偶然だった。

 偶然、目覚まし時計の電池が夜中に切れて起きなきゃいけない時間よりも一時間遅れて目を覚ます。

 慌てて飛び起きて準備して家を飛び出して仕事先に向かうもギリギリ間に合うか間に合わないか微妙な時間。

 仕事先であるファーストフード店は自転車で十五分ほどの駅前にある。急げば五分で到着できるかもしれない。

 必死で自転車を漕いでいつもの通勤路を爆走する。

 しかし、こういう時に限って偶然信号が赤に変わる回数が多くてさらに焦りが募る。そして、あろうことか何でもない平坦な場所で偶然バランスを崩して転倒してしまう。

 幸いにも片膝を擦りむいただけで済んだが、痛みですぐに起き上がれず、やっと起き上がって漕ぎ出したときには就業時間を十分オーバーしていた。

 結局、到着したのが就業時間をニ十分過ぎていて、遅刻して当然ながら店長は叱責されることは確実だった。

 スタッフ通路から更衣室へ駆けていき、急いで制服に着替えて厨房に入ると、店長中山さんががそこにいて、あいさつをするなり「ちょっと来て」とピリッとさせる低い声で言われ元来た道を二人で歩いていく。

 一緒に向かう途中、叱られることはわかっていたが、気持ちがざわついてどう言えばいいか言い訳じみたことを考えるが思いくかばない。どうすればいいかわからず心の中でさらに慌てる。最悪だ。

 更衣室に一緒に入るなり、立位のまま案の上店長から圧迫尋問が始まる。

「どうしたの今日」

 声は張ってはいなかったが、空気が張り詰めているのを感じる。いつもしょっちゅう叱られている時に感じる嫌な空気。この空気を吸えば吸うほど冷静ではいられなくなる。

「いや、その」

 言葉が出てこない。

「ニ十分遅刻。わかっている?」

「はい。すみませんでした」

 とりあえず謝るしかない。

「わかっていない。ニ十分遅刻したのもうそうだし、さらに連絡もなし。ありえない」

 どうしてだ。ありえないなんて。確かに、私が悪いのはわかっている。でもそこまで言われてしまうと、私の社会性を全て否定されている気分になる。この空気と慌ててここまで来ていたから余計に気持ちも事態も悪い方へと向かうのがわかった。

「いや、目覚ましの電池がなくなっていて、慌てて起きて急いで出たんです。それで急いで自転車を漕げば間に合うって思ったから漕いだけど途中で転んでしまって」

 自分でも小学生が母親に言っているような会話を繰り広げていると話している途中で感じたが、今の精神状態だとこれが一杯一杯だった。

「はあ!?」

 それに対して店長が声を荒げる。同時に私も身体がビクンとなる。

「すみません」

 また失言か。言ってしまったことを分析する余裕がないし、悪いのは自分であることはわかっているから、また謝る。

「お前、ふざけんなよ。ここは小学校じゃねえんだよ! 馬鹿。何がすみませんだよ。自分を肯定することばかり言いやがって。目覚ましの電池がなくなって、自転車で転んだから遅刻は仕方ないとでも言いたいの?」

「いえ、決してそういうことを言いたいわけではないです」

 すぐに否定する。でも心の中では時計の電池が切れていた運の悪さを恨む。前はスマートフォンのアラームを利用していた時もあったが、それもうっかり充電するのを忘れて、バッテリー切れになったら嫌だなと思い、わざわざ電気店で目覚まし時計を買って使っていたんだ。遅刻は絶対にいけないとわかっていたから。特に何も取柄もない叱られてばかりの私はしてしまったら致命傷だとわかっていたから。最悪だ。

「じゃあどういうことだよ! ねえ」

 店長の中山さんは尋問してくる。中山さんは実年齢は知らないが私よりも三つほど年上の背が高くて恰幅の良い女性の社員だ。店長だから当たり前かもしれないが、仕事は早いし仕事はできるけれども仕事に対しては誰よりも厳しい。今日は昨日寝ていないのかいつもよりさらに顔がむくんでいるような気がした。

 「聞いているの? ねえ」

「は、はい」

 こういう叱られている時でさえどうしてだか雑念というか、他のことに気が向いてしまうことがある。最悪だ。こんな自分は本当に嫌いだ。叱られて当然だ。

「叱られているのわかっている?」

「はい」

「もういい。仕事戻って」

 話にならないわと、ブツブツ言いながら彼女は部屋を出て行った。そのあとを追うように私も出ていき厨房へ向かう。最悪だ。

 厨房に入り他のスタッフに挨拶を軽く済ませると、自分の配置場所であるポテトやナゲットを揚げるフライヤーと呼ばれる場所に立つ。

「ポテトM、ワンお願いします!」

 前のレジカウンターに立つスタッフから私に向かって声がかかる。

 しかし、叱られた後はいつものように気持ちを切り替えることが苦手な私は、先ほどのことを頭にこびりつかせたまま指示に従ってポテトを揚げる。

 一体、今仕事をしている私は周りのスタッフからどう思われているのだろう。

 遅刻してきたのはわかっているし、店長に呼び出されたのも観られているが誰も話しかけられない。どうしようもない、ダメ人間として見られているのだろうか。実際そうなんだから仕方ないが、空しくなるのはなぜだろう。

