あるとら

大橋博倖

第1話


 0.


 ここは現在、世界から最も遠く離れた処だった。そのはずだった。

 一人、男がいる。

 歳は50代後半か。

 軍人と思しき精悍な顔つきだが、少し疲れた表情だ。

 眺めている。

 そうして、一面に写されている光の大海に対していた。

 光の大海。その一点に彼は意識を凝らす。

 無限にも思えるその光輝は実際に計測すればほんの数千億、兆にも届かない数だがでは我らが太陽は、そこに寄り添い生きる我らが人類はどうであろうか。

 我々もその僅かな光点の一粒に過ぎない。何と儚い存在であることか、とこの場に立つ度にその思いは募る。眼前に横たわる銀河系すら上位構造である島宇宙群、局部銀河群の一欠けらであるに過ぎないというのに。

 否。未だ我々は人類の立場を口にする資格をすら有してない。この私を含めて。

 この広大な大宇宙の、爪の先にも満たないちっぽけな惑星を更に200余りに分割して棲息している、愚かしい生き物に過ぎない。

 統一の道は、遠い。そもその実現が約定されているかすら定かではない。

 重力井戸の淵に指先を掛けたまま朽ち逝く定めであるやもしれぬのだ。

 それは、或いは烈しき相撃の果てによる自滅であるやもしれん。

 しかし寧ろ、であるならまだ諦めもつこう。人智を尽くした果てのそれもまた天命であるとのことであればそれもあろう。

 しかしもし。だがそれがもし。

「司令、お時間です」

 インカムから漏れた副官の事務的な声が彼の思索を遮った。そう、”定時通信”までの僅かな空き時間を彼は微睡にも似た取り留めのない思考ゲームに充てていたのだ。

 彼は静かに立ち上がり、部屋を満たす天の輝きにそっけない一瞥をくれると、そのまま部屋を出た。

 彼が対すべき日常は、余りにも実際的なもので有り過ぎた。

 この部屋でのそのロマンチシズムの欠片ですら、職務に持ち込む訳にはいかなかった。

 或いは彼の指先にこそ、人類の明日が掛かっているのかもしれぬとあらば。


 1.


 ホワイトハウス、地階3号室。通称、マップ・ルーム。

 その更に奥にある公式には存在しない一室に合衆国の政治中枢、その殆ど総てが今、集結している。

 地階であるので当然窓はなく、であるのに光量は足りておらず妙に薄暗い。さほどの広さを持たないこの部屋に集まった全員がちっぽけな電話と、自分達を導く最高指揮官の挙動、その発令を注視し待ち受けている。大統領を筆頭に副大統領、国務長官、国防長官、統合参謀本部議長に隷下の各委員である陸軍参謀総長、海軍作戦部長、空軍参謀総長、海兵隊総司令官そして各級補佐官。

 男は怯えていた。この世で最強の戦力とそれを支える最大の国力、それらを率いる最上の権威を掌中にする男、彼こそアメリカ合衆国大統領その人である。

 今、男を怯えさせているもの。

 断続的に耳障りな音を発し自らの存在を主張し続けている、日常でふだん、何気なく使われている何でもない、道具。

 電話だ。色は青に近いグレイ。

 型は、古い。かつて、”これ”と同じ姿形をしたしかし赤く塗られたモノが、この国と彼の国を直通回線で結んでいた。ホット・ラインと呼ばれるものだった。

 テロにも戦争にももちろん支持率にも、この世におよそ怖いものなどないと嘯く男がその小さな何でも無い小道具に怯え、竦んでいる様はシュールな光景とも言えた。 

 前任者は彼に言った。この電話が鳴るとき、世界の破滅の5秒前だと思い給え。直ぐに、直ぐに取らなくてはいけない。告げられる言葉、その総てを無条件に受け容れなければいけない。天上に繋がるホット・ラインなのだと。幸いにして、私は”これ”に呼び出されることなく今ここを立ち去れるのだが、と。

 閣下。

 普段は決して表に姿を見せない、どころか存在そのものが極秘である特別問題専門担当補佐官が、どこまでも平静な声で呼び掛けてくる。言外に強く、電話をお取り下さい、という要請を滲ませて。

 それが例えばどのように些細なものであれ補佐官が大統領に、否、この世で彼、ザ・プレジデントに、助言ではなく何かを命じることが出来るものは存在しない。もしあるとしたならそれはそれこそ神その人くらいであろう。

 飽くことなく電話は鳴り続けている。

 閣下。

 今度の呼び掛けは先ほどより少し強く、また僅かに調子も上がっている。

 ああ。男はうめいた。

 かつて、朝鮮半島で、キューバで、ベトナムで、中東で。

 世界を左右する決断を下し続け結果、人類を破滅の淵から救い上げてきた名君たち。彼らはどのような思いでそれを成し遂げていたのか。

 私がそれに続くことは、可能なのだろうか。

 5秒はとうに過ぎ去っている。

 世界は既に滅んでしまったのだろうか。

 無慈悲に鳴り止まないそれを、彼はようやく黙らせた。

 空雑音。

「ハローハロー! ミスタープレジデント、御機嫌如何かな?。実は少し相談があるんだ。いやキミの力を以ってすれば大したコトじゃない、まぁちょっとしたトラブルというやつでね、どうだろう、助けては貰えないかな」

 耳に飛び込んで来たのは見事なクィーンズ・イングリッシュ。

「はい」

 と大統領は応えた。直ぐにもう1回、さらに続けて。

 イエス、イエス、イエス、イエス。あたかも聖者を称えるが如くに、大統領は何度でも繰り返した。それは異様とも言える光景だった。この誇り高き男がここまで従順に、これだけの回数のイエスを連発するのを参集した誰もが、はじめて眼にしていた。

 唐突にそれが途絶えた。遂に一度のノーも、イエス、バットもなく会話は終了したようだった。それを”会話”と呼べるのであればだが。

 茫然自失の態で、男が宙を見上げていたのは短い時間だった。

 常に変わらぬ強靭な意志を瞳に甦らせ、男は一堂に振り返った。

「東シナ海の状況はどうかね」

 大統領の突然の質問に、国家安全保障問題担当補佐官が素早く回答する。

「最新情報によれば平常にあるといえます。現時点に於いては、当該海域にて如何なる脅威もその兆候も確認されておりません。私の立場から申し上げますに、陸海空、総てのレイヤーに於いて極めてクリーンな状態にあることを、保障するものであります」

 男は軽く頷いて応じ、続けた。

「大変結構だ。では私から諸君らに一つ尋ねたい事がある。当該海域を我が軍が掌握することは可能なのか」

 安保補佐官はその言葉にびくりと体を震わせる。

「どのような状態をお望みでしょうか、閣下」

 統合参謀本部議長が代わりに進み出た。

「私は、我が軍による東シナ海の完全なる掌握を望み、これを君に命じようと思う」

 本部議長は難しい顔をする。

「状況に、特に、使用可能な戦力に拠ります」

「それも総て任せる。私は軍事に疎いものでね」

 微かな笑いすら浮かべながら、大統領は命じる。

「総て、でありますか」

 本部議長は更に難しい顔を示したが。

「そう、総てと言えば、総てだ。この件に関し、君が指揮下に持つ通常戦力総ての使用を、大統領の権限に於いて無制限に許可する」

 何か、晴れやかな顔と共に、大統領は宣した。

「は、それであれば。しかし、任務達成にあたり、障害が発生した際の対処については如何でしょうか」

 本部議長は続けた。

「核戦力を除く、如何なる方法、手段を用いても宜しい。速やかに排除し給え。私がその全責任を負おう」

「了解致しました、閣下」

 ぴしりと敬礼を決めながら、統合参謀本部議長は内心、安堵の吐息を漏らした。彼のような立場にある人間は、ほらあれを潜れそれを渡れとコースを示された後で、でも右手は使ってはならん、過剰だからな、左足指もだ、とワケの判らない理由と共にあちこちを縛り上げられた挙句、さあ行って来い制限時間は3分だ、朗報を期待している、という無責任な言葉でもって、走者レーンに向かって蹴り出される様な事態がまま、ある。ここまでクリアなコンディションが約束されるのであれば、特に配下に気兼ねすることもない、現時点で彼が心配することは無さそうだった。

 大統領の口から次々に発せられる、およそ有り得ない数々の言葉その総ては、ただ、彼の脇を掠め過ぎ行くだけだった。国家安全保障問題担当補佐官は、自身の内に沸き起こる、怒り、恐怖、哀しみ、それ以外の自分でも判らない感情に、ただ震えているだけだった。東シナ海の状況は、はい平常です。それ以上、彼に向かって掛けられる言葉は無かった。意見を、もし意見を求められるのであれば。言いたいことは山ほど、否、一言でいい。

「論外です、今一度お考え直し願います、閣下」

 全員が、彼を振り返った。

「今、何か仰いましたか。ロックフィールド国家安全保障問題担当補佐官殿」

 笑うような形に唇を動かし、特別問題専門担当補佐官が、あくまで平静で平板な声で、事実を確認しようとする。

「なんでもありません、独り言です」

 口元に手を当てがい、顔面蒼白、こめかみには薄っすらと汗さえ滲ませながら、彼は小声で一堂に詫びた。

「現段階では以上、かな」

 大統領は何度か頷き、ああそうだドミニク、と快活な声を上げた。

「今後とも連絡を密に頼む、特別問題専門担当補佐官」

 彼女は見るものにより天使の微笑みにも、悪魔の哄笑にも取れる不思議な表情を浮かべると、無言で優雅に一度だけ頷いてみせる。


 我々の存在とその活動が、我らがこの世界に悪しき、致命的な影響を与えつつある。

 当時、彼らはそれを信じた。

 自らの活動規模と、活動により生ずる環境負荷の低減に向け精力的に、その全存在を賭けるが如くの、宗教的な情熱を以て。

 否。

 それは正しく宗教に他ならなかった。

 高邁な理念を説く一方その足は後進の者たちを踏み散らし、持たざる者たちへ「環境」を押し与え代価を引き毟り、軍事、経済を持ち替えた強豪たちは「環境」をその手に新たな覇権闘争に明け暮れる。正しく、宗教そのままの姿があった。

 そして世界はじわりと、しかし確実に昇温した。

 彼らは誤っていた。世界の構造を読み違えていたのだ。

 日本は関東区、新宿市、歌舞伎町界隈。六本木や渋谷などに並び、関東区内でも無国籍化著しい街区の一つである。男はその外れに、自ら好んで住み付いていた。昔に比べ家賃も随分と下がっていたし、風俗区画が発する艶に加え街角に漂う、猥雑な空気が住人としては何とも愉快でステキな所なのだと。

 そして今は気楽な失業生活モード。

 気楽な失業。男はフリーの営業屋として就業と自主退社を繰り返している。当然の権利として、失業給付を受け取りながら。同時に、いつまでもそんなバカが出来るとも思ってはいない。そろそろどこか、落ち着き先を探したい二十代後半戦。

