俺の引っ越しについて
日下部巧務
一日目
「ふう、ふう……ああ!やっと着いたあ!」
長い坂道を歩いて疲れきった母さんが歓喜の叫び声を上げた。
「ちょ、母さん、声でかいよ」
母さんはまだここを新潟の田舎だと勘違いしているのだろうか。俺はびっくりしてあたりを見回す。今は平日の朝とはいえ、登校や出勤ラッシュを過ぎた時間帯だからか、周囲に人影は見当たらない。四階建てのアパートを見上げても、誰も窓から顔を出したりしていない。よかった。誰にも聞かれていないみたいだ。
六畳の部屋が横に四つ並んだ、四階建てのアパート。
俺が今日から一人暮らしをするアパートだ。
東京に来て一日目。俺と母さんは荷物の片づけを始めた。
何もない部屋に掃除機をかけていると、インターホンが鳴った。慣れない手つきで鍵を開けると、そこにいたのは大きな荷物を抱えた黒猫マークの運送屋の配達員だった。俺と母さんは運送屋から家具を受け取り、協力して中に運び込んだ。俺がここで一人暮らしをするにあたって必要なものをあらかじめ新潟の電気屋と家具屋で買って、それを東京のアパートまで運送してもらったと言うわけだ。引っ越しの大変さは理解していたつもりだし、作業が一日がかりになることも覚悟していたけど、それにしたって量が多い。加えて、俺が今日中に片付けるべき荷物は、運送屋から届けられたものだけじゃない。俺と母さんはリュックサックをひとつずつ背負い、荷物がパンパンに入ったキャリーバッグをひとつずつ引きながら新幹線に乗ってここまで来た。正直、めちゃくちゃ重い。高校時代に運動していた俺でもそう感じるのだから、四十六歳で運動不足の母さんは俺の何倍もきついはずだ。運送屋から家具に電化製品に、一人ふたつずつのカバンに詰めた荷物まで。母さんは、それでもまだ一人暮らしをするには足りないくらいだと言う。本当にこんなに必要なのか。それとも俺が知らないだけで、一人暮らしを始める大学生はみんな、こんな重装備を背負って新居に向かうのか。ずっと家族と一緒に新潟で暮らしてきた俺には何もわからない。一人暮らしをするってことは、これから自分一人でそういうことを知っていかなくちゃならないってことなんだろうか。
荷物をアパートの俺の部屋まで運んでくれた運送屋は、ベッドの骨組みを組み立てて電動ドライバーで節々のねじ止めをした後すぐに帰ってしまった。ここからは俺と母さんの作業だ。俺はリュックからポリ袋にひとまとめにしておいた風呂掃除セットを取り出して、ユニットバスの掃除を始めた。
実物のユニットバスを初めて見たのは、この部屋の下見に来たときだった。そして、その狭さに驚いた。ユニットバスというのも知識としては知っているつもりだった。トイレと浴槽が一つの部屋に備え付けられていて、シャワーカーテンで水滴がトイレ側に飛ばないようにするアレだ。でも実際に見ると予想以上に不便そうだった。新潟の一軒家で育った俺にとっては想像より浴槽が狭く、座り込めるスペースもないと気づいたときは軽くショックだった。逆に、東京の自宅のユニットバスしか風呂を知らない子供だって少なからずいるだろう。そういう子たちにとって、風呂場で広々と足を伸ばす行為は日常的なものではないというわけだ。新潟には山と森と田んぼしかなくて、東京にはすべてがある。しかし風呂場で足を伸ばす自由はない。新潟の風呂場の自由と東京の文化的な自由の価値は到底比べられるものではない。どう考えても文化的な自由の方が重要に決まっている。でも俺は、自分は今まで恵まれていたのかもしれないと思わずにはいられなかった。俺は東京出身者の文化資本と引き換えに風呂場で足を伸ばしていたのか。文化と風呂場。自分でも不思議なことに、これはなかなか悪くないトレードだと思えた。
でも元々カラスの行水だったし、風呂桶が無くてもすぐに慣れるよな、なんて考えてたっけ。すぐ慣れる、というか、俺は嫌でもこの環境に慣れなければいけない。奨学金まで借りて大学に通うんだ。こんなことでテンションを落としてる場合じゃない。
俺は浴槽を隅々までスポンジで洗い、便器をブラシでこすり、壁にこびりついたカビに塩素系漂白剤を吹きかけ、入り口からユニットバス全体に向けてシャワーで冷水をぶちまける。ユニットバスはこうやって丸洗いできるのだ。これはなかなか便利だ。
風呂掃除を終えて、俺も母さんと一所に荷解きを始めた。スチールラックを組み立てて冷蔵庫の脇に設置し、そこに五合炊き炊飯器とオーブントースターを置く。近くの壁のコンセントに延長コードを差し込み、冷蔵庫の裏を通して家電類のプラグ差し込み口スチールラックの脇に来るように微妙な位置の調節を行う。その最中、原因はわからないけど、のどのイガイガというか、息を吸い込む感覚がいつもと違うような錯覚を覚えた。空気中の埃か何かだろうか。俺が風呂掃除をしている間、部屋には母さんが掃除機をかける音が鳴り響いていた。二回も掃除機をかけたから埃が舞いすぎたみたいな、そんな感じだろうか。俺は洗濯代を組み立てる母さんに声をかけた。
「ねえ、なんか喉イガイガしない?」
「東京は新潟と比べて乾燥してるからねえ。まだ体が気候に慣れてないとか?」
なるほど。気候の違いか。いわれてみれば確かにそれっぽい。
勝手に納得した俺は作業に戻る。持ってきた服やズボンをベッド下の収納に仕舞わなければならない。それが終わったらベッドの足のほうの床と天井に突っ張り棒のハンガーラックを取り付けて簡易的なクローゼットを作らなければ。
