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 お腹は空いていなかったけど、牛丼というフレーズが頭に浮かんで牛丼チェーン店に入る。

 店内に入ると、独特のタレの匂いが熱気と共に漂ってくる。意外にも人生で初めてだった牛丼店で、どうすればいいか少し不安だったが、店員がいらっしゃいませこちらへどうぞと手際よく誘導してくれて目の前の丸椅子へ座った。

 置いてあったメニューを観ると、牛丼以外にも豚丼やらうな丼やらいろんな種類のものがあった。さっき案内してくれた店員がお茶の入った湯呑を私の前に置き、ご注文は? と聞かれる。 

「とりあえず、牛丼並みで」

 早いうまい安いをモットーにしているだけあって、お客にも早さを求める様で、少し急かされている気にもなりつつ、何を注文していいかわからず、とりあえず牛丼を食べることにした。

 牛丼を待ちながらアズサのことを思い出す。

 今頃、何をしているのだろう。

 私に負けて怪我をした彼女。同じように試合で怪我して引退して、彼女の気持がわかった。

 いや、わからない。

 同じようになったけど私は幸せではない。

 牛丼が運ばれる。本当に早い。

 一口、牛丼を口に入れる。

 匂いのままのタレの味と牛肉の柔らかい触感と甘い味、それを包み込むご飯の触感が一気に口へ広がる。美味しい。

 決して高級な味というわけではないが、ご飯と牛肉が上手に絡み合い癖になりそうな味。アズサは誘った彼に文句を言っていたけど、これはこれで誘われて嬉しかったのかもしれない。

  思わずその美味しさとアズサの気持ちを想像して、顔が緩んでニヤツイてしまいそうになる。

 こんなことでニヤツイてしまいそうになる私は、未だに取り巻く世界はクソすぎて最悪なのにどれだけ単純でくだらなくて愚かなんだろうと呆れかえる。

 一口、二口食べ進めていると、そこへ自動ドアが開き誰かが店内に入ってくる音がした。誰かが私の隣へ座る。

 今、店内にいる客は私を含めて三人しかいなかったのに、わざわざ間を開けず座ってくる。

 横目で相手の顔を観るとそこにはタイセイさんがいた。

「あ」

 声が自然と出てしまう。

「こんばんは」

 彼がさりげなくあいさつする。

「あ、はい」

「ここ座ってもいいですか?」

「あ、はい」

 突然のことに、はいとしか返事ができない。

「牛丼美味しいですか?」

「え? まあ」

「じゃあ、僕も牛丼大盛りで」

 店員に注文すると、かしこまりましたと店員がカウンターにオーダーをする。そのオーダーの声を聞いて、ファーストフード店でのバイトを思い出す。

 なんだか近頃、思い出すことが多い。それだけ、毎日が何もなくてくだらない証拠か。

「そうそう。ああやってオーダーされてせっせと君はポテトとナゲット作ってましたね」

 彼もほぼ同じことを考えていたことに少し驚く。

「あの後、あの後っていうのは、君が辞めた後ですが、フライヤーをやるのをみんな嫌がって、それがきっかけでスタッフ間の人間関係が悪くなったんですよ」

「え? どういうことですか?」

「いや、そのままですよ。君はあの店にとって重要なポジションだったってことです」

 私が? 彼は真顔で冗談で言ってそうにもない。だが、信じがたい出来事だ。

「嘘ですよね? あんな簡単で誰にでもできるところをやりたがらないわけないですよ」

「わかってないなあ。あそこは油を使うでしょ? だから、その跳ね返りとかでやけどするかもしれないじゃないですか。それにそこの店でナゲットとポテトは人気商品でよく売れる。だから、あそこのポジションが一番忙しくて嫌がられるんです」

 知らなかった。そんな話初めて知った。私の目からはみんなそんなこと話さずに、しょうがないなという顔で何食わぬ顔で私を見つめていたように映っていた。

「でも、店長からはいつ辞めてもいいと言われたりしました」

 ああ、と言って、彼は思い出したかのように鼻で笑う。

「それは君がミスをして怒られてシュンと子犬のような顔をしていたからだと思いますよ。人間誰しも叱りたくないし、自分もよくケアレスミスする人間ならば尚のこと自分のことを見ている様で嫌なんですよ」

 言っている意味がよくわからなかった。

「ケアレスミスって、あの店長がですか? 厳しい人だったけどテキパキと正確に仕事をする人だったじゃないですか」

「いやいや、結構やらかしてましたよ。それはレジとか接客は得意な人だったけど、特にスタッフのシフト割り振りなんていい加減で最悪。ここの時間こんなに要らないだろうって時にスタッフを多く入れてしまったり、ここの時間は足りないのにスタッフがいなかったりしましたしね」

