とある公女のスピーチ

神崎裕一

第1話

 アディエル・オーセ・ベアタ・トルンクヴェストはその日、迷いを抱いていた。


 ベアタ公国、第一公子である彼がオーガスタ宮殿の中をぐるぐると迷い。時折顔を上げては下げるを繰り返すのには理由がある。今日が彼にとって特別な日だからだ。


ベアタ公国。東ヨーロッパに存在する小国家である。陽気な気温で穀物が盛ん。南には鉱石類が取れる山脈があり、国の名産と言えば豊かな農産物と鉄類。小さいながらも他国には決して負けない建国歴一三〇年に及ぶ歴史ある国家。その国家が新しい日を迎える。


 そう。今日はベアタ公国の新公王就任式である。アディエルの母であり、ベアタ女公であったミカエラが退任を発表。次の王を一人息子のアディエルに譲ると民衆に告げたのだ。


 理由は簡単だ。二十歳になったアディエルを早めに公王に就任させ、経験を積ませて良き公王にする為だ。ミカエラは相談役となり、若き公王を導くつもりである。聞けば普通の理由。されど、その話を最初に聞いたアディエルは悩みを抱いた。


それはこういう悩みだ。


――果たして自分は、公王の座にふさわしいのか? と。


 アディエルがそう悩む理由は、複数ある。一つは若さだ。アディエルは若すぎる男。公王らしい経験も。指導者としての計画も。国の進む道も。何もかもをわかっていない。世界情勢にも乏しい。もちろん乳母や学者達から聞かされてはいるが、実感が沸いていない。そして何より、先代女公となる母の存在だ。母ミカエラは、このベアタ公国では英雄だ。


 今から三〇年前、このベアタ公国はとある大国から侵略を受けた。一度、ベアタ公国の首都が占領され。ベアタ政府は降伏勧告を通告された。誰もが諦めた。もうおしまいだと。しかし。女公として君臨して間もないミカエラは違った。彼女は南に逃亡すると、まだ健在だったベアタ公国南方方面軍に指示を行い。同盟国のアークロ王国と共にエストニア帝国と戦い続けた。やがて世界大戦に発展したこの戦争で、最終的にベアタ公国はエストニア帝国を追い払い。独立を守り続けた。だからそれを知る者はミカエラをこう言う。


 ――目の見えない、若き娘。されど誰よりも先を見ていた素晴らしき女公。


 そんな存在が『母』なのだ。


 その次の王になれと言われて、自分がふさわしいかと思い悩むのは――当然ではないか。


「あら、アディ。ご機嫌よう。なんだか元気がない様子ですね」


 頭を悩ませていると、聞き慣れた声がしてアディエルは顔を上げた。すると、目の前に車椅子に座る五〇代になる婦人の姿があった。金色の長髪に落ち着いた物腰。柔らかいシワの付いた穏やかな表情とピンと伸ばした背筋。青色のコートを纏う車椅子に腰掛けた夫人こそ。


 そう。この国の女公。

 ミカエラ・オーセ・ベアタ・トルンクヴェストその人であった。


「わかりますか、母上」


 自身の目の前に『母』がいると理解したアディエルは、素直にそう尋ねた。

 すると、目を閉じたミカエラが優しく微笑む。


「ふふ、母ですもの。女公の前に私はあなたの母です。親というものは子の全てがわかるものなのですよ、アディ」


「母上には適いませんね。また、ここにいらしたのですね」


アディエルはそう言い、自分が迷い込んでしまった場所をぐるりと見回した。

 広い、広い通路の部屋だ。横長に広がるこの部屋はまるで博物館の展示品のように、壁に人物画を掲げている。

 掲げられているのは歴代のベアタ公国の公王達の姿だ。


「はい。私の日課ですから。こうしてこの場で、歴代の公王達を眺めていると。思う事があるのですよ。何か考え事をする時、ここが一番考えがまとまるんです」


女公ミカエラはそう微笑んだ。母親である彼女が長年、アディエルに向け続けてきた愛と優しさに満ちた笑み。心を穏やかにしてくれるその笑みをずっと見てきたアディエルは思う。なぜ。母上はこんなにも完璧な女性になれたのだろうか――と。


