幽(かそけ)き旅行後記

JunJohnjean

幽き旅行後記




幽(かさけ)き旅行後記

全23話

2021年4月










ー 香港 ー


 1972年の冬の2月、ナホトカ経由でソ連邦(現ロシア)・北欧を旅してパリに到着した私は一旦、帰国し、1976年4月に南回りで陸路、パリを目指した。大阪空港(伊丹空港)から数時間後、香港の啓徳空港(当時)に降り立つ。税関を通り過ぎる際、女性の税関吏が私の首に掛けていた紐に気付いて何も言わずに腕を伸ばしてひょいと持ち上げる。この動作に私はビックリ。日本なら調べる際、何なのか見せなさいと言うはずだ。紐の先にはパスポートを入れる布袋があった。この税関吏はそれを確認するだけだったが、とにかく、無事に通関。



香港 夜景


 ユースホステルで宿泊し、翌日は露天市場に行ってみた。ここでは商売人がヤンキー座りで物を売っている。ある露天商のおばさんの前で商品を眺めていると突然つむじ風が吹いて来た。おばさんは散らばった商品をかき集めながら私に話し掛ける。中国語なのでわからない。ちょうどその時、通りすがりの男性が「天女が通り過ぎたと言っているんだよ」と笑いながら英語に訳してくれる。「天女?」と私はつぶやく。そうするとおばさんが続けて、「これからどこへ行きなさる?」と尋ねる。「タイ、ネパール、インド」と私。彼女は「インドで福徳薫るどなたかと会うじゃろ」と言う。言っている意味が正確にわからなかったが、インドでいい人に会うというのはわかった。


 訳してくれた男性が別れの挨拶をし、私も去ろうとすると露天商のおばさんは私にちょっと待ってというジェスチャーをして、何かを紙に認め、書き終わると私にその紙を見せてくれた。そこには漢字で「四柱推命」と書かれている。四柱推命と言えば、中国で有名だが、当時、日本の国民にはまだ余り知られていなかった。幸いにも家の近くに四柱推命で占う人を知っていたので、私はすぐに理解した。でも、なぜ彼女がそのように書いたのかわからなかった。自分は商売人であるけれども、「占い師」でもあると言いたかったのであろうか。とにかく、お礼を言ってその場を離れた。


 その後、この市場を見て回るのだが、かなりの大きな敷地面積に露天商がひしめき合っているのがわかった。



― タイ国 ―


 香港で2泊してタイ国へと向かう。首都バンコックでは日本で知り合ったタイ人の友人が迎えてくれた。彼の家には母親と妹がいるので寝食は共にできないが、学生の多い安全な宿屋を探してくれて、その後の10日間の滞在を容易にした。妹さんは学生で時間もあるので観光案内役を買ってくれるとのこと。


 4月の半ばを過ぎた都会のバンコックは気候もあろうが、車の往来が激しいので、二酸化炭素の排出量も多いのか、とても暑い。冷房完備の茶店を探し出して、一日に幾たびか行ってからだを冷やす。妹さんと約束をして、市内の外れにあるストゥ―パ(卒塔婆)を見学した。このストゥ―パはタイ国内のあちこちにある。旅行者ということもあって現地の事情に疎いのでタイ人の彼女がいると心強い。中心街を抜けると暑さは和らいで、空気も新鮮な香りがして心地よい。見物したストゥ―パはさほど損傷もなく、色とりどりなのだが、ケバケバしているという印象を私に与える。彼女と記念写真と洒落込んだり、はしゃいだりして、楽しい一日を過ごした。


 

アユタヤ遺跡 菩提樹の根に挟まった仏頭


 私の友人は日曜日にアユタヤ遺跡巡りを提案する。車で二時間程の距離。現地に到着すると遺跡がまとまってあるわけでもなく、あちらこちらと長い距離を移動しなければならない。「ホラ、あそこで人が根っこの間から覗いているよ」と私。「人でなくて仏頭だ」と彼は応える。「へえ、子供がふざけて根っこに頭を押し込んだのかな?」と言うと、「違う。仏の頭が転がり落ちて幾世紀も掛け、木の根っこが頭を押し上げて、あのような形になったんだよ。でも、そのように聞いている話しだけどね」と。又、ここには日本人町があって、今は古びて何もないが、山田長政と言えばこちらではちょっと知られているサムライだと彼は説明してくれる。このサムライは戦国時代の日本で生まれ、堺の商人・呂宋(るそん)助左衛門と同時代の人だ。当時、朱印船貿易が盛んだった。


 やがて暗くなってきたので、その日の観光はこれで終わりにして帰路に就いた。



― タイ国 (2) ―


 タイの友人、ソムチャイは次の日曜日、車で2時間ぐらいのパタヤという海水浴場に妹と一緒に行こうと誘ってくれた。早朝出発して夕方帰路に就こうという予定。当時、タイの車で冷房車というのは皆無に等しかった。彼の車もそれに洩れず、バンコックからパタヤまで窓を開けっ放しで快走した。


 8時半ごろ、パタヤに着く。潮風が心地よい。ソムチャイは数年間、日本語の勉強をするためにバンコックのタマサート(タンマサート)大学から日本に留学していたので、当然、日本語が流暢で、よもやま話が楽しい。彼は「このパタヤは今までアメリカ駐留軍が休暇を幾度も過ごしたので発達したのだ」と説明してくれる。この駐留軍というのはベトナム戦争に派遣されたアメリカ軍であり、徐々に撤退しているのだが、私がタイ国に滞在中、サイゴンが陥落した。


 

タイ国 パタヤビーチ


 三人はパタヤビーチに直行。当時、こじんまりとした小ぎれいなビーチだったが、今では巨大なビーチリゾートとして世界に知られるようになった。そこで、ソムチャイが「妹と水上バイクに乗ったらは?」と提案。妹も楽しんでもらいたいという兄の心遣いであろう。操作は簡単の一言に尽きる。妹さんが滑り落ちないように私の筋肉隆々としたお腹に(笑)しっかりと手を回すように私は願い出る。バイクはかなりのスピードで海上を駆け巡る。そうこうしているうちに、バイクの傍ら、水面下に何かが忍び寄ってくるのが見える。なんだろうと思って速度を落として見ると水中にかなり大きな魚とも思える黒い影。背びれのようなものが見えたので、イルカかなと思ったが、この辺りにイルカがいるとは思えない。急いで海岸に向かう。ソムチャイはニコニコして私たちを見ているのだが、滑り込むように砂浜にバイクを乗り上げ、二人は彼のところに走り寄る。何事が起ったのかという中腰の彼に向って、「サメだ!」と私は叫ぶ。それを聞いた彼は慌てるでもなく「サメなんか、このところに居ないよ。潜水夫か、潜って楽しんでいる人たちじゃないのか?」と。「ゴメンごめん、びっくりさせようと思って妹さんと仕組んだお芝居なんだけど、失敗に終わったみたいだね」と言うと、彼の高笑いが周りの人を驚かせた。


