第2話 偽りの婚約者
(星見なんて……本当にあてにならないのかも知れない……)
突き刺すような視線を全身で浴びながら、ステラは体をこわばらせる。
強引に人の唇を奪った挙句、突如として婚約を宣言する。
そのような男との出会いのどこがよき出会いだというのだろう?
しかし、ステラにはヘンリックの腕が振りほどけない。
王太子に対して無礼だからという以前に、軍人でもある彼の力はとても強く、か細いステラの腕ではどうにもならなかった。
「おめでとうございます! ヘンリック殿下! ステラ様!」
そう黄色い声を上げたのは、他でもないオルティス公爵の孫娘だった。
オルティス公爵が紹介しようとしていた彼女は、公爵の陰で彼らの口付けの一部始終を見ていた。
しかしその目にはキラキラと輝くものがあり、少しも嫉妬や落胆は見当たらなかった。
「こんな素敵なことを我が家で発表していただけるだなんて、なんて光栄なことでしょう! ねえお祖父さま?」
オルティス公爵の孫娘は呆然としているオルティス公爵の顔を覗き込む。
「あ、ああ……、そ、そうだな、その通りだ。おめでとう……おめでとうございます」
そう言って、衝撃から立ち直ったオルティス公爵はやけくそ気味に拍手を始めた。
つられてパーティーの参席者も拍手をステラとヘンリックに送る。
あたたかとは未だに言えない視線の中、ステラだけがどうしていいかわからずに、棒立ちになっていた。
「……どういうつもりですか!」
あれよあれよという間に用意された客室で、ステラとヘンリックはふたりきりになる。
ステラの実家の食堂なら丸々入ってしまいそうな大きさの客室だった。最上級、王族を迎えるための客室。
ヘンリックはくつろいだようにソファに腰掛けていた。対するステラはその横に立って肩を怒らせている。
「ルナから手紙がきたのだ。私には好きな方がいるので、あなたと結婚できません。どうにかしてください、と」
ルナとはオルティス公爵の孫娘の名前のはずだ。
どうりであれほど嬉しそうにしていたわけだ。
「まだうら若き少女の願いだ、聞かないわけにもいくまい」
ヘンリックはさらりとそう言った。
「……だ、だからって私を巻き込まないでください……」
オルティス公爵や、ルナ以外の貴族令嬢からステラに注がれる目はとても厳しかった。これでは今後社交界を渡っていくのに差し障りがある。
「まあなんだ、頃合いを見て、俺が君をこっぴどく振ったとでも噂を流せばよいだろう。なんなら新しい婚約者として信頼できる貴族の友人でも紹介するさ」
「……同室を用意されておいてですか……?」
有無を言わせずステラとヘンリックは同じ部屋をあてがわれた。
今夜のパーティーではそのまま帰宅するものも多かったが、ヘンリックが帰る先は王都だ。今から夜の旅は長すぎる。
しかしステラは馬車で容易に帰宅できる距離だ。それなのにこうしてヘンリックと同じ寝室に押し込められている。
このままでは貞操の危機であるし、ヘンリックにその気がなくとも、何もなかったとは誰も思ってくれないだろう。
「俺は別に君と結婚しても構わない」
「なっ……」
あまりに熱のないプロポーズにステラは絶句する。
「正直、ご令嬢方の相手は面倒だ。君が俺と結婚してくれるのなら、そのまま王都に連れ帰りたいくらいだ」
「…………」
ステラは頭がくらくらしてきた。
この男は何を言っているのだろう。何を考えているのだろう。
そのような雑な理由で求婚されて喜ぶ女がいるとでも思っているのだろうか?