やることが多い。けど、こういう忙しさは嫌いじゃない。
途中で昼ご飯休憩を挟み、俺と母さんの引っ越し作業はそこからさらに四時間続いた。
夜十時になった。引っ越し作業の後は三駅先にある大手家具量販店で足りないものを揃えに行った。あれだけ荷物を持ってきたのに、必要なものはまだまだ多かった。新潟を出る前の俺の見通しが甘かったのかと思っていたが、母さんはこうなることを見越していたようだった。新潟のそれより幾分か狭い店舗を歩き回り、牛丼のチェーン店で夕飯を食べ、アパートについたのが夜八時。午前中から動きっぱなしだったからか、シャワーを浴びたら一気に睡魔が襲ってきた。寝る前に本でも読もうと思ったけど、そんなことをする気力は残っていなかった。母さんもだいぶ疲れていたみたいだったし、俺はいつもより二時間も早くベッドに入ることになったのだ。
「もう寝よっか。電気消して」
「はいよ」
俺がベッドの枕元のスイッチを押すと、部屋はすっかり闇に包まれる。この部屋の電気は調節が効かないタイプだ。当然、寝るときに真っ暗の一歩手前の明るさにしたりするなど、そんな器用な真似はできない。常に最大の明るさか、完全な闇か。その二つしかできないのだ。俺は、弟がいつも明るさを豆電球にして寝ていることを思い出した。あいつがこの部屋に泊まりに来たら眠れなくて文句でも言うだろうな。
なんとなく、弟に一言メッセージでも送ってやりたくなった。スマホの電源を入れてチャットを立ち上げようとすると、
「……ねえ」
床で寝袋にくるまっている母さんが話しかけてきた。もう寝たものだと思っていたから、少し驚いた。
「つらくなったら、いつ帰ってきてもいいんだからね。あんたの、高校卒業しましたって肩書きだけでも、雇ってくれるところはたくさんあるんだから」
「……うん」
それだけ言うと、母さんは寝袋の中で器用に体をねじって向こうを向いてしまった。
それを見て、俺は漠然と、ああ、言わせちゃったな、と思った。
俺は大丈夫、とか、ヤバくなったらそうさせてもらおうかな、とか、もっと気の利いたことを言えればよかったんだけど、言葉が詰まって何も言えなくなった。
「……くそ」
弟にメッセージでも送ってやろうかと思っていたけど、やめた。俺は頭まで布団をかぶって目を閉じる。
俺は中学のころから友達が少なかった。小学生の頃は誰もが当たり前にできていた友達作りのやり方を、俺はみんなよりも早く忘れてしまったのかもしれない。中学の奴らと顔を合わせるのが嫌だったから、勉強を頑張って県でもトップクラスの進学校に合格した。そこはいろいろな中学から頭のいいやつばかりが集まる魔境で、俺の成績はいつも中ぐらいだった。俺はそんな進学校で、部活をやってバイトもして、友達は少なかったし恋人もいなかったけど、まあ、そこそこ充実した毎日を過ごしていた。俺は理系だったけど本が好きで、国語が得意だったから、文系の大学を受けることにした。本格的な受検が始まったのは高三の夏からだ。俺史上一番の努力をしていた時期だ。好きな読書を封印して机にかじりついた。英語の苦手も克服したし、模試の国語の成績は全国順位二桁の常連になるほど伸びた。
でも、第一志望の大学に受かることはなかった。模試ではA判定を取れていたはずなのに、補欠合格にすら引っかからなかった。受験は時の運なんていうけど、この時ほど自分の運のなさを呪ったことはない。おそらく当分は更新されることもないだろう。そして、俺は第二志望だった大学へ通うことになった。浪人した同級生もいたらしいけど、俺は浪人を一切考えていなかった。そこまで親に迷惑をかけたくはなかったからだ。
じゃあ、俺が今やってることはなんなんだ。こうやって東京のアパートの一室を借りて、一人暮らしの家具や家電を買ってもらって、授業料まで払ってもらって、バカにならない額の奨学金を借りて、親に心配かけさせて。だってのに、俺は心のどこかでまだ「第一志望に受からなくて残念だ」なんて考えている。本当に俺が、母さんや父さんの稼いだ金で大学に通っていいのか。今の俺が一番、親に迷惑をかけてるんじゃないのか。
自分が恥ずかしくなった。
考えても仕方のないことだとわかっていても、さっきの母さんの言葉が何度もリフレインする。
母さんに、あんなこと言わせちまった。
母さんは明日新潟に帰るってのに。
俺が大学に通うなんて申し訳ない。
こんなんで一人暮らしなんてできるのか。
マジで母さんの言うとおりになったらどうしよう。
ていうか、俺マジで一人暮らしするのか。
こんな知り合いが誰もいないような場所で?
バカすぎるだろ。
母さん明日新潟に帰るんだぞ。
俺は今まで友達いなくても平気です、みたいな顔して生きてたけど。
知ってる人がいなくなるだけでこんなに不安になるのか。
本当に大丈夫なのか。
大丈夫じゃなかったとしても、もうやるしかないんだ。
部屋も借りてるし、奨学金だって借りてる。
こんなとこまで来て、今更引き下がれるか。
本当に一人暮らしが始まるのか。
不安だ。
投げ出したい。
そんな考えばかりが、頭の中に浮かんでは消える。
将来の不安や自分にはどうしようもないことを考えすぎて眠れなくなることは今まで何度もあったけど、今回のは覚えている中でも特に強烈なやつだ。
結局、俺が眠れたのは、それから三時間後のことだった。
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