「すみません。LじゃなくてMを頼んだんですけど」

「あ!!」

 そうしているうちにミスをしてしまう。集中していない。

 また店長に怒られると思い慌ててMサイズの容器にポテトを詰めてトイレイに乗せる。

 ふと、周りを見渡すと店長はレジで接客をしていてこちらに気が付いていなかった。ほっと胸をなでおろすと同時に、笑顔で接客している店長を見てさっきまで叱っていた人間とは思えない変わりに身にプロだし大人だし自分はダメだなと落ち込む。

「ナゲット二セットお願いします!!」

 レジから声がかかると冷蔵庫から冷凍ナゲットが入った袋を取り出して湯で立った油の中にそれを十二個入れて温める。

 三分にタイマーをセットしてベルが鳴ったら取り出して提供するだけ。

 店長とはそこまで歳が離れていないが、私は社員ではなくバイトだ。誰でも高校生でもできるこのバイト。特別面白くもない単純作業。仕事なんてこんなものか。みんなそうなのか。

「ナゲットできました」

 タイマーが鳴って容器に入れたナゲットをトイレイに置く。

「あれ? これ、、、」

 と、受け取ったレジカウンターのスタッフが私の作ったナゲットを見て静止している。何かあったのだろうか。

「どうしたの?」

 そこへ店長が歩み寄ってくる。一気に緊張が走る。

 そのナゲットを見るなり店長は私の元へ早歩きでやってくる。

「これ作ったのって、あなた?」

「は、はい」

 そう正直に告げると店長は大きくため息を吐いてナゲットを見せる。

「これ、何分で揚げたの?」

 そのナゲットを見た瞬間、私のミスに気付いた。

「あ、えっと三分です」

 その回答聞いた瞬間、今度はため息と同時に舌打ちも聞こえる。

「ナゲットは十二個入れる時は揚げ時間は六分でしょ?」

「はい」

 またあの張り詰めた空気。またそれを吸わないといけない。

「このままお客様に提供したらどうするの? 偶然レジカウンターの子が気づいたから良かったけど」

「はい」

 とんでもないミスだ。しかも前にもこういう初歩的なミスをしたことがある。

「これで何度目? いい加減にしてよ!!」

 店長の怒鳴り声が厨房に反響する。何気に周りを見渡すとみんなこちらをチラチラ見たり手を止めたりしている。嫌だなあ。また叱られているとか思われているのか。

「ねえ。仕事舐めているでしょ」

「は、はい。そんなことは、、、」

 いやでも、さっき単純作業とか思いながら仕事をしていた。舐めているのかもしれない。

「今度したら、ホント、解雇です!! これ以上、あなたに給料を出せません」

 これじゃあ、給料泥棒よ。とブツブツと言いながらレジうカウンターに戻っていった。

 しばらくその場に立ち尽くした。

 給料泥棒。

 こんな誰にでもできる単純なことを私はできないんだ。

 私はダメな人間。

 そんな私に誰も話しかけてくれない。

 みんな呆れているんだ。それはそうだろう。遅刻もしてこんなミスを連発してどうしようもなくて、怒られるのも当たり前だ。

「あの」

「はい」

 そこへ入って六カ月のバイトスタッフの男の子が話しかけてくる。

「明日なんですけど、シフト変わってくれませんか?」

 話しかけられた時、どこか、助けてほしい慰めてほしいとか期待している自分もいて、そんな自分もダメだと思う。そんな自分も大嫌いだ。

「いいですよ」

「助かります!! 明日急に彼女とデートすることになっちゃって」

 本当は今すぐにでもここから帰りたい気持ちでいっぱいだったが、明日も何も予定はなく変わることでこんな自分が少しでも役に立てるのであればいい。少し我慢していればいいんだ。でもこれは少しの我慢なのか。

「ポテトL、ワンお願いします」

 そんな気持ちとは知らず、仕事は止まらない。

 レジカウンターに声がかかったように今度は間違えないようにポテトを詰めて注文通りトレイに入れる。

 そう、こんなものだ。私がこんなんだかから、こういう辛い目に合っても、辛い思いをしても仕方ない。

 仕方ないと思っても、どこかでこんな自分ではなくて他の誰かになれたらもっと幸せで楽しい人生もあるのかなと思ったりすることもある。

 人生なんてみんなこんなものなのかなとわがままなのかもしれないよ。自分に納得させる。

 こんなことに思いを巡らせているとまたミスをしてしまうので、何も考えず今の仕事に真剣にしていない不真面目な自分をもっと一生懸命するように言い聞かせた。


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