口裂け女の私にとってマスク社会は生きやすい
青水
口裂け女の私にとってマスク社会は生きやすい
最近、世界的にマスク社会となった。
外に出るときはマスクをするのがエチケットであり、マスクをせずに歩いていると、それは法律違反ではないけれど、マナー違反と見なされることも多い。だから、ほとんどの人はマスクをしているし、それがごく当たり前となっている。
すばらしいことだ、と私は思う。
前はマスクをする人は少数派で、感染症などが流行る冬はともかくとして、真夏のクソ暑い日にマスクをしていると、『なんでこの人はマスクをしているんだろう?』といった奇異の目で見られた。でも、だからといって、私がマスクを外して素顔を見せたら、それはそれで奇異の目で見られる。いや、そんなものでは済まない。私の顔を――口を見た瞬間、人々は悲鳴とともに逃げ出すのだ。まったく、ひどい話だ。
どうして、人々は私に恐怖するのか、悲鳴を上げるのか。それは、私が『口裂け女』だからだ。
別に、怪我や病気などでそうなったのではない。私はもともと口裂け女で、人間とは別種の生き物である。私の母も口裂け女であり、私の祖母もまた口裂け女である。
私――口裂け女は、見た目は人間に似ているが別種なので、身体能力なんかは彼らよりも上だ。オリンピックや世界陸上を見ていて、100メートルを9秒台で駆け抜けるアスリートを見て、私は遅いなと感じる。私が彼らに混ざって100メートルを走れば、世界記録更新は間違いない。一人だけ、異次元のスピードだろう。
私は学校というものに通ったことがない。通えばきっと怖がられたり、いじめられたりしただろうし、体育の授業では浮いていただろう。うまく加減できる気がしない。50メートルを5秒以下で走る女子小学生がいたら、それは世界的なニュースになる。
私は孤独だった。家族は既に他界してしまった。幸い、日々の生活に必要な金は十分にある。株やFXなどで稼いだのだ。実は私は億万長者だったりするのだ。今は都内のタワーマンションで一人暮らしだ。寂しい。
恋人がほしいが、口裂け女を好いてくれる人間の男はそうはいない。出会いもない。たとえばマッチングアプリなるものをやるとして、そこで出会った男性と実際に会うとしよう。今のご時世、マスク姿で会うのはまったく問題はない。しかし、仲良くなって彼の家あるいは私の家で二人きりになったとき、それでもマスクをしているのはさすがにおかしいだろう。店で料理を頼んで、マスクの下から口に料理を運ぶのも不自然な行為に思われる。
どうして私は口裂け女なんだろう、と深く考えた時期もある。今は、自分が口裂け女である事実を受け入れている。誇りを持っているかどうかは微妙なところだけれど。
私は血で染めたような真っ赤なワンピースに、同色のカーディガンを羽織って外に出た。すれ違う人々はみんなマスクをしている。
口裂け女の私にとっては生きやすい今の社会だけど、一般的な人々にとって今の社会はきっと窮屈だろう。マスクがない方が、顔の全体が見えるし、表情もわかりやすい。
マスクをしていると、顔の大部分が隠れる。見えるパーツは目くらいか。顔の善し悪しというのは、目だけでなく、鼻や口、顎や骨格、全体の配置のバランスなどなど、様々な要素から総合的に判断される。目元だけだと、ネガティブな要素は見えない。よって、世の中はマスク美人やマスクイケメンであふれている。
私もマスク美人に属するかもしれない。自分で言うのもなんだが、人間と比べて大きな裂けた口を除けば、私の顔はまあまあ整っている。スタイルも結構いい。なので、街を歩いていると声をかけられることがある。いわゆるナンパというやつだ。
「お姉さん、お綺麗ですね。今からどこか遊びに行きませんか?」
もちろん、私は断る。個人的にナンパは好ましくない。
「マスクの下の顔見たいな」