 築十年以上は経過しているみすぼらしくはないが年期に応じ淡い色の外壁を持つ、造りはしっかりした五階建てのマンション。その最上階に男の部屋はあった。

 一気にここまで駆け上がって来た肩に荷物を抱えながら現れた男は、荒い息遣いをその場で少しだけ整えると慣れた仕草で片手を使い鍵を開け、そのまま中に踏み入る。

 居間で荷物を床に抱き降ろす。なるべく静かに。

 両足が見える。両腕も。人形でもマネキンでもないそこには確かな人間の質感があった。その頭部が何かに包まれているのがむしろ生々しい。

 息を整える間も惜しんで男は、何かを求め探して部屋の中を激しく動き回るがしかし。

「なんにも、ねぇ」

 その口から失望の言葉が漏れる。

 見つけ出したが空っぽのバンドエイドの箱を握り潰し、焦燥に任せて床に叩き付けた。

 男はさっと床を、自分が運んで来た相手を一度見下ろし、部屋から駆け出しそのまま外へ駆け出て行く。

 駆け通しで荒い息をそのまま、ビニール袋を片手に男は直ぐに戻った。乱雑に袋の中身をぶちまけると消毒液、ガーゼ、包帯などが床に転がり出て来る。男は相手の近くに座り込み、包みに手を伸ばす。

 それは男の上着だった。夏モノのスカイグレイの生地に赤、が滲む。息を鎮めながら男は慎重にそれを開いていく。何かを引き剥がす粘ついた音。苦悶の表情を貼り付けた少女の顔がそこに現れた。幸い、まだ息はあるようだ。少女を右向きに、横に寝かせる。たっぷり血を吸いべとつく髪を男の指がこわごわ、掻き分けると表れたこめかみに浅くない裂傷がある。仮りのつめ物、当て布になっていた上着を剥したことでそこから再び出血してしまっている。

 少女の横顔を汚す血に男は低く呻く。何%の血を失うと失血死になるんだ。本当は一度、お湯で洗うなりするのだろうが、と男は一応思ったがさらなる出血が怖くてそこまでは出来なかった。消毒液を振り掛け塗り込み。

 その最中に少女が上げるくぐもった悲鳴に思わず男は後ずさる。おっかなびっくりガーゼを当てがい、包帯を巻きつけ。

 終了。

 ま、こんなもんか、と男は思う。慣れない素人の手当てにすればまずまず合格なんじゃないの、と。さらに寝室から枕を持ってきて頭の下に差し込む。こういう場合、頭を持ち上げといた方がいいんじゃなかったっけ、と。あやふやな知識からだが。

 そういえば、暑い。なぜだ。

 額に浮き出た汗を拭いながら、男は気づく。

「あ、まだ冷房入れてねぇや」

 口に出して言ってみて、動転振りに独り苦笑する。男はクーラーのリモコンを求める。見付からない。どこだっけ。TVの上、違う。冷蔵庫の上、あった、何でこんなところに。スイッチを入れた。モーターの重い起動音と共に涼しい風が運ばれてくる。

 男は、自身も身を床に横たえた。

 生き返る。

 ぼぉ、と天井を見上げながら男は思う。この短時間で、心身共にかなり使い込んだいつもの自分にしては。寝転んだまま少女を眺めやる。寝息にも似た、規則正しい呼吸音。とりあえずこれで大丈夫かな、命に別状は無さそう。美少女救出作戦、無事終了、と小さく宣言してみる。

 改めてその容姿を見る。髪は、鮮やかなプラチナ・ブロンド。両方とも耳を出していて、その高さで切り揃えている。瞳は確か、碧色。そして肌も黄色ではなく、白い。

 北欧系かな、と思う。或いはロシア人とかだろうか。

 そして着込んでいるのが、変わっているというか奇妙というか、表現に困るスタイル。

 色は軍用機の様なライトグレイ。光沢は無い。素材は柔らかそうだが、肩や関節部分を保護するような、一部、パットのようなパーツもある。そうした、服と呼ぶより装置と表現した方が適切に思えるものが、少女の首からつま先まで全身を、覆っている。

 バイカーが身に付けるライダースーツのようであり。戦闘機パイロットの服装にも見え、宇宙服であるようにも、軍隊の戦闘服にも見える。

 一番判り易いのが子供向け戦隊モノTV番組の世界で、正義の味方が装着している強化スーツ、なんだが。

 部屋に力のない笑い声が上がる。

 戦隊モノはよかったな。いや、思わずカメラとメガホン、探しちまったけど。

 そんなものはどこにも無かった。あったのは死体と死体手前の重傷者。

 そして彼女との出会いとそれに……。

 太陽が照り付ける中、街中での突然のそれこそ白昼夢の如き悪夢的な光景。

 出来ようものならさっさと忘れ去りたい鮮烈に焼き付けられた記憶が、こうしていると勝手に溢れ出してきそうで。


 時間は少し戻る。

 そんなこんなで、職安からの帰り道。男はほんの気紛れで1本、奥の道を歩いている。

 歩き慣れた帰り道のはずが、異国の裏通りを移動しているような気分になる。目新しいから、に留まらない。日本の風土が諸外国文化に食い荒らされ、或いは強かに従える。激突し、融合し、調和の末に立ち表れる奇観、おもわずはっとさせられる美観、苦笑以上の評価が難しい醜観すら。見飽きない、心躍る。それが道一つ外れただけで、騙し絵の様に思いがけない図版を描き出す。その光景自体が、変化が、堪らなく面白い。別に急ぎの道ではない。はたと気が付くと随分な遠回りになっていた。

 さすがに調子くれ過ぎだな。独りバツが悪く少し白けもし、今度は直線的に帰宅しようと試みる。A点とB点の間は望みもしない空白地帯。やみくもに足早に、最短的にジグザグ歩くうちに。

 当然のごとく、迷った。おいおい地元だぞこれでも。

 9月のまだまだ暑いあつい太陽の下なんともつまらない汗を流しながら拭いながら道を探す。今えーと1時過ぎで太陽があっち、南があっちなら帰り道はこっち。

 折れる。行き止まる。とほうにくれる。

 地区表示、番地を見る。読めない。塗り潰された上から見た事も無いキゴウが殴り書きされている。アジア原語かアフリカか。

 道を尋ねる。通じない、こっちも聞き取れない。

 ようやく思い当たってケータイナビを起動する。道が読めない。データでは通れるハズの路地が違法建築で閉ざされている。

 あやしい自販機からよく冷えてはいるが気持ち悪く甘い、あやしい飲み物を口にしながら交差点に突っ立ち空を眺める。視界の半分には洗濯物が翻っている。涼を求めて二口飲んだが堪え切れずに、溢れ返った空き缶入れに向けてそのまま放り投げた。自販機を見る。再チャレンジの気力は湧かない。

 30分ほどを空費して帰路を示す手掛かりはなく。状況は悪化した、気が、する。気分ではなく確実に悪化していた。帰路問題とは無関係な方向で。人の声が、気配がない。何かが始まろうとしている街角で置いてけぼりにされた。

 何が。見当も付かない。

 歌舞伎町の、例えば中心地区であれば「どんぱち」は別に珍しくもない。風俗街の周辺には大昔からヤクザや暴力団や各国の同類やらが、利権を巡り群雄割拠、常日頃から終わりの見え無い対立と衝突を飽くなき執念で続けている。しかしこんな、なんにもないところで抗争する根拠は考えられない。国家や行政から見放されているだけに、彼らは或る意味表社会の企業よりなお経済的だ。

 では、何だ。何が起ころうとしている。

 何かが弾ける乾いた音が連続して響いた。

 ちんぴらが持ち付けないチャカをガク引きするとそんな音がするだろう。それより音が近いことに男は震えた。すぐ隣ではないが、近い。叫び声が上がり悲鳴が続いた。抗争か、抗争なのか?!。男も叫び出したかった。なぜなんだこんななんにもないところで。責任者出て来い是非、納得のいく回答を希望する!。

 落ち着け。自分に命じながら男は耳を澄ます。

 抗争現場の反対側に向かって、取り敢えず避難しよう。帰宅は一時中止。こっちか、と見当を付けて角を曲がった男の目の前を何かがふっとんでいった。血を吹き出し振りまき、肉片と内臓をバラ撒きながら。

「わっ?!」

 男は頬に飛んできて張り付いたモノを反射的に払い落とす。ぴちゃりと路面に落ちたのは耳のカケラ。足元のそれを見つめ喉元にせり上がるモノを覚えながら、男は必死に頭を巡らせる。

 これ、ただの抗争じゃないぞ。

 顔を上げた視界に飛び込んできた映像が男の理性を烈しく叩き揺さぶる。弾け飛び、掛ける。

 路上にぶちまけられた赤。

 その上に投げ出されたまだ湯気を立てている臓物。

 引きちげられて転がる眼を剥いた生首。

 死体、死体、重傷者、死体。

 ふ、と。

 頭上から影が差した。男が見上げたそこに2メートル以上の巨人が立ち塞がっている。

 でっけぇホームレスだなぁと、男の意識は思う。そして体は別の反応を示した。

「はは」

 声が漏れた。意識はまた全く別の反応を起こす。そうかこれは撮影だと納得する。

「ははは」

 止まらなかった。カメラはどこだろう。監督は。

「ははははは」

 今まで堪えていた何かが弾けていた。おれもエキストラかなと意識はまた脈絡無く言葉を操る。

 声を上げながら後ろに倒れこみ、それでも巨人を指さしながら男は笑い続けた。

 風切り音を発する鋭さで、巨人の右腕が振り上げられる。

 死ぬ。と思う、思った。即死すると。

 ものすごい音がした。

 ちらり、と男は薄目を開ける。生きていた。無傷で。

「だいじょうぶ?」

 男は声に振り返る。

 男の顎くらいの背丈の、銀髪の少女がそこにいた。

「立てる?」

 差し出された少女の手を男は素直に握り返した。

 地獄に舞い降りた救世の天使。

 思わず手を合わせ拝みたくなる。

 立ち上がった拍子に、2、3歩よろめいた。

 少女が何かを叫ぶ。男の視界が突然振り回された。くるり、少女とその位置を変える。

 そして少女が吹き飛ぶ。閉ざされたシャッターに叩きつけられ路面に転がり落ちる。

 身長が2メートル以上。なぜかカウボーイ・ハットを頭に乗せている。目深に被ったその影に表情は判然としない。ただ、眼だけがぎらぎらと光っている。少し離れていても酷い、鼻が壊れそうな腐臭がする。もちろん外見もずたぼろで、衣服の残骸を身に巻き付けた姿はやはり、ホームレス以外の適当な表現が浮かばない。

