死んで欲しくない。どうか、どうか。


 しかし、リュミエルがどんなに拒否しようが、父の命は刻一刻と燃え尽きようとしていて、それを止める術を彼女は持ち合わせていない。


(どうすれば、いいんだろう……)


 どれほどそうしていたのだろうか。不意に窓を叩く音が耳に聞こえた。


「……ん?」


 最初は気のせいかと思ったが、また小さく窓が叩かれる。


 すでに夜遅く、こんな時間に訪れる人物に心当たりはない。


「…………誰?」


 警戒してカーテンの隙間から覗いてみるも窓の向こうは真っ暗だった。


「え?」


 リュミエルは窓を開け身を乗り出す。


「な、に、これ? どうなってるの?」


 そこはやはり暗闇が広がっている。隣の民家も地面も夜空も何も見えない。


「リュミエル」


 暗闇の先から聞こえたのは若い男の声だった。少なくともリュミエルにはそう聞こえた。


「貴方は?」


「ただの通りすがりの者ですよ」


 明らかに異常なこの状況で声をかけてきた姿の見えない相手。


 本来なら警戒心や恐怖感を覚えるべきだろう。


 だけど、リュミエルの心にそんなものはなく、どうしてだか、もっとこの相手と話したいと感じた。


「どうして、私の名前を?」


「周りが貴方をそう呼んでいたからですよ。それより、随分とお困りのようですね」


 優しい、穏やかな声。聞いているだけで安心感を覚えるとともに、もっと聞きたくなるような心地良さがあった。


「実は、父が病気でもう長くないんです」


「そうなのですか、それはお辛いですね」


「ええ、妹はまだ幼く、頼れる人もいなくて、どうすればよいのかわからなくて」


 すらすらと事情を離す自分に、どうしてこんなことを見ず知らずの人に話しているのだろうと不思議に思ったが、不思議に思うだけで終わる。


 それがどんなに異常なことか、彼女は気づけ無い。


「わかりました。それなら私が手を貸しましょう……どうぞ、これを」


 暗闇から腕が伸びてくる。見れば黒いオカリナが掴まれていた。


「これ、は……?」


「このオカリナにはあらゆる病を癒やす力があります。それを吹けば貴方の父親は助かるでしょう」


「ほ、本当ですか?」


 信じられない言葉。だがリュミエルにはそれが嘘ではないとも感じた。


「ええ、本当ですよ。ただし、契約が結ばれますが」


「契約?」


「そのオカリナを一度でも吹けば、貴方の魂は私の物になるのです」


「え?」


「ああ、ご安心ください。私が魂を受け取るのは死後のことですし、一度だけなら寿命が縮まるなんてことはありません。ただ、二回目以降は代償として寿命が削られてしまいますが」


「魂……寿命……」


「ええ、ですから、使うとしても一回だけにしておいたほうがいいですよ」


「…………」


 もし彼の言葉が本当なら恐ろしい話である。しかし、リュミエルは相変わらず男が恐ろしいとは思わなかった。思えなかった。


「本当に、本当に父は助かるんですか?」


「ええ、本当です…………悪魔は、契約に関しては嘘をつきませんから」




 気づくとリュミエルは椅子に座っていた。目の前には父親が眠っている。


「……夢?」


 あの男は夢の産物だった。そう判断しようとしたリュミエルだったが、自分が手に握っている物を見て目を見開く。


 そこにはあの、黒いオカリナがあった。








 巨万の富、不老不死、世界の真理、異性の心、憎い仇の死、悪魔に望めば何でも手に入る。しかし、その分代償も大きい。


 その代償は時として国すら揺るがすこともあるという。


 故に彼らと契約した者は、どんな理由であれ死刑。


 それは子供でも知っている。


 あの男は恐らく本物の悪魔なのだろう。だとすればリュミエルが選ぶべき選択は、黒いオカリナを破棄すること。


 しかし、そうするべきだとわかっていても、彼女はオカリナを引き出しの奥にしまいこんだ。


「リュミエル……どうしたんだ? 顔色が、悪いぞ?」


「え、ああ、ううん。何でもないの。お父さんこそ気分はどう?」


「ああ……少し、楽になった。お前のスープは相変わらず、おいしいなあ……」


 そう言って力なく微笑む父にリュミエルの胸は痛くなる。


 そして脳裏に、あの黒いオカリナが浮かんで慌てて振り払う。


(私は何を考えているんだろう……お父さんを助けるためとはいえ、悪魔の力を使うなんて……)


