後編
それは、雨の日のことでした。
屋根に打ち付ける雨の音が部屋中に響いていました。
リヴィオは毎日同じ時間に私の部屋を訪れました。
私の部屋に本しかないことを知ってか知らでか、カードやボードゲームを持ち込んで勝負を仕掛けてくるのです。
なんだか幼い少年のように見えて、私も子どものように声を上げて笑いました。
ルールを教えてもらいながら、遊ぶのは何年振りのことでしょう。
友達もいない私にとっては、本当に楽しい時間だったのです。
時間になれば、「またね」と言って去って行きました。
今まで感じていた恐怖は嘘みたいにすっかり溶けてしまって、代わりに凍っていた感情が流れ出てきました。
気がつけば敬語もなくなって、私たちは昔からの友人のような間柄になっていたのです。
クレアが見た魔法陣は、病に侵された私がたどった末路だと思われたようです。
残り少ない時間を好きに過ごせばいいと思ったのか、狂ったと思われたかは定かではありませんが、私を相手にする者などおらず、とうとう誰にも追求されませんでした。
それをいいことに、彼は必ず贈り物を持ってきました。
世界樹から生まれたという幻の杖、繊細な絵が描かれた杯、魔界で使われている金貨、柄に宝石が埋め込まれた短剣など、どこから持ってきたのか分からない品物ばかりでした。
「他の女の子にも、そういうことをやっているの?」
「性別なんて関係ないよ。『色欲』である以上、呼ばれたら行くだけさ」
林檎の皮を適当に剥きながら、ぶっきらぼうに言いました。
ナイフの扱いも手慣れていて、何人にも振る舞っていることが容易に想像できるのです。
「犬の散歩から殺し屋みたいなことまで、何でもやってる。
本当、私たちを何だと思ってるんだろうね」
手で持て余しているそれを上に投げて、回転しながら落ちてくるのを難なく捕らえました。私のことも含めて言っているのは、まちがいないのでしょう。
他の人のところにも行っていると聞いて、少しだけ残念に思う自分がいました。
「ただ、運が良かったのは確かだろうね。他の連中は厳しいから」
「そうなの?」
「死にたくても死ねない連中は相手にするだけ無駄、死にたいなら勝手に死ね。
そういうふうに思ってるみたいでさ」
運が良かったのか、悪かったのか。
死にたかった私の元に彼らが現れたら、殺してくれたのでしょうか。
「だから、あんなことは二度と言うな」
短く言って、私のほうに厳しい視線を投げかけました。
その言葉だけは私のことを思ってのことだったのでしょう。
それだけはまちがいありませんでした。
***
それは、晴れの日のことでした。
雨もすっかり上がって、窓から緑の煌きが垣間見え、外の世界が輝いていました。
病気は悪化の一途をたどり、ベッドから出られなくなることも増えてきました。
くだらない話をするだけで終わるのに、リヴィオは必ず来てくれるのです。
「貴方、本当に悪魔なの? 実は天使か何かなんじゃないの?」
「今更、それを聞くの? あんな魔法陣を描いておいてさ」
「だって、こんなに良くしてくれるとは思わなかったから」
自然と笑みがこぼれました。
なんだか夢を見ているようで、未だに信じられないのです。
死に際の私にこんなことが起きるだなんて、ちっとも思わなかったのです。
「人は何も持たずに生まれ、死んでいく。死ぬときはすべて置いて行くの。
両親は病気の私が不自由なく暮らせるよう、いろいろと残してくれた。
死後の世界の旅には、必要がないというのにね」
死後の世界に持って行けるものは一つもない。
この魂ですら、どこへ向かうのか分からないのです。
常々思っていたことを口にすると、彼から笑顔が消えました。
「ある人は、髪の一部をくれた。
記憶が薄れないように、今も硝子の中で眠っている。
またある人は、何通にも渡る長い手紙を残してくれた。
未だにその返事は書けていない。
自分の資産を私に譲ってくれると言った人もいた。さすがに断ったけどね」
「その時はどうしたの?」
「時は金と同じ価値か、あるいはそれ以上だ。
資産の分だけ、いや、それ以上かもしれないね。
最期までずっと隣にいたよ。私の目の前で眠るように死んでいったんだ」
「見守ってくれる人がいただなんて……さぞかし、幸せだったでしょうね」