 大ホームレスが男の目の前にいる。男は声を上げる間もない。

 悪夢のようだが、これは紛れもない現実だ。

 体が動いて背中から後ろに転がった。男のすぐ脇を凄まじい風圧が掠め過ぎる。転がったまま少し距離を稼ぎ、立ち上がり。

「逃げて! 」

 声を上げながら大ホームレスへ跳び付き組み合う少女の姿に、男は逆に逃げる気を削がれた。足手まといだからとっとと失せろ!、と言われているのは理解出来るのだが足が動かなくなった。だからといってもちろん、何が出来るということはない。

 見ている前で少女の体が舞う。

 背中から路面に投げ落とされた。彼女の口から危険なものが吹き出る。

 男は必死に眼を動かし。見つけた。全身で跳び付く。

「これか?!」

 叫びながら少女に向かってそれ、銃かもしれない何かを力一杯、放り投げた。

 ビンゴ!でも、グッジョブ!でも、ありがとう!でもなく。

「このばか!」

 少女に罵倒されたような記憶が、男にはある。或いは別の言葉だったかもしれない。記憶が定かではない。

 空中で受け止め少女はそのまま撃ったように、見えた。

 音も光もない銃撃はしかし、まるで至近距離から散弾銃の連射を受けたように標的をばらばらに吹き飛ばす。

 すげ。

 同時に男の眼は別の意識で光景を捉えている。

 血飛沫、は上がらない。黄緑や空色の液体が宙にきらきらと舞っている。

 その大ホームレスが倒れると、無音の世界が戻って来ていた。

 おわった、のか。

 気付いて、呆然と男はつぶやく。助かった、という思いと共に。

 男の足がすくんだ。それから小刻みに激しく震え出した。

「な、何だよ、いまごろになって」

 その場に転がった。立っていられない。

 珍しく洗濯モノの無い空が見える。

 路上に転がり周りを見回しているその視界に、棒のような姿勢でゆっくりと倒れ込んでいく人影が飛び込んできた。

「あ、おい?」

 男は力のない声を出した。

 まだ立ち上がれない。腕がすれスラックスが破れるのを構わず、男は少女の元へ這い寄る。「大丈夫か、おい、生きてるか?!」

 少女の耳元で怒鳴るがぴくりとも反応を返さない。

 サイレンが聞こえた。

 まだ遠いが関係がないとは思えない。いや近付いてくる、男の錯覚かもしれないが。

 まずい、と男は思う。いろいろな意味でまずい。

 少女を見る。動かない、その気配がない。男は立つ、立ち上がろうとする。またひっくり返った。情けない、涙が出る。それはいいどうする。足を力任せに叩いた、痺れるほどに。再び足に力を込める、男はなんとか立ち上がる。

 少女を見る。顔が血で汚れている。綺麗にしてやりたいがそのヒマはなさそうだ。

 抱きかかえ上げようとして抱きこぼしかけ、男は少女の体を慌てて支える。意想外のその重さに驚く。くそ。男は少女の”服装”を睨み付ける。つまりこの”戦闘服”か。しかし脱がしている時間もない。

 悲鳴に近い気合を吐きながら、男は少女を無理やり抱え上げ、肩で支えた。重さが食い込む、フラつく。何かを呪いたくなる。クラブのダンベルでもここまで重くはない。

 歩き出す。歩きでどうする、男は自身をムチ打つ。走りだす。実際は早歩きくらいか。

 いきおい伏目がちな男の視界に、それが現れる。

 いつの間にか放り出していた、上着。跪き、少女を抱え降ろす。

 びちゃびちゃっ。いやな音を立て路面に流れ落ちる赤い液体。

 男は上着に駆け寄り駆け戻りカモフラージュと、なけなしの止血効果を期待して手にしたそれを少女の頭に巻きつける。

 力なく立ち上がり、少女を見下ろす。男の全身から汗が吹き流れ落ち、未だ十分に天高く輝く光熱源は、更に彼を平然と焼き払う。

 もう、いいか。

 ぽつりと思い、同時に自身を殴り倒していた。ウケの取れない一人芝居で男は無様に転がり倒れる。

「ばかやってるヒマ、ねぇだろ」

 自嘲の響きの独語と共に男は身を起こし、そして少女を見据え、身を屈め。

 抱きあげる。かかえ上げる。再び肩で支える。ふん、と鼻を鳴らし。

 立ち上げる。言葉にすると陳腐だが、と男は思う。

 彼女は、命の、恩人だ、と。

 ずしりと肩の重みが、いや逆に。軽くなった。ふっきれた。

 命の恩人の生死に死力を尽くす。

 むしろ当然だ、やれ、男は思う。さあ動け、動かせ。足を前に。

 視界が奇妙に歪む。再び、白昼の悪夢に踏み入ったような感覚が男を弄ぶ。

 ああ、軽いかるい。大したことはない。絶世の美少女と密着状態だ。こんな重さなどたいしたこたない。どこまでも行ける、どこまでも、いくらでも、も。

 ばかやろう! 。

 機械のような大音声と共に突然大声で怒鳴り付けられた。男は思わずその場にへたりこむ。機械のような、ではなくそれは自動車のクラクション、だった。

 それなりに車が流れる通りまで、来ていた。

「あぁ」

 男の口から嘆声が漏れた。あと一息だ。

 待つ。来ない。あるいは乗車中。

 キャラバンと遭遇した砂漠の行き倒れまんま、の反応だった。待望のタクシーに飛び上がり、両手を振って無理やりその足を止める。

 どう見てもワケありの全身傷だらけの若い男と、等身大のオタク臭漂う奇妙な人形の組み合わせに黒人運ちゃんの顔は曇る。男はもちろんその気配を予測し、運ちゃんにさっと大一枚を素早く無言で突き出した。

 ぱっと運ちゃんの顔が快晴に。

 機嫌の直った運ちゃん相手に第二の難関。男が行き先を告げると再び運ちゃんの顔にそのくらい歩けよと曇りマーク。二枚目を追加で再びこれを吹き払う。

 タクシーから降り立った男の前に最後の関門が聳える。

 このマンションにはエレベーターが、ない。そのぶん当然、安いが。

 これ以上人目を引くようなことは避けたかった。

 最後の死力を尽くし、男は5階分の階段を一気に駆け上がる。

 

 眼を開けた。

 気がついた。気絶したやら寝込んだやら。どっちでもいいが。

 起き上がろうとして男は倒れる。転げまわる。

 痛いいたいイタイ。身体中が「痛い」という材料で作られた肉人形にでもなったかのようないたい。全身をこづき回す筋肉痛だけではない。襲い来る頭痛、吐き気、尿意、便意、倦怠感あれやこれや。

 これはそうだ、まずいぞ、男は必死に頭脳を動かす。

 脱水だ。

 ずるずるとそのまま浴室に向け、這い転がり、進む。

 ラカン、の蛇口をひねり、噴き出す水を浴びながら同時にがつがつごくごくと貪る。

 そして、盛大に、吐いた。胃液と水しか出ない。それでも吐き続ける。少ししてまた水を飲んだ。今度はゆっくりと。

 そのまましばらく、水浴びを続ける。蛇口を閉め、少しずつ体を起こしてみる。立ち上がった。ふぅ、と吐息が流れた。

 なんだかもう、つい先刻まで衣類であった布切れを、男は乱雑に脱ぎ打ち捨て、体を手早く拭いてトランクス1丁に短パンを引っ掛ける。

 そのままふらふらと居間に戻り気づいてぐげ、と思ったが、幸か不幸かまだ少女は床にいる。

 男は少女の様子を見る。

 規則正しい寝息のような呼吸、ではなく彼女は安らかな寝息を漏らしている。

 いびき、はかいていない。なんか、大いびきをかいて寝てると脳がやばいんじゃなかったっけ。と男は、また記憶の片隅にある「家庭の医学」を引っ張り出し、照らし合わせる。

 大丈夫、かな。いや、起こしてみようか。いややめとこ。

 足が何かを踏んだ。血まみれの、上着。

 これももうだめだなぁと思いつつ手に取った拍子に、何かが床に落ちた。

 なんだろ。つまみ上げ少し眺め、そのままポケットに突っ込む。

 男はふと外を見た。もう夜だ。

 長い、ながい一日だった。気まぐれの散歩が大騒ぎだ。白昼の悪夢。晩夏の幻影。

「……モード」

「あれも、現実、私を見て。私はここにいる」

 男はびくりと背を震わせる。誰かの、何かの声がした。気がした。

 少女を見る。もちろんまだ寝ている。

 男は頭を抱えた。まずいのはおれか。狂うのか。もう狂ったのか。

 そうだ。思い立ってTVを付けた。ボリュームを絞って素早く回す。

 やってない。やってない。やって。

 ……東シナ海に隕石落下? 。

 ~~下の衝撃により、最大で六十mに達する津波が発生し、周辺各国の沿岸地域では深刻な被害に見舞われています。日本では九州区の……。

 興味は引かれたが少し見て回す。とにかく昼間のあの。

 ……白昼の銃撃戦だぁ? 。

 ~~で銃声のような物音を聞いたとの、地域住民による110番通報がありました。警察官が駆け付けたところ、現場では既に激しい銃撃戦が。

「違うだろ?! 」

 銃撃戦により地域住民を含む多数の死傷者が、と平然と続けている画面に向かって男は絶叫した。

 おれが聞いた銃声はたった数発だ。

 死体の山を築いたのは”大ホームレス”だ。

 人力では有り得ない、凶暴凶悪な力で引き裂かれ、ちぎれ飛び、投げ出されていた人間の残骸。

「なぜ、報道しない」

 それともあれは、俺だけの幻影。

 銃撃戦に巻き込まれ、恐怖のあまりその場で発狂したおれは。

 全く無関係のコスプレ少女を拉致って。

「う」

 男の背後で声がした。

 今度は、明瞭だった。

 目覚めるのか。

 TVを消して、男は少女へ振り向く。

「う、ん」

 男は思わず少女へにじり寄り、覗き込む。

 眼の前で眼が開く。

 肉を張る、見事な音が居間で上がり。

 男はまた床にひっくり返った。少女は。

 まず男を、次いで男を反射的に張り倒した己の右手を見。

 右を見。

 左を見。

 天井を見。

 再び、男に視線を戻した。

「総てを捧げ尽くしてこの仕打ち。神よ、貴方は残酷に過ぎる」

 ぼそぼそと呪いの言葉を唱える男に。

「お前は誰だ。ここは、どこだ」

 少女は、ものすごいテンプレな質問を男に突きつける。


 1.


