2.依頼

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 準備は十全。換気扇や窓のサッシまで清潔だ。大掃除なんて言葉じゃ生温いほどの徹底ぶり。趣味のホラー映画DVDコレクションを隠す場所がなかったことだけが気がかりだが、大した問題ではあるまい。


 築四十二年のワンルーム。風呂とトイレは分かれていない。この貧相な学生向けアパートが間もなく天国になる。なんせ天使がやってくるのだから。


 俺はPCでSNSを開いた。その天使の出で立ちを一度写真で確認したかった。いきなり実物を見てしまったら気を失ってしまうかもしれないからだ。悲しいことに俺は彼女とSNS上の友人ですらないのだが、別の知人がアップロードしたサークルの集合写真の中に彼女の姿を見つけることができた。


 柔和な笑みを湛えたハルは、瑞々しい百合のようだった。


 ハルが、家に、やってくる。これほど幸福な三文節に人類はまだ出会ったことがなかっただろう。終電を逃したので泊めて欲しいとの旨をメールでもらってから、ずっと薄っすら身体が痺れている。まったく、化石がなんだというのだ。たかだか数十億年程度地球より古いくらいの石ころで俺が止められるか。くだらない。思い返すと笑えてくるほどだ。


「どうして笑ってるんです?」


 ふいに、背後から声が聞こえた。脊椎が溶けてしまいそうなほど澄んだ声だった。


「ハル……?」


 彼女が立っていた。あまりにも唐突な降臨だった。


「お久しぶりです、先輩」


 写真で予行練習しておいてよかった。本物のハルは神々しさすら感じるほど可憐で、踏ん張らなければ膝が笑ってしまいそうだった。


「い、いらっしゃい」


 吃りながらも挨拶を済ませる。こちとら玄関先でどんなやり取りをするのかまでシミュレーションしていたというのに。鍵が開けっ放しだったか? それにしたって無断で入り込むか? 困惑する俺をよそにハルは矢継ぎ早に喋り出した。


「どうして私の写真を見てるんですか? もしかして、私の顔忘れちゃったんですか? 先輩がサークルを引退して院に行ってからお会いしてないですもんね」


「あ、いや、これはそういうことじゃなくて……」


 言われて気づいたが写真を出しっぱなしだ。いつこの家に入ったのかわからないが、写真を眺めてニヤついているところを見られたかもしれない。背中に汗がにじんできた。


「……突然すみません。あ、チャイムも鳴らさず入ったこともですけど、主に泊まるなんて言い出したことの方で」


「い、いや、構わないよ」


「でも、『何でいきなり俺のところに?』って思いましたよね」


「ま、まあね」


 こちらはハルのことをサークルのアイドル的存在として一方的に好いていた。だが、それほど親しいわけではない。SNSで繋がっていない時点でお察しだ。ハルなら他にいくらでも行くあてがありそうなものなのに、あえて、俺だ。


 それはつまり、俺に対して何らかの特別な感情があるということだろう。そうに違いない。


「実は、先輩にお話ししたいことがあるんです」


 ハルは頬を紅潮させて少し俯いた。俺は身構える。鼓動が騒がしい。口から心臓が飛び出してハルにぶつけてしまいかねない。


「私、宇宙から来たんです」


 喉のあたりまで登っていた心臓がストンと所定の位置に戻った。


「……はい?」


 あまりに予想外の言葉に、俺はなす術なく声を裏返させる。


「私はこの地球の遥か彼方にある星から来た宇宙人です」


 ……この子は何を言っているんだ?

 よし、冷静に考察してみよう。彼女が発した言葉の意味と意図を。


 まず考えられるのは冗談という説だ。一見告白しそうな様相を呈しながら想定外の展開へ。実にフリが効いている。俺本人は全く笑えないが、もし視聴者がいるなら手を叩いているかもしれない。


 そして第二の説。おそらくこれが本命だろう。彼女には本当に行くあてがなかった。苦肉の策で俺の家にやってきたものの、そこには当然俺という邪魔で危険な存在が居座っている。どうにか俺が変な気を起こさないようにしたいはずだし、あわよくば野宿でもして欲しいところだ。そこで彼女が取った手段は、近寄りがたい危ない奴を演じるというもの。