「穏やかな表情だったよ。不死身である以上、どうしても残される側に回ってしまうからね。これまで何人も見送ってきたんだ」
彼の元に形見を残して、死後の世界へ旅立って行った。
どれだけ長い時間を過ごしてきたのでしょう。私には想像もつきません。
「だから、いつも黒い服を着ているのね?」
「こうでもしないと、示しがつかないからね。
辛気臭いとか暑苦しいとかいろいろ言われるけど、変えられる物じゃない」
残された者としての覚悟と決意がそこにはありました。
すべてのものを背負って、歩いているのでしょう。
「骨の髄までと言ったのは私だけどさ、どうして骨を託そうと思ったの?」
死後の世界のことと同じくらい、考えていたことでもありました。
死んだ後の私に、何が残るのだろうか。
この体以外に、何が残るのだろうか。
「ここにある物は両親の下に戻ってしまうでしょうし……私に残るものなんて、この体くらいしかない。だから、どうしても受け取って欲しかったの」
それは、愛の告白にも似た言葉でした。物語でしか見られなかった場面のように、自分のすべてを託す相手が現れる日が来るだなんて、誰が思ったでしょう。
緊張感から解放されてふっと息をついた途端、彼は私をそっと抱き寄せたのです。
何が起きたか理解できなくて、目を白黒させ、心臓の鼓動が早くなるのを感じ、自分でも顔が赤くなっているのが分かります。
「杖に灯る暖かな光。杯に溢れる清らかな流れ。
剣に刻む追い風の鼓動。金貨に埋もれる大地の欲望。
空の方舟は満ちては欠ける月の元へ帰る」
歌うように呟いて、空いている方の手と私の手のひらと合わせ、指を絡めました。
大きな手が私をどこにも連れて行かせまいと、強く握っていました。
「青い満月の夜、迎えに行く。
どうか、それまで待っていて欲しい」
「それって、いつのこと?」
「分からない。そう遠くはないと思う」
長い髪が揺れたあたり、首を横に振ったのでしょう。
自分の死が近いことを何となく悟りました。
「大丈夫、私はここにいる」
私の耳元でささやいて、優しく抱きしめたのです。
これほど心強い言葉も生まれて初めて聞いたのでした。
***
それは、満月の夜のことだった。
青白く光る月だけが空に浮かび、窓から光が差し込んでいた。
彼女の言っていた通り、物言わぬ屍以外に本当に何も残らなかった。
彼女は眠るように死んだ。
ベッドに横たわっている姿は穏やかで、静寂をまとっていた。
「迎えに来たよ、ネル」
他に人がいたはずだが、物音一つ聞こえない。誰もが彼女を見捨てたのだ。
悪魔にすら興味を持たなかったのがいい証拠だ。
「初めて会ったあの日、君は私の名前を聞いてくれた。
その瞬間から私は『色欲』ではなくなったんだよ」
部屋に入った瞬間、死が近い者が放つ特有のにおいが鼻につき、止まっている時間を肌で感じた。これも死期が近い者の特徴だ。
いくら自分を殺して欲しいと頼まれても、どうしようもできない。
私は大罪の名前を与えられただけに過ぎず、召喚されても何もできない。
自分の魂を代償にして、誰かの願いを叶えて欲しいと言われたのは初めてだった。『色欲』の名前を聞いてもなお、恐れなかった。
リヴィオ・アメリアとしての私を見ていてくれた。それだけで十分だった。
「月が綺麗だね、ネル」
何も答えない体を抱き上げて、窓から夜空へ飛ぶ。
少女のような笑顔でいつも出迎えてくれた。
その割に食えない性格をしていて、自分の骨を私に託してくれた。
人目の付かない丘に降り立って、彼女を横たえた。
まずは、骨の周りにある肉をどうにかしなければならない。
「杖の火は魂の証。杯の水は涙の器。
剣の風は行く末の望み。金貨の土は再生への歩み。
彼女に月の導きがあらんことを」
肉は消え失せ、骨は砕け散り、天に昇る。
粉々になった骨だけが私の元に舞い降りて、喪服を白に染め上げていく。
純粋無垢だった彼女を思わせるような白さだ。
「この姿で隣に立てていたら、どれだけ幸せだっただろう……」
手の中で咲いた百合の花束を投げて、私はひとり呟いた。
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