「おれは江嶋孝憲(えじま・たかのり)、ここは、おれの住居だ」

 のそりと半身をもたげ、江嶋は応える。

「なぜ私はここにいる。連れてきたのはお前か。なぜ。どこから」

 少女は矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。これではまるで尋問だと江嶋は思う。

「君がその、放置していてはいろいろ危険だと思ったから。場所は、おれも迷ってたんで詳しく判らないが、たぶん近所だ」

 少女は僅かに顔をしかめ。

「危険。私が、う」

 小声を漏らし、頭に手を添える。そして巻かれた包帯に気づく。

「これは。お前が」

 江嶋は頷く。

「そうか。だがなぜ私は負傷している」

 少女が平然と発した言葉はしかし、江嶋にとっては脳天に叩き付けられる鉈も同然だった。ぱっくり割れた頭蓋からしたたり落ちる己の脳髄を見る思いで、彼は必死に言葉を紡いだ。

「君が、巨大ホームレスと戦ったとき、殴られて、それで……」

「戦った? ホームレスと?私がか??」

 少女の眼に嘘は、ない。

「覚えて、ない、のか」

 虚無の深淵を覗き込む絶望と共に、江嶋は言葉を放った。

 こくりと少女は一つ頷き。

「覚えてない」

 明白に答える。

 もう十分だと江嶋は思った。ゆらり、とその場に立ち上がる。

 正に、頭から虚無に呑み込まれ消化され、しっかり排泄された気分だった。

 玄関を示し、言う。

「おれが……悪かった、済まない。手間を掛けた。詫びることしか出来ないが、ああ、良かったら後日、改めて謝罪しよう。申し訳ないが、だから今は直ぐに、ここから出て行ってくれないか。いや、出て行って下さい、お願いします」

 少女に向かって深く頭を垂れながらおれの方は明日、精神科の救急外来に行くから、と心で付け加える。

 そして江嶋は恐怖する。

 まさか、彼女を傷つけたのまで実はおれじゃないだろうな、と。

 そうか、と少女はつぶやくようにいい。そこで、”異変”が起こった。

 立ち上がり掛けた彼女はよろめき、後ろに倒れた。そして声を張り上げた。

「何だ”コレ”は。この”重いの”は!」

「何が、って」

 彼女の元に歩き寄りながら江嶋はそのとき、初めて違和感を覚える。

「それはその、君が初めから着ていた、スーツ、だ」

 少女の顔に混乱の色が兆す。

「私が、初めから」「知らない、判らない、わたしは……」

 わあっ、という悲鳴が少女の口から上がった。

「知らない、わたしは知らない、判らない! なんなんだこれは!」

 倒れたままめちゃくちゃに暴れ出す彼女を江嶋は必死で抑えこもうとする。

「落ち着け! 誰も何もしない! 何もない! だから落ち着くんだ」

 顔と言わず、江嶋は何度も殴られた。

 もちろんこちらから手を出すことは、しない。嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。

「わからない、わからないんだ。わたしは、いったい……」

「焦る必要はない」

 江嶋は優しく、言葉を掛けた。

「一つ、一つだ。まず聞きたい。君の、名前は」

 暴風が鳴りを潜めるように少女の狂乱がふと、治まる。

 少し口ごもり、江嶋を見上げ。

「カナン」

 少女は、名乗った。

「よし、カナン」

 と江嶋は続ける。

「今、君がいる場所は」

「お前がさっき言ったろう」

 不満の声を出す彼女に。

「君の声でもう一度、聞きたい」

 明らかな困惑と共に、少女は答える。

「ここはお前の住処」

「それは、どこにある」

 立場が完全に逆転していた。面接官のように江嶋は言葉を繋ぐ。

「日本国、関東区、新宿市、歌舞伎町。詳細な番地は不明」

 江嶋は相手に安心を与えるように頷く。

「それでいい。ところで君は、どこの学校の、何年何組の生徒なんだ。或いは勤め先は。いや、答えたくないならそれでもいいが、判るが答えたくない、と答えてくれ」

 少女の顔が混乱で歪む。

「ガッコウ? ツトメサキ?? 一体なんだそれは」

 再び感じた違和感を心でメモりながら、江嶋は少女に告げた。

「判った、有難う。すまなかった、もう、いい」

 そして付け加える。

「アンザッ、ユードゥノッノゥ、リターントゥプレイス」

 ここいらだとこのくらいで十分、通じる。

「……Yes」

 ふぅ、と江嶋は息をついた。

「なんだ、何か判ったのか。いや、その前に」

 勢いづき、そしてしおれて、少女は自分の体を見下ろす。

「……”これ”を何とかしたいんだが。手伝ってくれないか」

 見れば彼女は冷え切ったこの室内で、火照った顔にうっすらと汗まで浮かべている。

 ああでもないこーでもない。一見、継ぎ目一つ見えない正体不明の少女の”スーツ”を”取り外す”のは一苦労だった。

 もちろん、背中に”ジッパー”などはない。

 許可を受け共に少女の体を撫で回す、江嶋の指遣いが次第に大胆になる。胸を握り締めふくらはぎをしごき脇の下をまさぐり。

「あ」

 スイッチのような窪みを指先が拾った。押し込んでみる。

 すぱっ。

 正解。というように上半身の両脇に接合部が開いた。

 安心(?)しろ、素肌ではないという彼女の予告通りにだが。

「……んんぅ」

 透けているワケでも一部肌が露出しているのでもないのだが、すっぽんぽん、とさして変わらない、むしろよりイヤらしい見るもののリビドーを直撃爆発炎上大破させる方向性のデザインのインナーが現れ出でて。

 それに思わず眼を背けた江嶋だったがしかし、ある意味異常幻実体験ラッシュの本日にあってなおそれらを凌ぐギガトンクラスの衝撃が、直後彼を襲来した。

「ようやく脱げた。暑いあつい!」

 の一言と共に。

 すぽん

 伸縮自在であるらしいそれを彼女は一息に脱ぎ去った。

 女神降臨。

 有難やありがたや。眼福がんぷく。

 両目から湧き出でる滂沱の涙を流れるがまま、その場に跪き一心に拝み倒す。ことはしなかった。少なくとも彼は。

 輝かしく神々しいその張り出すべきは節度と秀麗さをもって張り出し収まるべきはこれまた見事に収まり括れ、再び黄金比にも似た調和を以ってヴォリュームを増す彼女の総てをしっかり見届けたが何も見えない見ていないと悪霊退散の聖言を唱えるが如く繰り返しながら江嶋は、カナンを抱きかかえ浴室前脱衣場目掛け5秒で駆け抜けた。

 中に少女を放り込み扉を閉ざす。

「いきなり何をする!」

 少女の抗議の言葉に江嶋はおっ被せる。

「気をつけろ! 」

「……何を、だ?」

 江嶋の語勢に少女はたじろぐ。

 江嶋は続けた。

「おれも素人だから断言はできない。でも多分、今の君の症状は、外傷性健忘だ」

「外傷性、ケンボウ」

「通称、記憶喪失」

「記憶、喪失」

 背中ごしに、彼は言葉を続ける

「健忘には程度がある。今の君は、自分の名前以外のほぼ総てを忘却している可能性がある。日常生活の記憶も、その知識を含めて、だ」

「……」

 理解の沈黙の気配を背に、江嶋は言葉を重ねた。

「気をつけろ、と言ったのはそういう意味だ。自分の行動を常に再確認した方がいい、今は。おれの言葉が理解出来るか」

 つまり、と扉の向こうから聞こえた。

「私は、知能、知識およびその思考に於いて、一面、生誕直後の乳幼児のような状態にある、かもしれない。こういうことか」

 曇りガラスの扉を背に、江嶋はずるずるとその場に座りこんだ。

「的確な要約だ。君の理解は正しい、とおれも思う。少なくとも今は、そう意識して行動した方が間違いが少ないんじゃないかな」

 そしておれは、と江嶋は胸の内でつぶやく。狂人かもしれんわけだ、くそ。

 これは現実の光景なのかと江嶋は自問する。「えじま」

 まさか実際は、無関係な少女を自室に拉致監禁し、恐怖に竦む無力な彼女を妄想の中で弄んでいるだけ、なのではないだろうな、と。気をつけろ?それは、おれの方だ。「えじま?」

 足元で再び虚無が足元で顎を開く気配がする。江嶋の全身をあっさり飲み干すそれは。

 無理だ。江嶋は絶望と共に吐き捨てる。狂人に現実と夢幻の見分けが付くものか。

「えじま、どうした。”狂人に現実と夢幻の見分けが付くものか”か、それがどうかしたか」

 カナンが呼び掛けて来ていた。いつの間にか思いのたけを絶叫していたらしい。

 その通りだ、見分けが付かない、畜生。江嶋は思った。ならばせめて。

 せめて、彼女に、カナンに誠実に接しよう、丁重に扱おう。

 密かに誓い、口を開いた。

「ああ、いや、何でもない。なんだっけ」

 江嶋のその言葉に、カナンは軽い憤慨を見せる。

「”なんだっけ”もないだろう。私はいつまでここに閉じ込められていればいいんだ? ハダカで。先のお前の態度を見ても、ハダカでいることは流儀に外れるようだが、では私はどうすればいい。」

 それは、その通りだ。

「そう、だな。シャワーは、判るか、使えるか」

 江嶋の念押しに、少し諦観を滲ませカナンが応える。

「浴室の、シャワー、だな、ああ、多分、大丈夫だ」

「じゃあ、少しシャワーでも浴びて待っててくれ。買い物に行ってくる、すぐ戻るようにする」

 言い置き、江嶋はそこから離れた。手早く着替え外へ、近所のコンビニへ向かう。

 取り敢えず便宜的措置として、男モノだが彼女に合いそうなサイズの下着を2セット選んで江嶋は思い出す。サウナシャワー代わりにもしているスポーツクラブのせいで、浴室には何もない。色々な意味で寂しい思いをしているだろうカナンを思い、入浴用具一揃いを慌てて追加した江嶋は自宅に駆け戻る。

「戻ったぞ、カナン! 」

 玄関で声を上げるが、返事はない。

 理由はないが確かに、「えじま、お帰り」という言葉は彼女には似つかわしくないと彼は思う。

「すまん。男モノだが取り敢えず下着用意したから」

 声を掛けながら浴室に向かう。

 未だ、返事はない。

「かなん? 」

 脱衣場に人影がないのを確認して、中に入る。

「おい、かなん? 」

 シャワーの音はするが。

 人影は、ない。

 江嶋はようやく異変に気付いた。

「カナン! 」

 叫びながら予感と共にドアを開いた。

 倒れている。

 素早く脈を取る。ある、特に弱くはない。抱き上げて居間に運んだ。馬鹿なことを。頭部を負傷し意識不明だった者にシャワーを勧めるなど。まさか頭から浴びたとも思えないが、ばかだばか、もちろんおれが。何という迂闊さ、これで保護者のつもりか。