 けれど、父の姿を見ているとあのオカリナのことがどうしてもちらついてしまう。


(……そうだ、マルバス神父に相談しよう!)


 あの人ならきっといい知恵を貸してくれるはず。


 曇りがかった胸中がようやく晴れたようだったが、それは一瞬の出来事だった。


「ぐっ、ごほっ、ごほっ」


「! お父さん!」


 突然苦しみだす父。その様子は今までの比ではない。


「あ、ぐ……ごほ、はぁ……うぐぅ!」


 かきむしるように胸元をつかみ、苦悶の表情を深める父を見て、気づけばリュミエルは自室に駆け出していた。


(死んじゃう、お父さんが死んじゃう!!)


 オカリナを手に戻るリュミエルの頭の中に悪魔の力を使うことに対する葛藤はなく、自分の魂が悪魔の物になる恐怖もない。


 ただ、大切な家族を助けたい。その一心で、彼女はオカリナに息を吹き込んだ。


 オカリナはそれはもう美しい音色であった。誰もが聞き入ってしまうような、惹きつけられてしまうような、奏者であるリュミエルすら感動を覚えずにはいられないほど、ひたすらに美しい音色。


 リュミエルの指は止まることなく、踊るように奏で続ける。


 演奏が終わりリュミエルが父親に目を向けると、彼は安らかな表情で眠りについていた。


 手を握るとその温もりに、リュミエルは静かに涙を流した。




 こうして父の病気は治り、マルタは泣いて喜び、医者も首をかしげつつも祝福の言葉をかけてくれた。


 誰もが喜びの笑顔を浮かべる中、リュミエルだけは心に影を落とした。


 父を助けるためとはいえ、悪魔と契約してしまったのだ。


 そしてこのことは誰にも知られてはいけない。露呈すれば最後、リュミエルは処刑され、家族は迫害されるだろう。


 だからこのことは誰にも話さない。そしてあのオカリナは二度と使わない。そう決めた。


 けれど、その決意はある親子の登場により容易に崩れてしまった。




「あの……リュミエルさん、ですか?」


 突然、リュミエルの家に訪ねてきたその親子、母親の方は目の下には濃いクマがあり、やつれている。しかし、その腕の中にいる子供の方はもっとひどかった。


 体はやせ細り目は虚ろ、肌色も悪く、半開きの口は浅い呼吸を繰り返すばかり。


「そう、ですけれど……」


「あ、あの! 突然押しかけてしまい申し訳ありません。風の噂であなたのオカリナの音が病を治したと聞いたもので」


 その言葉に思わず肩は震える。


「いえ、それは、その……」


「お願いです……この子にもそのオカリナを聞かせてはもらえないでしょうか?」


 父が完治したその夜、オカリナの音が響いていた為、そのような噂が流れていたのはリュミエルも知っていた。


 そうは言ってもただの噂だし、下手な口止めや否定は逆効果だと思いそのままにしていたが、こうして頼ってくる人がいるとは思いもよらなかった。


「お願いします、お願いします……ほんの少しでもいいから、この子を楽にさせたいんです」


 恐らく母親の方も、本気で信じているわけではないだろう。しかし、そんな与太話としか思えない噂にもすがりついてしまうほど、追い詰められているということだ。


 母親は看病疲れからか、弱々しい印象を受ける。リュミエルでも追い返すことは簡単だろう。そして今、家には父も妹もおらず、追い返したとしても責める人は誰もいない。


 いや、それより簡単なのは、あの黒いオカリナではなく普通のオカリナを吹くことだ。そうすれば母親の気が済んで帰っていくだろう。


 それがいい。そうするべきだ。それが一番、安全である。


 けれど、それはつまりこの子供を見捨てるということだ。


 恐らく、マルタよりも年下なのであろうその子供は、生気のない目でリュミエルを見つめていた。


