第53話 愚者の同情に足らぬ過去
ずっと昔、
シャルさんが消えてすぐの話だ。
「………………アルラ」
無知で非力で
街から離れた人気の無い林の奥深くにぽつんと立っている、わざわざボクらの為に建ててくれた木組みの家の中、アルラと2人で引きこもって過ごした。
もしかしたら
「………………ね、アルラっ」
その頃、
「………………返事くらいっ、ちゃんとしてよ……」
だから、家に蓄えられていた備蓄を全て食い潰し、更に幾ばくかの時が経ち、ぐったりと横たわる妹が何度呼びかけても言葉を返さなくなった時、日銭を稼ぐのも食料の調達も、全て
ボクの魔人としての外見上の特徴は相当
彼女の遺したサイズの合わない服を着て、大きなフードを深く被り、金貨が入った袋を掴んで、生まれて初めて1人で外に出た。
扉を開けると、飢えで狂ってしまいそうな頭に、真上の太陽が嫌みったらしく照りつけてきた。
息を飲む。
「…………ッ」
初めて訪れた街中は驚く程に活気に満ちていて、騒がしかった。
たたらを踏む雑踏の喧さ、行き交う人の数はそれはもう大変なもので、幼い自分はその光景を目に映した瞬間に圧倒されて固まった。ほんの些細なきっかけ――例えばちらりとでも顔を見せれば、それだけで一斉に襲いかかり喜んで四肢を引きちぎるだろう人間達がこんなにもいる。人が数え切れないほど歩いているこの場が、ボクには心底恐ろしかった。
思わず喉が鳴り、手が震え、心臓が高鳴り、今すぐ家に帰りたくなって、空腹で頭が朦朧として、そこで、妹のことを思い出した。
意を決し大きく一つ息を吐く。震えを抑え必死に自然に振る舞い、蠢く雑踏の中へゆっくり足を踏み入れた。人とすれ違う度に心臓が止まりそうだったけれど、幸運にも誰からも呼び止められることは無かった。道になぞってよろよろ歩いた。
しばらく歩くと、道沿いにある小さなパン屋が目に入った。
良い香りのする小麦色がずらりと一面に並べられている。
飢えた自分にはこれ以上なく魅力的で、思わず自分は全ての意識を捨て去り、ぼうっとそれを見つめていた。
「お嬢ちゃん、こんにちは」
「……ッ、……こんにちは」
一瞬にして引き戻される意識――――見てみると、声をかけてきたのは中年の女であった。
どうやらこの店の店主であるらしい彼女は、咄嗟に顔を隠した自分の素振りを見て、「あぁ、そう恥ずかしがらなくても……」と、口に手を当てて笑っていた。
一目見た限りでは、温厚そうな人間だった。
「ごめんねぇ、あまりにも夢中に見てたから気になっちゃって」
「………………」
「……あー……いいのよ、冷やかしでも。美味しそうって思ってくれたなら、それだけでとっても嬉しいから」
「……………………っ」
「ああそうだ、それじゃあどれか一つ試食してみるのはどう?おすすめは……」
「…………あのっ!これでっ、買えるだけください!」
突き出した金貨の袋を伺い、「まぁ」と笑って女が受け取った。
袋を開いて中を改める手が途中で止まる。
「……うん?……貴方、こんな大金どうしたの?」
「…………ッッ、……お母さんが酷い風邪で、何か食べるものを買ってきてくれって、頼まれてて……」
「あらまぁ……なら、一枚だけ貰っておくわね。お嬢ちゃんの持てる量じゃなくなっちゃう」
袋をこちらに返した女は「中で待ってて」と店の中へと入って行った。
咄嗟に吐き出した真っ赤な嘘だったのに、何の疑いもなく信じているようだった。少なくとも自分にはそう見えた。
「これと……これと……お母さん、何か食べられないものとかあるかしら?色々種類があるんだけど」
首を振る。
「よかった。そうよね、お母さんが好き嫌いしてちゃ、お嬢ちゃんの好き嫌いを叱れないものね」
女が軽くはにかんで、取り出してきた籠にパンを詰め始めた。
「…………はぁ」