これももちろん断る。大きな通りのど真ん中で悲鳴を上げられたら、悪目立ちしてしまうからだ。多くの人の視線を集めるのは避けたい。
今の時代、隠し撮りされてSNSにアップされると、あっという間に拡散されてしまう。隠し撮りはマナー違反だし、法にも反しているけれど、世の中には『考える』という行為をしない――あるいは欠落している――人が一定数いるのだ。
私の写真を見て、口裂け女の実在を確信する人は少ないとは思う。大抵は、メイクの類だと思う。問題はそこじゃない。私を馬鹿にしたり、どこの誰かを特定しようとする者が現れることだ。
私は静かに穏やかに生きたいのだ。ネット上で目立って、時の人になるのはごめんだ。
日の光に当たりながら、近所の公園を散歩する。散歩するのに適した大きな公園だ。私と同じく散歩している人や、ランニングをしている人が結構いる。
歩いていると、知り合いを発見した。前から歩いてくる彼と目が合う。私が話しかける前に、彼から話しかけてきた。
「こんにちは、栗崎さん」
「こんにちは」
「散歩ですか?」
「ええ。夏川くんは?」
「僕も似たようなものです」
夏川くんは私の住んでいるマンションの近くにあるコンビニで働いている学生だ。歳は私より二つ下だ。そのコンビニには前々からよく通っているので、私と彼は顔見知りだったりする。会計をするときに少し喋ったりするのだ。
彼が住むマンションは私のマンションの近くなので、こうして遭遇することもある。そういうときは、コンビニでより長時間お喋りをする。コンビニでは他の客やバイトがいるから、あまり長い時間話すのはよろしくない。
「ベンチにでも座りましょう」
すぐ近くにあるベンチに私と夏川くんは座った。
私は女としてはかなりの長身だと思うけれど、夏川くんは私よりも大きい。180半ばくらいだろうか。マスクをしてない姿も多々見たことがあるが、彼は文句なしのイケメンだった。こんなにもかっこよければ調子に乗ったりしそうなものだけれど、彼は非常に謙虚な性格をしていた。
「最近はみんなマスクしてますね」
そう言う夏川くんも、もちろんマスクをしている。
「そうですね」
「栗崎さんは前からマスクしてますよね」
「ええ」
「あー……」
何かを聞こうとしてやめて、不自然な沈黙をした。
おそらく、『栗崎さんはどうしていつもマスクしてるんですか?』とでも聞こうと思ったのだろう。だけど、常にマスクをしているというのは、何らかの理由がある。それを聞くのはよろしくない、と判断したから沈黙したのだ。
「栗崎さんは学生ではないんですよね?」
「ええ、違いますよ」
「お仕事とか何されてるんですか? 会社員……ではないですよね」
「株とかFXとかして生計を立ててるの」
「ああ。つまり、投資家ってやつですね」
私は頷いた。投資家という言葉は、響きがかっこいい。
「すごいですね。僕にはできないな」
「どうして? パソコンがあれば簡単に取引できるよ」
「うーん、僕が投資なんてやっても絶対失敗しますよ」
「そうかしら?」
「そうですよ。そういうの、苦手なんです」
夏川くんが通っている大学は、この公園から歩いていける距離にある私立大学で、偏差値は確かかなり高かったはずだ。いわゆる名門大学というやつだ。だから、彼はとても頭がいいはず。まあ、頭がいい人が投資がうまいというわけではないのだけれど。
夏川くんとの話の中で、とても何気なく、自然な流れで、口裂け女の話題を出してみた。
「ねえ、夏川くん。口裂け女って知ってる?」
「ああ、昔はやった都市伝説ですよね」
「口裂け女が実在したら……どう思う?」
「どう思うって……とくにどうも思わないですけど。ふうん、いたんだって感じです」
夏川くんは嘘をついているようには見えなかった。
マスクを外して素顔を見てもらおうかしら、と私は思った。