「……俺は研究室に泊まるから、自由に使ってね」


 俺は空気を読んだ。そもそもハルが俺なんかに好意を抱くはずがなかったのだ。馬鹿げた期待をしてしまった。


「ま、待ってください! 引かないで!」


「だ、大丈夫。誰にも言わないから」


「そうじゃなくて! 本当なんです! 私は宇宙から来た者です!」


 ハルは不思議と食い下がった。その目は真剣そのもので、冗談説すら当てはまらないように見えた。


 俺は返すべき言葉を見つけられずただ狼狽える。彼女の狙いがわからない。かといって事実を言っているはずもない。あまりに荒唐無稽だ。


 ハルは動揺する俺に見兼ねたように、小さくため息をついた。


「……もう、仕方ないなぁ。証拠を見せますよ」


 彼女は指を鳴らした。


「さっきの写真、もう一度見てみてください」


 一体俺は何に付き合わされているのだと訝しみながらも、言われるがままにパソコンの画面を覗き込んだ。そこには先ほど食い入るように眺めたサークルの集合写真が表示されていた。


 ある異変に気付き、俺の体は硬直する。


「……ハルがいない?」


 先ほどまで彼女が微笑んでいた箇所に、誰の姿もなかった。


「ハルは私があなたに接触するために捏造した架空の人物です。その写真には元々写っていないんですよ。あ、ついでに先ほど私が送ったメールも消しましたよ」


 俺は慌ててスマホを取り出した。彼女の言う通り、ハルからの魅惑のメールが消え去っていた。


「な、何が起きてるんだ?」


 不可解な現象に頭の中がぐちゃぐちゃになりながらも、どうにか状況を整理する。


「ハルが……存在しない? だって俺は……」


「ハルのことを知っているし覚えている。そうですよね? それは私が植え付けた擬似記憶です。消しちゃいますね」


 彼女は再び指を鳴らした。

 なんということだ。見ず知らずの美女が俺の家にいる。


 言葉もない。ただただ背筋が凍る。俺がハルと認識していた人物は初めから存在しない。もはや、先ほどまで存在を信じていたことの方が奇妙に感じられた。


「君は何者なんだ?」


 狭い部屋のわずかなスペースを後ずさりする。彼女は先刻自らを宇宙人だと言った。それが本当なのかはわからないが、ただの人間でないことはもう疑いようがない。


「ハルでいいですよ、便宜上。宇宙人のハルです」


 あっけらかんと答え、写真の中から失われたあの笑顔を見せた。


「先輩にお願いがあって来ちゃいました。聞いてもらえます?」


 わざとらしく発された先輩という言葉が全く染み入ってこない。あれだけ恋い焦がれたハルが、身震いするほど異質な存在に変わってしまった。変わらないのは、彼女が途方もなく美しいということだけだ。


「……説明してくれ」


 聞かなければ何をされるかわからないという恐怖と、彼女のためなら何でもしたいという感情がごちゃまぜになっていた。どうやら俺は、またハルに一目惚れしてしまったらしい。


「ありがとうございます! かなり込み入った話なのでダイジェストでお送りしますね」


 俺の協力の姿勢を受けて、ハルの表情がパッと華やいだ。


「まずお尋ねしたいのですが、先輩はゴールデンレコードというものをご存知ですか?」


「ボイジャーに載せたやつ?」


「そうです。よくご存知で」


 何かの本で読んだことがある。NASAが宇宙に放った探査船ボイジャー1号と2号には、いつか宇宙の誰かに回収されることを期待して地球人からのメッセージが搭載されていた。それがゴールデンレコードと呼ばれるものだ。


「私たちはあのボトルメールを拾いました。その中にこんな記述がありましたよね?『これは小さく、遠い世界からのプレゼントです。私たちの音楽、科学、写真、思想、感情が記録されています。もし私たちが滅んだとしても、あなたたちの心の中で生き続けますように』」