 翌日の月曜日、私はネパールに向けて出発した。



ネパール ―


 5月初旬、バンコックの空港を後にした私はヒマラヤの山懐に抱かれたネパールへ。ここはお釈迦さんが生まれた国だ。観光客は大富豪からヒッピー、登山家、仏教徒、ヒンズー教徒までと多彩。


 到着の日、上空からのヒマラヤ連峰はあいにく雲に隠れて見えなかった。首都カトマンズに降り立った私は空港の余りの小ささに驚く。大都会の空港を見慣れてきた私にはミニチュア模型の世界に足を踏み入れたような感じだ。タラップを降りて徒歩で税関の建物に向かう。すると、旅行者を待っているのか、小学校高学年くらいの男の子が十数人、税関の先のほうに見える。


 通関後、「ホテル、ホテル」と数人の子どもが声高に叫んで寄ってくる。私は最初、見知らぬこれらの子どもを警戒したが、子供たちの純朴さにひかれて一人の子どもに「オッケー」する。案内されたのは簡素なホテルで、オーナーも人のよさそうな顔をしている。そこで、一泊。


 翌朝、私を当ホテルに連れて来た子供にエベレストはどこかと尋ねる。

「そこだよ」と子供は前方に顔を向ける。

 私は彼の指し示す方角に顔を向けたが、黒い大きな岩肌のようなものは見えても山とおぼしきものは見えない。

「お客さん、もっと頭を上に向けて」と子供が言う。

 私は地上に近いところを探していたのだ。白雪のエベレストは雲の遥か上空にあって、その偉容に私はしばらく言葉を失った。


ネパール エベレスト山


 その後、カトマンズ市内を見て回る。道を歩いているとヒッピーらしき日本人と出会った。

「どこで泊まっているんだい?」と気軽に私に話し掛けてくる。

「市内の外れ」

「中心街に泊まったほうがいいな。便利だし、、、」

「じゃあ、一緒のところで泊まろうか」と応えて、一室を二人で分け合った。


注 : エベレストは、チベット語でチョモランマ、ネパール語でサガルマータという。



ネパール(続) ー


 翌日は、昨日出会った同室の日本人と中心街を散歩する。古ぼけた家屋が立ち並ぶ通りを歩いていると寺院がそこかしこにある。ヒンズー教の寺院と思われるが壁に複数の木彫りの男女像が仲むつまじく何も隠さず裸で抱き合っているのを見ると、この国はなんて開放的なのだろうと感嘆する。


 散歩をし終わって同室の彼は大麻を吸い出す。大麻はヒッピーが多く集まった60年代、公認されていたが、70年代には公的に禁止されていた。

 「おい、大丈夫か、昼間っぱから?」と問うと、彼は「何、平気さ、警官も吸ってるから」と言う。確かに、日中、警官が眠たそうな目を擦りながら街を歩いているのを幾度か見掛けた。

 

撮影年不詳 ー 1976年当時の面影を残す通り


 数日後、在ネパール日本大使館から日本人観光客にお知らせとあって、「昨日、登山口に一人で向かっていた日本人女性が山で追いはぎに遭い殺害されました」と注意喚起。「なんで又、女性一人で?」と私は訝しがったが、身ぐるみ剥がされ裸死体で道路脇にあったそうだ。土地感覚がなければ、あるいは、見知らぬ土地では何が起こるかわからない。


 5日程して、私はネパール人経営のレストランにゆく。「そば」があったので、喜んで注文したのだが、何か味がおかしいと感じるものの、思い返して「これがネパールの味だ」と全部、食べた。その直後、下痢に悩まされる。まさか腐っているものを食べさせるとは思ってもみない。眠りに就いている時に急に便意を催して、とにかく気が付いた時にはもう遅い! 同室の相棒は大層心配してくれて、私一人のほうが楽であろうと気を利かし、「何かあったら呼んでくれな」と言い残して、当ホテルで会った彼の旧友の部屋に移り替わる。それにしても持参の正露丸を服用すると効果てき面だ。回復に安堵の胸を撫で下ろす。しかし、その後、数か月に亘って下痢に悩まされ続けようとは!


 インドからやって来た日本人の旅行者に出会って、これからインドへ行くと伝えると、「インドは今、40度を超える暑さだよ。どこへ行くか知らないけど、6月はモンスーン。その直前は気温が下がるのでその時が移動にいいんじゃないか」と教えてくれる。


 インドの首都ニューデリーに飛行機で向かったのは5月中旬に入って間もない頃だった。



補注 : 2002年、世界の国一覧表(外務省編集協力)がインドの首都名をニューデリーからデリーと修正したのを期に、教科書類もニューデリーからデリーに改められ、現在ではデリーが首都と教育されています。(平凡社地図出版から一部引用) 



インド ―


 インドと言えば、魂のふるさと、悠久の大地、古い歴史と数多くの遺跡、これら全ての魅力をひとことで言い表されない。人物はと言うと、ゴータマ・シッダールタ、ガンジ―、ネルー首相、詩聖タゴールが思い浮かんでくる。シッダールタは一般に「釈迦」の名前で知られる。仏教の開祖であり人間の一生は生老病死、宇宙は成住壊空の繰り返しと説く。ガンジーは非暴力主義者であり惜しむらくは凶弾に倒れたことだ。


 もう半世紀近く前の訪印なので、私はどこをどう旅行したのかはっきり記憶にないが、インド滞在は一カ月に及ぶ。しかし、次の3つの場所はなぜかよく覚えている。ブダガヤ、ヴァラナシ、アグラだ。順次、追ってみよう。


インド ホーリー(春祭)


 ネパールからインドの空港に降り立った途端、熱暑を感じる。リムジンバスでニューデリーに向かう。近代的な建物が立ち並んでいて欧州となんら変わらないが、オールドデリーは旧市街地で古い建物が多い。私はからだが不調なこともあってここデリーでは半日の観光のみ。3日後、鉄道とバスを利用して、おおよそ千キロを走行しインドの東の方に位置するブダガヤに行く。

 

