黒部に連れられて、古いアパートに来ていた。階段を登り、黒部は202号室で歩を止めた。


「此処に武藤が居る」


黒部がインターホンを押した。


ピンポーンと言う間の抜けた音の後、僅かに間を置いて扉が開いた。


「誰ですか?」


「武藤和幸さんですね?」


物静かな落ち着いた声音で黒部が尋ねる。怯えた表情を浮かべて、小柄な男が此方を伺う。


「三年前、貴方はドルフィンから金を借りましたよね?」


武藤は顔を更に歪ませる。


「ひぃっ……」


突如、悲鳴を上げながら武藤は逃げ出した。


「待て、ゴルァッ!!」


黒部は叫びながら、武藤を追い掛けた。


階段を降りようとして、武藤が派手にこけた。


しかし起き上がって、フラフラとよろつきながら、尚も逃げようとする。


「まだ、逃げるか!!」


何処から見ても、黒部が借金取りに見えて、思わず笑ってしまった。


「あっ、てめぇ!! 香元よ、何が可笑しいんだよ!?」


「悪い。つい……」


「全く……」


煙草に火を付けて、溜め息をつく黒部。武藤は観念したのか、座り込んでいた。


「驚かせて、済まない。俺達は、アンタに聞きたい事が有るだけだ」


「アンタら、借金取りじゃないのか?」


「あぁ。三年前、ドルフィンの元で、アンタはギャンブルをする筈だったよな?」


「あぁ、確かに俺はドルフィンに金を借りた。だけど、借金は帳消しになった筈だろッ……!?」


――借金が帳消しだと?


こいつは一体、何を言っているんだ。


「誰だ!? 誰が、そんな話を持ち掛けて来たんだ!?」


俺は問い詰めた。


「知らない。俺は何も知らないんだ!!」


怯えながら、涙を流しながら武藤は叫ぶ。


「知らない訳がないだろうが!?」


「本当に知らないんだよおッ!! 俺の記憶から、すっぽりと男の姿だけが、穴が空いた様に抜け落ちてるんだ!!」


「そんな訳が在る筈がないだろう。答えろよッ!!」


匂いで、武藤が嘘を付いていない事は理解、出来ていた。だけど、思い出して貰わなければならない。


「知らないぃ。本当に、本当に何も知らないんだぁぁぁッ!!」


「――待て、香元。何か、様子が変だ!!」


武藤が突然、白眼を剥いて震え出した。涙と鼻水と涎を垂れ流しながら、奇妙な笑い声を上げながら、武藤の震えは激しさを増す。


「大丈夫なのか。な、何と言うか……ヤバいんじゃあ、ないのか?」


黒部が心配そうにと言うべきか、焦った様子で言った。


俺も内心、武藤の此の異常過ぎる豹変に、驚きを隠せないでいた。


「ぐっ……がっ……ごっ……」


武藤は妙な声を上げて、起き上がった。


いつの間にか、震えは止まっていた。白眼を剥いていた目は閉じている。涙も鼻水も涎も垂らしていなかった。


「私に就いて、詮索するな」


武藤が先程の様子からは想像も付かない程、落ち着いた口調で言った。


「何だッ……!? こいつは一体、何を言っているんだ?」


黒部は動揺し捲っていた。


「良いか、香元よ。私の正体を詮索するな」


「――ッ!?」


武藤は俺の事を知らない筈だ。だが、武藤は確かに今、俺の名を呼んだ。此れは一体、どう言う事なんだ。


「此の男は、もう目覚める事はない。此の男からは、私の情報を引き出す事は出来ない」


そう言って、武藤は倒れた。


どうやら、気を失っている様だった。


「一体、何が起こったんだ?」


少し、落ち着きを取り戻したのか、黒部が情けない声で言った。


「解らん……」


俺の声も、かなり情けない物であった。


「取り敢えず、こいつを病院に運ぼう」


黒部が言った。


「あぁ。其の方が、良いだろうな」


先程の武藤は異常だった。此の儘、放っておいて死なれでもしたら寝覚めが悪い。


「香元よ。お前は、どうする?」


「イルカの事も在るし、今日の処は帰らせて貰う」


イルカが心配だった。もしもドルフィンの人格が目覚めたら、もしも彼女に何か有ったら、俺は一生、後悔する事になる。


「又、何か有ったら連絡する。其れから、今日の事は誰にも話すな。俺は暫く単独で行動するから、用が在る時はクローンの方に連絡してくれ」


そう言って黒部は、武藤を連れて去っていった。

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