「……母上。お尋ねしたい事があります」


 思ったアディエルは、目の前にいる母にそう尋ねていた。

 アディエルの言葉に母が笑う。


「はい、なんでしょう」

「母上。三〇年前の戦争の時、母上はどうして戦えたのですか?」


 アディエルはそう言い。母の驚く顔を見た。

 その顔に、アディエルは弱々しく告げる。


「……母上。私は公王の座にふさわしいとは思えません。自信がないのです。必ず、必ず民は母上と私を比べます。母上に比べれば、私など何もありません。誇りを持って行った事などないのです。母上は三〇年前の戦争で、素晴らしい指導者として君臨なさいました。私と同じ年にです。私であれば逃げ出しています。怖いのです母上、私は――公王としてきちんと仕事を果たす事が出来るのでしょうか?」


 アディエルは素直に。自分の悩みを母に打ち明けた。

 勿論、アディエルはわかっている。

 今更、何を今更そのような事で悩むのか。

 自分は三〇〇万人のベアタ国民の王となる男。


 そんな男が公王の責務に押しつぶされているなど――笑い話も良い所ではないか。


 だからアディエルは胸の中で自分を責めた。あぁ、情けない。なんと情けない。

 こんな風では自分を信じている母上を――。


「ふふ。若い悩みですね。私も抱いたものです、同じ悩みを」


 しかし。目の前にいるミカエラはアディエルの悩みにほくそ笑んで見せた。

 ミカエラの思わぬ返答に、アディエルは目を丸くした。


 母が同じ悩みを持っていた?


「母上が、ですか?」

「ええ。アディ、私は今でこそ。国民に慕われている女公となりました。でも、あの戦争の前の私は世間を知らない、何も出来ない愚かな娘だったのですよ。演説をしようとマイクの前に立つと、震え上がって泣いてしまう。そんな女の子だったんですよ?」


 ミカエラの言葉に、アディエルは言葉を失った。

 それは想像出来ない話だったからだ。

 

このベアタ公国を先の大戦から守り続けた女公ミカエラが、当初は演説すら出来なかったと。三〇年前の戦争でベアタ公国を完璧に守り続け。その後平和なベアタ公国を築き上げた女が。


 今のアディエルと同じ、何も出来ない娘だった。――と言うのだ。


「ふふ。驚く事はありませんよ。そうですね、あなたには話しておきましょう」


アディエルの様子を悟ったミカエラはそう言うと、手を肖像画の方に差し出す。


「アディ。この壁に掲げられた絵を見てください。私の絵があるはずです」


 母の言葉に、アディエルは顔を上げ。

 二枚のベアタ公女の姿が描かれた肖像画を見る。二枚の肖像画。若き頃の女公ミカエラの姿が、そこにはある。それを見たアディエルはふと思い出したように疑問と向き合った。なぜ母の肖像画が二枚もあるのか? 普通は一枚のはず。


「二枚、ありますね」

「そう。二枚あります。よく見てください。一枚の私と二枚目の私。背の高さが違いませんか?」


 母にそう言われ、アディエルは肖像画を凝視した。

 確かに母の指摘通り、背丈が違う。


「どういう、事でしょうかこれは」

「この国には、私がもう一人いたのです。彼女との出会いは、あの戦争が始まる直前でした」


 アディエルはこの国の秘密に触れる事を悟った。

 故に彼は背筋を伸ばし、聞く姿勢を取る。

 そして。ベアタ公国、女公ミカエラは静かに。こう語り出した。


「ふふ。長い、長い話になります。あれは、私があなたと同じ年の頃の話でした」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る