 ここは釈尊が悟りを開いたという菩提樹があるところだ。しかし、往時の菩提樹は枯れて他のところから運んできた菩提樹に植え替えられたという。ホテルはというと安宿だが、若い日本人旅行者がよく利用するようで、溜まり場的な雰囲気を醸し出している。私が着いた時には既に十数人の日本人客が寝泊りしていた。この宿泊客の中に20代後半と思われるカップルがいて、女性は目のクリクリした美人顔。話すと自分のことを「僕」と言う。これを初めて聞いた時は面食ったが、話し続けると慣れて来るものだ。後の話になるが、ブダガヤを離れて1年くらいして、私たちはパリの地下鉄で突然出会うことになる。まるでフランスからインドにワープしたかのようで、私たちはしばし呆然と向かい合った。


 当ホテルは雑草の生えた大きな広場の前にポツンと一軒あるのだが、お釈迦さんが悟りを開いたという菩提樹はこの広場の端にあった。今はこの菩提樹を柵が取り囲んでいるが、当時はなかった。又、お寺は目立たなかったのか、付近にあったという記憶がない。ところで、ブダガヤを訪れて以来、次の二つの疑問がずっと頭にこびり付いて離れない。お釈迦さんはなぜ苦行を止めて少女の差し出した乳粥を飲んだのだろうか。又、なぜ悟りを開くのに樹の下でなければならなかったのだろうか。


 ある夜、ホテルの明かりを目指して歩いていると前方1メートルぐらいのところでやにわに女性が立ち上がる。用を足していたようだが、その周りに2、3人の子供の姿が浮かび上がる。まさか私が真正面に歩いてくるとは思わなかったのであろう。それほどこの辺りは真っ暗闇なのだ。


 インドでは時間がかたつむりの速度で進む。このことに関しては面白い話がある。ある日本人がインド人と約束の時間と場所を決めた。しかし、待てど暮らせどそのインド人は姿を現さない。しびれを切らしたこの日本人は仕方がないのでホテルに戻る。すると、約束の時間から8時間後に当のインド人から電話があった。

「ミスター、あなたを探したけどどこにもいない」

「どこにもいないって、約束の時間をとうに8時間も過ぎてるよ」と日本人。

「ああ、時間に遅れた」とインド人。

「1時間は待ったけど、酷いじゃないか!」と日本人は怒り始める。

「えっ、今日中にちゃんと着いたろ? だから約束は守ったよ」と。 

 笑うに笑えない話であるが、このように時間の概念、感覚が日本人とインド人とでは全く異なるのだ。


 ブダガヤでは地上の薄明かりと満天に散りばめられた星々の光、風に揺らぐ木の葉の囁き、時折り聞こえる泊り客の笑い声に私は癒されんばかりである。胃腸の回復の兆しが見え始めたのを機に、ヴァラナシへ近いうち、旅立つことに決めた。



インド(続) ―


 ヴァラナシ(ベナレスとも言う)はヒンドゥー教徒の聖地だ。ガンジス川で沐浴する人たちを見ることができる。ガート(階段状の親水施設)に着くとこの川はどす黒く濁っているのがよくわかる。川の中央に牛の死体が漂い、岸辺には半分腐敗した牛がプカプカ浮いている。その近くで老若男女が川に足を浸けたり、歯ブラシで歯を磨いたり、肩までザブッと浸かったりしている。幼い時からこういった環境に慣れ、風習に倣っておれば、抗体ができるであろうが、私はこの光景を見て川に近づくのもためらってしまった。


ヴァラナシ ガンジス川で沐浴する人々


 私が宿泊したところは安ホテルで、そこにも日本人がいた。すぐに親しくなって、2、3日後、彼は映画を一緒に見に行かないかと尋ねる。「言葉がわからなくても楽しめるよ。インドの映画は踊りと歌がほとんどだ」と。一度行くと病みつきになる。面白くて3、4回は見に行った。現在ではハリウッドならぬボリウッドと名が知られるようになったが、当時も今と変わらず、歌と踊りの娯楽映画と言って差し支えないだろう。


「明日、サルナートに旅立つよ。サルナートはここから北へ10キロ程行ったところ。そこでお釈迦さんが初転法輪をしたんだ」と先の日本人が言う。

「初転法輪?」

「釈尊が初めて仏教の教義を人びとに説いたのをそのように言うんだ。サルナートは鹿野苑とも言われてる」

「へえ、詳しいんだね」

「ガイドブックにそう書いてある」と彼は笑いこけて、「一緒に来る?」と誘う。

「いや、遠慮するよ。からだの調子がいまいちなんだ」

 彼は翌日、別れの挨拶をして旅立った。


 インドの5月下旬はまだ暑い。日中の気温は40度を超えている。ホテルでは料理ができない。外食はと言うと辛いものが殆どで辛くないものを探すのが大変だ。熱暑で神経には障るし、又、食べなければ衰弱の一途を辿る。ネパール以来の下痢が再発し、私は一時、クリシュナ寺院に身を寄せた。食べ物はタダ。カレーが出てくると日本のカレーの色とは程遠い灰色だ。辛子が相当効いているので辛くて半分はいつも残す羽目になる。その後は下痢。正露丸の粒の数が日増しに多くなってゆく。6、7錠辺りになると今度は便秘でからだの調子がおかしい。3日後、再び、酷い下痢に見舞われる。こういった状態が続いたので、ゆっくりとした療養もかなわず、次の目的地、アグラへと旅支度を始めた。



インド(続) ―


 北インドに位置するアグラに早朝到着。旅の途中で出会った旅行者から必ず見たほうがいいと言われていたのがタージマハルというお墓だ。


 大楼門をくぐり抜けると庭園と泉池を有した総大理石の建物が真正面に見える。一見すると宮殿と見間違えするほどの美しい白亜のこの墓廟に魅了されるが、シャー・ジャハーンというムガール帝国の皇帝が愛妃ムムターズ・マハルを偲んで造らしたもの。この妃は夫と戦場に赴いて14人目の子どもを産み、その後、経過が思わしくなく36歳で他界したが、その時の遺言に「私のために世界で一番綺麗なお墓を造って下さい」と。その後、22年という長い年月を掛けて完成をみたのがこのタージマハルだ。



タージマハル - 宮殿ではなく実は、霊廟


 タージマハルに近づいて壁を見るとレリーフや象嵌細工がかなり凝ったものであることがわかる。これらアラベスク模様を眺めているとインド人が英語で話し掛けてきた。

「今、映画のロケ中なのだけど、ツーリスト役を頼んでもいいかい?」

「映画の撮影? オッケー」と別に断る理由も見つからないので、引き受ける。

「オッケーだね。じゃあ、建物の中に入ろう」

 内部はというと外側の壁で見たようにあらゆるところにアラベスクが施してある。彼は私を二つの棺の前に連れて行って説明する。

「俳優が74歳の皇帝ジャハーンの役を、女優が妃のマハルを演じる。ジャハーンは1666年に亡くなったのだけど、妻のマハルに会いに来る」

「1666年に?」と私は首を傾げた。

「そうだ。アグラ城からやってくるんだけど、君は妃の姿は見えないし、会話があっても気付かないというふうに演技して欲しいんだ。皇帝ジャハーンは息子によってアグラ城内に7年間、幽閉された。妻恋しさに死後、ここにやって来るんだよ」と彼は言い足す。

