観測員の死亡届

日々人

第1話 観測員の死亡届

身を打つ強い衝撃が。

それと共に唐突な眠気に襲われ、抗うことなく瞼を閉じた。

そして、朝が来たから、という当然の流れのようにして私は目覚め体を起こした。

という、そんな感じだったが、瞬時に違和感を感じた。

どうしてこんな硬いアスファルトの上に寝そべっているのかと疑問に思うのと同時だった。急にその自分と乖離したようにして分かれ、足元に置き去りにした一方の私を眼下に焦る。

この光景が理解できず、とりあえず手足をじたばたとさせてもがいてみたのだが、そのままゆっくり、ゆっくりと、空へと吸い寄せられ、横たわったまま動けずにいるもう一人の私と距離ができていく。

そこへ、私を跳ね飛ばした白いワゴン車から恐る恐る降りてきて屈みこむ、中年のおっさん。真っ青な顔。ちょっぴり禿げ頭。

自分の背丈を越え、電柱の高さも越え、たくさんの建物の屋根や屋上が見渡せるようになると体を吹き抜けていく風が心地よくもあり愛おしくも感じられた。

あぁ、そうなのか。

この、ゆったりとした時の流れ。

たぶん私は死ぬんだ、これがこの世の最後の光景なんだろうな、と遠く小さくなっていくだろう自分を、空から見下ろしてそう思った。

鮮やかな赤色を滴らせる私の傍で救急車とパトカー。

野次馬に囲まれながらも距離を取られ、ぽつんと立ち尽くす中年のおっさんよ。

信号は確かに青だったのにな、と一言だけ恨み言を遺したくもなった。


西日がこの小さな街をオレンジ色に染め上げはじめた。

このまま日が沈んで夜が訪れ、また朝が来れば日付は変わっていて、私は過去の人間となるのだろう。

自分の家、通った小中学校、当時好きだったクラスメイトの家、友達と語り合った小さな公園。

高校の最寄り駅、今の彼女のバイト先の建物、その彼女にさりげなく告白したコンビニの駐車場。

上空からでも案外そんな思い出の場所がよく目につくもので、また高校のブラスバンド部の演奏音がこんな上空にまで届いてくるのは意外だった。

そして、こんな上空まで鳥が飛んでくることが不思議でならなかった。

円を描きながら、しばらくの間、私が見えるのか見えないのかは知れないが、一緒に空を上った。

しばらくして、鳥は糞を放射状にまき散らしてから姿を消した。

もしも地上にいる人にそれが頭の上から降ってきたらたまったものじゃないな、と想像していたら後頭部に変な感覚が押し寄せた。

見上げると、私の浮かんでいるさらに上空に大きな鳥の影が見えた。

その残像を最後に、意識が遠のいていく。



 ー ー ー ー



先ほどまでのふわふわした感じが突然なくなり、それと同時に叩き落とされたような重みを全身で受けた。

どういうことだろう。

空から見下ろしていたはずの景色は一変し、今は低い天井が目の前を流れている。

カラカラという不慣れな音が耳にうるさい。

どうも、周囲の様子や傍らに居る人間の格好から察するに、私は担架に乗せられて院内を運ばれているらしい。

抜け殻になっていた体に魂が戻った、とでもいうのだろうか。

鈍い痛みが後頭部にあり恐る恐るそこに手をやると、赤黒い血と一緒に白い鳥の糞のようなものがこびりついていた。


「安静に!重症なんですからうごかないでください!」


看護師が私を叱り飛ばす。

視線が合う。

あっと、思わず大声をあげてしまったという、そんな表情だった。

私は別にその声に脅され怯えたわけではない。

でも、急に気が萎んでしまうような具合に、また意識が遠のくのがわかった。

暗闇に落ちたと思った瞬間、周囲の慌ただしい状況とは全く違う温度で語る、低く暗い声を耳が捉えた。


「まさか鳥に救われるとは珍しいこともあるものだ、メモしておこう」


 


 ー ー ー ー


 


 


