あなたと触れ合うことで

篠岡遼佳

あなたと触れ合うことで



 がばっ


「ちょ、ちょっと」

 シャツ姿の男子が、両手を前に出して、女子の接近を留めていた。

 顔を赤くして、けれど相手に触れないようにじたばたしている。

「待ってください!」

「うーん」

 彼の言い分に、相手を思いきり押し倒そうとしている女子は、一応と言った口調で、

「無理」

 と答えた。



 何でこんなことになってるんだっけ?

 彼は困惑しながら反芻する。


 そう、雨だ。雨が降ってきたのがまずいけなかったんだ。


 彼と彼女は下校中、春の嵐、夕立に遭った。

 彼女の家が近くにあったので、タオルを借りるくらいならいいかな、と、彼は彼女が勧めるまま、家に上がらせてもらった。


 が、どういうわけか、連れられるまま彼女の部屋に入り、濡れたブレザーを脱いで、お互い頭をタオルで拭いたあたりで、彼女がおもむろに接近してきたのだ。



 隠さず言おう。彼らは付き合っている。

 といっても、まだ2週間ほどの付き合いだ。

 告白したのは彼の方。一年間彼女と学級委員をやっているうち、好きになっていた。二年目も同じクラスになれたのは僥倖というやつである。

「好きです、付き合ってください!」

 彼女は頭が良く、性格はちょっと計り知れないところがあるが、すでに笑顔でいてくれるとうれしいと思った自分に、彼は正直になることにした。

「いいとも」

 彼女はこっくりと頷き、それを受け入れてくれた。


 

 で、この急接近である。


 彼女との物理的接触は、ほとんどない。

 ハグもない。キスなんてもっと遠い。更にその先なんて、日が経っていい感じになったら……なんてことすら考えるだけで赤面してしまう。

 しかし、おあつらえ向きの状況ではある。

 彼女曰く、親はかなり遅くにならないと帰ってこないし、兄弟は大学に寝泊まりしている有様らしい。


 誰もいない部屋。一枚服を脱いで、彼女の部屋。


 フローラルな香りが、空気に薄く漂う。彼女の匂いと、同じ香りだ。

 女の子の部屋にしてはちょっと殺風景だが、そんなところがあるから、ますます意識してしまう。


 ぐいっ


 彼女が、また近づいた。

 彼は、押されて床に押し倒されている格好になる。

 

「私にどのくらい下心があるか、見たいのか?」

「下心とか!!」

「見たくない?」

 ぐっと彼は息を飲み込み、

「……見たくないわけないだろ!」

 彼の長所は、正直なところである。

 好きな人には、特に正直でありたいと思う。


 そう、正直に言えば、彼だっていろんなことをしたい。

 その許可をもらっていいのが、付き合うということではないかと思っている。

 一緒に帰りながら買い食いをしたい、部活に入っていないというから、自分の入っている合唱部に誘いたい、誘いたい、彼女のさらりとした髪に触れたい、頬に触れたい、それから、それから……。


 そう考えるだけで、机に突っ伏してしまうくらいに、彼は誠実で恥ずかしがりだった。

 しかし果たして、彼女は、どうだろう?



 その回答がこれである。聞いたわけではないが。

 どんどん迫ってくる彼女に、触れていいのか悪いのか、でも少し濡れたシャツから体温が伝わって、彼女の瞳の色が夕暮れの光に炯々と輝いて、これは、これは……。


「やっぱりだめ!!!!」


 彼は彼女を押し返した。

 太ももの上に、彼女が乗っている。一体いつの間にそんな体勢になったのだろう。

 

「なぜだめなんだ?」


 彼女は困惑したように眉を下げた。

 男子のような話し方をするのは彼女の癖だ。

 困っているというより、こちらが拒否する理由がわからないようだ。


「あの、あのね」

「大事にしたいとかは聞きたくないぞ」

「うっ」

「だろ? だったらいいじゃないか、ちょっと粘膜がくっつくだけなんだから」

「そういう風にしちゃだめー!」

「なんで?」


 彼女は本当にわからないらしい。

 

「もっと、自分を大切に!!!」


 それこそありふれた台詞を、彼は彼女の肩を掴んで言った。

 彼女は、ぱちぱちとまばたいた。


「自分を大切に……?」

「そうだよ、自分で自分のことを決めなきゃいけないんだよ! 俺に合わせて、求められてるならあげちゃえ、なんてのはだめなんだよ!」

「なぜ?」


 彼女は小首をかしげた。

 何も知らない子供だって、知っていることを知らない彼女。


「それは、君が君だからだ。ひとりでひとつ。君の意思は君のものだからだよ」


 彼は言い聞かせるように、彼女の頭を撫でた。

 それは自然で、ただただ彼女を大切に思っている仕草だった。


「私は……」


 彼女はうつむき、とん、と彼の胸に手のひらを当てた。


「……望まれているということがよくわからない。私の意思が大切だなんて思ったことはない。自分のことは、」


 きらいなんだ。


 小さくつぶやかれた言葉に、彼は彼女の生きてきた道を思った。

 大切にすること。望まれること。

 それは、他人にされること。


 彼は、ふっと息を吐いて、微笑んで彼女の頭をまた撫でた。

 

「俺は、君が好きだよ」

「知っている」

「だからね、大事なんだよ。君のことが」

「それは……知らなかった」

「それからね」

 静かに目線を合わせて、彼は彼女に言った。

「君が、自分を嫌いというなら、そう言う君も好きになるよ」

「……」

 彼女はまたまばたいた。

 まばたいた先から、ころん、と雨粒のような涙があふれた。


「私は、私が嫌いだ」

「うん」

「それは、ほんとは、たぶん、君に不実だと思う」

「うん」

「それでも」


 続きを言わせないように、彼は彼女を抱きしめた。

 やわらかく、あたたかくて、ちいさな体。


「好きだよ。

 大丈夫。これから、どうやっていったらいいか、考えよう。

 時間ならたくさんあるはずだから。

 困ったらいつでも頼ってよ。何度でもいうから。

 いままでも、これからも、歩いていくなら、君の隣にいさせて欲しい」


 彼女は息を吸い込み、笑った。


「じゃあ、もっと、抱きしめて」

「……いいよ、でも、その前に……」


 彼は目を閉じる。

 彼女も、目を閉じた。


 初めての触れただけのキスが、長いくちづけになる。

 二人はそうして、一つの影となった。








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あなたと触れ合うことで 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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