 夢物語にしては滑稽だと思うが、一応、ストーリーは呑み込めた。スタッフが入れ替わり立ち代わり傍らを往来する。照明が設置され、映像カメラマンやマイク持ちも近くにやってくる。

「アクション!」と屋内に響く声。

 私は急に緊張する羽目になる。そうするとどこからともなく、可愛い系の美人と言うのであろうか、純粋無垢という感じの女性が現れ出る。彼女は小さいほうの棺の前に立って誰かを待っている様子。私は近くを通り過ぎるが彼女は気付かない。暫くして白髪の紳士然とした老人が現れる。彼は大きいほうの棺の前まできて、はたと歩みを止める。

「カット!」と大きな声。

 先ほど私を誘導した彼が再び、やってきた。

「ありがとう。撮影はうまく行ったよ」

 もう終わったのかとあっけにとられたが、ともかくほっとして出入り口を見遣ると観光客が相も変わらず忙しく行き来しているし、ロケのスタッフもいつの間にか消え失せていた。


 私はその日のうちにイスラム教国、パキスタンへと急いで向かうのだった。



パキスタン —


私はインドで買ったゆったり加減のクルタパジャマ(注)を着込み、髪の毛は伸び放題、顎髭ボーボー、サンダル姿という出で立ちで颯爽とパキスタン入りした。


鉄道でラホール駅に降り立った私はお目当ての安宿を見つけ、宿主は愛想がよいので先ずはひと安心。その後、ラホール博物館へと足を運んだ。この博物館には落ち窪んだ眼、血管やあばら骨までくっきりと見える仏陀苦行像(Fasting Buddha)があり、写真で見るのとは大違い、まるで生きているかのような芸術作品で、一見の価値がある。又、パキスタンはインダス文明の発祥の地だが、モヘンジョダロの遺跡は列車で10時間かかるという理由で、又、仏塔・仏寺の遺構が数多く見られるガンダーラの都市遺跡タキシラ(タクシラ)は近くを通ったものの体調が芳しくなかったので行けなかったのが悔やまれる。


ラホール市 ― 向こう正面にモスクが見える


人に誘われて行ったので、どこの町だったか、何という湖だったかどうしても思い出せないが、同じ宿で出会った総勢5人の日本人と海抜二千メートル前後の山岳湖を見に出掛けた。着くと周囲の山肌がむき出しになっていてゴロゴロとした地面もさることながら原始時代に戻ったみたいだ。そんなところに円形のこじんまりとした湖があって、これが火口湖と呼ばれるもの。水が湖底から湧き出ているらしく水が溢れて、湖岸から流れ落ちている。湖の中を覗くとその透明さに思わず息を呑んだ。

「魚はいるんだろうか」と言って、私は中を覗く。少なくとも5メートル先まで見える。

「見えないねぇ」と同行の一人。

「泳ごうか」

「水を汚すよ」と冗談半分。

「そんなアホな。湖水が溢れ出ているよ」

それで、みんなで泳ごうとなって、パンツ一丁になる。

「私は離れて見ているわ」と紅一点の女の子はそう言って遠ざかってしまった。

この太古の昔を思わせる周りの景色を眺めているとネッシーが現れそうな気がしたが、私たちは短い遊泳時間を十分に楽しんだ。


夕方、ペシャワール行きの列車のチケットを購入するために駅へと向かった。インドでもそうだったが、鉄道職員は英語が堪能だ。外国人観光客を誘致するために力を注いでいると思われる。私はいつも2等車の乗客であるが、1等車も3等車もある。3等車は「スリ・盗難に注意」とよく耳にするが、2等車は庶民的な雰囲気があって落ち着く。私は当時ヒッピー然としていたので地元のパキスタン人のほうが私を怪しんだというのが実情だろう。それはともかく、この国は女性一人で旅をするのは危険極まる。それが証拠に私はインドでアメリカ人女性から当地に同伴を請われた。




注 : クルタは、パキスタンから北インドにかけて着用される男性用の伝統的な上着。細目の立襟、長袖、太ももから膝くらいの長さが特徴。ゆったりとしたシルエットで、風通しがよく、快適に着られる。パンツと合わせてクルタ・パジャマと呼ばれ、日本のパジャマの語源になったと言われる。



10

パキスタン(続) ー


 ペシャワールに着いて、新市街にあるグリーンホテルという宿屋に泊まった。別にホテルの宣伝をしているわけではないが、半世紀前の宿泊なので、今でも存続しているのかどうかわからない。

 ペシャワールと言えば、東西文化融合のガンダーラ美術を思い起こす。高校の歴史の本に出てくる、カニシカ王の治世で隆盛した。ここにあるペシャワール博物館では「鬼子母神像」が見応えがあった。今まで他人の子供をさらっていたが、釈迦により子供を奪われて苦しむ親の気持ちを知り、我が子も他人の子も愛すようになった子供の守護神だ。単純に「どうして他の母親の気持ちがわからなかったのだろう」と考えてしまうが、彼女の盲点が却って、守護神となる機会を与えたのだろう。

 旧市街のキッサ・カワニ・バザールが面白い。お茶屋、金物屋、ジュエリー屋、両替屋、野菜市場など、様々な店が軒を連ね、まるで迷路のようになっている。

 このペシャワールから遠くないところにカイバル峠がある。標高1000メートルそこそこあるが、紀元前4世紀にアレキサンダー(アレクサンドロス)大王が通ったところだ。この両隣りには4000メートル級、5000メートル級の山々が連なり、これらを越えて侵略するには空気が希薄(酸素不足)で、その上、武器・食料の運搬には重すぎて適していないのは自明の理。又、私たちに馴染み深い玄奘三蔵もこの峠を越えているが、孫悟空・猪八戒・沙悟浄が登場する60年代のアニメ映画(東映)が懐かしい。

カイバル峠 (カイバ―峠、ハイバル峠 とも表記)

 アフガニスタンの首都カブールへ出発するバスを待っていると一人の若いアジア人顔の男性が私に気付いて近づいてくる。私がアジア人だから親近感を覚えるのだろうか。彼は英語が殆ど話せなかったが、モンゴル人であると言う。私は今までいろいろな国籍の人と出会ってきたが、モンゴル人と喋るのは初めてだ。

