第2話 私はまた選ばれない
あの時の画は、私の一生の宝物となり、私室の一角にある小部屋にそっと飾られている。
夜更けに一人でその小部屋に入ると、私は月明りの下でその画を眺めた。
水で濡れてにじんでしまった場所は修正せず、当時のままだ。キャンバスの木枠の歪みも、画のにじみも全てが愛しい。
私は、その画の左下に描かれた子供たちの姿をそっと指でなぞった。
明日、彼は、キルレア王国の王立学院に留学生としてやってくる。
彼は、七年の恋に終止符を打ち、心の傷を癒すためにここに来る。
私は彼の心を得る努力をしようと誓った。
でも、今すぐ彼に私の想いを伝える事は、きっと彼の負担になる。
だから今は、彼の側で支えとなり、彼の心が少しでも軽くなるように、少しでも早く過去の思いに心が傷つかなくなるように、他に心を向けさせてあげることに尽力しようと思った。
そして、願わくば、傷を負った彼を誰よりも近くで支えて、彼に少しでも心を傾けてもらえる存在になりたい。
そして、彼が次の恋をする準備ができたなら。
――その時こそ彼に私の五年間の思いを伝えたい。
◇◇◇◇◇◇
キルレア王立学院は、ティント王国と同様に、15歳から18歳までの主に貴族の子女向けの教育機関だ。サヴィーノ殿下は、私と同じ第二学年に編入される。
彼の編入理由は、ティントとキルレアとの交換留学で、王族としては特に珍しいことではない。しかし、サヴィーノ殿下が自国で、婚約者のいる公爵令嬢に横恋慕の末振られ、傷心のため国を出られたということは既に噂になっていた。ティントとキルレアは隣国で国交も盛んなことから、こういった情報も入ってきやすいのだ。彼の行為は、格差婚約という概念がないこのキルレアでは道徳的に受け入れられるものではなかった。
そして、数年前の婚約打診は公になっていないため、婚約者のいない私と彼は、対外的にはお互いが有力な婚約者候補とみなされている。そのことも彼の周辺を騒がせてしまう要因となってしまうかもしれないが、私は彼の側にいることを他の誰かに譲りたくはなかった。
彼は、私を頼り、傷を癒しにここに来たのだ。
私は、彼をできうる限りこうした外野の騒音から守り、彼の周囲を騒がせることがないように環境を整えることに腐心した。気心の知れた親しい友人たちに気づかってくれるように頼み、彼を受け入れる準備をしていた。
友人たちとは、明るく天真爛漫なムードメーカーの伯爵令嬢ソニヤ。生徒会役員で情報通の侯爵家嫡男アウリス、ぶっきらぼうだが面倒見の良い騎士団長令息ヘンリ、冷静沈着で正義感溢れる辺境伯令嬢トゥーラ、この四人である。
サヴィーノ殿下が学園へ来られた初日、私は学院長に応接室に呼び出され、彼と二年ぶりに顔を合わせた。記憶にある通りのはちみつ色の髪に露草色の瞳。けれど、整った面差しの彼の目元にある泣きぼくろに、当時は存在しなかったそこはかとない色気を感じて、思わずどきりとしてしまう。
彼は、記憶にあるよりも少し無邪気さが減り、憂いを増した笑みで私を出迎えてくれた。
どうしよう。彼がこんなに素敵になっているなんて思っていなかった。
「やあ、セラフィナ。久しぶりだね。随分、大人っぽくなった」
「お久しぶりね。サヴィーノ殿下。殿下もずいぶん背が高くなり、男性らしくなられたわ」
いっぱいになりそうな胸の内を必死に押し殺して、私がサヴィーノ殿下に笑みを向けると、学院長は大きく頷いた。
「事前にお話ししておりました通り、サヴィーノ殿下の世話役はセラフィナ殿下に
お願いいたしております。お二人とも気心の知れた仲だということで、殿下の学院生活を充実したものにしたいという、セラフィナ殿下たってのお心遣いでもあります」
「それはうれしいな。ありがとう。よろしく頼むよ、セラフィナ」
「ええ、任せてちょうだい」
私達は、お昼が近いこともあり、カフェテラスへ向かうことになった。
そこで、私は友人たちと彼を引き会わせることになっていたのだ。
「ねえ、サヴィーノ殿下。悩む間もないぐらい楽しい経験をたくさんしましょうね。私、色々考えてるの。最近キルレアでは、新しい施設ができたり、伝統的な物でも、斬新な楽しみ方の提案がされたりと、話題に事欠かないのよ」
「それは楽しみだな。僕の好みをよく知っているセラフィナが提案してくれるんだ。期待してしまうよ?」
「もう! ハードルをあげないでくださるかしら? でも、美術館の新しい楽しみ方はおすすめなの。ぜひ案内したいわ」
私は、久しぶりに会った片恋の彼の――それも、以前より数段魅力的になった姿に、いつもの倍くらい饒舌になってしまっていた。このままでは、友人たちに変に思われてしまう。落ち着かなければいけない。