 保護者?。

 自分の内から飛び出た思いがけない単語に戸惑い、しかし成り行きだが、ああ、いいだろう保護者で。肯定する。

 しっかり守ってやろうじゃないか。おれに出来ることなら。

 濡れそぼった包帯を素早く取り去るとその下のガーゼは真っ赤。

 再出血だ。自分がイヤになる。再び患部を消毒し、新しいガーゼを当てがい、少しきつめに包帯を巻いていく。そんな小手先だけ少し手際よくなっているのが、またシャクだ。

「いた、いたあい!」

「ごめん!今終わる、終わった」

 江嶋は手を離す。眼元に薄く露を浮かべ抗議を込めた視線で少女は睨み上げる。

「いたいじゃな~い!いきなり何するのよー!」

 湧き上がる灰色の違和感を胸に江嶋は応える。

「いや、ごめん、帰ってきたら風呂場で倒れてたから」

 少女の顔に初めて大きな疑問符が浮かぶ。

「倒れてた?風呂場?わたしが……」

 その言葉が途切れ。

「……えーと、ゴメンね。ところでお兄さん、だれ?」

「……カナン?」

 江嶋は、言葉を失った。

「判らない、のか。判らないんだな?」

「判らないから聞いてるんです!」

 少女は強気に言い募り、しかし一転急に不安げな表情を見せる。

「それと、ここ、どこ。なんでわたし、ここにいるの」

 辺りを見回し、泣きそうになる。

 悪ふざけにも見えなかった。そもそも、”あの”カナンには結び付かない。

 もう間違い無かった。このカナンは、別人だ。

「退行、したのか」

 おれの不用意で。

 江嶋はその場にのめり倒れこむ。おれがわるかったすまないゆるしてくれカナンという自らへの呪詛の呻きを漏らしながら。どうしたのちょっと、お兄さんしっかり、ふぁいと!という”カナン”のエールを背に。

 傍らに少女を置き去りに大の男がいつまでも独り、いじけ果てていても世話はない。

 江嶋はのろのろと身を起こす。そして気付く。

 眼前の女神降臨再臨振りに。それに平然としている少女に。

 健忘による日常の欠落は継続中であるらしい。

 床にはまだあちこち水気があるが、クーラーの効いた部屋、彼女はもう乾き切っているようだ。

 様子を見て取って江嶋はいきなり居間から駆け出で、脱衣場に放り出していた荷物を手に戻り顔を背けながらそれを彼女に突き出す。

「事情と経緯はこれから説明する。その前に男モノで申し訳ないがこれを着てくれないか頼む。あとこれも」

 立ち上がり、ボックスからてきとうに半そでシャツと短パンを取り出し背後に放る。

「えー何で男モノ~? てゆうかこーしてた方がキモチいいんだけど。だめかな?」

 うりうり。たゆんたゆん。

「今は平に御容赦の段を」

 江嶋は少女に平伏する。いろいろな意味で心から。

 くすり。わらい声が漏れた。

 しょーがないなーというボヤキに続きに少しの間、衣擦れの気配。「着たよ」

 顔を上げた江嶋の視界に突入して来たのは、ノーブラのたおやかな突起を持つカルくはだけたシャツの下に短パン、そこからすべり出す戦艦の主砲の如く挑発的に突き出す輝くナマ足。

 しまったマズいこれはこれでも破壊力抜群攻撃効果十分存分に絶景に過ぎるエロい、エロ過ぎる。未熟な感じがまた。それら、視線を強力に吸い寄せようとする美少女のモジュール群を強靭な意志でそこに置き捨て、江嶋はただ少女の眼を、そこにだけ意識を重ねた。そして言葉を発しようとして。

 惑った。

 先のカナンは、まだいい。自身で着込んだスーツの存在が、辛うじて江嶋の白昼の幻影とに接点を与えてくれていた。

 だが今この少女に与えられた事実はただ一つ。

『少し濡れた状態で、このエジマと名乗る男の部屋で全裸でいるのに気がついた』これだけだ。

 ぽたり、と江嶋の脇の下を伝い、汗が床に滴った。

「どうしたの。全部、話してくれるんじゃなかったの?それとも」

「これを聞いて、君がどうするか判らない。おれを指しておお笑いするかもしれないし、血相変えてここから逃げ出そうとするかもしれない。それは、判らない、が、他の方法が思い付かない。だから、総て打ち明けてみようと思う。一度通して聞いて、それから判断してみてくれないか。」

 江嶋はハラを括った。そして、口を開いた。短くも長い、真夏の白昼夢、幻視の告白。

 描写も表現も必要最小限に切り詰めた。自身の心情も。ただ一度だけ、「そのとき私は発狂したのかもしれない」と付言した以外は。

 まず道に迷ったこと。死に掛けたこと。救われたこと。独断で連れ出したこと。

 営業報告を口述で伝えるが如く、ある意味退屈な内容だった。それでもカナンは、欠伸も漏らさず混ぜっ返しもせず、ひたすらに一身に江嶋の言葉に耳を傾け続けた。

「そして私は帰って来て、風呂場で倒れている君を見つけた。こうして今だ。さて」

 江嶋は少女の顔を覗き込み、一言で言い切る。

「君はこれをどう思う」

 少女の顔に苦笑が浮かぶ、どうってもねぇ、困ったようにちらりと脇に視線を泳がせ、あ、もうこんな時間じゃない。今日はも寝て、ね、朝一番でお医者さんいきましょそれがいいよ、わたしもつきあったげるから。

 とは、彼女は反応しなかった。どころか表情を動かしもしない。

「お兄さんが」

「江嶋、でいいよ」

「じゃあ江嶋さん、が、怖くなった気持ちは、わたしも判る気がする」

 何を言い出すやら。江嶋は少なからぬ興味で彼女の言葉を待つ。

「だって、フツーの人間がいきなりそんな、非・現実、超・現実に放りこまれたら、おかしくならない方がオカシイよ、そうでしょ?。ホラ、十分、江嶋さんは正常。これはどう?」

 まるで合わせ鏡のようなヘ理屈だが、気休めにはなるか。苦笑して頷き江嶋は促す。

「じゃあ次!さっき出た、ターニングポイントを起点に江嶋さんは発狂、今も妄想の中に

いると仮定します。では質問。その大、ホームレス?、それから、見掛けたことある?」

 あ、と思う。

「江嶋さんに生死の恐怖を与えた相手でしょ?もし妄想だったらもっとしつこくつきまとってもおかしく」

 轟音。

 玄関の方角から。

 ほらみろやつだやつが現れたやはりおれはおれは。

 暴れ出そうとする江嶋をカナンが必死に留める。聞こえた!私も聞こえた!!。

 な・に。

「私も聞こえたよ、江嶋」

 少女がささやく。ささやきながら素早く動く。部屋の照明を落とした。

 ゆらり、と巨大な影が現れた。鼻がひしゃげそうな腐臭を撒き散らしながら。

 江嶋は突然、手のひらをくすぐられた。こんなときに何を。み・え・る。筆談だった。神経を集中する。私も見えるよ、と少女の”指”が告げる。次いで、ぶ・き、な・い?。

 武器と言われても。

 影は天井に頭部をぶつけながらぎごちない動きを繰り返す。まるで市街地に突入して身動きが取れない戦車だ。

 これで?。江嶋はカッターを少女に手渡す。かちかち。少女は僅かに刃を繰り。その音に影は敏捷な反応で向き直り。

 カナン、敢然と攻撃。

 頭部に向かって飛び上がりながら右手逆手に構えたカッターが閃く。

 ずちゅ。

 目玉に似た眼球ではない何かが束の間光を発しながら、床に転がり落ちる。

 江嶋は見た。

 鼻はない。口もない。西洋甲冑の面当てのような形状とカナンが抉り出した二つの穴。

 その左右の腕がでたらめに振り回される。物が跳ぶ、壊れる。部屋ごと対象を破壊してしまえばよいというが如く。

 両手で口を覆い江嶋は必死で堪える。カナンの奇襲で視覚は奪えたらしい。だが聴覚は?!。カナンもじっと身を潜めている。どうやらカッター如きでは文字通り”刃が立たない”ようだ。

 正に戦車の蹂躙攻撃だった。こちらの恐怖心も手伝って規則性をもって部屋を虱潰しにしているようながらその実、おそらくでたらめに前後左右に移動していた。振り回す両腕も偶然、近くを掠め過ぎるときもあるが、何かを狙っての攻撃には見えない。そうであればもうとっくに二人とも死んでいる。何しろ、こちらには反撃の手立てがない。家具の殆どを破壊し間仕切りを破り。最後は外壁を突き破って落ちて行った。

 カナンは暗闇の中で立ち上がり、一言で提案した。

「江嶋、逃げよう!」

 彼も即答で応じる。

「判った。3分欲しい」

 瓦礫を掻き分け中から免許とケータイとカードを引っ張り出す。

 おれは、くそ、あのとき狂ったのはこの世界の方なのか。

 今のが”斥候”なら。当然この後”本隊”が、”増援”が来る。

 ”空振り”でもいい。そう考えて行動した方が”安全”だということだ。

 あ、ケータイはダメお亡くなりに。

 或いは既に”包囲”されているか、いや。

 であれば、もう”本格的な攻撃”を受けているだろう。

 うーあー、もう。江嶋は小さく頭を振る。どういう世界だ。これは現実なのか。

「江嶋!」

 カナンが強く呼び掛けた。その眼が闇に煌く。

 ごめんね、標的は間違いなく私。

 でも御願い、見捨てないで。

 私を、守って。

「準備、出来た? 」

 江嶋も振り返る。

「よし。行くか」


 2.


 日本海上自衛軍第2潜水隊群第2潜水隊所属、通常動力型潜水艦「こうりゅう」。

 第7艦隊に生じた異変を世界で最初に察知したのは、演習を兼ねてこれに触接していた海上自衛軍の潜水艦だった。

 現在、第7艦隊が根拠地とするグアム海軍基地。間近に迫った母港に向け一路南下を続けていた艦隊が突如、転針した。

 おお、すげぇ。聴音手が思わず声を上げる全艦一斉回頭。ワルツを踊るが如し優美な艦隊運動は同時に、高い錬度の発露でもある。

 この変事をどうするべきか。短い討議を経て速報が決断される。「こうりゅう」から発射された信号弾は必要距離分航走、発射元から十分距離を取り浮上、頭上に向け極、短い信号を発信、太平洋の頭上に浮いている、国内事情的にはなるべく忘れていて貰いたい「情報(偵察)通信衛星」がそれを受信、すかさず日本本土は横須賀の潜水艦隊司令部に投げ落とす。