ベンチの付近に人はいない。私がマスクを外しても、夏川くん以外には見られない。彼がどういう反応をするのか、まったく想像がつかない。ほとんどの人のように悲鳴を上げて逃げ出すのか、それとも、私を――口裂け女を普通に受け入れてくれるのか。
私は夏川くんに好意を持っている。私の素顔を彼に見てもらいたい。結果、怖がられたり、嫌われたりしたら、しょうがないとため息をついて諦める。それだけ。
「もしも、私がその口裂け女だとしたら……どうする?」
私は覚悟を決めて、ゆっくりと尋ねた。
「栗崎さん、口裂け女なんですか?」
「……うん」
「本当に? 冗談とかじゃなくて?」
「本当よ。だから、私は常にマスクをしているの。人間に怖がられないように」
「そう、だったんだ……」
「見たい?」
「えっ?」
「マスクの下の、私の素顔」
私は夏川くんの目をじっと見つめて言った。彼はどうしようか少し悩んだ後、大きく頷いた。
「見たいです」
「わかった」
夏川くん、お願いだから悲鳴を上げないでね。
私はマスクのひもに手をかける。マスクを外すだけなのに、ものすごく緊張した。マスクを――マスクをそっと外す。私の顔が、そのすべてが露わになる。
夏川くんは息を飲んだ。
「どう?」
「……思っていたより――」
夏川くんは目を逸らさなかった。私の顔を見てくれている。
「――思っていたより、ずっと綺麗です」
そう言って、柔らかく微笑んだ。太陽のような、温かな微笑みだった。
綺麗。私の顔が綺麗……?
嬉しくて、嬉しすぎて、私は泣いてしまった。私の素顔を見て、綺麗なんて言ってくれた人は夏川くん以外にいない。
「本当に? 嘘じゃなくて、本当に綺麗だと思ってる?」
「はい、本当です」
夏川くんはポケットからハンカチを取り出すと、それで私の顔を濡らしている涙を丁寧に拭き取ってくれた。
「ありがとう」
その言葉は、ハンカチで拭いてくれたことだけじゃなくて、様々な意味が込められている。怖がらないでくれてありがとう。嫌わないでくれてありがとう。綺麗だと褒めてくれてありがとう――。
◇
その後、私たちは付き合うこととなった。
あの告白の後、私たちの仲は急接近し、やがて夏川くんに告白されたのだ。僕と付き合ってください、と。もちろん、返事はYES。断る理由なんてまったくなかった。よろしくお願いします。
「いつか、このマスク社会も終わるのかな?」
「どうだろう? わからないけど、僕はいつか終わってほしいなと思ってる」
「私は――終わってほしいような、終わってほしくないような。……複雑な気持ち」
「マスク社会が終わったら、常にマスクをしている奈央さん浮いちゃうからね」
「うん。涼くんは私を受け入れてくれたけれど、他の人はそうじゃないと思うし……」
だから、私はこれからも、人前ではマスクをつけ続ける。他の人がマスクをしなくなろうとも。
「僕も、奈央さんがマスクをつけているときは、マスクをつけるよ。二人ともがマスクをつけていれば、奇異の目で見られたとしても分散されるだろうし」
「ありがとう」
「どういたしまして」
今日も、私たちはマスクをつけて外を歩く。これから、死ぬまでマスク社会が続くとは思えない。始まりがあるように、いつかは終わりを迎えるのだと思う。それがいつになるかはわからないけれども。
そのうち、真夏のクソ暑い日にマスクをしていて、『なんでこの人はマスクをしているんだろう?』といった奇異の目で見られる日が、再びやってくると思う。そのとき、今までとは違って、隣には同じくマスクをした恋人が――涼くんがいる。
だから、私にとって生きやすい、このマスク社会が終わっても別に構わない。でも今は、このマスク社会を私なりに楽しもうと思う。
口裂け女の私にとってマスク社会は生きやすい 青水 @Aomizu
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