シャルさん以外にこんな表情を向けられたことは初めてのことで、なんと返事をすればいいのか分からなくて、緊張のままに生返事を返した。
世間を全く知らなかった自分は、緩い驚きに似た感想を抱き、女のほうを見つめていた。
しばらく沈黙が続いた。これまで会話の発端となってきた女が作業に没頭し始めたせいだ。
話は途切れても外は相変わらずの騒がしさのはずなのだが、それでも『静かだ』と感じるのが、なんとも不思議な気分だった。
日が赤く染まりはじめ、窓から斜めに差し込んでいた。
「…………私にもね、息子がいるの」
女が唐突に始めた話は、何の脈絡もない切り出し方であったため、その時の自分は深く困惑し、何も言えずに突っ立っていた。
「ほら、このところ結構物騒じゃない。
今振り返ってみると彼女の意図は明白だ。
ただ単純に、親は子供の話をしたがるものであるらしいといことを、当時の自分は想像することもできなかったのである。
「ほら、あれなんだけど」
指さす方向に視線を向けた。
棚の上に小汚い白い棒が二対、不相応に思える程、馬鹿丁寧に飾ってあるのが見えた。
「駆除した魔人の人差し指。死骸はちゃんと処分する決まりらしいのに、私に自慢するためだけに、こっそり持って帰ってきちゃったの」
ふふっ、と笑う。
若いころは相当な美人だったのだろう、女の作った横顔自体は、とても綺麗なものだった。
「危なっかしいところは心配だけど……私の誇りの、自慢の息子よ」
少しだけ、ほんの少しだけだけど、シャルさんのことを思い出してしまったくらいに優しい笑顔。
それからはっとした表情を浮かべ、困ったように苦笑する。
「あぁもう、私ったら……お嬢ちゃんには関係ない話だったわよね、ごめんね。はい、お母さんを大事にね」
籠を受け取り店を飛び出した。
全速力で来た道を引き返した。通行人に見られてしまうかもとか、そういうことは考えなかった。
息が乱れて、お腹が痛い程に減っていて、夕陽が大きな影を降ろしていた。
ボクの両親は生まれてきたのが魔人であることを知り、深く、深く、絶望した。普通の道徳を備える彼らにとって、それはとんでもなく不幸なことで、『なぜ自分たちが』と行き場のない感情を抱いただろうことは、当時の幼い自分もはっきり想像がつく。
しかし同時に、ボクにとっては運がいいことに、彼らは相当に甘い人間でもあったらしく、その場ですぐに処分すべき娘をどうしても絞められなかったらしい。立ち会う産婆がいなかったのも要因の一つだ。
そうなると当然訪れる、魔人を殺さず育てているという生活は、彼らの良心をひどく蝕んだ。
魔人を家の外に出すわけにもいかず、ずっと家で遊んでいるボクを見て、彼らは時々すすり泣き、嗚咽と共に慰めあっていた。そんな言葉を聞き取って言葉を覚えた。
流石に熱心に魔人の世話をするのは気が引けるようで、食事とか、睡眠とか、いろいろなことを一人でした。一年もすればいないものとして扱われるようになり、ボクも両親もそういう生活に慣れてきていて、家庭は妙な形で安定していた。
次に生まれてきたアルラを見て、彼らの心は完全に壊れた。
父はその日の夜に首をつった。
母は暴力をふるうようになった。
これまでこんなに私達を傷つけてきたのにあなたは何も思わなかったの、お父さんが死んだのはお前のせいだ、悪魔め育ててもらった恩を忘れたか、多種多様な正義を口にし、ボクやアルラをたくさんぶった。
妹の二歳の誕生日、半狂乱の金切り声に跳ね起きると、アルラに馬乗りになって絞め殺そうとしていた母親の姿が見えた。
とっさに近くにあった包丁を掴み、母の背中を刺し、アルラを抱えて家を飛び出したのが、シャルさんに出会う一日前の話。
わかっていたはずだった。
シャルさんは特別だ。かっこよくてかわいくて優しくて、どんな美辞麗句を並べても語りつくせなくて、ボクを
