2021.4.24.九州大学文藝部・三題噺執筆会

九大文芸部

「霜」「化ける」「定規」 作・奴

序文


 冬の時分、夜が更けて道路に人や車の絶えて見えざるころになれば、世界はその冷たい底に押しこめられ、呼吸がまったく止まってあるような不吉な静けさに呑まれてしまうだろう。雪が降るにしても窓外に降雪の音など聞こえるはずがないし、また降った真白なものたちの小さい一片々々は地面に落ちると一もなく二もなく消えてしまって、空中に何かしら美しいものとして自由に演舞していたのが幻影のごとくに果てる。私は幾度となくこの短命なる細雪を見た。顕微鏡を通して見ればすこし自然物とは思いがたい神秘な幾何学模様を作っている結晶が、私の外套を濡らしていることも、とうに知っている。

 人は何かにつけ、雪原や雪の降る街路を創作の舞台にこしらえて、そこで人間の心理の動揺やかけひきやその他とりわけて悲哀などという情動を操作してみるのだが、私もその多分に漏れず、原稿の得意先になっている新聞社から実に簡便なるはがきをもらって、そこに書かれてあるには、昨今劇画などへしきりに利用されたる雪と恋愛などを題材にした小品を、今度の特別号のために執筆いただきたいなどというから、私は俗界の陳腐なものに伍せざる小品を書かねばならないと勇み立って、つい先日に筆を執ったまでは立派なものの、そこには何らの着想もなく、また例年にない大寒波が街路を通り、家々のうえを怒濤と流れてゆくこの時節に至っては、筆を持つ手も寒さに打ち破れて火鉢にかざしているばかり。とうとう早くに布団へ入ってその暖かななかで本の紙を繰っているうち、別段の感覚もなく知らず識らずに眠りに落ちて、次に意識が明瞭に返ったころ、すでに十時の弱々しげな太陽の光線が机上の原稿へ落ちかかっていた。廊下にはこの下宿のおかみが、洗濯のために何度もそこを往来しているのか、それとも私を起こそうというのか、床を軋らせている。そのうち私はようやくすっかり覚醒したので、遅い朝飯をいただこうとしたへ降りた。おかみは物干台に上がって竿を拭いていた。

 おかみの娘が私の朝飯に汁物と漬物と白米など簡素なものを用意してくれて、それらをそぞろに食い進めるうち、ふと思い立って、

 「静子さん。今度短いのを書こうとしてるんだけれど、雪景色とか恋愛とかがテーマになるんだが、何かないかな」

 とその娘に問うてみれば、

 「次郎さんに思い浮かばないことがわたくしに思い浮かんで?」

 と苦笑のていで相手にされない。

 そのとき私にはひとつとしても情趣のある物語が得られず、当初俗世の三文脚本家を皆蹴散らしてしまおうなどと息巻いていたのも情けないありさまになってしまった。その娘は「庭に霜がずいぶん降りて、踏んでみるとおもしろいですよ」など子どもじみた世間話をしだしたので、曖昧な返事をふたつ、みっつ、やって自室へ引き下がった。

 それから思いつくままにあれやこれやと書いてみた二行、三行は、どれも自分が嘲っていた卑俗の文体に似かよっていて、書くにつれて、そして読み返すにつれてむしろ面映ゆく感じられたので、結局すべて没書にしてしまった。そのときに私は、あえてしなくてもいいだろうに、そうした馬鹿な文章ばかり世間に普及させる作家集団と、それと寸分違わぬものをいくつも書きだしてしまった自分自身とを罰する心持で、一文々々、定規でもって線を引っぱり消していった。それはむしろ私のなかにうとましい気分を膨らませた。

 これだけのことを午後にぐずぐずとやって、昼飯、夕飯と時はいたずらに過ぎ、締め切りのずいぶん先であることをはがきの文面に知れば、今日中に書きおおせてしまおうという暗に思い描いた予定も打ちやって、とうとうおかみや娘などと取るに足らない話を気楽にして、それから風呂へ出た。庭では、まだ固い霜が足のしたに感じられた。

 そうして湯につかって、ほかの思い巡りとともに小品のことを考えてゆくと、ふいに没にした原稿を利用する妙案がカーンと思い浮かび、体を洗うのもそこそこに私は暗い寒空のしたを駆けて帰った。

 その妙案というのは、私が凡俗と打ち捨ててしまった文章たちを、こんにちの粗悪な文章として挙げ連ねて、いっさい痛快に批判してしまう批評文にしようというものであった。私はわざわざ定規を使って線を引いたそのしたに並ぶ文字を解読して、新たに原稿をこしらえた。没案が名案に化けたのであった。

 これがここに掲載される『雪にまつわる文筆指南』のいきさつである。


                               笹島 次郎

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