CITY BLUE

桜庭 くじら

都会、喧騒

 夜は透明に染み渡って、世界を宇宙空間に組み込みだす、そんな時間だ。無色な光が建物から漏れてくるのより、ずっと強く光ったのも束の間、月を残して夕陽は消えた。黄昏を過ぎ、闇は深まり、喧騒けんそうを歩いている。


 高いビルでできているはずの大きな影の合間を縫って、人間は暗闇に馬鹿みたいに明るい空間を造りだした。きらびやかな夜の街は人工の光を溢れさせて、はしゃぐ態度でうるさくするくせに、時々、無意識に冷たい顔をする。


 街灯、ネオン、大きなガラス窓から漏れるLEDは当然のように襲いかかってくる。土砂降りだ。まさにその言葉が相応しい。様々な光がどの方向からも降ってくる。豪雨。冷たい光の粒を浴びる。肌を打つ。光の水滴は徐々に肌に染みて人を変えていく。


 道行く人は皆無表情だ。少し怒っているようにすら見える。それが誰とも関わらないようにするためだと知っている。

 私自身もその一人として、無口に無表情で、ただ斜め下だけ見て歩いている。



 独り、学校の帰り道、ネオンの輝く大通りを歩いている。お洒落なお店が並ぶ。暗いところはたいていライトが照らしている。やたら人がごった返すから、自分の歩調じゃいられない。窮屈きゅうくつだ。けれど眩しい世界だ。夜の都は綺麗過ぎた。この空間は誰かの望みの上にできている。


 燦然さんぜんとする街路の中で真上、空はいつも暗い。どんなに強い電球もきっとこの闇には敵わない。その事実が私を楽にするし、たぶん世界のどこかの他の誰かの心のり所にもなっているだろう。自分の心の中の暗がりがそれを求める。


 誰も関わって来なければ独りだ。夜の世界は上にある。完璧。私は雑踏ざっとうまぎれて、闇になって溶けていく。そうして空に飛んで、浮遊して、この街を見下ろして、罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせてやるのだ。


 少し面白い。



 携帯には誰からの通知も来ない。自分から連絡しなくなったら、誰も何も言わなくなった。もう持っている意味がないんじゃないかなと時々思う。この薄い四角の箱も人間を操るための洗脳装置なんじゃないだろうか。たぶん、そうだ。飲み込まれる人はきっと多い。案外人間は頭がいいはずなのだけれど。


 最近は我慢できなくて、意味もなくスマホを開いてしまうことが多い。近くの店先のベンチに座る。リュックに前に買ったペットボトルのジュースが入っていたので、飲もうかと思ったが、やめて代わりにスマホを取り出した。SNSのアプリをタップした。チャットの履歴を見ると、私が誘った言葉の後、その日は塾で行かれないと返信されたまま、時間が経っていた。いや、止まったのか。何も来ない。



 さらに遡ると彼から誘う言葉、恥ずかしくなるような台詞、上までいくと告白まがいの文面が並べられている。今なら気持ち悪いの一言で切り捨ててやれるのに、この時は少なからず嬉しくて、前向きな返事をしてしまった。迂闊うかつだった。盲目になりやすいから、相手の人間性を知ることが重要だと知っていたけど、私はまだ子供で、上手くはできやしなかった。急にもう嫌、って言葉が胸を覆い尽くして、いても立ってもいられなくて、スマホをポケットに雑にぶち込み勢いよく立ち上がった。



 私が積極的になりだしてから、奴は逃げ始めた。


 普段は拒絶することもなく、積極的になることもなく、申し訳なさげな表情と曖昧な言葉でひらりひらりと流していく。離れて欲しそうなのに、ふとすると寂しげな表情ですり寄って、ほんのわずかで繋ぎ止められてしまう。弄ばれている。不快だ。


 傷つけたくないからとか、本気で言っているの?私をいじめたいの?はっきりしないところはやっぱり駄目だね。死ね。



 あの人は弱い。


 やたらモテるから女を侍らせたいのかもしれないけど、そのせいでいったい何人を苦しめたんだ。私はあんたのペットじゃない。付き合うなら対等の相思相愛がいい。私だってあんたくらいはモテるんだけど。その気になれば男なんかいくらでもいる。


