第81話 さらば瑞樹

 くるみたちの家の玄関で、瑞樹が泣きわめいている。


「いやぁぁぁぁ!」


 彼女は助けを求めるようにくるみたちに手を伸ばしていた。

 だが、どうしようもない。

 くるみとウラシマは苦笑する。

 彼女の手を取ることはできない。


「どうしてッ!?」


 信じていた恋人に捨てられたときの女性みたいな表情を浮かべた。

 相当ショックらしい。


(そんな反応をされても……困る)


 くるみはチラッともう1人の人物に視線を向ける。

 目が合った。

 その人物――蒼城流子はやれやれと言わんばかりに大きくため息をついた後、強引に瑞樹の手を引っ張る。


「いやぁぁぁぁ!」


 流子はいつもニコニコと微笑みを絶やさないお淑やかな女性である。

 少なくとも外見上は。

 絶対にここから動かないと駄々をこねる瑞樹を、玄関から外の廊下へと引きずりだす。

 重いものを持つことすらできなさそうな優雅な風貌からは想像もできない力である。

 ドナドナと引きずられていく瑞樹に別れを告げた。


「えっと……またね、瑞樹ちゃん」

「いやぁぁぁぁ!」

「思う存分楽しんできてくれ」

「いやぁぁぁぁ!」


 何度も何度も「いやぁぁぁぁ!」と叫びながら、廊下を引きずられていき、やがてエレベーターへと放り込まれた。

 瑞樹の声が聞こえなくなった。

 エレベーターが1階にたどり着いたのだろう。瑞樹の小さくなった声が聞こえる。

 近所迷惑にもほどがある。


「良かったのかなぁ」


 とても残酷なことをしたような気になってしまう。


「まぁ……仕方がないだろ」


 もうほとんど聞こえない瑞樹の泣き声をBGMにしがら、彼女があんなことになった理由についてウラシマと語り合う。


「蒼城家は名家だからな。色んな付き合いをする義務が生じてくる」

「ヴェノムと戦っていればそれでいいって訳じゃないもんねぇ……」

「面倒なことだ。少し羨ましくもあるが」

「私もフランスに行ってみたかったなぁ」


 瑞樹は蒼城家の都合でフランスへ渡航し、約1週間の間、上流階級との社交に明け暮れるのだ。

 観光する時間がどれだけあるのかは不明だが、一度も海外に行ったことのないくるみにとっては羨ましく思えた。


「今回ばかりは瑞樹が悪い」

「そうなのかな?」

「瑞樹は俺たちと一緒に暮らしていた。その間、蒼城家のことを投げっぱなし。一時的に戻ってきてほしいと頼まれても無視していた。だから瑞樹の母である流子が強引な手段に出たって訳だ」

「瑞樹ちゃん、私たちの生活を大事にしてたもんね」


 だから彼女は蒼城家に戻ろうとはしなかった。

 そう考えれば、くるみも悪い気はしない。


「まぁ確かに3人での暮らしは楽しいからな」

「ウラシマさんもそう思ってくれてるの?」

「そりゃそうだろ。可愛い女子高生2人に囲まれてウハウハな生活だ」

「か、可愛いっ!?」


 不意打ちの言葉に顔が真っ赤になる。

 前はウラシマから可愛いと言われてもそこまで意識はしなかった。

 でも今は少し褒められただけで心臓の鼓動が早くなる。


「きょ、今日から1週間、その……2人きりだね」


 くるみは以前に、ウラシマと2人でこの家に住んでいた時期がある。

 そのころは頼りになるお兄さん、あるいはお父さんのような存在だった。

 だからこそ2人で暮らしても問題なかった。

 でも今は違う。

 何度も彼に救われた。くるみの心を何度も救ってくれた。

 ウラシマはくるみにとって特別な男性だ。

 だから昔の2人生活と、今の2人生活ではまるっきり意味が変わってくる。

 好きな人との2人きりの同棲生活。

 ドキドキしないはずがない。

 意識しないはずがない。


「そうだな」


 ウラシマが頷く。

 彼はいつも通りだった。

 腹立たしくなるほどにいつも通り。


「むぅ……」




    ◆




 ピロリンと音が鳴る。

 くるみちゃんのスマホからだ。


「またか?」

「またみたい」


 呆れるしかない。

 これで何度目だろうか。

 瑞樹が流子に拉致されてしばらく、何度もスマホでメッセージを送ってくるようになった。

 タクシーに乗ったことで自由にスマホを触れる時間ができたらしい。


「あっ……」


 くるみちゃんが新しいメッセージを確認する。

 顔が曇った。

 何か良くないメッセージだったのだろうか。


「どうした?」


 気になってくるみちゃんの傍にいく。

 先にソファーに座っていたくるみちゃんの隣に座った。


「わっ!?」


 くるみちゃんは突然声をあげる。まるで石になったみたいに身体が固まった。

 いきなりどうしたのか。

 彼女にとって予想外のことが起こったらしい。

 俺が隣に座ったから……ではないだろう。

 確かに俺は34歳の男だ。

 17歳の女子高生であるくるみちゃんからすれば、ただのおっさんだ。

 そんなおっさんが隣に座れば、嫌悪のあまり固まってもおかしくはない……が、以前から何度もくるみちゃんとこうして同じソファーに隣り合って座っている。嫌がられたことはない。

