第5話 求婚と拒絶
私の怪我は生死にかかわるようなものではなかった。
母と父には泣かれたが、私が飛び出したおかげで、サヴィーノ殿下が傷を負わなくて済んだことだけは事実のようだった。自分がしたことが無駄ではなかったと知れて、それだけが誇らしかった。
ただ、背中に受けた矢傷は一生傷跡として残る。
身体に傷を負うことは、貴族令嬢として致命的で、婚姻の瑕疵となるのだ。
私は、おそらく今後結婚することはない。
でも、私は喜んでしまった。
この傷のおかげで。
――これで、私は逃げ出せるのだと。
今までの私は、サヴィーノ殿下を手に入れるに余りある十分な条件を持っていた。彼に見合うだけの身分と血筋、教養、気品、そして瑕疵のない体、その全てを持っていた。
だから、そんな私が彼の心を手に入れられないのは、私自身の人間性と魅力と努力が足りないせい。人間として本質的な部分が劣っているという事実に他ならなかった。
私は、追いつめられていたのだ。否定され続けるのに疲れてしまっていた。
でも、もう違う。
彼が手に入らないのは、この傷のせい。
もう私自身のせいではないのだ。
彼との幸せな未来を夢見ることはもうできない。
けれど、もう頑張らなくていい、否定されることはないのだという安堵と、愛する彼を守り切ったという達成感が私の心を満たしていた。
傷が癒えるまでの間、私は、父と母と兄弟以外、誰との面会も断った。
そして、自分のこれからを考えた。
その結論を出した今、私の心は、――とても凪いでいた。
◇◇◇◇◇◇
私は、二週間後、多少無理をして、早めに学院へ戻った。
「セラフィナ!! 心配したの! 怪我は、怪我は大丈夫なの!?」
「大げさよ。ソニア。そんなに大したことないのよ」
「でも、会わせてもらえないし、手紙の返事もないし、もう、私、どうしたらいいか」
目に涙を浮かべるソニアはとても純粋で、素直で、可愛らしい。
この子になら、殿下をお預けしてもいいかもしれない。
将来、彼女が殿下の伴侶になれるかはわからない。でも、今、殿下の心の傷を癒せるのは、彼女の持つ周りを巻き込むような明るさと無邪気さなのだろう。私は、そう認めることでやっとソニアに抱えていたもやもやとした黒いかたまりを払うことができた。
ソニアにあって私にはない、天性のその性質は得ようと思って得られるものではない。私が、今さら傷のない体を望むのと同じような事。
私は、凪いだ心で、ソニアの頭をなでた。
「お父様が心配されて、少し遠くの病院まで療養に行かされたのよ。それで、手紙のやり取りがしばらくできなかったの。手紙は、昨日読んだわ。嬉しかった。お返事がかけなくてごめんなさいね」
「ううん、セラフィナが無事ならいいの!」
「セラフィナ、後で、二人で話がしたい」
露草色の瞳を曇らせながら、そう伝えてきたサヴィーノ殿下は、少しやつれたような印象を受けた。
彼からも、何度も見舞いの申し出と、手紙が届いていた。
心配させてしまったのだろう。
「ええ、そうですね。私もお伝えしたいことがありますし。では、放課後にでも」
放課後、予約した談話室に赴くと、既に彼は待っていた。
そろそろ薬が切れる。私の体はだいぶつらくなってきていた。軽症を印象づけるために無理をして出て来てしまったせいだ。ちょうど明日からは休みだから、何とか持ち直せると思う。
私は、サヴィーノ殿下に、今日最高の笑顔を向けた。
「お待たせ致しました。サヴィーノ殿下」
「セラフィナ、僕と、結婚してほしい」
開口一番、彼は思いつめた表情でそう告げる。
彼ならそういうだろうと予測は、していた。
そして、私はその言葉をずっと夢見て来た。
でも、これは違うのだ。その言葉の裏にある気持ちは、私の夢見たものとは程遠い。
それなのに、くらくらする頭は、歓喜を叫ぼうとして、抑えるのが難しい。
最大限の努力をして動揺を押し隠すと、私は、ゆるく首を振って、決めていた言葉を紡ぎ出す。
「いいえ、受けられないわ。勘違いしないでほしいのだけど、傷は、残らないの。コルセットがあったから、そんなに大事ではないのよ。その証拠に、こんなに短い期間で学院にも戻れたでしょう? だから、あなたが責任を感じてそんなことを言う必要は、全くないのよ」
思い詰めていた彼の表情が柔らかくなっていく。
彼の心を軽くできたことに、私は、ほっと息をついた。
大丈夫。
何度も考えて、決めたこと。
この先のストーリーは、はっきりしている。
「あなたが責任を感じる必要は、何もないの。責任を感じるべきは、矢を間違えて放ってしまった彼らだわ。彼は侯爵家の方でね、彼からも婚約の申し出があったわ。でも、傷は残るものではないからとお断りしたの。キルレアの司法では、故意ではない今回の事故は、法的に大きな罰はないの。賠償金は支払ってもらうことになったけれど、私の傷は大きくないので、高額にはならないわ。その分、社会貢献活動はしてもらうことになったけれど」
私は、精一杯明るく彼に告げた。
お父様たちは、私に傷はないものとして扱うことに決めたのだ。
もちろん、こんな嘘は、本当に結婚したらすぐに露見する。
だから私は、「自分の意思で」この先結婚をしない。
「ねえ、私は、あなたを守れたことが誇らしいの。サヴィーノ殿下。逆の場合を考えてみて。あなたも、同じように思うでしょう? そして、その時、無理に婚姻を申し出てもらいたいかしら?」
「でも、君は傷ついて」
「言ったでしょう? 傷は残らないのだから、それは理由にならないわ……それに、前に話したでしょう? 私には、好きな人がいるって」
サヴィーノ殿下は、はっと息をのむ。
「あなたの求婚を受けられない本当の理由は、私に、好きな人がいるからだわ」
好きだからこそ、こんな瑕疵のある女を押し付けたくない。
好きだからこそ、同じ気持ちを返してもらえないうちは、結婚したくない。
好きだからこそ……これは、嘘ではないのだ。
「それは、ヘンリ?」
私は内心驚いてしまった。どうしてそこで彼の名前が出てくるんだろうか?
……ひょっとしたら、私がサヴィーノ殿下の方ばかり見ていて、そこにはたいてい、ソニアと、ソニアに好意を持つヘンリが一緒にいたから、そう思われたのかもしれない。
誤解だ。
でも、それもいいかもしれない。
判断の鈍る熱に浮かされた頭では、よい案が導き出せなかった。
私は、肯定するような微笑みを浮かべた。
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