「第7艦隊転針ス」情報は国防省、市谷に飛んだ。しかしそこまで。

「それはつまり、我が国の安全保障にどの様な影響を与える事態なのかね」

 事務次官が怪訝な表情で述べる。統合幕僚長は苦い顔で応じるしかない。

「いえ、現時点に於いては、何ら影響を被るものではありません」

 次官はあからさまに呆れた表情を浮かべる。

「であれば。何が問題だというのかね」

 呆れたいのは統幕長の方だ。彼は言いたい。”あの”第7艦隊が母港への寄港を目前に一斉回頭してのけた。伊達や酔狂ではない、間違いなく”何か”があるのだ。

 それは、何だ。

「第7艦隊の動静を軽視するべきではありません。水面下で、何らかの事態が進行している可能性は、極めて高いものがあります。今は、情報収集に努めるべきです」

 どうしようもない無力感を背に統幕長は言い募ったが、当然、切り返される。

「何らかの、ね。別に偵察機を飛ばしても構わんが、貴重な血税だ。どこへ何を調べに行かせるつもりだ?」

 それが判れば苦労はない。

 多年に渡り営々と築かれてきた彼の国との関係を断ち切ったのは、もちろん軍人ではなく国民とその選良による選択だった。

「半島、大陸、或いは北方。何か不穏な兆候でも」

 言い被せてくる次官に対し、統幕長は返す言葉がない。全くその通りだからだ。

「現時点では、何らの兆候も存在しません」

 現時点、では。

 しかしアメリカは行動を開始している。

 何かが、足りていない。それは何だ。統幕長は自問を繰り返すが手持ちの材料をどう組み合わせてもそれらしい解が得られない。かといって手持ちの情報が足りていないとも思えない。奇妙だ。パズルは完成している。しかしどこかが欠けているはずなのだ。

「大臣には私から伝えておく」

 興味を失った顔で次官が結んだ。

 消防車が突然サイレンを鳴らして街中に現れれば、どこかで火災が起きた、起きようとしている、と普通は考える。

 だが。或いはもし。


 第7艦隊。

 ”地球の半分”をその活動範囲とし、40~50隻の艦艇により構成される。アメリカ海軍内でも最大規模を誇り、単一の艦隊戦力としても地上、史上最強と呼んでよい。

 艦隊、と称されるがその実態は基地航空戦力をも隷下に持つ複合戦闘部隊であり、基幹戦力をなすフォード級原子力空母「アメリカ」が搭載する90機の航空戦力を合わせその数300に達する他、強襲上陸作戦を可能とする両用部隊戦力を併せ持つ。平時に1万5千の兵員を擁し、戦時動員では水兵海兵その数5万に膨れ上がる。正直、その戦力は並みの中小国の全戦力を軽く凌駕し、必要であればこれと対等以上に渡り合える能力を有する。 1艦隊で1国を降す。第7艦隊は合衆国の力の象徴の一つでもあろう。

 第7艦隊旗艦「カスケード」。

 かつて旗艦といえばそのままに主戦力であり、艦隊の最強戦力を兼務する存在だったが「カスケード」には武装といえば少数の近接防御システムくらいで他に特段兵装はない、否、林立する通信アンテナこそがこの艦が持つ最大最強の武器だ。これは艦種が”指揮艦”であることだけを意味するものではない。「カスケード」が担うC3I、指揮統制通信そして乗組む5百名に近い兵と呼ぶよりむしろスタッフが扱う情報、これらが整然と運用されることではじめて第7艦隊という巨大戦闘集団は戦力として機能する。

 その戦力の更に中核に位置するのが一人の男。司令官、アレクサンダー・ラムソン海軍中将。個人としての彼は、ようやく授かった一粒種相手に向け貴重な自由時間を削り通信回線越しに飽くなき”いないないばぁ”を捧げるような情愛溢れるパパだが、指揮官としては闘将、勇猛かつ冷厳な鋼の男の一人である。

 しかし今彼は、一抹の不安を胸に宿している。外から見てそうと知られるような線の細い男では当然ないが。

 与えられた命を素直に受け、その達成のみに尽力する。良き兵とされるものの姿だ。だが彼のような立場にあるもの即ち、一国の国防大臣に比肩する戦力を率い、権限を有しその責務を負うもの、そう単純ではいられない。与えられた命の背景にあるものを含め佳く理解に勤めその変化を予見し、場合により臨機に対処する。これが将たるものの勤めだ。

 それが、今回は見えてこない。

 白紙委任に近い命令そのものは明白で遂行に関して疑念の余地は、ない。艦隊直上にエアカバーを設け後、各機各艦それぞれ空海海中に隙無く眼を凝らし耳を澄まさせていればそれで宜しい。

 何の為にだ。

 つまり。自分の更に頭上高く極秘を冠した何かが舞っているというのか。海軍中将如きでは触れ得ない何かが。

 想像も付かない、な。

 彼はそこで思考を打ち切る。知り得ないものをあれこれ根拠無く憶測するのは第7艦隊司令たる自身の職務ではない。自分の仕事はもっと実際的なものに限られる。

 ラムソンは制帽を手に取り、目深に被り直す。

 アメリカ、発艦を開始、の声が上がる。ラムソンは軽く頷いて応諾を示す。


 ファーサイド・ムーン

 地球から見ての月の”裏側”。

 月の裏側といえば定番は”うちゅうじんの、UFOの秘密基地”だが残念ながら現実には存在しない。

 代わりに実在するのが地球人の手になる宇宙基地だった。東西冷戦の絶頂時人類の明日を賭けて、両陣営はここ人外の果ての地で和解の握手を交わしたのだ。その後は周知の通り東側が左前になって冷戦は終結するのだが、そうした事情から現在の運営はほぼ米一国に引き継がれている。運営といっても基地からすれば、平常稼動に限れば殆ど自活の態勢が確立されているのでいうほどのものではないが。

 基地の本体は月面地下にその身を潜ませる。存在の秘匿と同時に、大気層を持たない月表面は何らかの構造物を常設するには危険に過ぎる環境だからだ。

 そして「ブラウン・コロリョフ・ベース」という偉大ではあるが座りの悪いこの名を冠された基地は今、突然の発令を受け全力稼動状態にある。基地が保有する唯一の戦力といえる戦闘艦、全2隻の即時出撃を命じられての喧騒だった。

 戦闘艦。戦艦でも巡航艦でも駆逐艦でももちろん空母でもないこの呼称は、宇宙戦艦の名乗りを上げたいのはやまやまだがそれこそ駆逐艦も巡航艦も随伴しない現在の戦力整備状況ではあまりにおこがましい、と関係者が自重したのかどうかは判らない。

 しかし、主兵装として単装レーザ艦体上下に2基、副兵装として核弾頭ミサイル2発(次発なし)、以上!とあっては全長150mの図体ながら相応しいは「宇宙戦闘機」、”艦”を名乗るにも僭越であるかもしれない。

 搭乗員も艦長と副長の2名のみ。早い話が前席のガナーと後席のパイだ。

 でもって、主にサイズの関係から「それ行け」と言われてもスクランブル・テイクオフなどできようはずもない。まあその戦闘機のホット・スクランブルも発進待機あればこそでコールド・スタートから5分で飛び立てるものではないのだが。こっちを同期あれの動作確認、のチェックリストを頑張って切り詰めて、それでも3時間は掛かる。加えて宇宙という環境は、うわ変事! となっても胴着も不時着水も、一時浅瀬に乗り上げての座礁避難も許されない危険でめんどうな場所であるので事前点検にも自然、熱が入るというものだ。

 しかし奇怪な発令だった。

 1秒でも早く発進し、地球まで降りて来い。

 命令はこれで終わっている。地球まで降りて来いは別に構わない。しかしその後、どこで何をするべきなのか。命令は何も伝えていない。問い合わせにも回答がない。

「解せぬ。戦闘艦2隻を投入して何をさせるつもりだ」

 基地司令のゲオルグ・スターン少将は発進前点検の進捗を横目に呻く。

「状況が流動的である、ということで解釈するしかありませんかね」

 副官が苦笑を浮かべながら意見するが余り身はない。

「流動的でも構わん。最新情報が伝えられて然るべきだろう」

 それは、そうだ。

 月の裏側という立地に加え、公式にはもちろん非公式にも存在を許されない基地の性格から、ブラコロベースは情報的にも地球から隔絶されている。月から地球に向かって出所不明の怪電波が発信されたと世間を騒がし痛くて堪らないハラを探られるようでは目も当てられない。与えられた情報を享受するしかない立場にある。その情報経路を絞られると手も足も出ない。

 地球に存在する宇宙戦力とのみ比較してみるとその存在は絶大なものがある。戦闘艦2隻でもって地球軌道上を制圧、制宙権、のようなものを確保することは十分に可能だ。軌道上に遊弋している精々自爆してその爆散破片で相手も道連れにするか又はようやくセンサを焼き切る程度の微弱な攻撃くらいしか能のないキラー衛星も、地上から打ち上げられる攻撃も2艦の敵ではない。余裕を以ってその総てを殲滅できよう。

 そのような攻撃が必要な事態が地球で発生、生起しつつあるというのか。或いはWW3が?核の応酬が地上で始まるとでもいうのか?!。ばかな。

 約2時間半後。困惑と焦燥に基地が沈む中、2艦は相次いで発進した。


 思えばおかしい。寝入ってしまったカナンがもたれ掛かる体を周期的な揺れに任せながら、江嶋は頭を捻る。

 先の襲撃の件だ。

 なぜ奴は、(おれと)彼女を仕留め損なったのか。

 奴は、拳銃で武装したちんぴらどもをあっさり死体の山に変えてみせた。

 ”戦闘服”を装着したカナンでも、苦闘していた。

 あのとき、完全に奇襲され、二人とも素手だった。

 瞬殺されなかった方が、おかしい。

 まず、奴はあまりにも動きが鈍重だった。

 屋内だったからか? いや。

 あの後、部屋を自在に破壊していたじゃないか。屋内は理由にならない。

 思うように動けなかった、のか。

 つまり、と江嶋は考える。あれはカナンが討ち漏らした、”死にかけ”だったのか、と。それなら一連の不自然も、奴のぎこちない動作も理解出来る。

 であるなら、と江嶋は続ける。あれが、最後であった可能性は高い。いやむしろ、偶発的な攻撃であった可能性が。ならもう”安全”なのかと問えば、それは大いに疑問、としかいえない。少なくとも新宿に戻る気だけはしない。まあよし戻れても大家と不動産屋から苦情と事情説明で吊し上げを喰うだけ、だが。

 音が揺れが止まる。おっと終点だ。ねぼけ眼のカナンの手を引き、降りる。

 JR、八王子駅前。

 何で八王子なんだハンパだな、せめて関東から出ようよ自分、という声がする。

 一方、なに隣町でだめならそれがハワイでも南極でも変わらん気がする根拠レス、という意見がある。

 江嶋は後者の意見を採用した。実際、海外に逃げる体力はないし。

 それに、そう。確たる根拠はないが幾つかの状況証拠がそれを示している。

 そんな気がする。

 取り敢えず、と江嶋はカナンを見下ろし、その視線に気付いたカナンは微笑み返し。

 今夜の宿、だな。

 つんつん。江嶋はスソを引かれる。

「なに」

 ぐきゅうぅぅという異音。

「おなかすいた」

 ああ、そういえばメシもまだか。

 人によれば人生の過半の比重をも持つ食、というものに江嶋は執着を覚えない。食わないでいると死ぬ、くらいの感覚しかない。味覚障害という事情でもないのだが不思議だ。欲もない。休日など、気が付くと3食きれいに忘れ掛けるときがある。実際には忘れず、3食適宜摂取しているが。主に時計で気付いて。