 だから俺が隣に座ったことが原因ではないだろう。

 であれば、考えられる原因は一つしかない。瑞樹からのメッセージがそれだけ驚きの内容だったのだ。

 恐る恐るくるみちゃんが手に持っているスマホの画面を確認する。


『酔った。気持ち悪い』


 ん?

 想像していたような内容ではなかった。

 タクシーでずっとスマホを触れば、そりゃ酔うだろう。

 気持ち悪くなるのは当然だし、瑞樹の自業自得だ。

 どうでもいい内容……というのは言い過ぎだが、さりとて驚いて固まってしまうほどの内容でもない。


「どうしたんだ?」


 横にいるくるみちゃんの顔が真っ赤になっていた。

 雪の様に肌が白いからこそ、赤く染まる様がはっきり分かる。


「――ッ!?」


 我に返って動き出した――かと思えば、手に持っていたスマホが空中に跳びはねる。

 くるみちゃんはスマホを掴もうと手を伸ばした。

 慌てて動いてしまった結果、体勢を崩す。


 マズい!

 このままだとくるみちゃんが転倒する。

 受け身をとることもできずに床に身体を打ちつけることになるだろう。

 元勇者としての身体能力を活かして、くるみちゃんと床の間に移動する。

 くるみちゃんが怪我をしないように受け止めた。


「ふぇ?」


 ムニュムニュとした柔らかな感触が俺の身体を包む。

 抱き合って床に寝ころぶような形だ。

 くるみちゃんの体温や匂いがはっきりと感じられる。

 俺にとってはラッキースケベ。彼女にとってはアンラッキースケベだろう。

 くるみちゃんは俺の上に覆いかぶさっている。

 動揺しているのか、中々離れようとしない。


「その……ウラシマさん」


 不安そうに、それでいて何かを期待するような顔。

 吐息の混じった囁くような小さな声。

 いつもと様子が違っていた。


 俺とくるみちゃんは一緒に住んでいる。

 男と女ではあるが、その関係性は恋人のそれではない。

 単なる同居人。あるいは家族のようなものだ。

 くるみちゃんは俺に対して恋愛感情を持っていないと思っていた。

 彼女が向ける感情は父親や兄に向けるものに近いはずだった。


「退いてくれないか?」


 聞こえているはずなのに呼びかけに反応を示さない。

 ぽーっとのぼせたように、焦点の合わない目でこちらを見ている。


「……くるみちゃん?」


 目が、合った。

 その目には色があった。

 彼女の目は赤い。

 日本人離れした白髪赤目。白兎を思わせる容姿はくるみちゃんのチャームポイントだ。

 兎は寂しいと死ぬのだと聞いたことがある。

 ただの迷信であるらしいが、今の彼女はそんな迷信を思い出させた。

 普段とは違う感情が目に宿っている。

 何かを求める目。

 何かを期待する目。

 その『何か』が意味することは明白だ。


「……」


 くるみちゃんは目を閉じた。

 口を閉じて唇を結び、わずかに突き出す。

 向かい合った至近距離での行動。

 くるみちゃんは口づけを求めている。

 勘違いではないだろう。

 彼女の身体から伝わってくる心臓の鼓動が何よりの証拠だ。

 素早く、そして大きく刻む。

 鼓動が伝播して俺の心臓の動きも早くなる。

 いっそ流されてしまえと心の奥から欲が湧き上がった。

 一回り以上年の離れた少女の柔らかな身体に誘惑されそうになり――スマホの着信音で我に返る。


「み、瑞樹じゃないか?」


 くるみちゃんは不満そうに口を尖らせながら離れた。

 肌に伝わっていた熱がようやく遠ざかる。

 ホッとするような残念なような複雑な感情に戸惑いながら尋ねた。


「瑞樹は何だって?」

「あー……」


 スマホの画面を確認しながら呆れたような、困ったような反応を示す。

 くるみちゃんは苦笑しながら俺にスマホを見せた。


『スマホを没収しました。どうしても連絡をする必要がある場合は私に連絡してください。流子』


 あいつは何をやっているのか。

 ただただ呆れるばかりだ。

 くるみちゃんと2人で肩をすくめ合って苦笑する。


 瑞樹のお陰ですっかり気が抜けた。

 それはくるみちゃんも同じであるらしい。

 さっきまでの緊迫した雰囲気はどこかに消え去っていた。

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