「これから、私の友人たちを紹介するわ。気心の知れたとてもいい人たちなの。身分など関係なく、ずっとつきあっていけると思えるような人たちばかりよ。あなたともきっと気が合うと思うわ」
「その友人たちの中には……」
「セラフィナ!」
その時、カフェテリアの入り口で、待つ友人たちの姿が目に入った。伯爵令嬢のソニヤが令嬢らしくない仕草で駆け寄ってくると、サヴィーノ殿下と反対側の私の手にしがみついた。王子様の前でも取り繕わないところが彼女らしい。
「ソニア。待っていてくれたのね。ありがとう」
「うん。だって、人見知りのセラフィナをもって、親友と言わしめるお方だものね。早く紹介してほしかったんだもの! 同じくセラフィナの親友だと自負する私としては気になるわ!」
ソニアは、目の覚めるような美人ではないが、その屈託のない明るさと、くるくると変わる表情がとても魅力的な令嬢だ。――そして、ちょっと私の事が好きすぎるのだ。
ソニアは、私を挟んだ隣のサヴィーノ殿下を上目遣いに見上げながら、片腕で私の腕でとったまま自身の制服のスカートをちょっとつまんで申し訳程度に挨拶する。
「初めまして殿下。私、セラフィナの「親友」のソニアと申します。その外見でセラフィナをたぶらか、もごっ……大事なのは、中身なんだから!」
「おい、ソニア! 申し訳ありません。殿下。ほら、殿下が驚いていらっしゃる」
後ろから、騎士団長の令息であるヘンリがソニアの口を塞いだが、塞ぎ切れていない。
サヴィーノ殿下は許してくださるだろうが、私もソニアは初対面なのにちょっとやりすぎだと思う。苦笑いしながらフォローを入れるためにサヴィーノ殿下の方を向いて、――私は言葉を失ってしまった。
彼は、なんて顔をしてるんだろう。
まぶしいものを見るような、泣き出しそうな、切なそうな。
私は、そんな表情を形容する言葉を一つしか知らない。
「お手柔らかにら飲むよ。レディ・ソニア」
サヴィーノ殿下は、表情を隠すように彼女の側で腰を折ると、彼女の手を取って、その甲にキスをした。
昼下がりのカフェテリアは人通りが多く、そんな中、異国の王子が女生徒の手を取る姿は人目を引いた。
サヴィーノ殿下は、身体を起こすともう先ほどの表情は露ほども見せない。不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、セラフィナの一番の友人の座はゆずれないけどね」
「まあ!! それは私への挑戦ね! 勝負ということね! いいわ、受けて立つわ。我がセラフィナ殿下の忠実なる僕として、唯一無二の親友としてどっちが上か、勝負よ!」
「はいはい、注目されてるからもう行くよー。個室とってあるからそっちに行きますー。殿下、僕はアウリスと言います。こっちの不愛想なのがヘンリ。こっちの美女がトゥーラです」
アウリスとヘンリは胸に手を当てて礼をし、トゥーラも略式のカーテシーをする。
「殿下が寛容な方でよかったな、ソニア。ヘンリ、彼女のしつけは君の役目だろう。ちゃんと見張っておけよ」
アウリスは気づいたのだろう。本来なら皆を紹介しなければいけない私の背を軽くたたき、呆然としている私に正気に戻るように促す。
「……すまない。殿下、このきゃんきゃんうるさくて生意気な奴は適当に無視してください」
ヘンリが憮然としてつぶやくとソニアは、反論する。
「え? 何それ。ちょっとひどくない!? おまけにいつからヘンリが私のしつけ係……しつけってのもひどくない!?」
ソニアとアウリス達のいつも通りのやり取りが、とても遠く聞こえる。
「セラフィナ」
トゥーラも、様子のおかしい私を気づかうように私の手を後ろからそっと握った。
もしかしたら。
手紙に幾度も登場した、殿下の想い人の公爵令嬢。
ソニアは彼女に似ているのかもしれない。
本当は知っていた。
五年前のあの日、彼が、水に流れていった私の画を必死で取りに行ったのは、私のためではなかったことを。
それは、同じ過ちを繰り返さないという、彼自身の強い決意がさせた行為だったのだと。
彼が幼き日に、池に落ちてしまった「彼女」の宝物を取りに行くことができなかったという、心に刻まれた深い後悔の表れだったのだと。
いつも、彼に何かをさせるのは、「私」ではなかった。
そして。今度もまた。彼を癒し、彼の心を得るのは、「私」ではないのかもしれない。
――ああ、私はまた選ばれない。
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