「アイ・アム・ジャパニーズ」と自己紹介したが、彼は日本という国を知らない。

「どこへ行く?」と彼は尋ねてくる。

「カブールへ」

「おいらは国境まで」

 同じバスに乗り込んでちょっくら喋り、彼は国境で降りた。車窓から目で彼を追ってゆくと、境界線と思われるところを何のためらいもなくひょこひょこと通り抜けてゆく。本当に国境があるのかと私は疑ってしまったが、検問が厳しくなるのは、3年後のソ連のアフガニスタン侵攻からであった。



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アフガニスタン ―


 ペシャワールから直行バスで8時間掛かってアフガニスタンの首都カブール(カーブルとも表記)に着いたのは夕方だった。そこでいつものようにすぐ宿屋探しだが、ペシャワールと同じ名前の旧市街にあるグリーンホテルというところに泊まった。二つ星だが、温水シャワー無料。重さ7キロにも満たないリュックサックを部屋のベッドに投げ捨て、街へ繰り出す。


 ここアフガニスタンは多民族国家だ。山岳地帯が大部分を占め、平野はごく一部分。北部はシルクロードと接していて、『文明の十字路』と呼ばれるお国。商いの物資は、穀物・金・銀・宝石類・香料・カーペット・毛皮・猟銃・武器など。古くから鉱脈が数多く存在することが知られており、もっとも歴史があるのは青色の宝石ラピスラズリで、こういったものがバザールで多く見られる。又、街を歩いているとアジア人顔なのに透き通った青い目の人に出くわして思わず立ち止まってしまったものだ。


メロンの露店市場


 このようにして3日ほど過ごしているうちにあるアフガン人と知り合い、見た目にも優しい人のようなので私は警戒心を起こさない。「家に遊びに来ないか」と誘われて、断る理由もないことから、「じゃあ~、お邪魔しよう」となって、一緒に行く。連れて来られたところは平屋建ての普通の家。


「どうぞ」と彼は言ってドアを開ける。

 正面に見えるのは事務机を前に平然と腰掛けている一人の壮年。私は家庭的な雰囲気ではないと気付いたが、事務机に進む。

「パスポート」と、この壮年は尋ねる。

 私は黙ってパスポートを渡す。

「オッケー」と彼はパスポートの中身を一目して、退いてもいいという仕草をする。

 私はドアに向かい、案内してきた人がドアの前で待機しているものの、目を合わすだけで声も掛けずに外に出た。


 数年後、理解したのだが、当時、日本赤軍が中近東を中心に潜伏していたのを当局は問題視していて、この平屋建ての一軒家はもしかするとカモフラージュした警察の建物だったかも知れない。



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アフガニスタン(続) ―


 カブールからバミアン(バーミヤン)まで237kmだが、山間なのでローカルバスで10時間前後を要する。このバミアンは1世紀から6世紀まで仏教の中心地として栄えた。常時数千人が住みつき各地からの巡礼者が絶えなかった。7世紀には玄奘がこの地を訪れ、その時の記録が「大唐西域記」に書き残されている。


 当地に到着の翌日、絶壁に彫られた2つの巨大な立仏像を少し離れたところから見ていると一頭の黒い牛を連れた10歳前後の少女が近づいてきた。頭を覆う布をしているが、ヒジャブ(ヒジャーブ)と言うものか。

「写真を取ってもいい?」と尋ねる。

「オッケー」と、一つ返事。

 数回シャッターを切る。

「ありがとう」

 このあどけない少女は手の平を差し出す。ちゃっかりしているなと思って笑みを浮かべ、一枚の紙幣を渡す。するとその紙幣に目が釘付けになって、一目散に牛を引っ張って駆け去った。百円札をあげたような私の感覚だが、ここでは4、5日は暮らせる大金らしい。



黒い牛飼いの少女 (1976年、撮影)


 左端に有名な石窟仏が見えるが、この娘も今や55歳から60歳であろう。戦禍に巻き込まれることなく幸せな生活を送っていることを切に望む。


 胃腸の調子がまだ悪いこともあって、多くの遺跡を巡るとまではいかなかったが、バミアンで二晩過ごしてカブールに戻る。数日後には、直行バスでイランの首都テヘランを経由し、トルコのイスタンブールまでの長旅をする。バス料金は記憶が定かではないが、片道13.5ドルか16ドルだったと思う。1ドル300円計算で4000円から5000円という値段。又、ここカブールの街の雰囲気といい、気候といい、健康を回復するのに最適な環境であった。


「玄奘」と言えば、孫悟空。ご興味あらば、1960年に公開されたアニメ映画(東映)の「西遊記」の予告編をYouTubeで見ることができる。技術的にディズニーに劣らぬ出来栄え。視聴時間は7分ちょっと。https://www.youtube.com/watch?v=7c5LEgQQW8E



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アフガニスタン(続) ―


 まばらな人影に驚きもし、忙しく行き来する人に目を見張る早朝のカブール。私は指定されたイスタンブール行き直行バスの集合場所に向かった。着くと奇遇にもパキスタンで火口湖に一緒に行った日本人の一人と出会う。私たち以外の乗客と言えば、地元の人ばかり。

「僕一人で乗るのはちょっと不安だった」と70キロの体重を優に超える彼が言う。

「ちょうどいい具合に出会ったね」と、私は痩せに痩せて45キロを切っていた。


 このバスを利用する旅行者はよっぽど物好きと見える。なぜなら、4000キロ超の距離を3泊4日で走破するのだから。この距離は日本列島を縦断しても及ばない。バスは満員で座席は木でできていたと思うが、とにかく堅いものだったと記憶する。若さゆえ、もちろん、私は物ともしない。振り返って思うに「病体にもかかわらず頑強だったんだ」と。


 アフガニスタンを抜けてイランに入るには1000キロの道のりがある。途中から右手には山脈が連なり、左手には砂漠があって遥か向こうに山々がうっすらと見える。瓦礫の上に砂漠の砂がうず高く積もって道を塞いでいるので、それらを縫うようにしてバスは走った。夜も更けて来るとどこかで宿泊せねばならないが、この辺りにホテルがあるとは思われない。そうこうしているうちに運転手が今夜はここで一泊すると言う。全員バスから降りて適当なところに敷物をして寝床をこしらえる。夕食が運転手の手から配給された。食べるとまたまた下痢に悩まされる。今宵の月は満月で真昼のように地上を照らして明るい。高く積もった砂山の影に隠れて用を足すしかないが、探しているうちに100メールぐらい野宿のみんなと離れてしまって、その光景はアラビアンナイトっぽくて、幻想的だ。



山脈伝いを右手にバスは走行


 ここ南天の満月の大きさは尋常ではない。太陽の大きさに匹敵する。大きな円い電灯を夜空に吊し上げたようなもので、その夜から月天子に見守られてか、不思議にも下痢はピタリと止んだ。