彼女と同じ存在なんて世界のどこにもいないのだから、これからは他人に一切期待してはいけない。
反省のできる自分は、きっとすごく頭がいい。
緩慢になっていく歩調に呼応するように、頭は徐々に冷静さを取り戻していき、小走りになり、ゆっくりと歩き、やがて完全に脚は止まった。
息も止まった。
冷えきった頭が、街を覆う張りつめた空気に、遅れながらも気が付いた。
『嘘だろ……白…魔人……………のか……!?被害………………はこ………人目だ……!?』
『20………度は8人纏…………をくりぬか…………………のとおり1人だけ……………………残して………………ッ魔人が………獣の分際……………りやがって……!!』
「………………ッ」
これも今だから言える話になるが、その頃は特殊な時期だった。
女の言っていた人喰いの獣、魔物の増加。黒樹が密かに活動を始めたタイミングということもあるし、平行して魔人絡みの事件も起っていたらしく、様々な懸念に悩まされた住民の蓄積されたフラストレーションが、棘のある世間話という比較的平和な形で発散されていただけのことだ。心配するようなことは何も無い。
けれど、何も知らなかった昔の自分は、優れた聴覚で聞きつけた遠い会話の中、『魔人』という単語が出てきたことと、彼らの鋭い敵意だけを知り、なんだか血が冷たくなったような衝動に襲われて、足を止めた。
黙って突っ立ち耳だけを澄ましていると、いままで騒音にしか聞こえなかった雑踏のざわめきも、徐々に意味のあるものとして聞き分けられるようになってきた。
『そもそもおかしい話じゃないか!?何処のどいつだ魔人なんか育てた狂人は!!何どう考えてこんなことしでかしたんだ!??何人死んだと思ってんだ!!』
『それを言ったところでどうにもならないだろう、問題なのはどれだけ警戒していてもご本人様が見つからないことで、その原因の究明こそが――』
『ッッ、何だと!?お前っ、魔人を生き永らえさせた大罪人を擁護するつもりか!?』
『そうは言っていない、そいつは取り返しの付かない間違いを犯してしまったし、然るべき罰を受けるべきだろうとも思う。それより前に対処すべきは、どれだけの警戒の中でも一切姿を見せず凶行に及ぶ悪魔のほうだと言っているんだ』
街は大きく、人は多く、あちこちから聞こえてくる会話の内容も当然多種多様なものになる。
『やっぱりねぇ、魔術を使ってるのかねぇ』
『嫌だおばあちゃん。魔術だなんて、そんなもの……』
『昔から言うんよ、魔人は育つと魔術を使う。赤子の内に殺さにゃならんと。現に、それはまだ見つかっていないんだろう?』
『それはそうかもしれないけど……』
『……どちらにせよ、早急な駆除を望むばかりだよ』
動けない。
どいつもこいつも魔人、魔人、魔人と五月蠅い。
魔人魔人魔人魔人魔人――――
『――――あのっ!!』
「――――ッッ!??」
『……お姉ちゃんをっ、知りませんかっ!?』
一番気のせいであって欲しかった声は、気のせいではなかった。
聞き覚えのある声の出所はずっと遠く、家へと続く帰り道の途中である。
瞬間自分は、全ての思考を放り投げ、声の元へと駆けだしていた。
『……おお?どうしたんだい嬢ちゃん、そんな路地裏に隠れて、おっきな声出して』
『――――そのっ、お姉ちゃんがっ!!目が覚めたらいなくなってて、家中どこを探してもいなくて!!それでっ、この辺りからっ、匂いがするの!!』
『……匂い?…………親御さんはどこにいるかわかるかい?』
『…………ッ、…………えっと…………その』
走る。
『……よし、それじゃあ僕が一緒に探してあげよう。お姉ちゃんはどんな子か教えてくれるかな』
『……っっ……お姉ちゃんはっ…………可愛くて……』
『ははっ、可愛いじゃ難しいかな、もっと分かりやすい特徴があればいいんだけど……』
『――――駄目ぇ!!近づかないでっ!!』
