サルビアの花をキミに
灰島シキ
プロローグ/追憶
真夏の昼/追憶
茹だるような暑さの日だった。
知らない電話番号から突然の着信。いつもならば無視するところだったが、その日は何故だか妙な胸騒ぎがした。
仲間たちに断りを入れ、溜まり場となっている古びたアパートの外に出る。
玄関のドアを開けると、真夏の陽射しが容赦なく身体を焼く。耳障りなセミの声に、思わず顔を顰めた。
留守電を残せないよう設定してあるスマートフォンは、右手の中で震え続けている。
「(長いな……)」
繋がるまで掛け続ける気なのだろうか。一向に切れる様子が無い着信に、胸騒ぎが大きくなるのを自覚した。
通話する前にひと呼吸。真夏の熱気が肺を犯す。大きく深呼吸して、気持ちを落ち着かせた。
「──もしもし」
意を決して電話に出ると、聞き覚えのある声が届く。
「もしもし、
「
電話の相手は、ずっと避け続けてきた女性。想定外の人物からの電話に、思わずか細い声を出してしまい、なんとも情けない気分になった。
そんな俺の様子など気にもとめずに、遥奈さんは少し早口で喋りだす。
「ごめんね、秋護くん。私からの電話は出ないだろうから、病院の電話を借りてるの」
「え、病院?」
遥奈さんの口から発せられた『病院』という言葉に、先程の胸騒ぎを思い出した。
心拍数が高まるのを感じ、唾液を飲み込み、喉を鳴らす。
うるさかったセミの鳴き声が、今は遠く感じた。
「落ち着いて聴いてね。実は──」
感情を押し殺したかのような声で告げられたのは、間違いなく人生で一番衝撃的な内容だった。
「は? 父さんが……事故……?」
頭の中がぐちゃぐちゃになった。
父が交通事故に遭い、意識不明のまま病院に運ばれた。怪我の状態はとても酷く、助かるかどうかは分からないという。
聞いても理解できない。いや、理解するのを拒んでいるのだ。
「遥奈さん、何を言ってるんですか」
「本当のことなの。とにかく急いで来て。病院の場所は──」
遥奈さんが、父が搬送された病院の場所を伝えてくる間、俺は流れる汗を拭うこともせず立ちつくす。
溜まり場から微かに漏れる仲間たちの笑い声が、愚かな俺を嘲笑っているかのように感じた。
☆
俺は父が好きだ。
道を踏み外した今でも、迷いなく言える。
母は、俺がまだ乳児だった頃に病気で亡くなったらしい。
その頃の記憶はある訳も無く、俺にとって親と呼べる存在は父だけだった。
☆
俺が幼稚園児の頃、父は友達の親よりも若く、それが嬉しくて何故か妙に誇らしい気持ちになったのを覚えている。
今考えると、馬鹿馬鹿しいマウントの取り方だと思う。
友達に父を褒められるのが嬉しくて、まだ人が多く居るうちに迎えに来るよう駄々をこねた。格好いい父を、皆に見てほしかったのだ。
そんな俺を見て、父は明るく笑って俺の頭を撫でてくれた。
父は料理が下手だ。
味付けは妙にしょっぱいし、ご飯が水っぽいことなんてよくある。
料理中にキッチンを覗くと、料理本を見ながら働く姿があった。
「適量ってなんだよ。詳しく頼む」
「皮はどこまで剥けばいいんだ?」
「中火ってどれくらいだ?」
ぶつぶつと独り言を呟く父の背中を見つめていると、視線に気付きこちらへ振り返る。
覗き見していた俺を見て、「あはは」と苦笑いを浮かべながら頭を掻く父。右手の指には、真新しい絆創膏が貼ってあった。
あの日の薄味のカレー、不味かったけれど俺はおかわりまでした記憶がある。
父は何事も全力だ。
休日に二人でゲームしている時なんかは、俺よりも熱くなる。
幼稚園の運動会でも、保護者参加のプログラムの時はやる気まんまんだったし、応援ももちろん全力。
カメラを回しながら全力で応援していたものだから、撮った映像を見てみると父の叫び声が大音量で入っていた。
頭を抱える父を見て、子供ながらに「バカだなぁ」と思ったものだ。
二人で野球した時、俺が投げたボールを全力で打ち返された時は流石に泣いた。
小学生になると、自分の家庭が少し変わっているのが気になりだす。
授業参観。友達の母親が小綺麗な格好をして教室の後ろに陣取る。
しばらくすると、父が息を乱しながら教室に入ってきた。仕事を抜け出し急いで来たのか、スーツが少し乱れている。
「しゅうごくん、おかあさんはこないの?」
授業参観が終わったあと、帰り支度をしながら友達が聞いてきた。
母がいない家庭で育ってきた俺は、当然のように「おかあさんはいないよ」と返す。
「そうなの? かわいそう」
「え? なんで?」
「だっておかあさんいないんでしょ?」
母親が居なかったら『かわいそう』なのだろうか。
幼い俺に、この疑問を解く力などあるはずも無く。
「おとうさんおとうさん!」
家に帰ったあと、この疑問をぶつけようと父を呼んだ。
何か言いたいことがあるのだと察したのか、背の高い父は床に膝をついて、目線を合わせ「どうした?」と訊ねる。
『──おかあさんがいないって、かわいそうなの?』
疑問の言葉は、父と目を合わせた瞬間、声にならず心の内に消えて無くなった。
父の目は、表情は、態度は、いつも通り優しい雰囲気でこちらを見ている。
しかし、そんな父の姿を見て幼い日の俺は、不思議と勘付いたのだ。
これを口に出したら、きっと父は困るし、悲しむだろうと。
「なんでもない!」
「どうした? 本当に何でもないのか?」
「なんでもないったらない!」
「……そうか」
結局俺はこの先もずっと母のことを聞くことは無かったが、このもやもやは、喉に刺さった小骨のように心に引っかかり続けることになる。
後々、母という存在について悩み苦しむことになるとは思いもせずに。
小学三年生になったあたりからだろうか、父が仕事から帰ってくるのが遅くなる日が増えた。
とは言っても、放置されていた訳でもない。寧ろ鬱陶しく感じるほどに、過剰に俺のことを心配していたと思う。
「学校はどうだ?」
「友達はいるか?」
「留守番は怖くないか?」
「寂しくないか?」
「なにか欲しい物はないか?」
昔に比べて少し遅くなった夕飯の席で、父の質問攻めが日常的に行われる。そしていつも、最後にこう言うのだ。
「ごめんな……」
何に謝っているのかいまいち理解できなかったが、俺は父に心配させたくない一心で『良い子』であるよう心がける。
小学生時代の俺は恐らく、同年代の子に比べたら大人びていた事だろう。
『良い子』であることを苦には思っていなかったし、父の役に立ちたくて掃除や洗濯も覚え始めた。
家事をこなしては『今日も役に立てた』と自己満足に浸る毎日。
そんな俺の姿を見て、父はどう思っていたのだろうか。
良い子だと思っていただろうか。
自慢の息子だと、思ってくれているのだろうか。
その答えは、思ってもみない形で知ることになる。
「会ってほしい人がいる」
小学五年生になった俺に、緊張を隠しきれない父がそう切り出す。
じめじめとした、梅雨の日の出来事だった。
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