 早朝、出発。旅行者から「高山には山賊がいるから不用意に近づかないこと」と言われていた。急に山から下って来てバスジャックされるかも知れないという不安を抱きつつ、イラン国境に無事に着いた時、ホッと胸を撫で下ろした。



14

イラン ー


 イラン国境では税関吏がバスに乗り込んで来て、先頭から全員の乗客を眺め回すだけ。この税関吏が私たちアジア人の顔を見て何も言わないで、その後、すんなりと通関できたのは幸いだ。アフガニスタンで出会った欧米の旅行者が言っていたが、「イラン入国の際は大麻の所持検査を厳重に受け、今では監獄に20人前後の欧米人が留置されて退屈な日々を送っている」と。この国境からイランの首都テヘランまで1000キロの距離。


 テヘラン着。標高1200mで、かなり大きな町だ。この日はホテル泊まり。昨夜、野宿で被った砂をシャワーで洗い流して休んでいると、ホテル近くで女性の叫び声がした。何だろうと思ってホテルの玄関へ向かおうとすると、フロントに受付係りがいた。

「今、ホテルの近くで叫び声が聞こえたんですけど」

「泊り客のイギリス人女性がホテルの前で突然、誰かにからだを触れられたって言うんです」と受付係り。

「何か盗られたものでも?」

「いや、何も。いつものことですよ」

 ちょうど、その時、宿主がやって来た。

「ここでは外国人女性への触り魔が目に余るわい」と憤慨して言う。

 イランの法律はイラン人男性に寛容なのであろうか、日本では痴漢で訴えられてしまう。



現在のテヘラン・グリーンストリート


 翌朝、出発までには少し時間があるので、散歩すると道路を行き来する車の数に圧倒される。交通地獄と言うのか、排気ガスで多くの街路樹は枯れかけている。信号機もないし、その上、人間より車が優先だ。それから、食事はというとこの国はカバブ(ケバブ)しかないのかと思われるほど。北へちょっと行ったところにカスピ海があって、キャビアの有名な産地がある。しかし、値段が高い。他、ペルシャ絨毯と言う高価なものもあるが、とにかく、通過するだけなので、観光する余裕もない。トルコのイスタンブル―ルまであと2000キロ強。バスは予定通りテヘランを出発した。


 翌年12月、イラン革命の狼煙が上がって、当国は数年、閉ざされることになる。



15

トルコ ―


 バスはイランとトルコの国境に差し掛かる。イラン出国の際は聞くところによると、麻薬所持者には厳しい罰則が課されると。悪くすると死刑に処せられる。だから、手荷物の検査は厳しいものであろうと想像していたが、予想外に簡単であった。トルコに入国する際もスムーズに行った。いよいよヨーロッパとアジアの、そして、キリスト教とイスラム教の接点の国を横断することになる。最終目的地であるイスタンブールまでアト1000キロの地点で2回目の野宿。北に真っすぐ進むと「黒海」がある。夜が明けて早朝、出発。


 イスタンブール着。この都会はボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ・アジア両岸にまたがっている。バス同乗の日本人仲間とフェリーで公官庁が集中しているヨーロッパ側のイスタンブールに。それから、ホテル探し。4人用の部屋しかなく、安いホテルなので仕方がないかという具合で、少し落ち着いてからガラタ橋へ。夜も遅くなったので、ホテルに戻ると二人のヨーロッパ系の若い旅行者と相部屋になる。明朝、私たちはブルー・モスク(正式名はスルタンアーメット寺院)へ向かう。綺麗な寺院だ。入場の際、靴を脱がなければならないが、そのまま中へ持って入れた(今はビニール袋で靴を包んで脱がずに鑑賞できるようだ)。他に面白かったのはトルコ式のトイレで、個室内には水道の蛇口と水汲み用の小さなバケツが備え付けられている。これは手で局所を洗浄したり、排泄物を流すためのものだ。



イスタンブールのパノラマビュー  ブルー・モスク(右に見える大きな建物)


 トルコ風呂も興味深い。相棒と一緒に行くとキレイなお姐さんと思いきやプロレスラーまがいの三助さんがいて洗ってくれるが、洗ってくれるというよりも垢をむいてくれると言ったほうがよい。トルコには1週間以上滞在したが、私は鉄道でイスタンブール急行を使ってドイツのミュンヘンにまもなく向かう。相棒はかねてからトロイの遺跡を見たいと言っていたので、トルコ観光はまだ続けるそうだ。


 それから、トルコは親日家が多いのにびっくりした。これには歴史的な背景があって小話を一つ。トルコのエルトゥールル号が日本と繋がりを作るため、1889年に出港。明治天皇にトルコからのプレゼントを届けた。しかし、帰りに強風によって沈没。その時、和歌山の串本町の住民がトルコ人を助けて食料などを分け合い、皆が祖国に帰るまで世話をした。その後、1985年にイラン・イラク戦争が勃発した折り、日本に感謝しているトルコは、イランに残された日本人215名をトルコ航空の飛行機で迎えに行った。このようにしてトルコ人は日本に恩返しをした。



16

トルコ~ブルガリア~ユーゴスラビア~ドイツ ー



 長旅は同行者と出会うケースが往々にしてあるが、人生の旅もそういったものかも知れない。アフガニスタンからトルコまで一緒だった相棒とは2週間の旅を終えて、別れ際、「又、どこかでね」との言葉を交わして私は駅へと向かった。


 ドイツのミュンヘン行き列車は停車駅が少なく、ブルガリアの首都ソフィアの駅にやっと止まる。見ると近代的な建築でとても大きな駅だ。この列車に乗って覚えていることは殆どないのに、この駅だけが妙に頭に残っているのだが、後年、パリで学生と話す機会があり、ソフィア大学への留学が話題に上ると当駅の記憶が甦った。又、かの有名なフランス人歌手シルヴィ・バルタンが現在住んでいる実家が、このソフィアから50キロメートル程離れたところにあるという話も聞き及ぶ。彼女の1960年代を知らない方は末尾にレナウンのCM曲「レナウン・ワンサカ娘」のリンク先を案内しているので、ご視聴願いたい。



ソフィア市 町の中心部


 ミュンヘンまで40時間前後の長い列車の一人旅。旅の情感溢れる窓外の景色に浸り、ドイツにまもなく足を踏み入れるという充実感を味わいながら、食堂車で呑気に手軽なサンドウィッチを頬張っていた。