 本当なら友達と外で駆け回り、希望溢れる未来を夢見ることが許されるはずの幼い子供が、病魔に侵される苦しみに喘ぎ、自分の身勝手な保身から見殺しになろうとしている。


「……私、は…………」


 それは決して少なくない葛藤だった。下手をすれば自分だけではなく家族にも害が及ぶ。


 助けるべきだと頭の中で誰かが叫ぶ。こんな小さな子が苦しんでいるのに、見て見ぬふりをするのか、と。


 見捨ててしまえと頭の中で誰かが囁く。この子が死んだとしても自分には関係のないことだ、と。


 でも、けれど、だけど、それでも……


「……少し、待っていてください」


 一度深呼吸したリュミエルはそう言って家の奥に向かう。そして戻ってきたその手には、黒いオカリナが握られていた。




 それからというもの、彼女のもとに人が訪れるようになった。


 リュミエルの奇跡の噂を聞いてやってくる人々は皆、難病を患い、医者にも見放されたような者ばかりで、故に必死だった。


 家族を助けて欲しい。友達を救って欲しい。恋人を治して欲しい。


 そんな悲壮に満ちた懇願をリュミエルは一つ一つ拾い上げていった。


 一応、治療した人達にはこのことを他言しないように頼んでいるが人の口に戸は立てられないもので、村の人達もリュミエルの行動に気づき始めた。


 中には当然、不審な眼差しを向ける者もいたが、それはマルバスの一言で消え去った。


「リュミエルさんに、主のご加護を感じます」


 元よりリュミエルは周囲から慕われていた娘であり、そこに加えて村人全員から信頼を寄せられる神父の言葉だ。


 もはや彼女を疑う者はおらず、いつしか「オカリナの聖女」と呼ばれるようになった。








「ありがとうございます。ありがとうございます。彼女を治してくれたこの御恩は一生忘れません」


「本当に、どんなに感謝しても足りません。何かお礼を」


「……いいえ、最初に言いましたようにそれには及びません。どうぞ、お元気で」


 若い男女が何度もお礼を言いながら去っていくのを、リュミエルは村外れで見送る。


 病魔に侵された人を救うのはこれで何度目だろう。マルバスのおかげで悪魔と契約しているとはバレていない。


 残る懸念は、彼女に残された寿命だけ。


「リュミエルさん」


 振り返るとマルバスがいた。


「またお客様がいらっしゃったんですか?」


「ええ、まあ」


 以前と変わらぬ親しげな笑顔を向けるマルバスに、リュミエルは誤魔化すような微笑みを浮かべ曖昧な返事をすることしかできない。


 オカリナを使ってからというもの、リュミエルは彼とまともに顔を合わせることができなくなっていた。


 神父である彼にとって、悪魔と契約した自分は唾棄すべき存在だ。


 もしバレたらこんなふうに笑いかけてくれる顔が嫌悪と憎悪に歪むかと思うと、とても恐ろしかった。


「村の皆さんが話していましたよ。リュミエルさんのような存在は村の誇りだと。私もそう思います」


「……ありがとうございます」


 オカリナの聖女。


 誰もがそう呼び尊敬の眼差しを向けるが、自分にはその呼び名がいかに不相応か、リュミエルはよく自覚している。


「随分、浮かない顔をしていますね。何か、心配事でもあるのですか?」


 そんな様子の彼女に気づいたらしいマルバスは優しく問いかける。


「マルバス神父……」


「私でよければ、相談にのりますよ」


 泣きつきたかった。何もかも打ち明けて縋り付いてしまいたかった。


 でもそれだけは絶対に駄目だと理性が引き止めた。


 だから、別の言葉を口にする。


「マルバス神父、私の力がどうして神の加護だと思われたのですか?」


 リュミエルがこうして何事もなく村で暮らせるのはマルバスの言葉のおかげだ。


 しかし、そんなことはありえないということを彼女は知っている。


 だから感謝しつつも、どうしてそんなことを言ったのか、ずっと疑問に思っていた。