 もういい。


 好きになる勇気がないなら、私にはっきり拒絶のセリフを吐けばいい。好きな人がいるんだ、彼女がいるんだ、とかでもいい。とにかく言葉にして言ってくれればそれで落ち着く。話が終わる。


 けど、彼は言わない。

 他の女のことも、私のことも、何も言わない。時々弱々しい顔して甘えてくるだけ。


 そんなのやめてよ。踏ん切りがつかないよ。もしかしたら少しでも希望があるのかも知れない、って思っちゃうよ。


 ああ、また馬鹿なこと考えた。


 きっとあいつが今ここに現れて、私を抱き締めたら、私は逃げない。逃げられない。


 触れたい。触れて欲しい。離れて欲しくない。


 そんな堂々巡りを繰り返す私が心底大嫌いだ。





 駅前の雑踏。


 交差点は余計に鬱陶しい。人が多いところは面倒くさい。ひとりぼっちなのに、やたらと障害物が彷徨さまよっているせいだ。


 酔っ払ったみたいにふらふら歩いていた。気分は超不快で爽快、気持ちが悪すぎてむしろ最高だ。


 後ろから歩いて来た人の肩が、追い越しざまにぶつかった。リュックの中のペットボトルがぽちゃりと小さな音を立てた。


「あ、あ・・・・・・」


 息を飲んだ。時が止まった。瞳が瞳孔のさらに奥まで開かれた気がした。


 その人の流れるブロンドの長い髪は夜の中でも映えている。すらりとしたシルエット。溢れだす光の雰囲気。漂う甘い香りの中に、微かに彼の匂いを感じた。


 動けなくなった。後ろから来る人が斜め前に逸れていく。


 綺麗な人だ。


 彼女は私を一瞬見て目を細め、ごめんなさいね、と言った。澄んだ声だった。そして去って行く姿が、美しい。


 哀れだな。私は。


 一瞬であの人と自分を比べてしまった。そんなみにくい習性が、いつの間にか身に付いてしまった。あれもこれもあいつのせいだ。


 彼女の消えた方を、立ち止まって私はいつまでも見つめていた。




 裏路地からアパートの階段を登り、自分の部屋に帰る。三階。通りとは反対側に面した少し穏やさのある部屋。


 電気をつける気にはなれなくて、靴を適当に脱ぎ散らかして上がった。


 ここは他の場所より薄暗くて静かだ。


 リュックからペットボトルを出し、壁に寄りかかって一口飲んだ。


 キャップを閉めてくびれを左手の指先に挟んで、意味もなく揺らして中身をかき混ぜる。


 暗闇の中で心と環境が重なっていく。


 窓から入る微かな明かりが私の顔を照らす。


 愛している。


 なし崩しなものではあるけれど、確かに私は愛している。こうして胸が苦しくなって、誰かのものになってしまうことが恐くて、でも嫌われたくなくて、どうしようなく愛してしまっている。なんなんだ。本当に。