 駅前をてきとうに少し移動すると酔客目当てか、屋台ラーメンがあった。

「ラーメンでいいか」一応、確認してみた江嶋だが。

 カナンは首を傾げ、らーめん? 。

 あー。ラーメンも判らんか。ホンときれいにフォーマット状態なんだな。江嶋、しみじみ頷く。……自動改札通ったときもアトラクションみたいにはしゃいでたしなぁ。

「旨いぞ、ラーメン。たぶん」ま、生まれて初めて状態なら何でも旨いかもしらんが。

 腰掛け、メニューを見上げ。どれがいい。また一応きいてみる。

「ばたーこーんらーめん」

 一応なされる選択。じゃ、バターコーン二つで。

「バターコーン2丁、お待ち」

 掛け声と共に目の前に差し出された器を神妙な顔で覗き込み、一言。

「ばたーこーん! 」

 これは本です、と発声する欧米人に似せて彼女は呼号した。

 再び、如何なる微細な痕跡をも見落とすまいと事故現場から持ち帰った物証を吟味する調査委員会付主席技術専門官のような或る種冷厳な目付きで以って器を中身を凝視する作業を継続する少女に、江嶋は思わず声を掛ける。

「いやそうじゃなくて。眺めるんじゃなくて食うんだろ? ノビちまうぞ。」

「”ノビ”る ?」その意味を問い質したげなフンイキを無視して。

「そ、だから食え。ハラ減ってんだろ」少女を促す。

 そうなのだ食べるのだ。全面的な賛同の意を深い頷きで示し、少女はぱきりと手にした割バシを絶ち。そして江嶋はその様子に少し驚く。

 そういえばハシ、使えるのかという江嶋の遅ればせな不安の視線を、体が覚えているのか、カナンは親人差し中の指3本で一方を独立支持する見事な”ネイティブジャパニーズチョップスティックマスター”振りで弾き返してみせる。

 少女が無事食事を開始するのを見届けると江嶋も自身の器に取り掛かり。

 また軽い驚き。お、旨いじゃん。

 ちらりと親父さんを見ると静かな自信を秘めた微笑。

 そしてカナンは。まるで法悦に随喜する修行僧のようにはらはらと落涙しながらすそそそ、とラーメンをすすり上げている。

 うん、生まれて初めてのラーメン、どころかつまり食事がこれだけ美味なら無理もないかと苦笑しながら。

 日中で一度そうしたように、江嶋は自身を殴り倒したくなる。

 おまえ、何をへらへら笑っている。

 巻き込まれたのは、ああ確かにこっちの方かもしれん。

 だが彼女を巻き込んだのは、この互いに不幸な出会いの原因は、つまらん出来心の挙句戦場に迷い込んだおまえだろう? と。彼女に誠実であれという誓いは空念仏か?。

 江嶋は自問する。誠実、か。誠実とは何だ。

 借りは返した。こっちも死ぬ思いで彼女を救い上げた。関って住処まで逐われた。今もメシを食わせている。十分だろこれ以上どうしろと。

 では、巧みに芸をこなす愛玩動物を眺めるようなその目付きは、何だ。

 不実に過ぎるとは思わないか。

 適度に、中学生なみに知的で、不意に、赤子のように、無垢。

 外観は殆ど完璧な、肉体年齢推計女子高生程度の、美少女。

 カナン。

 道行き、行き交う男どもを文字通り振り返させる彼女の隣にあって。

 彼女に魅了されずに済ませるには。

 江嶋には結婚の経験はない、子を持った体験も。愛娘に接する父親の情愛を演じるには大根もいいところだ。技術も場数も熱意すらも足りない。

 ちがうだろ。声は呆れてささやく。誰もそんなこた聞いてない。お前の事情など知ったことか。

 江嶋は内心頭を抱える。だめだ。彼女にどう接すればいいのか、判らない。

 だから、お前の立場はどうでもいいんだっての。声は無常に繰り返す。

 これが、客に対するのであれば話は簡単だ。

 最大利益と最大幸福。これを与えてやるように……。

 ……。

 ようやく気付いたか。そうだよ、お前、やっぱどっかオカシくなってんな。無いアタマ回して270°程あさっての方角向いてただろ。内心の葛藤持て余した挙句カナンに獣を見る視線送って距離を装ってどうする、本末転倒もいいとこだろが。フツーに接してやれふつーに、或いはクラスメイトのように、出来るならボーイフレンドのように。アンフェアだと思うか? もちろんアンフェアだ。辛いか。なら歯を食いしばれ、あくまで密かに。笑え、笑ってみせろそうやって何人もの客を安堵させてきただろうに得意だろ。それが今のお前の立場だ、年嵩の、保護者の、男のな。それに、その方が彼女も喜ぶ。

 江嶋の内なる声は、すぅと遠ざかる。

「江嶋、さん」

「バターコーン、満足ですか、姫」

 カナンの不安気な問い掛けに江嶋がおどけて返すと、少女はふふ、と声を上げ。

「おいしかったよー」

 天使の、否、所詮神の茶坊主でしかない天使如きも及ばないような、春の陽光にも似た満面の笑顔を惜しみなく振り撒く。

「おっちゃん、勘定」

 うららかな日差しに溶け崩れた雪ダルマのようになっている屋台の主人に声を投げながら、江嶋は立ち上がり。

 それでいい。心の呟きを聞く。


 3.


『第7艦隊ハ東しな海ニ展開スル模様也』

 「こうりゅう」の触接は続いていた。はい、衛星は何をしているかですか? アレは国会の承認が必要なのです。麗しきかな日本式。

 日本国、市谷、国防省。耐爆構造を持ち地下深く埋設されている中央指揮所。

 デフコン1発動準備中。

「外務省は何をしている! 米国の意向は確認出来たのか?! 分裂中華と戦端を開くつもりか?! 」蒼白い顔で事務次官が叫ぶ。

 ほとんど憲法違反の問題発言だが咎めるものは誰もいない。

 東シナ海とは台湾有事、大陸からの3度に亘る台湾侵攻、その迎撃に参加した海空自と米海空軍により撃沈破された艦艇及び航空機が層をなして沈む海だ。

 大陸は繁栄の頂点でそれを恒久的に維持せんと遂に外進に転じた。それが日台同盟と米(そう、米は結局介入した。衝撃の不介入宣言の後、米世論は三度転回したのだ)による全力反撃により惨めな敗退に終ったとき、共産中央政府が完全に求心力を失い秩序が崩壊する中で、残されたのは地方政府の一斉蜂起、国家分裂群雄割拠という収拾しようがない混乱状態のみだった。

 大陸の圧力に怯え道を誤った列島国家もまたあったのだが。

 しかるに現在。銃と戦車で戦う三国志、主権闘争、合従連衡を繰り返す分裂中華は如何なる政治主体とも看做されず、全世界と断交状態にある。

 今回の第7艦隊による東シナ海突入は控えめに言っても、弾薬庫に爆弾を投げ入れるようなものだ。爆弾が不発という一縷の望みに賭けて事態の推移を見守るしかない。

「周辺海域に民間船舶は、航空便は。国交省を通じて退避勧告を」

「レクに対しての回答はまだか。在台法人に向けた警報発令は」

「衛星偵察機能の制限解除を要求します。直ちに閣議召集要請を」

 ネガとポジ。怒号が行き交う喧騒の中、統合幕僚長は総合情報表示面を睨み据えていた。

 第7艦隊は危機に対処して行動しているのでは無かった。今その存在が、行動そのものがこの極東地域に重大な緊張を強いている。

 それを命じている米国の真意は未だに不明。

 何を考えている。全く理解不能の状況に困惑、そして強い憤りに胸を焦がす統幕長だったが彼にも流石に考え及ばなかった。

 彼らもまた彼らなりに、”危機”に対処しているのだということには。


「警告する。貴機の我が艦隊への接近行為は脅威行動である。直ちに変針せよ。警告に従わない場合撃墜する。ってこれで3回目だけどいいの? 墜としちゃって」

 英語で、標準中国語で、北京語で、上海語で、広東語で、各3回同じ内容を繰り返した。

 実際には旧中国の領海を侵犯しつつあるのは第7艦隊側であるので、これは言い掛かりにもならない。

「ROE(交戦法規)クリア。撃墜せよ、直ちに撃墜せよ」

 統制官が宣告する。台湾有事は参加各勢力各交戦国間で一度も宣戦布告が行われていない。当時の交戦規約に準じた法解釈が敷衍されている。

 今回については実は相手も無人偵察機であるので儀礼以上の意味は無い。

 相手も。

 F-55<イーグルⅡ>もまた無人機である。コクピットを持たない機体はほぼ上下対象のデザインで、ステルス性能追求の結果の無尾翼のフォルムと相まり見るものに強い無機質さを印象付ける。

 無人機だが、パイロットは存在する。彼は母艦に在って自機を操っている。

 それは殆どVR(仮想現実)の世界だが、彼の意識は自機と共にあると言っていい。意識と言って、脳みそを吸出し搭載しているという様な大袈裟なモノではない、いうなれば気分、程度のものだ。自機カメラから直接与えられる有視界、電子情報に加え衛星からのものを含む膨大なバックアップがデジタイズされ、脅威算定基準に応じ強調表示がなされ彼が装着しているゴーグルの視界にある。正直、有人で各種計器を確認しつつ過酷なGに振り回されながら戦闘を組み上げるよりは、圧倒的に有利な環境に彼は居る。

 加えてもちろん、ほぼ身の安全は保障されているのだ。母艦が沈むようでは艦隊はもう壊滅しており、少なくとも順番は一番最後になる。

 WW2以後、高度化、複雑化、そして暴騰の一途を辿る「戦争」は、その主体である軍隊に対し様々な変容圧力を加えてきた。無人化もその一つである。

 高度化し、複雑化した戦場は、昨日まで素人だった者を武装させ放り込む徴兵制をまず破綻させた。そんなことをしても死体の量産にしかならないと、誰でも直ぐに気付いた。

志願制はしかし、他職種との人材の奪い合いだった。そうして獲得した最も貴重な「資源」へ更に、カネと時間を注ぎ込み教育し訓練し戦力化し、でも1秒で戦死……させる事に軍隊という組織構造は既に様々な面で耐えられなかった。前線の無人化は環境が軍隊に求める必然的な対処手法でもあった。

 彼自身もそれを実感している。彼もまた台湾有事に従軍し、2回撃墜された。1度は生身で。2度目はただ操機を。1度目、救出されたが2週間程意識不明で生死の境を彷徨った。それでも目覚めて、死への恐怖は無かった、空で死んで惜しくないとそのときはまだ本気で思い込んでいた。むしろ2度目の撃墜の方が衝撃的だった。ネットプレイ中、回線強制切断されたのとほぼ全く同じだった。そっけなくdisconnectとのみ表示している各種ディスプレイ。統制官が自分を呼ぶ声に応えて、彼はマスタースイッチを切り、ハッチを開き、コクピットから降り立つ。ここはそうしたコクピットがずらりと並ぶ母艦のフライト・ルームと呼ばれる一室。そこを出て隣に設置されているコントローラー・ボックスに向かう。