「そのことですか……正直に言ってしまえば、私はあなたから主の力を感じ取れません」


「それなら、どうして?」


「例え感じることができなくとも、わかります。あなたはその力を、あくまで人の為に使っているではありませんか。決して金や名声の為ではなく」


「……」


「何も感じないのは私の力不足でしょう。でも未熟な私でもわかることはあります。あなたは心優しく信じるに値する人だ」


「……マルバス神父っ」


 目に涙がたまり、リュミエルはそれをこっそり拭う。


 罪悪感と感謝が湧き出す胸の中で、やっぱりこの人が好きだと確認する。


「ですから、あなたは心の思うまま行動してください。私はそれを傍で支えましょう」


「……本当、ですか?」


「ええ、勿論」


 その言葉の意味が、彼女の望んでいるものとは違うことはわかっていた。


 彼はあくまでも善意からこちらを気遣っているだけで、リュミエルのような恋情があるわけではない。


 しかし、それでも彼女の心は確かに喜びを覚えた。


 あといつまで持つかもわからぬこの命。その終わりまで、愛する人が傍にいてくれるのは一つの幸福ではないだろうか。


 少なくとも、リュミエルにとってはそうだった。


「それじゃあ、約束ですよ」


(どうか、この命尽きるまで、傍にいてください)








■■■








「ああ、勿論。約束は守ろう」




 真新しい墓の前で男が笑う。その顔はリュミエルや村人が神父と呼び慕う男と同じ。だが頭部にはねじり曲がった対の角が、背中には黒い翼が生えている。


 彼こそが人を誘惑し、堕落させ破滅に導く者、悪魔である。


 そんな彼の手の中には小さな光り輝く球体が心許なく浮かんでいた。


 それを優しく包み込みながら、悪魔はにやりと笑う。


「神父になんて化けてまどろっこしい真似なんてせず、告白して結婚でもしてみるのも悪くなかったな。ただの人間の真似事でも君とならきっと楽しかっただろうに。まあ、終わってしまったことは仕方がないか」


 マルバスという神父は最初からこの世に存在しない。


 全てはリュミエルの魂を手に入れる為の悪魔の姦計だったのだ。


「だが君だって満足だろう? 思うがまま人々を救えたのだがら」


 確かに思い悩む彼女に契約を持ちかけたのは彼からであり、意図的に情報を隠したりもした。


 しかし契約内容に嘘はなく、強要もしていない。契約を受け入れると決めたのはあくまでリュミエル自身である。


 命が惜しいなら、最初から人を救うべきでは無かったのだと嘲り、笑う。


「一応、弁解しておくと君の父親が病気に罹ったのは私のせいではないよ。他の人々だって同じさ。まあ、病気の進行をちょっと早めたり、苦しむ者とそれを憂う者に君の存在を噂として耳に入れたりした程度だよ」


 魂だけになった存在に語りかけた所で相手には聞こえないし反応もないとわかっているが、しかし非常に機嫌のいい彼の言葉は止まらない。


「まずは新しい体を与えないとね。人間の時よりもずっと丈夫な体を……大丈夫、姿形は同じにするから」


 それはすなわち、悪魔への転身。


 リュミエルはこれより悪魔として新たな道を歩み出すのだ。本人の望む望まざるは関係なく。


 それにしても運のない少女である。


 気まぐれに人間界にやってきて適当にふらついていた時に、たまたま聞こえたオカリナの音。それに惹かれ、見つけ、悪魔は彼女を一目で欲しいを思った。


「さあ、共に魔界に行こう。そこで君は私のためだけにオカリナを奏でてくれ。その代わりに君を幸せにすると約束しよう。ずっとずっと、永遠に」


 悪魔と彼に捕らわれた哀れな魂は、こうして姿を消した。

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