 それで急に暇になったら帰らされたことがあったんだ。

「じゃあ、店長は叱るというより自分の感情で怒っていたってことですか?」

「そうとも言えるし、そうとも言えないかな。ちなみにその後、店長はなんか経理上でデカいミスをしたみたいで他店舗に飛ばされてましたね」

 渋谷で店長と会った時にあっと気まづい顔を店長の方もしていたなと気づく。

「でも私、店長から嫌われてましたよね?」

「知らない。そんなの。そうでしたかね」

 確かにどうだっていい。もうあの人とは関わらないわけだし。そうか。もしかしたら過去の記憶というのは事実とすれ違いというか勘違いしている部分もあるのではないか。

「じゃあ、私ってあの店にいても良かったんですかね?」

「知らないそんなの。それは君が決めることでしょ?」

「え? でも重要だったって」

「それはそうですよ。ミスはあるけど真面目で一生懸命で人が嫌がる仕事を黙々とやる、さらにシフトにも多く入ってくれて、都合が悪くなって急に帰れと言っても文句を言わず素直に帰る。そんな人は貴重で利用価値はあったんでしょうね」

「そういうふうにみんな言ってくれればちょっと違っていたかもしれない」

「まあ、そう声をかけると君がフライヤーをやりたくないと言ってくると思ったのかもしれないですね」

「そんな。クソじゃないですか」

 少し声が大きくなってしまい、牛丼を彼に持ってきた店員にギョッとした顔をされる。

「ちなみに俺は早くあのバイトを早く辞めてほしかったから、あえて何も言わずに君から爆発して辞めるのを待ってましたけどね」

「そうだったんですか? てか、ずっと気になっていたんですけどタイセイさんにとって私はどういう存在なんですか?」

「いただきます」

 彼は無視して美味いと勢いよく食べ始める。

「そうだ、そういえば、無断欠勤。どうしてそんなことしたんですか?」

 答えてくれそうにないので話題を変えてみる。

「俺がクソだからじゃないですか?」

 クソと即答する彼に何も言い返せなくなる。

「それで済まされるんですか?」

「そうですね。謝罪は後日しますよ。前からもう飽きたと思っていた仕事でしたし、辞めようと思っていたんです」

 なんて自分勝手な人間だ。口には出さなかったが、怒りがこみ上げて来た。

「不公平ですよね」

「何が?」

「何がって、あなたはそれで許されて人気があって幸せで、私は一生懸命必死でやっているのに認められなくて不幸でおかしい」

 おかしいのは自分のことを一生懸命とか不幸とか言っている自分だと心の中で叫ぶ。

「君ってさあ、思ったんだけど」

 口に牛丼を詰め込んだまま彼が話しかける。

「できるかできないか。いい人かそうではないか。モテるかモテないか、いつも二者択一で決めつけて一喜一憂していますよね。選択肢にどっちでもない。中間はないの?」

「え?」

「それに君はそんなに完璧な人間なの? 」

「完璧なわけない。むしろ最低な人間で、一番クソで、そんな人間が他人と比べて人のことを羨ましがったり妬んだりする権利なんかないと知っているけど、知っているけど」

 このまま人生が終わるのは寂しい。どうして生きることに絶望して死ぬことまで覚悟したはずなのに、そんな情けないことを言いそうになり、でも言えるはずもなくて言葉に出す前に泣きそうになる。

 また涙か。

「完璧じゃないのに、どうして自分にも相手にも完璧を求めるんですか? そんなの変でしょ? 」

「それの何が悪いんですか」

「そんなのできっこないなんてどうして気づかないんですか?」

 完璧を求める。求めていたつもりではないのに、どこかそこに近づけることが全てなのだと信じきっていた自分がいた。そして、それが不可能なのだとそんなのすでに気づいている。

「この世に生まれて来ちゃったなら、どうせならクソならクソなりにクソな世界で自由に面白おかしく生きればいい」

 それでいいんだ。

 何かが降りて来た。

 頑張らなくていい。卑屈になってもいい。くだらないことで笑ってもいい。

「よく泣くようになりましたね。何か安心しましたよ」

 辛くなったら泣いてたっていい。全ていいんだ。

「馬鹿にしてますか?」

「そうかもしれません。そんな君が可愛いし、愛おしくして仕方ないんだ。だから、君は君のままでいい。俺は君のそういう性格や取り巻く環境を変えたくて会いに来たけど、君は君でいいし、ただ生きているだけであとは何もいらない。完璧だ」

 完璧とか完璧じゃないとかどちらなんだ。でも不思議とその言葉は胸に響いて嬉しかった。

「君が俺に教えたかったのもこのことだったんですね。やっとわかったんです。だから俺は君みたいにいい子にはならないし、俺も俺のままでいい。みんなそのままでいい」

 そう言い放った瞬間、目の前から彼が消えていた。彼の座っていた席には空になった牛丼の丼だけが置かれていた。この時から時間が経つにつれて徐々に彼の記憶が消えていった。

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