「人間の一生というものは最後までが戦いなんだ。最後の。本当に最後まで。

 危篤状態になれば、人間は肉体と魂が徐々に離れ始める。

 それをもう一度合致したければ、何か重みを背負わせて沈めなければ魂は空へ昇り続け、肉体にはもう戻れない。

 そのまま上り詰めてしまえば命を失うように人間はつくられている」


観測員だと名乗る痩せ型の男は、黒いスーツに細身の黒いネクタイを軽く崩して首からぶら下げている。

慌ただしい集中治療室の中とは別の次元で、当事者の私とその観測員だと名乗る男だけの対話が続く。

この男の声も姿も、私にはハッキリと見えるのに周囲の人たちには知れないようだ。

生死の狭間で彷徨う私は、生身の体を抜け出したり入り込んだりを繰り返していて一向に安定しない。

そんな状況で男が不意に語り掛けてきたものだから、応える私は生身の体が口にしたり、抜け出して上り始める浮かび始めた私が話し始めたりと声の出所が安定せず、集中治療室に危篤状態がまじまじと漂っている。

まさに現を抜かしている具合だと周囲には映るのだろう。


「何度も浮いたり落とされたりを強いられるのは苦しい」


と生身の体が訴えると、執刀医が必ず救ってみせるから頑張れ、と声をかけ励ます一方で、その観測員の男はじゃぁ諦めて死んだらいい、ときたものだ。


「お前に説明する重みというものは、この人間の世界で言う『重み』で正しい。

 精神的な気持ちの重み、物質の持つ重み。他にも人間は歴史、伝統、時間、様々なものに重みを宛がいたがる。

 お前たちは、そんな重みが増やすだけでまさかこの世に居られるだなんて思うまい。

 しかし、そんな仕組みがやがて人に見える時が来る。

 それは死を迎える過程に入った状況のときだ。

 まさに今のお前だな。

 見えてしまった人間は危篤状態から逃れるべく、重りのグレードを上げなければならない。

 お前は偶然、鳥の糞を浴びて(宵闇の鳥という幻の鳥を知っているか?)少しばかりの重みを背負ったという稀有な息の吹き返し方をしたわけだ。

 もし、そのまま上に昇り詰めたいのならば何も背負わなければいい。

 今背負っている重い感情、他人からの重い期待などが邪魔をするのならばそれを捨て去ればいい。

 軽くなれ。楽になれ。

 それだけでお前は無になれる」


男は言葉に感情を込めることなく、詰まるところ、死にたければ死ねというのであった。

とは言え、面会に来てくれた両親や彼女、友人の想いは差はあれど浮き上がり始めた御霊を鎮める重みとなって、私をこのベッドに繋ぎとめてくれたのだった。

鳥の糞などなくても、きっと上り詰めるまでに地上に戻れただろう。

どうだ痩せこけた観測員よ、私は案外大切に思われているじゃないか。



 ー ー ー ー


 



