ミライヘノキセキ

野々山嵐

第零世界 白紙

 瞼を開けば、そこは真っ白な世界だった。


 男が目覚めたとき、そこには何もなかった。空を見上げても、足元を凝視しても、真っ白な世界。それが地平線の果てまで続いている。真新しい紙に落ちたインク汚れ、そんな異分子のような感覚を自分に覚える。


「なにが」


 あったのか、思い出そうとして顔をしかめる。異常事態というものは立て続けに起きるものなのだろうか。男は自分が誰なのか認識することができなかった。


「記憶喪失というものか。ところで、この知識はどこで覚えたのだろうね」


 返事はない。もちろん期待などしていない。喋っていないと発狂してしまうのではないかという漠然とした恐怖があった。だから独りでも喋り続けた。それが誰にも届かなくても。いや、もしかしたら誰かが見ているかもしれない。そう考えれば、やることは一つだ。


「推理をしよう。僕は何者なのだろうか」


 持ち物はないので名前は分からないだろう。着ている服にご丁寧に名前が刺繍されていれば早いのだが、そんなものはなく、むしろこの異常事態をより際立たせることになった。


 赤、赤、赤。


 おびただしい血痕が残るそれは、元々薄汚れた白色のシャツであることすら判別するのに苦労するほどの量だった。証拠1確保。


「家畜の屠殺でもしてたのかな」


 顔を引きつらせながら、思ってもいないことを呟く。力仕事をする者は手に豆ができると聞いたことがある。淡い期待を込めて手を開く。その手はとてもきれいだった。


「あれ、なにこれ」


 気になったのは、手のひらより少し下。両手首に付いている傷だった。不思議と痛みはないが、その傷の形状は察するに、何かしらのひも状のもので縛られた後だった。全身をペタペタと触り、追加で傷を見つけた。両足首とおそらく首元に同様のもの。さらに体のあちこちに火傷の跡があった。証拠2確保。


「証拠1は死因だろうな。証拠2は死ぬ直前の僕の状態か。手枷、足枷、首枷。もしや屠殺されたのって僕か」


 つまり何らかの罪により投獄されて枷の跡がつき、火炙りの後、斬首の処刑を受けたのだ、と予想した。ならば、これは贖罪なのだろう。この後何が待ち受けていてもやるべきことをやろうと、そう決めた。


 しかし記憶がないと自分が何をしでかしたのか全く分からない。殺人だろうか、強盗だろうか、国に反乱でもしたのだろうか。自分の罪状が何だったのか思い巡らせていると、足元から徐々に体が薄くなっていることに気づいた。


「さて、どうなるのか。罪人だというのが正しいとしても、まだ罪を自覚していないんですがね。これでお仕舞いではないだろうな。これから始まるのかな。私の贖罪の旅は」


 真っ白な世界に別れを告げるように、男は瞼を閉じた。

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