 彼女はゴールデンレコードの序文を暗唱した。間違いない。本当にボイジャーは宇宙人に拾われたらしい。


「かわいいことする人たちがいるんだなぁって、私たちわくわくしちゃったんです。早速コンタクトを取ろうと思ったんですけど、ちょっとした問題がありまして」


「問題?」


「もうなかったんです、地球」


「……え?」


 俺は太陽系第三惑星地球の日本という国にあるぼろアパートに立っている。わかりきった話だが、地球はなくなっていない。ハルは俺の疑問を感じ取ったのか、すぐさま説明を続けた。


「この地球は私たちが作ったものなんですよ。言うなればレプリカですね」


「な、何を言ってるんだ……?」


「『心の中で』生き続けるなんてみみっちいことはさせませんよ。そっくりそのまま再現してみました」


「……ちょっと待ってくれ」


 急展開に次ぐ急展開でついていけない。地球はすでに滅んでいる? さらに、滅んだ地球を丸ごと作り直した?


「混乱されるのも無理ありません。でも、がんばってください。こんなのまだ序の口ですので」


 ハルは小首を傾げて口角を上げた。かわいい。いや、かわいいとか言っている場合ではない。彼女の話を噛み砕け。


 彼女は宇宙人。そこはもう受け止めよう。そして宇宙人なら奇跡的にゴールデンレコードを拾うかもしれないし、拾ったら地球を見に行ったりもするだろう。さらに、ボイジャーは隣の恒星系に到達するのさえ数万年を要するらしいし、宇宙人が訪問した時点で地球が消えているというのも有り得る話だ。搭載されたメッセージが人類滅亡を前提としているくらいだ。


 だが、全く同じ星を作るなんて可能なのか? 第一、すでに存在しない星の歴史をどうやって知る? 星だけ作って後は別の歴史を辿るというのなら百歩譲って理解できるが……。


「君たちが拾ったボイジャーっていうのは、えーっと、元の地球が送り出したやつ?」


「ええ」


「この地球もボイジャーを飛ばしている。全く同じメッセージを載せて」


「だから、完全に再現したって言ってるじゃないですか」


 ハルはむくれてみせた。まるで何度教えても繰り下がりの引き算ができない子供に呆れるように。


「……では、説明のためにもう1つお尋ねします。ラプラスの悪魔という言葉はご存知ですか?」


「あ、ああ」


「すごい、さすが大学院生は教養がありますね」


 ラプラスの悪魔とは十九世紀に考案された思考上の存在だ。あらゆる物質の位置と運動量を把握する神のごとき知性を持つゆえに、一秒前に宇宙がどうなっていたのかを算出できるし、それと全く同様に未来すら断定できる。


「宇宙全ての物質を完全に掌握すれば、地球の誕生から終わりまであらゆる事象を逆算できるというわけです。あとはその計算通り、地球を作るだけです」


「確かラプラスの悪魔は原理的に存在し得ないと証明されているはずだ」


「うーん、ややこしいからカットしますけど、それはあなたたちが愚かなだけです。私たちは実際にこの地球を作ったじゃないですか」


 滅茶苦茶なことを平然と言ってのけるものだ。宇宙の構成物をまるっと式にぶち込み、その答えを算出してしまったと?


「とても信じられない。何か証拠はあるのか?」


「証拠ならさっき散々触ったでしょう?」


 ハルは少し後ろめたそうに呟いた。俺は彼女の言葉の意味するところを咄嗟には理解できなかった。


「今は研究室の金庫の中に」


 見かねたハルがヒントを出す。


「……あの化石か?」


 九十億年前という、地球の歴史より古い恐竜の化石。


「そうです。あれは私たちの不手際で残してしまったオリジナルの地球の残滓。私たちもまだまだ、神足り得ないということです」


 俺は言葉を失った。まだ彼女の説明を鵜呑みにはできない。地球が二周目であるなどというトンデモ学説なんて、古すぎる化石の一つくらいで受け入れられるものではない。


 だが、あんな無茶苦茶な年代測定の結果に理屈をつけようとすれば、そのような大胆な説でも持ってこなければ説明がつかないのも確かだ。


「私の目的はあの化石の回収です。それを先輩に手伝っていただきたいのです」


 それが、宇宙人ハルが我が家にやって来た理由ということらしい。そして……。


「協力してくれないと、人類が滅んじゃいますよ?」


 断ることはできないようだ。

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