生死の境を彷徨うこと数日間。

何度も浮き沈みを経験した。

それだけでこれまでの死生観が変わってしまった。

生への執着心が無くなるとは言わないし弱くなったとも言わないが、なんというか、それとはまた別の視線で、命の川、生命の循環を眺めていたくなる。

自分と同じように天に上っていく人たちと群れているだけで、この流れに抗うことなく身を任せたくなるような。

不思議と、どこか穏やかな気持ちが内からわいてくるのだ。

自殺者がこの状況に陥って、観測員の言葉に頷き、思いとどまることなくそのまま空へのぼっていく気持ちが少しわかる気がする。

でも私は、死を望んでいないし、まだやり残したことが沢山ある、はず。

そうだ。

彼女とまだ数回しかデートをしていないし、来週に迫っている彼女の誕生日は何としてでもちゃんとお祝いしなければ。

進学して、社会に出て、働いて、ゆくゆくは結婚して子どもも出来て。

親にたくさん親孝行して、俺を生んでくれてありがとう、とか一度くらいは面と向かって言わせてもらって。


「…なぁ、お前。

 お前の心の内の声、とりあえず俺には丸聞こえだからな

 悪く思うなよ」



観測員は相変わらず私の傍を離れない。

私の容体が未だに安定せずに危篤状態に度々陥るからだ。

魂が抜けだすたびに、前回を上回る重みが課せられる。

今頃になって、これはなかなか厳しいことがわかってきた。

どれだけ親や彼女から心配され重みを背負おうとも、その都度、それまで以上の想いで重みを持たせてもらえなければ魂は留まれず、私の体を離れて上へ昇りつづけようとする。

もう、ここまで危篤状態が続いてしまえば、別に誰の想いが強い弱いとか悪いとかいうものではなくなってくる。

事あるごとに最高記録を叩き出し、次の大会でもまたその次の大会でも自己最高記録を叩き出す…なんてことはいつまでも続くわけがないのだ。

大元の私の容体が回復に向かいさえすればすぐに終わる話なのだろう。

けれど、どうも私の容体は良くないらしい。

このままでは時間の問題だ。

面会に来てくれる人たちの気持ちにも諦めの感情を感じ始めて…いずれ私は詰むことになる。



 ー ー ー ー



観測員の男がポケットに手を突っ込んだまま足を組んで、一緒になって空を上っている。

深夜だった。

雲の多い空は月と星々を隠しがちだったが、見下ろす夜景はすばらしく美しかった。

本日。同じように空を上る人たちも、その最後の景色を目に焼き付けるようにして見入っていた。

私はもうこれ以上に背負えるものが見あたらず、浮かび上がる体を止めることが出来そうになかった。

気落ちしているままに、ふと後ろを振り返ると雲間から一瞬だけ鈍く射した月明かりで見覚えのある顔が浮かびあがった。

私を車で跳ねた中年のおっさんだった。

このおっさんがしっかりしていてくれたら、今頃こんな所を飛んでいなかったわけだ。

でも、どうしておっさんも今、上っているのだろう。

雲隠れした月を確認してからおっさんに尋ねてみた。


「交通事故を起こしてしまって、それが原因で会社を辞めさせられたんだ。

 もう、なんだか色々と。疲れてしまってね。

 先ほど、首を吊ったんだ」


私の問いかけに対して返ってきた雰囲気から察するに、自らが跳ねた高校生だとは気付いていないらしい。

おいおいこっちも苦しんでいるってのに勝手に死ぬなよ、と死にかけの私が叱咤するのも、今となってはどこか滑稽だろうか。

おっさんの方に体を寄せようと意識すると少しずつそっちに近寄ることが出来た。


「このまま上っていけば楽になれるそうじゃないか。

 このまま、死なせてくれ」


とおっさんは力なくつぶやいた。

私が手を伸ばせる範囲まで身を寄せても微動だにしなかった。


「別におっさんを救うという意味ではない。

 悪いけど、とりあえず今を生きるために一緒に落ちてもらうよ。

 重みが必要なんだ」


それまで悠長に構えていた観測員の男が体を起こした。

同時に同じ顔をした観測員がもう一名、おっさんの傍から現れた。

そして二人そろって少し大きめの手帳を覗き込みながら私とおじさんの間に口を挟んできた。

なぜか二人して話す言葉は同じだった。


「やめておけ。その人(この人)は下に戻っても次は助からない。

 独り身なんだ。

 お前とは違って気にかけてもらえない人間ってのが、現実には少なからずいるもんだ。

 息を吹き返しても、誰もこの首吊りの状況から脱してやれるものがいないだろう?」


「俺が下に降りて今すぐおっさんの家に向かってやるよ!

 救ってみせるから!」

 

「身の程を弁えろ。

 お前は依然として混沌とした生死を彷徨う存在だろ。

 勘違いするな。

 それに後悔することになるぞ。

 その人を重りとして背負ったら、次はどうする?

 次はもっと大きな重りが必要となる。

 

 …まさか今の様に一緒に浮かび上がる人間を呼び止め、重りとする者を一人、また一人と増やしていくのか?

 それは観測員として容認できない。

 それに人の重み、体重に関して言えば実際のお前が背負える力に限った話だ。

 わかっただろう。無理な話だ」


でもこのままだともう俺がやばいんだよ、と嘆くとおっさんが自分に付き添ってきた男にちょっといいか、と声をかけた。

二人の短い話し合いが終わると、男は承知したと呟き、おっさんはありがとう、と男に礼を告げた。

私は何が二人の間に行われたのかを問い質そうとしたのだけれど、その時間は与えられずあっという間に視界が暗転してしまったのだった。



 ー ー ー ー



意識を取り戻すと移殖手術が無事に終わったと告げられた。

誰の臓器か、何となくわかる。

おっさんはあの時、男にどんな取引を持ち掛けたのだろうか。

男が見えなくなってしまった今では確認のしようがない。


退院はまだしばらく先になるそうだ。

窓の外は青空が広がっている。

その空をゆっくり浮かんでいく無数の人影をイメージしてみる。

誰とは知れない、その幾人の人たちを、自分の勝手な都合で戻って来いと念じてみる。

でも、そんな半端な想いは大した重みにならないのだろう。

泣き腫らした顔で病室に入ってきた彼女をみつめて、そう思った。



 ー ー ー ー

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