 ああ、嫌になった。


 こんなことさっさと忘れてどこか遠くに行けたらいい。あいつに突然唇を重ねられた時のことが生々しくよみがえる。ときめくな。拒絶しろ。思い切りひっぱたいて逃げ出せ。


 けれど現実は違った。私は心を許して自分から求めてしまっている。


 もう忘れられない思い出。


 記憶の箱に残ったきらめく感情。


 今でもスノードームみたいに綺麗に見えている刹那せつなの恋。


 そんなちっぽけなものに、いつの間にかがんじがらめに縛られていたんだ。


 どうしろっていうんだ。私は何もできない。あんたのせいで何もできなくなっちゃったじゃない。




 腕時計は午後8時を指している。


 もし今電話をかけたら、どうなるだろうか。


 スマホをポケットから取り出し、彼の番号を呼び出そうとした。


 ひょっとしたら繋がらないかもしれない。


 他の女といたら、私からの電話を拒否するだろう。


 なんだかむしゃくしゃした。


 腹が立った。


 遊ばれてたっていうのを、私が認めてしまっているのを再確認してしまった。


 もう嫌だ。


 こんなみじめめな自分が嫌だ。


 何かが不安を追い越して身体を動かした。

 思い切る、の言葉の意味を体感した。その時にはもう、音声通話をタップしていた。


 呼び出し音が長く続いていく。


 そのうちそれはふつりと途切れ、応答なしと表示された。



 泣きたくなんかないから、瞳は潤まなかった。


 ついさっきまで頭の中を渦巻いた言葉が、消えていく。そのうちのいくつかが、喉元に噛みついて、声になりたいって叫んだ。


 深呼吸をする。


 左手に持ったまま忘れていたジュースを、逆さになるほど高く持ち上げて一気に飲み干す。遠い街の喧騒、微かに届く明かり、そんなものが目の前にちらつく。液体はすぐになくなる。空にしたペットボトルは床に置いた。灰色の部屋の隅に透明な影ができた。


 スマホを横に置き、誰もいない宙に向かって呟く。


「もしもし、今日、午後9時、いつものお店に来て。お話ししよう?」

 

 きっと彼はもごもごと、行かれない言い訳を並べようとするのだ。ふふ、きっとそうだ。


 もごもごと、もごもごと。


 そのうちそれは、弱々しい私自身の姿に重なった。


 ああ、これは駄目だ。


 私は大声で重ねる。


 心の中の私がちゃんとわかってくれるまで、何度でも。


「これで最後!これで最後!こんなの終わりにしよう、私たち」


 いないはずの彼の、息を飲む音が聞こえた気がした。


 調子に乗って、私の全ての魅力が輝いて、あいつを飲み込む。彼はその波のなかでもがきながら、私に必死で手を伸ばす。


 ああ、現実は逆みたいにされてしまった。罠だ。そんなのは間違っている。私は前に進んでいかねばならない。


「やっぱ、私行かない。じゃあね」


 そしてその瞬間きっと、私は今まで最高の、とびきりのお洒落なドレスを着ていて、緩やかでしなやかな動きで身を翻し、彼の前から立ち去る。誰もが目を離せなくなる。私は、この街の誰よりも輝いて、美しい人になっている・・・・・・。


 とたんむなしくなって、独りのさみしさに襲われた。馬鹿だ。

 


 もし電話が繋がっていたら、交差点で会った彼女はどうなっただろうか。


 顔を歪めた美人を思い浮かべた。


 彼女は嫉妬しっとする?


 今度は怒りに全身を震わせて私に掴みかかる彼女を想像した。


 おかしい。


 もう私は何もしないよ。


 そして、たぶん、あのひともそんなことはしない。



 深夜。


 スマホで好きな曲を流す。軽快なピアノの旋律がこぼれる。ぼんやりとした照明が私の顔を照らしている。それがちょうどいいと感じるのももうやめる。押してだめなら引け。たったそれだけだ。馬鹿なふりをするのはやめる。賢く適切に判断ができる。いつも心配してくれた親友に後で電話して、今度どこかに遊びに行こう。


 一番が終わったところで止め、スマホの電源を落とし、私は自分の肩を抱きしめ、溢れてくる言葉たちをひとつひとつ噛みしめたが、どれをとってもいらないものだと思った。もう必要のないゴミだ。窓からでも暗がりに向かって捨てて置こう。ペットボトルに閉じ込めておくようなことは、もうしない。


 素直にこの気持ちを受けとめて抱き壊す。


 無理やりにやりと笑ってみたが、それはまだ不自然だった。



 暗闇の中。


 私はゆっくり立ち上がり、照明のスイッチへと手を伸ばす。指先にプラスチックの固い感触。上がっているシーソーを下ろせば、地面に降りることができる。


 明るいのも案外良いはずなんだ。私は小さな頃はいたずら好きな元気な子だったのだから。


 これでおしまい。


 さよなら。








 パチン

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CITY BLUE 桜庭 くじら @sakurabahauru01

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