「これはお互いの利益になる話だと思うが? なあ、落ちぶれた星見伯ご令嬢」
「…………っ」
痛いところを突かれた。
そもそもステラは王家とのパイプを作るためにオルティス公爵家に来たのだ。
レーヴェ星見伯家の窮状を王家に訴え、役立てることを証明し、星見伯の信頼を回復する。それが目的だ。
それを思えば、ヘンリックの申し出を受けるのは悪いことではないのかも知れない。
しかし、ステラにもプライドというものがあった。
「……ば、馬鹿にして……!」
「ははは」
ヘンリックはステラの怒りを笑って流した。
それが余計逆鱗に触れる。
「……では、既成事実でもつくろうか」
そう言って、ヘンリックはソファから立ち上がった。
ステラはビクリと体を震わせ、慌ててあとずさる。
しかしその足はそのままベッドにぶつかり、ステラは後ろ向きに倒れた。ふかふかのベッドに頭を打ち付ける。
「きゃっ……」
足が跳ね上がる、慌ててスカートを抑えて中身を隠す。
「自分からベッドに飛び込むとは、大胆な」
そう笑うとヘンリックはステラにまたがるようにベッドに乗っかった。
ベッドが二人分の重みに沈み込む。
「や……」
ステラは目をつむって手を前に出し、ヘンリックの胸板を押す。
しかしヘンリックの鍛えられた体はびくともしなかった。
「や、やめて……」
ステラの声も手も震えていた。
彼女の体の上にヘンリックが、のしかかっている。その気配にステラは目を開けられずカタカタと体を震わせる。
ヘンリックはそんなステラをしばらくの間じっと見下ろしていた。
やがてステラの手の平から胸板の感覚が消えていった。
恐る恐る目を開けると、ヘンリックはステラの上からどいて、ソファに戻っていた。
ステラの体から力が抜ける。
「はあー……」
思いっきりため息をついて、両手をベッドに広げて落とした。
ベッドに倒れたまま、ヘンリックを見ると、つまらなそうな顔でワイングラスを傾けていた。
じとっと睨みつけてみるが、こちらの視線に気付く様子もない。
「……あの、それでは、わたくし今夜はもう失礼してよろしいでしょうか?」
御者を馬車に待たせている。
帰ろうと思えばいつでも帰ることはできる。
「その前に、返事をくれ」
ヘンリックはそう返してきた。
「返事……?」
「プロポーズの返事だ」
「あ、あれ、本気なのですか?」
「ああ、本気だとも」
ヘンリックは大きくうなずいた。
「お飾りの王太子妃で構わない。俺と婚約してくれ、レーヴェ星見伯令嬢……ええと……ステラ」
「…………」
今、名前を思い出すのに時間がかかった。
そんな相手にプロポーズだなんて本当にどうかしている。
「……そこまでお嫌ですか、あんなに令嬢方に慕われるのが?」
「考えてもみろ……物心ついた時から顔も知らない隣国の王女と結婚するのだと聞かされ続け、そういうものなのかと遊びもほどほどにして生きてきたのが、そろそろ結婚かという年になって、突如としてあれはなしになったと言われた俺の気持ちを」
「…………」
「新しい女を探すのに……飽き飽きするのも無理もないだろう。その点、お前はいい。俺に媚びるような女でもない。かといって、家の後ろ盾に俺がなってやれば、俺を捨てることもない。ちょうどいい」
「……馬鹿にして」
ステラはもう一度そう言った。しかし、他に手がない。
星見伯の復権のために、頼れるのはこの男だけ。
「…………」
ステラは葛藤した。貧乏な我が家。病弱な父。まだ幼い弟。背負わなければいけないそれらと、自分自身がどうしようもなく好きになれそうにない男に嫁がなければいけないという事実。
日付ももう変わってしまった。星の告げている出会いは、これだったに違いない。
(……ああ、私はまだ、信じようとしている)
こんな最悪な出会いを星が告げる良き出会いと思い込もうとしている。
それらについて深く深く考え込んで、ようやく彼女は口を開いた。
「……喜んでお受けします」
「喜んでという顔ではないが……まあ、いいだろう」
ヘンリックは表情を変えずにうなずいた。
「まあだんだんとそれらしくなっていけばいい。今夜は俺はソファで寝るから、ベッドはお前が使え」
「い、いえ、そういうわけにはいきません」
慌ててベッドから跳ね起きる。
「殿下をソファで寝かすだなんて論外です」
慌てて帰ろうとドアに向かうステラにヘンリックが声をかける。
「婚約が成立したなら、帰るのは不自然だろう。何もしやしないから、今夜はこのままにしろ。……それとも星見伯家に俺を招いてくれるか? 俺はそれでも構わないが」
無理だ。
現在の星見伯家にそのような余裕はない。
王太子を泊められるような格調高い部屋など、もう何年も使ってはいない。そこにあった調度品は売り払うか、他の部屋に回すかしてしまった。
「……我が家にそのような余裕は……」
「だろうな」
最初から期待はしていなかったのだろう。ヘンリックは肩をすくめた。
「…………せめてベッドは殿下がお使いくださいませ。私がソファに寝ますから……」
「女をソファになど寝かせられるか。安心しろ、この高そうなソファは軍事宿舎のベッドよりは寝心地が良いぞ」
「…………」
そう反論されてしまうとステラとしてはどうとも返せない。
ステラが黙り込んでいるうちに、部屋に公爵家の侍女とヘンリックの侍従が訪ねてきた。侍女はステラ用の寝間着を持ってきてくれた。新品。おそらくはルナのものだったのだろう。
「ヘンリック殿下、ステラ様、ご入浴はされますか?」
「俺は良い。明日の朝にまた来てくれ。ステラ、君は」
「……着替えるついでに入浴させていただきたいです」
「うん、わかった」
侍女に付き添われ、大きな猫足バスタブに浸かる。
「はあ……」
真っ先に顔をせっせと磨く。
特に唇を重点的に。
「……初めて、だったのに」
ワインの香りの漂うキスを思い出し、ステラは顔を洗うお湯の中に涙を混ぜた。
お風呂から上がるとヘンリックはすでにソファの上で毛布を掛けて寝息を立てていた。
「…………」
侍女が黙って一礼して去って行く。
ヘンリックが飲んでいたワインの香りが、部屋には漂い続けていた。
ステラはため息をつくと、広いベッドに潜り込んだ。
寝間着もベッドも、長らくこんな良質な布に触れた覚えがない。
それが一層惨めさを増して、ステラは何度も寝返りを打った。
寝付きはひどく悪かった。
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