三日目

 東京に来て三日目。俺は誰もいない部屋で目を覚ました。


 入学式まであと一週間と数日。

 その一週間と数日後に自分が通う大学の前までの散歩を済ませた俺は、アパートの近くにある公園のベンチに座って本を読んでいた。滑り台とのぼり棒とボール遊び用の金網で仕切られたスペースしかない小さな公園だ。


 小さな公園だってのに、子供たちとその保護者でごった返している。俺は昨日の東京駅を思い出していた。よく見たら、ベンチに座ってボーっとしている人間は俺しかいない。そのせいで子供たちしかいない景色の中で若干浮いている。ドラマとか小説とかの登場人物たちがそうしていたから、日当たりのいい公園で本を読んだりして最高の休日を演出するのは普通のことだと思っていたけど、どうやら違うらしい。そういえば新潟の公園にもわざわざ外に出て本読んでるような人はいなかったっけ。


 俺の近くを、鬼ごっこをしているらしい小さい子たちが駆けていく。俺が気まぐれに足を少しずらしたら、それに引っかかって転んでしまいそうな距離だ。何かあってからでは遅いし、俺も本を読んでいるだけで怪しい目で見られたり文句を言われたりするのは嫌なので、もう帰ることにした。文庫本をポケットにしまって立ち上がる。なるべく隅っこを歩いて講演の出口に向かうが、そこを座り込んでスマホをいじる子どもたちがふさいでいる。俺は子供が嫌いなわけじゃないけど、子供のこういう行動は死ぬほど嫌いだ。だから少しちょっかいを出してやりたくなるが、かといって声をかけてどかすのも、その子の親に見られて後で何か言われでもしたら面倒だ。俺は近くの植垣の隙間から公園の外に出た。そして探検がてら近所を歩き回り、コンビニでおにぎりを二つ買ってアパートに帰った。


 アパートに帰ってきてからはずっと本を読んでいた。新潟にいた頃からずっと積んでいる本をすべて東京の新居に持ってきていた。積み本を消化し始めるまでの心理的ハードルは高いが、読み始めると止まらなくなる。当たり前だが、積み本は過去の自分が選んで買った本であり、積まれている本は全て自分にとって面白そうだと思う内容のものしか無いのだ。


 俺は時間がたつのも忘れて、ひたすら本を読み続けた。ここは母の「ごはんできたよー」の声で読書の集中を解かれることのない、俺と本以外音を立てえるものが何もない、ただ静かで寂しい空間だった。でも俺は、一人暮らしの寂しさやこれからの不安をすべて忘れて、ただ活字の海に身を任せて物語の世界へ没頭することが出来ていた。


 そうやってどんどん読み進めて五冊目の本に突入しようかというとき、急にスマホが鳴り出した。母さんからの電話だった。時刻は、いつの間にか夜の十一時になろうかとしていた。


 「もしもし?久しぶり。東京どう?」

 「昨日帰ったばっかりじゃん。それにまだ一日目だから何とも言えないよ」

 「ミネラルウォーター買っときなね。こっちに帰ってきてから水道水飲んでびっくりしちゃった。やっぱ東京の水ってまずいんだね」

 「そんな高いもん買いだめなんてできないよ」

 「そういえば新幹線の中で調べたんだけど、そこから二キロくらい歩いたところに業務用スーパーあるから、そこも使いなね」

 「わかってる。明日行くつもりだったから」

 「あとアレ、換気扇に張り付けるカバーもね!換気扇のふちに磁石着くか見ときなよ」

 「うん」

 「それと、たまには安い鶏肉ばっかりじゃなくて牛肉とか魚も食べなさいよ」

 「うん」

 「入学式いつ?」

 「あと一週間とちょっと」

 「スーツ着れる?」

 「そりゃ着れるでしょ」

 「大丈夫?寂しくない?」

 「大丈夫」

 「米とか足りなくなったらいいなさいよ。送るから」

 「うん」

 「じゃ、何か困ってることない?」

 「まだ一日目だしわかんないよ」

 「そう?それじゃあ、何かあったら言いなさいよ」

 「うん」

 「何もなくても電話してきていいんだからね」

 「うん」

 「じゃあ私もう寝るからね」

 「うん」

 「おやすみー」

 「おやすみ」


 こちらが切る前に母さんは電話を切った。昨日まで一緒にいたのに、久しぶりに母さんの声を聞いたような感じがした。母さんの声を聞くと、さっきまで忘れかけていた寂しさが心の奥から再び湧き上がってくるような感覚がする。これは多分、あれだ。小さい子が転んで涙をこらえているときに、親に「おーよしよし、痛かったねえ」なんてあやされた途端に泣き出すあれと似たようなものだ。


 大丈夫。俺は寂しくない。

 母さんから電話がかかってきて、場の空気にあてられてそう感じるだけで、俺は大丈夫なんだ。


 俺はシャワーを浴びてベッドに潜った。


 ちょっと泣きそうになったけど、必死にこらえた。

 一人でいるのは寂しいという理由で泣くことが、すごく恥ずかしいことのように思えた。


 とにかく、俺はまだ、ここで泣くわけにはいかなかった。明日も俺は誰もいない部屋で起きて、誰も俺のことを知らない場所で一日を過ごす。


 寝て、明日に備えなければ。


 大丈夫。明日になれば───────

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