走る。
『え……いやごめん、そんな怖がらせるつもりは……』
『近づかないで!!近づかないでっっ!!お姉ちゃんっっ!!』
脚が引き千切れそうなくらいに力を込めた。
『…………君、そこから出てきてくれ、僕と一緒に来るんだ」
「ッッ!!やだぁ近づかないでっ!!」
「確か近くに衛兵の詰め所があったから、そこまで……ッ!?」
そうして、走って走ってそこに辿り付いた自分は、今まさに路地裏に立ち入ろうとしていた男の袖を勢いよく引いた。
「はっ……はぁっ……こいつの姉はっ……ボクです……」
飢えた体で目一杯な運動をするというのは、それはもうたいへんに辛いものであるという常識を、肩で息をする自分は初めて学んだ。
男は錯乱するアルラの様子を見て、もしかすると彼女は虐待を受けているのかもと予想したらしい。1年前まではそうだったので、当たらずとも遠からずといったところだろうか。
姿を見せないアルラの状況をしつこく尋ねてくる彼だったが、事故で大火傷を負って容姿にコンプレックスがあるのだと誤魔化すと口をつぐみ、一言謝罪を残して去っていった。
ゴタゴタが片付けた後、裏路地を歩いた。
雑踏の喧噪は遠く、人の気配など全くしない静かで薄暗いところだった。
「絶対家から出ないようにって、これまで何度も言いつけてたはずだけど」
歩きながら振り返ると、黙って俯き後ろをついてくるアルラの表情は、着せたフードで隠され一切伺えない。
なるほど、先程までの自分がこれに似た状態であったならば、道行く通行人に頭髪と瞳を見られるなんてことは決して起こり得なかっただろう。逆に、こんなあからさまな格好で怪しまれなかったのが不思議になってくるくらい。
そう思わせるほど見事に素顔が隠れた妹がすっと顔を上げる。それでもなお口より上が見えないぶかぶかな塊が口を開く。
「……お姉ちゃんこそ、じゃましないでよ」
「…………は?」
ぶかぶかの喋ったその言葉に、始めは自分の耳を疑った。
しかし、眼の前のアルラがあまりに堂々とこちらを直視しているようだったので、聞き取った内容に間違いがない事を悟る。
「あんなの演技よ。わたしもすごくお腹が減ったし、お姉ちゃんもいなかったし、あのひとにたべものを持ってこさせようと思っただけ」
「ほんとは、お姉ちゃんがじゃましなかったら、いまごろはお肉を食べれてたんだから」
「そもそも、外に出るなら、ちゃんと出るって言ってからにしてよ、めいわくなのよ」
フードの中から頬にかけて透明な水が二筋通っていき、ぽたぽた地面に染みを作っていた。
あぁ、そう言えば、当然知ってるものと思い込んでいたけれど、こいつにボクの耳がいいというのをはっきり伝えたことは、これまで一度も無かった気がする。
「……ふざけてんの?」
何度も言うが、そのとき自分は飢えていたので、アルラの態度にものすごくイライラし、ここらでひとつこいつの顔面を全力で殴ってみるのもいいのではないかと、結構本気で検討した。
「……っ、…………ぁ」
しかし、小さな嗚咽を皮切りにアルラの足がぴたりと止まり、黙ってフードの中で何度も目を擦っているようで、その場から一歩も動かなくなってしまった。
「………………はぁ」
こうなってはもう仕方がない。
どうしたものかと悩み、シャルさんのしてくれたことを思い出し、アルラをぎゅっと抱いてみると、「……暑苦しいから、やめて」と言うものの、抵抗する素振りは全く見えなかったので、しばらくずっとそうしていた。
日が沈み、
ボクは右手に籠を持ち、アルラは左手にパンを一つ持って、残りの手を繋いで手を引いて帰った。
その日は雲が少なくて、帰路の中、木々の隙間から見えた夜空がとても綺麗だったことを、今もはっきり覚えている。
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