 ユーゴスラビア(当時)を経由し、オーストリアを通過したのかどうかは定かでないが、そうこうしているうちに列車はドイツのミュンヘン中央駅のホームへと滑り込んだ。



レナウン CM 1965年 シルヴィ・バルタン Sylvie Vartan「ワンサカ娘」篇

https://www.youtube.com/watch?v=3YiSAKWLh14 YouTubeにて



17

ドイツ ー


 ミュンヘンはドイツ南部にあり、金融、交通、文化の中心都市と 言われて久しい。又、ビールにソーセージとグルメな街の感じがする。それはさておき、先ずは急いでユースホステルを見つけて今夜のベッドを確保せねばならない。


 Siegestor ー ヴィクトリーゲート


 ドイツに行った日本の友人から「ドイツに行くならサウナに行け」と言われていたので、なんでそこまで熱っぽく語るのかわからなかったが、行ってみて初めて理解した。あらましは次の通りだ。


 翌朝、ユースホステルの受付嬢にサウナの場所を知っているかと尋ねてみた。「郊外に大きなサウナプールがあるが、普通のサウナなら市内のどこにでもある」と。この近くに彼女の行き付けのサウナがあるということで教えてもらった。

「持って行くものとしてはバスタオルだけど、持っていなければ、当サウナで貸してくれるわ。それから、午前中はじいちゃん、ばあちゃんが占拠しているから、若い女の子がお目当てなら、午後に行きなさい」と。別に若い女の子を探しているわけではないが、彼女の心遣いに礼を言う。



フィンランド式サウナ


 街で簡単な昼食をして教えてもらったサウナに行く。レセプションで手続きを済ませて着替え室に行くと男女の部屋が分かれていないのに気付く。すると肌を露わにしたカップルがサウナに行こうとしている。「ええ? これってあり?」と目のやり場に困った。フィンランド式サウナの部屋に入ると数人の男女が局部を隠すでもなくバスタオルを木の床に敷いて気持ちよさそうにからだを横たえている。私も同じようにバスタオルを敷いて横になっていると、次から次へと汗が噴き出し清潔感と爽快感に心が満たされるのであった。


 翌日の早朝、オーストリア経由でスイスのルツェルンに行くためにミュンヘン郊外に出てヒッチハイクを敢行した。



18

ドイツ ~ オーストリア ー


 ここはミュンヘン郊外。道路脇で親指を立ててヒッチハイクをしていると、ものの5分も経たないうちに目の前に車が止まった。


 オーストリアに車で行くには山道を上らなければならない。ドライバーは見た目には30そこらの男性。車の乗り心地は必ずしも良いとは言えないが、文句は言えまい。走行中、余り話はしなかったが、突然、彼は23ドルの相乗りの賃金を要求して来る。前後に車が見えないし対向車も殆どなし、こんな人里離れたところで降ろされると次の車を簡単につかまえられるかどうかわからない。高額の支払いを要求されているわけでもないので、彼の言った金額を手渡す。


 車はオーストリアの国境に達し、パスポートを見せるだけで、簡単に通過。暫く走って今度はスイスとオーストリアの国境に着く。オーストリア側から30メーター程行くと今度はスイスの税関吏が待っている。片田舎の検問所であるのか、中年のおじさん一人しか働いていない。先ずはパスポートの提示。日本の旅券を見せても反応がない。まるで日本を知らないようだ。次に私のリュックサックを細かく調べ出す。最初に出て来たものは羊皮のコート。このコートはヨーロッパの冬に備えてイスタンブールで買ったもの、新品同様だ。この税関吏はこれをスイスに持ち込んで売る気かなという顔付きでコートの前後を丹念に見回す。次にリュックから一つ一つ所持品を取り出して調べる。最後に所持金は幾らかと訊く。「17ドル」と答えると「リターン」と言って、オーストリアの税関のほうを指し示す。私を乗せてここまで連れて来てくれた彼は気の毒がって、先に払った23ドルをその場で私に返してくれた。



スイスに隣接するオーストリアのフォアアールベルク州


 私はとぼとぼオーストリアの検問所のほうに向かって歩くが、その時にある旅行者が私に語ったことを思い出した。

「国境で両検問所に入国を拒否されて、もうかれこれ10年、二国の間を行き来している人がいる」と。


 オーストリア側は若い税関吏だ。追い返された旨を伝えると、笑って通してくれる。「何で笑うんや? 面白くもないのに。」 しかし、「通してくれるだけでもマシだよな」と思い返した。この国境からさほど遠くないところに小さな村があり、幸いにも郵便局がある。日本に残してきた旅費を送金してもらうように実家に頼んだが、この小村に届くのはそれから10日後であった。



19

オーストリア ~ スイス ー


 ここはスイスとの国境近く、オーストリアの片田舎。野原と小村が一つあるだけだ。幸い空気がとても新鮮で、又、好天の日が続いたが、この村にはユースホステルもないし、ホテルがあったとしてもホテル代を払える所持金もなし。手持ち無沙汰で何もやることがないのだ。


 昼間は送金がまだかまだかと郵便局に足繫く通い、パン屋に行ってパンを買いジャムやバターを付けて食べ、又、チョコレートをサンドウィッチのように挟んで食べることもあった。夜は野原でシュラフに潜り込む。


 ある日、田舎道をアジア系の女性が手に本を持って、読みながら歩いてこちらにやってくる。先方も私に気付いて足を止め、お互いすぐに日本人だとわかったのか、「こんにちは」と挨拶した。

「こんなところで日本人に会うなんて思ってもみなかったわ」

「僕もびっくり」

「何をしてるの?」

「スイスの国境で入国を断れられて、ここで日本からの送金待ち」

「そう」

「何を読んでるのかな?」

「小説」

「ドイツ語で?」

「そう」

 こういった簡単な会話を済ませて二人は別れた。その後、道で再び彼女と出会ったのだが、この時は二人のオーストリア人の女友だちを連れ立っていた。談笑後、私は三人一緒の記念写真を取った。



フォアアールベルク州のスイス国境近く、とある小村で 1976年撮影


 彼女の女友だちを見ると高校生に見える。今、60歳ぐらいだな、どんなマダムになっているんだろう?


