嘘に染まる

 午前二時。

 セミダブルのベッドに埋め込まれたデジタル数字が教える時刻は、チェックアウトには全然早過ぎた。


 咽喉のどの渇きを覚えたわたしは、ふたり分のぬくもりから抜け出し、乱れた髪を掻き上げながら、素足をざらつくカーペットへ降ろす。

 けれども、なにも羽織らずに裸のまま、誘われるようにして窓際へと向かった。


 クラシカルな蔦柄のドレープをわずかにずらして、レースカーテンも開ける。

 素肌に浴びる冬の冷気。

 真っ白い窓ガラスの結露をそっと指先でぬぐいされば、濡れる感触が現在いまは夢から覚めていることを伝える。


 もう、どうしようもないくらいに、わたしは……


 見渡すかぎりの雪に覆われた深夜の街を背景にして、きらびやかなネオンのあかりが明滅するホテルの窓ガラスには、無表情でどこか悲しそうな表情の女が映っていた。

 自分の顔だ。


「まだ降ってるのか?」


 そんなわたしを不意に背中から包み込んだあなたの声が、耳もとで静かに心地よく響く。


「とっくに止んだみたい」

「そうか……寒いのは嫌いだ」

「うん……わたしも嫌いよ」


 振り向かずに外を見つめるわたしの首筋を、やさしく微笑ほほえむあなたの唇が何度も密やかにキッスをする。やがて唇は、耳朶へ……


 窓ガラスが映しだす愛撫──


 けれどもそれは、ふたりの吐息ですぐに消え失せた。


 場所をベットに移す。

 強く激しく、あなたに抱かれながら、わたしは目を閉じて考えていた。


 あれから何ヵ月が過ぎたのだろう?


 わたしたちが初めて結ばれたあのとき……隣で横たわる裸のわたしに、裸のあなたは言った。


「俺、結婚しているんだ」


 セックスのあと、突然聞かされた最低な告白──言葉を失っているわたしに、あなたはかまわず続ける。


「でも、君のことを愛している。妻にはもう、愛情がない……だから、こうなれて本当に幸せなんだよ」


 横顔を見れば、天井を見つめたままで淡々と幸せそうにあなたは語っていた。


「必ず妻とは別れるから。そしたら、ずっと一緒にいてくれるかな?」


 そう言って、やさしい笑顔がゆっくりとわたしに近づく。その瞳には、わたしだけが映っていた。


「……うん」


 それだけしかわたしは言えなかった。


 本当にあなたを好きだったから。


「ありがとう」


 一言だけそうつぶやいて、そっと唇を重ねながら覆い被さったあなたは、わたしの両手を握り、ふたたび腰を動かす。そんなあなたは、どうしようもない嘘つきだ。


 やがてあなたは、本当に奥さんと離婚をした。


 理由は赤ちゃんができたから。


 同じ職場のおとなしそうな女の子に、だ。


 彼女のことは詳しくないけれど、同僚たちのソレの噂話で、いろいろと耳によく入ってきた。


 そんな噂話の中に、彼女が入社して間もない頃からあなたと付き合っていて、それに気づいた奥さんが会社の上司に相談をし、彼女は違う部署へと移動になったというものがあった。


 それは、あなたがわたしに誘いをかけてきた時期とまったく同じで、それを聞いた直後に、わたしは不思議と笑顔になっていた。



 それでもあなたは、わたしと何も変わらずに会い続けた。


 おとなしそうな女の子と再婚してからも、恋人同士がするように、月に何度か待ち合わせをして、デートをして、食事をして、セックスをした。


 わたしも拒みはしなかった。


 感覚がおかしくなっていたのかもしれない。


 きっと、やさしいあなたの言葉を信じ過ぎて、もうすっかりと思考が麻痺しているのだろう。白く曇った窓ガラスみたいに、景色はもう、見えなくなっていた。


「本当に幸せでいられるのは、キミとこうして一緒にいられる時間だけなんだ」


 もう飽きるほど聞き慣れた言葉なのに、なぜか脳に、心臓に、全身に心地よく響いて染み込んでいく。


 渇きが、潤っていく。


 満たされ、あふれて、涙がにじむ。



 だけどあなたは、突然背を向けて行ってしまった。


 また別の、新しい女のもとへ。


 今度は家を出たあなたが、その彼女と一緒に暮らしていると職場で噂になっている。


 なにを聞いても、どんな事実があったとしても、きょうもわたしは、パソコン画面の前でキーボードを規則的にはじいて、一日を単調に終わらせるだけだ。



 夜には、デートの約束がある。



「ずっと一緒にいよう」



 何度もリフレインするその言葉が、無性に心地よく響く。本当にわたしの頭はどうにかなっていて、おかしいのだと思う。

 あなたはいつまでも恋人気分でいるようだけれど、それってズルいと思う。


 本当にあなたは、どうしようもない嘘つきだと思う。




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嘘に染まる 黒巻雷鳴 @Raimei_lalala

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