『ぐげ』
コクイさん
第1話
「き!き!」
「そうだね、キリンさんだね」
娘が指差す先にはアフリカの乾いた大地、サバンナで暮らすキリンが描かれていた。
背の高い木の枝から生えた緑の葉っぱを口に含んでいる。
なにぶん、何十年も前に作られた図鑑なので、最近書店で見かけるような高画質カメラで撮った写真集のようなものと比べると見劣りしてしまうが、肉筆で描かれた動物たちはなんともいえない『味』のようなものがあるようで、娘はもっぱらこの図鑑に夢中だった。
「わんにゃ!」
次は犬か。
ボールを抱える犬が二匹、楽しげな様子でスケッチされていた。
娘のまなはまだ一歳になるかならないか、といったところだがここ最近はどんどん語彙が増えていく。
現在の彼女のお気に入りは動物のようだ。
休日になるたび動物園に連れていけ、とねだってくるのが可愛らしくもあり面倒くさくもある。
「まなちゃんはワンちゃんが好きだもんねえ」
感慨に耽っていると、顔をほころばせた妻がコーヒーとお菓子をお盆にのせて運んできた。
「そろそろおやつにしましょうか」
「ほらまなちゃん、おやつの時間だぞ」
膝にのせた娘をやさしく揺さぶるが、よだれを垂らして喜ぶばかりで一向に図鑑を手放そうとしない。
気づかないうちに握力も強くなってきているようだ。
「将来は読書家かしら?」
「学者になるかもな」
娘の淡い未来に希望を寄せながら二人して適当なことを言い合う。
「それにしても、俺が実家から図鑑を持ってきたときにはすぐ捨てようとしてたのにな」
コーヒーをすすり、クッキーを口に運んだ。苦味と甘味のバランスが程よい。
初めての子供ということもあり、妻はえらく神経質だった。
哺乳瓶の乳首は熱湯で消毒、離乳食はきっちり計量し、お昼寝の時間は分刻みで管理……
いま思うとあれは一種のノイローゼだったのだろう、と思う。
「うるさいなあ」
妻は俺の肩を小突きながら笑う。
「もともと古本の匂いが好きじゃなかったのよ。甘ったるいような、カビたような……なんともいえない香りがするでしょ?まなの健康にもよくないんじゃないかと思って。まあ、あんまり清潔にしすぎるのもよくないらしいけどね」
どんなに高い理想があってもどこかで折り合いをつけなくてはならない。
以前、全身バーバリーで揃えた親子を街で見かけた。
実家の支援を得ようにも、ど田舎のぽつんと一軒家に住む我が両親には年に一回会えるか会えないか、かといって義両親にはなかなか頼りがたい……そんな我が家とは天地の差だ。
しかし、羨んだところで手が届かないものはしょうがない。
そうやって少しずつ諦めながら生きていくのが人生なのかもしれない。
などとつらつら考えていると、まながまた図鑑を指差した。
「ぐ!げ!」
今度はなんだろう。パッと思い浮かばない。ゴリラ?クジラ?
「どれ?」
「ぐ!げ!」
父親の注意をひけて嬉しかったのだろう。
なおも図鑑の一点を指し続ける。
そこには猿のような犬のような黒い毛むくじゃらの獣が描かれていた。
全身真っ黒で妙に大きな口。
不揃いの黄ばんだ歯がぐちゃぐちゃと生えている。
ぎょろりとした目玉は魚を彷彿とさせる。
「なんだ……これは?」
「どうかしたの?」
妻が覗きこんでくる。
「いや、こんな動物いたっけ?」
「動物博士じゃあるまいし。あなたにだって知らないことはあるでしょ。実際に図鑑に載ってるんだからいるんじゃないの?私も見たことないけど」
呆れたような顔をした妻は、興奮する娘をあやし始めた。
一方の俺はというと、その獣から目が離せなかった。
なんだ?この生き物は?
図鑑にはどこで暮らしているだとか、なにを食べるだとか、そういった情報はなにひとつなく、ただ一言。
『ぐげ』とだけ書かれていた。
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