風花(かざはな)

宮国 克行(みやくに かつゆき)

第1話 併走

智恵子は東京に空がないといふ、

本当の空が見たいといふ。



 ボクは不意にその一節を思い出した。

 自転車をこいでいる最中であった。

 一メートル先には、しなやかな背中が見える。ペダルをこぐたびに陽光をうけて長い黒髪が光る。

 そのまま凝視していることに何か後ろめたい気持ちになって、ボクはおもわず声をかけた。

「なぁ、あのさ……」

 本当は、声をかけるつもりはなかった。だから、小さい弱々しい声だった。にもかかわらず、彼女は、立ちこぎしながら器用に身体をねじって振り返った。

「え?なぁに?」

 ボクはドキリとした。

 風花が舞う風を受けて、彼女の髪が千々ちぢに乱れる。普段、彼女を見慣れているボクからすれば、今の彼女はけっしてわけではなかった。それでもその大きな黒い瞳が輝いて見えたからだ。

「なによ」

 彼女は、半分笑いながら不思議そうに聞き返した。

 ボクは慌てた。見惚みとれていたなんて言えない。とっさに言葉が出てきたのがこれだった。

「あ、いや、その……何かふと思い出してさ」

「何を?」

「ち、智恵子なんとかを」

「……チエコなんとか?」

 彼女は、口を尖らせて思案する。口を尖らせて思案するのは彼女の癖のひとつだ。マスクをしててもわかる。

「ほら。この前、最後、たにやんの授業で習っただろ?」

 彼女は、しばし、考えると、

「ああ、智恵子抄?高村なんとかさんの?」

 と言った。

「そう、それ」

 国語を担当していた、たにやんこと谷沢先生は、卒業前、最後の授業で、智恵子抄を板書して教えてくれたのだった。

 高村光太郎の智恵子抄、本当は知っていたけれど、ボクは、わざと知らないふりをした。

「その智恵子抄がどうしたの?」

 彼女が聞く。

「いや、なんか綺麗な詩だったなぁって」

 ボクの言葉を聞いて、彼女は、クスリと笑った。そして、いつになく真剣な表情になった。

「……」

「……ど、どした?」

 急に無言になった彼女にボクは慌てた。何か気に障るようなことを言ったのかと思った。

「……『智恵子は東京に空がないといふ、本当の空が見たいといふ。』」

 突然、さっきまでボクが考えていた一節を彼女がそらんじて見せた。

「え!?」

 思わず絶句してしまった。心を見透かされたかと思った。心臓の鼓動がドクドクと鳴る音がする。彼女に聞こえてしまうのではないかと思えたほどだ。

 驚きで固まっているボクを尻目に、彼女は、いつもの笑顔でこちらを向くと、

「さぁ、卒業式に遅れちゃう。早く行きましょ!」

 そう言うと、降りたときと同じように、しなやかに自転車にまたがり、行ってしまった。 

 ボクも慌てて追いかけた。


 その日限り、彼女とは会わなかったし、SNS上でのやりとりもなかった。


─10日後


 ボクは駅のホームにいた。

 同じ学校の多くの同級生たちと一緒だ。狭いホームには、数人の学校の先生もいる。

「よし!皆、元気でな。東京では、辛いことも多いと思うけど負けるなよ!」

 先生のひとりが、東京で就職する子たちにむかって言った。

 ボクは、無意識に彼女を探した。

 あちらこちらで、友達同士で別れを惜しんでいる。写メをとったり、ふざけあったり、中には泣いている子もいる。

 彼女の姿は見えなかった。

「ほら!そろそろ電車が発車するぞ!乗り込め」

 先生の大声が響く。

 皆、名残惜しそうに手を振りながら電車に乗り込む。

 その時、サッとボクの手に何かが当たった。

 見ると、彼女がそこにいた。ボクに素早く手紙を渡すと、一瞬だけ笑顔を見せて、すぐに電車に乗り込んだ。

 ボクは、あっけにとられて固まったままだ。

 発車のベルが鳴る。

 シュウと音を立てて扉が閉まる。

 電車は、ゆっくりと走り出して、そして、スピードを上げて行ってしまった。

 ボクの手には、彼女からの手紙だけが残されていた。



手紙には、QRコードとその下に、


『頑張ってくるね(*^_^*)♡』


 とだけ書かれていた。

 QRコードをかざしてブラウザを立ち上げてみると、そこには、智恵子抄の中の「人に」と題された、詩が書かれていた。


いやなんです

あなたのいつてしまふのが─


 と始まる詩を読んで、ボクは、いたたまれなくて、部屋から外を眺めた。

泣きたいのか、嬉しいのか、寂しいのか、苦しいのか、それとも全部なのか、ボクは全くわからなかった。

 ただ、ジッといつまでも外の景色を眺めていた。

 あの日、卒業式の日と同じ、風花の舞う景色をいつまでも、いつまでも。



               了



 






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風花(かざはな) 宮国 克行(みやくに かつゆき) @tokinao-asumi

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