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ヒカルちゃんと呼ぶ人がまたここにも出現した。
新しく始めた清掃のバイトは、スポーツセンター内の至る所を掃除する仕事で、つまらなくて汚いものだったが、一人で黙々とひたすら綺麗にするだけの業務だったからファーストフード店よりも単純で簡単で気楽でストレスが格段に少なかった。
「ヒカルちゃん。ちょっと来て」
トイレの便器を掃除していると、主任で社員である江沢さんが声をかけてくる。
ここでちょっと来ては、ファーストフード店と違い叱られるということではないので安心してはいと言って後をついていける。
一階にある事務室に入ると、そこには背が高い見覚えのある顔があった。
「今日から入る、田村君ね。何か、最近若い人が入ってくれるね。嬉しいよ」
タイセイさんだった。どうしてここにいるんだろう。
「あれ、ファーストフード店のバイトはどうしたんですか?」
「ああ、辞めました」
淡々と面倒くさそうに彼は答える。
「え? 二人とも知り合い?」
「はい。前のバイトで一緒だったんです」
彼が江沢さんに返事する。
「へえ。偶然だねえ。ちょうど良かった。じゃあ、教えてあげてねヒカルちゃん。頼むわ」
今日はヒカルちゃんに付いて回ってと言って事務所を後にする。
「ヒカルちゃんって呼ばれているんですね」
江沢さんが去っ直後、タイセイさんが口を開く。
「はい、そうですね」
ヒカルちゃんと呼ばれるのはやはり違和感がある。江沢さんから言われると親しみを込めて言ってくれているのはわかるが、少し嫌な意味での違和感がある。
じゃあ行きましょうか。と言って、とりあえずさっき途中になっていたトイレまで歩いていく。
「便器をこれでゴシゴシと掃除します」
説明するまでもないと思ったが、便器を便器ブラシで拭いてみせる。それを頷きながらタイセイさんは見つめていた。そのまなざしは仕事を教わるというよりもどこか違う思いで私を見つめている気がしてならなかった。
「あの、気になったんですが、どうしてファーストフード店の仕事辞めてこの仕事をしようと思ったんですか?」
「君こそ。どうしてこの仕事をしているんですか?」
アズサとの試合以来、クラブの試合に対する考え方が変わった。
試合後、スポンサーの男性がわざわざ控室まで来て、お金をくれた。金額は広言通り、いつもの倍どころか三倍くらいのカンパを手渡してくれた。
特に最後アズサが失禁したのが良かったそうだ。
次回も期待しているよと満足げに帰っていった。
勝てた。褒められた。
でも、それと引き換えに、何か大事なものを失った気がした。
それは自分が怪我をするかもしれないという恐怖もあるが、逆にまた相手に怪我をさせてしまったらと思うと、リングに立つのが怖くなった。
仲良くなって、自分が信頼したいと思っていた人だったから尚更だ。
試合中、自分が怪我をしたり、最悪死ぬことは覚悟はできていたし、どうでもいい。ただ、相手に怪我をさせてしまう。それが知り合いの場合もありうるということを考えてもみなかった。
そして試合に出たくなくなった。
クラブの選手はずっと続ける仕事ではないのかもしれないと感じて、それでも生きるためには稼がないといけない。ただ、求人サイトを見ても私にできそうな仕事が見つからない。
そんな時に見かけたのがこの清掃の仕事だ。時給もいいし、何となく自分でもできそうだと思った。
思った通り、清掃の仕事は私に合っていた様だった。ただ、このまま生きるために生きて何があるのか。
考えるだけ無駄であるが、考えるほどくだらなくて、何もなくて、どうしようもない人生を送っていて、変わらず価値のない人間で生きているのさえ申し訳なさも込み上げくてる。
「そ、そんなことタイセイさんに関係ないですよ。それよりも、私の質問に答えてくださいよ」
「じゃあ、俺も君の質問に答える義務はない。君には関係ないでしょ」
その通りだった。
私はそれ以降、彼とは仕事の話しかしないで各清掃場所を教えて回った。
タイセイさんはあんなにファーストフード店の仕事で頼りにされていたのに、どうして転職してきたのだろうか。何かトラブルでもあったのだろうか。
それでも疑問は消えることなく、やはり彼の目線を気になって仕方がなかった。
「あのさ、どうして田村君はこの仕事しようと思ったの?」
仕事を終えて、事務室に戻ると先に部屋にいた江沢さんが入ってきた第一声タイセイさんに私と同じことを訊く。
「それは面接のときお話した通りです」
「ああ、えっと清掃の仕事がしたかったからだったけ? それはそうだけどさ、何だろう。そんないい仕事かなあ」
「そうですか。おかしいですかね。あとは彼女が働いているからですかね」
タイセイさんは私の方をチラッと見る。
「え? 私?」
意外な発言に私も驚き彼の顔を見る。
「おお、君たちはそういう関係だったか。納得した」
それに対して、江沢さんが大きく何度かうなずく。
「ち、違います。違います」
慌ててそれを否定する。
「え? じゃあ、田村君の片思い? それは苦しいねえ」
彼は何も答えず俯いたままだった。
「確かに、二人とも言われてみればお似合いだよね」
お似合い。どういうことだろうか。
江沢さんのその一言に反論したくなる。
何も答えないところから、私なんかを本当に本気で好きということか。
だったら、タイセイさんは人の見る目のない相当趣味の悪いセンスのない人間だ。
急にさっきまで器用で頭もよくて気も遣えて人柄もいい彼のことが魅力的ではなくなっているのがわかる。
お似合いってことは、彼も私と同等な人間だということか。
底辺にいる人間。軽蔑に値する。
そこから彼とは余計な話をせず極力距離を置くことに決めた。
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