 この小村に滞在して10日後、送金が届いた。すぐさま鉄道駅に行ってスイスのルツェルン行きの切符を購入。列車内にスイスの税関吏がやって来て私のパスポートを一目見て終わり、いとも簡単に国境を通過したのだった。



20

スイス ―


 オーストリアの片田舎から列車でスイスのルツェルンの駅に着く。先ずは、3、4年前に働いたレストランのスイス人の経営者にお礼を言おうと市バスで郊外に向かう。

 

ドイツ語圏にあるルツェルンの街 そして カペル橋


 レストランは当時の姿そのままだ。玄関の呼び鈴を鳴らすと以前と変わらない店主が現れる。彼はすぐに私だと分かって丁寧にレストランに招き入れてくれて、テーブルを前に二人は座る。


「あれからどうしたんだい?」と店の主人が尋ねる。

「日本に帰っていました」

 このルツェルンは大都会ではないので日本のことは殆ど知らないと言ってよい。

「日本に帰る前、アフリカまで遠乗りしてサハラ砂漠を縦断しましたよ」

「ほお、そんな遠いところまで行ったのかい」

「ええ。面白いことにスイス人の若者3人と一緒になりました」

「へえ、それは奇遇だね」


 そこへ、ちょうど奥さんが通り掛かった。私を見て思い出したのか、笑みを湛えて挨拶をしてくれる。店の主人は「今夜、ここに泊まっていけば?」と親切に提案してくれるが、私は旅を続けるので辞退し、丁重にお礼を言って別れを告げた。思い出の残るルツェルンを後にして、ヒッチハイクでバーゼルに到着。



バーゼルの街を流れるライン川


 このバーゼルはドイツ・フランス・スイスの三国が国境を接しており、4年前、2、3日過ごしたところだ。今回も又、ユースホステルを利用する。次の訪問国はフランスなのでホステルの旅行者に当国のヒッチハイクの状況を尋ねると、皆、否定的な意見で、討論の結末は「やってみて事情が分かる」というものだった。



21

フランス ―



 スイスのバーゼルからヒッチハイクでフランスに向かう。拾ってくれた車はフランスのアルザス地方にあるコルマールまで行くとのこと。


 午前中にコルマールに到着し、午後はこの街の散策に費やすが、小さな街なので、端から端まで歩いてもそんなに時間を要さない。街の中心部に運河が走っており、近年、この運河を船で遊覧できるそうだ。



コルマール



 コルマールではユースホステルに一泊。早朝、コルマールの郊外に出て、ヒッチハイクを試みる。親指を立てて車を待つこと、2時間。その間、目の前を通過するのは農家用の車を思わせるシトロエン2CV。又、シトロエンDSが時々通過する。この車はエンジンを掛けると車高が上がるという代物だ。富裕層が多く所有しているが、車には家族と思われる人たちが乗っている。小さな子供たちは路傍に長髪と髭面の「かかし」が立っていると見まがい、遠のく私を窓ガラスに顔を押し付けながらじっと見詰める。



             

          シトロエン2CV        シトロエンDS 21



 時折りこの土地のトラクターが目の前を通り過ぎ、3時間、4時間と経つ。5時間目に至って、バーゼルのユースホステルで話した「フランスはヒッチハイクが難しい」という言葉が現実味を帯びて来る。6時間目にして、足と言うよりも親指のしびれを感じ始め街の中心部に引き返してパリへ直行する列車の切符を買い求めた。



22

フランス(2) ―


 アルザス地方のコルマールからパリに向かって列車は盆地を走り抜け、その後、平野に田園風景がずっと続く。数時間後、パリの東駅に予定時刻通り18時03分に着き、その正確さに驚く。日本を発ったのが4月の中旬、そして、パリ到着が今日、9月16日なので、5カ月を要しての旅だった。




東駅構内


 東駅到着と同時に急いでユースホステルへ。もう18時を過ぎているので早くホステルに行かなければならない。そうでないとベッドが確保できなくなる。東駅からさほど遠くないホステルを選んで向かったが、迷うこともなく無事到着。


 ユースホステルにはいろいろな国の若い旅行者が宿泊する。日本人は私しかいなかったが、東洋人の一人旅というのはまだ珍しい時代であった。西洋人の宿泊者がほとんどだが、彼らが私と話し始めて最初に尋ねて来るのは Where do you come from ? なのだ。



ユースホステル内、一室にいくつもの二段ベッド


 ベッドに座って明日見に行くパリの凱旋門を地図で確認し、安心して床に就く。隣のベッドではいびきをかく泊り客がいるが、私は気にもならず深い眠りに落ちた。



23

フランス(3) ―


 翌朝、ユースホステルから地下鉄でエトワール凱旋門に向かった。シャルル・ド・ゴール=エトワール駅で降りて地上に上がると凱旋門が眼前に現れ出る。南回りの旅の目的地がパリで、この凱旋門を見て最終と決心していたので、無事旅を終えたことを喜んだ。4年前に私はこの凱旋門の屋上のテラスまで登ったが、今回はラ・マルセイエーズの彫刻を広場越しに見るに留めた。



エトワール凱旋門



ラ・マルセイエーズの彫刻


 私はシャンゼリゼ大通りを下ってコンコルド広場に向かって歩いて行く。途中、老舗カフェ「フーケ」があるので、ちょっと大枚をはたいて、と言っても、カフェ・オ・レぐらいしかオーダーできないが、旅の成功を祝うのも意義があるだろうと思って足を向けた。秋の日差しもよく、又、午前中の早い時間なのでテラスの席は空いている。腰を掛けて一息つき通りを歩く人を見ているとツーリストが多いような気もするが、ファッションを観察するのには好適な場所だ。


 インド風の民族衣装を纏う一組のカップルがこちらに近づいてくる。男性は白髪の紳士で連れ添いはペルシャ系の可愛い顔をしている女性だが、年齢差は40あると思える。私は漠然と彼らを見ていたが、突然、椅子から飛び上がった。インドのタージマハルの男優と女優にそっくりなのだ!

「ムッシュー、どうかされましたか?」とウェイターが私に気遣う。

「いや、どうも」と意味のない言葉でつぶやく。

 大通りを今一度振り返って見るとカップルの姿はもうどこにもない。幻覚なのか、私は夢を見ていたのか。


 やっと落ち着きを取り戻して辺りを見渡すと、ジョルジュV大通りの向こうに1976年当時、あるはずのないルイヴィトンの建物がある。先ほどまで座っていたテラスの椅子もテーブルも消え失せていて、私はシャンゼリゼの歩道で茫然自失の態で立ち尽くしていた。



和訳・歌詞付きの曲「オー・シャンゼリゼ」。歌はダニエル・ビダル。彼女は70年代前半に日本で活躍した歌手。1976年から1977年に掛けて2、3回、パリで会っているので、懐かしさの余りご紹介する。リンク先はYouTube。動画で「CAFE Fouquet’s」が1、2秒確認できる。

https://www.youtube.com/watch?v=rK_v4iNQFV8


2021年4月現在コロナ禍により閑散としたシャンゼリゼ大通りに活気が戻ってくるのは数年かかるとしても、間違いなくやってくる。


「幽き旅行後記」は今回の第23話で一旦、終了とします。






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幽(かそけ)き旅行後記 JunJohnjean @ichijun

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