 次の機が準備出来るまで30分くらい。少しリラクゼイションしていてくれと告げられて初めて、足元から得体の知れない恐怖の感覚が伝い昇ってきた。さっきまで自分は戦場にいたのだ。それが撃墜され、直後に次の乗機を待ちながら呆けている。これは一体、なんだ。これが、これでも戦争なのか。何という、なんと馬鹿げた、愚かしい、無意味な、そして恐ろしい行いなんだ。これが、戦争だったのか。

 もちろん彼は、だからといって一時的な感情に任せ目の前の統制官に食って掛かるようなバカはしなかった。今ではむしろ、合衆国という強国に産まれ付いた幸運を素直に感謝している。この呪わしい職業で、しかし無意味に戦死することだけはないと確信して。

 彼は機に、目標への攻撃位置に付くことを命じる。機動そのものはよほどのことがない限り、機体を実際に現地で飛行させている戦術戦闘システムに任される。言ってしまえば或る意味、フライト・シューティング・ゲーム以下だがこの装置にもう、人間のパイロットは全く太刀打ちできない。かつて”制御墜落”と呼ばれた着艦もまるで、機体が垂直離着陸機であるかの様に静かにこなす。大陸側の無人偵察機の真後ろ死角、デッド・シックスにF-55はするりと滑らかに潜り込む。GUNアタック。彼はトリガを弾く。F-55の機首下面から蒼白い光が閃き、同時に無人機は爆散する。

「キル」無感動、というよりも既に事務的な声と口調で彼は任務終了を宣言した。機を無事に母艦への着艦まで導くことは、今の彼らには求められていない。

「CAPがUAVを撃墜」

 報告にラムソンは黙して頷く。

 さて、分裂中華どもはどう動くか。まだまともな判断力が残っているようなら我々の挙動を無視できるはずだが。

 全土が内戦状態に突入し、陸上はともかく航空戦力は特に整備能力の面で大きな打撃を受け、著しく疲弊しており効果的な運用は不可能だろうと聞いているし最新情報にもそうある。海上戦力は言わずもがな。それでもそのなけなしの戦力を投じてくるときには。

 相手を見下し侮るでなし。冷静な戦力分析の当然の帰結としてラムソンは薄く笑う。

 我が艦隊は全力を以ってお出迎え申し上げよう。大陸の諸君。


 腹が出来たら後は寝るだけ。

 江嶋は少し考えたが、結局ビジネスホテルで一泊することにした。

 一人であれば、公園のベンチで一夜明かしても、そも”戦闘少女カナン”であれば、恐らくサバイバル訓練教程などで、それこそ自分で起こした火で地虫を炙って喰らいブービトラップを張り巡らせた中で束の間の休みを取る、くらいはしてるかもしれないが今の彼女には野宿一つ押し付けたくはなかった。

 ツインの部屋を取って中に入るとカナンはさっそくあちこち部屋中を見て回っている。

 江嶋は窓際のチェアにその身を投げ出し、見るともなしに八王子の夜景を眺める。

 カナンは何やらお子様定番の「ベッドでぽんぽん」をしていたようだがやがて気配が消えた。江嶋が様子を見に行くとダブルベッドを真ん中一人で占拠したまま寝入っている。

 江嶋はそれに掛けフトンをあてがい、また窓際に戻った。

 ぷし。ごっごっなどと冷蔵庫から取り出し、飲み付けないビールなど気分に任せてあおってみる。

 ぷは、かー……だめだやっぱまじぃ。慣れないことはするものではない。

 これで一日、終る、か。

 隣部屋でカナンが立てている寝息に耳を向けてみる。

 彼女と出会ってもう、一年はつきあっている気が、する。

 余りにも濃厚な一日だった。朝起きたときには全く想像していなかった、一日。

 今日だけで彼女と共に死線をくぐること、2回。

 死線。特殊危険職か、何にせよ自ら好んで近づくのでなければ平均的日本人であればまず生涯無縁な思わず失笑したくなる大げさな非、日常。しかし今の江嶋にとっては動かし難い現実だった。

 もしも、と江嶋は思う。

 おれが気紛れを起こさず、まっすぐ帰宅していたなら。

 彼女と出会わず、今もあの部屋でだらりとTVでも眺めていたんだろうか。そして明日。

 何をしていたんだろう。それは、どんな人生だったんだろうか。

 判らなかった。今となっては想像もつかない、異次元世界の物語でしかない。

 回転扉の如く、入れ替わる日常と非日常。その紙一重を思い知らされる江嶋だった。が。

 昨日まで生きていた、何というか、温い泥濘に身を沈めたゆたう様な人生が懐かしいかと問われると、そこに未練はないような気もする。

 未練はない、ないが。

 他方この現状には、途方にくれるしかない。

 明日からどうすべぇよと江嶋は思う。どうする。この場合。

 警察に保護を求める。江嶋は軽く額を押さえる。どう説明する。せめて何か物証でもあればいいがそんなものは何もない。新宿の自室が派手に”荒らされた”のは事実だがそれを以って。

「正体不明の何者かの害意により生命財産の危機にあります、警察権力により保護して貰うことは可能ですか」

「正体不明、ですか。怨恨の心当たりは。過去、金銭関係等での争議等の経験は」

「いえそれが、相手は人間ではないようで」「……」

 ここまでだろう。どう考えても警察がこの案件を受理する可能性は絶望的だ。それにもし万が一再度の襲撃を受けた際、まず無力だろう警官たちを巻き込み死体の山を築くのも不本意に過ぎる。では自衛軍か。一般国民が自衛軍に何かを申し込む経路、窓口はあるのだろうか。公報窓口くらいしか思い浮かばない。または地方の入隊受付窓口か。

 ムリだ。始めから自明だった結論を江嶋は見つめ直す。行政、国家権力に取り扱って貰える事情ではなさそうだやはり。

 では自力で。それこそどうやってという感じだが選択の余地はない、らしい。

 笛の音のような何かが聞こえる。

 ぐごわうなどという無節操な爆音ではないが、しかし確かな、それはカナンが立てるいびきだった。江嶋はもう車内でそれを聞いている。

 大の字に横たわりいびきを立てて眠る美少女、戦闘美少女はやはり野生風味か。江嶋は独り苦笑する。

 そう、彼女だ。

 ”敵”、はまあ、いい。それが異次元からの侵略だろーが地底帝国の逆襲だろうがどうでもいい。問題は彼女の存在だ。

 例えば彼女が明日、記憶を取り戻し還るべき場所に帰れば、話はそこまでだ。

 だが逆に。彼女が一生このままだったら。おれは彼女に生涯を捧げるのか。

 いやそれならそれでも別にいい。しかし。

 彼女は、何者なんだ。

 自衛軍、ではないだろうがそれでも一番らしいのは軍隊だが、どう見ても未成年の彼女のような人間を兵として雇用する軍隊などあるのか。

 でなければ。彼女もまた”敵”に相応しい超現実の存在なのか。例えばガキの頃に見た、”宇宙刑事”とか。

 まさかな、と苦笑と共に言い捨てにできないのが今回の非日常のやっかいだと江嶋は頭を抱える。彼女と二人で脱ぎ外したスーツの存在が重い。何だよあれは。

 わからんわからん、わからんことだらけだどうにもならん。

 結局なるようにしかならんかあーふぁ、と彼もまた寝落ち行く。


 その会合はかつて、MJ12と呼称されたことがある。

 あるものはまた、フリーメイソンなどと呼び、またイルミナティの名を以って呼ばれるときもあった。

 巷間に流布する、あらゆる陰謀論、都市伝説、影の主役。

 しかしその何れも、誤りだった。

「地球統合政府設立準備委員会」がその名である。

「本国政府による決定なのです。私もこれで、一介の宮仕えの身なのですよ。私如きにどうこうできることではないのです。その決定に従うしかありません」

 ”大使”は傲然と言い放った。その態度だけは常に変わることは無かった。

 それはあまりに無責任というものではありませんか。

 一斉に吹き出た委員の憤懣を彼は聞き流す。素早く翻訳を切っていた。もう雑音でしかない。

 彼にも言いたいことは幾らでもある。

 無責任、だと。

 どっちが。ここはお前らの世界だろうが。

 お前らがさっさと交渉代表を立てる環境を整備出来ればこちらも幾らでも遣りようがあるというものを。だいたい核制御に達した文明が伴星規模の微小な活動規模で分裂分力している不を悟れば理に照らし自然と統合されるものがお前らは何だ、この狭い世界で核を突き付けあって自滅せず存続しているなどと度し難い、全く狂っている。希少だがそれ以上の意味はない。学術的標本以上の意味はな。

 尾無共が。彼は思う。尾は、やはり優れて不可欠な平衡感覚器なのだ。尾を持たないというのはこうも哀れな存在に成り果てるということか。いやはや。

 正に、彼にとって尾無共は学術的興味の対象以上の存在ではなかった。政務すらついでだ。希少な標本としては興味が尽きないがそれはあくまで観察対象としてであって。このような直接接触にも似た機会などは、はっきりいって御免被りたかった。


 窓から差し込む痛烈な日差しに観念して、目蓋を上げる。

 江嶋にとってここ最近でも最悪の目覚めだった。寝こじれてるし、ててて、くそ。

 できようものなら一度寝直したかったがその余裕はない。あと少しでチェックアウトだ。

 ベッドを見る。気持ちよさげな寝息を立てながらカナンはまだ放置しとけばいくらでも寝ていそうな勢いで熟睡している。今目の前で起き上がる気配は皆無。

「カナン、か、な、ん。起きろ、朝だぞ、時間だ、出るんだ、だから起きろってばおいカナン!」小声でのささやきが次第に大きくなり揺さぶっても彼女はまだ起きない。

「むーあと5分」

「5分もやれん、起きろ!」

「うるさーい」

 緩い平手打ちが飛んできたがもちろん余裕を持ってクリア。そうそう何度もはたかれてたまるかっての、ふははカナン敗れたり。

 しかし上は見せ弾、フェイントだった。寝ぼけとは到底思えない速度と精度で繰り出されたヒザ蹴りが見事に江嶋の鳩尾に沈み込む。

「ふぁー良く寝た。あ、江嶋さんおはよ……ナニしてるの」

 軽くノビをしながら起き上がったカナンはベッドから叩き落とされ悶絶する江嶋を不思議そうに見下ろす。

「……なんでもない、ちょっと転んだだけだ」

「……ふーん」

 悪くない、彼女は悪くないたぶん。腹の底で男は唱える。

 そして。かなりぎりぎりの時間でホテルをチェックアウトし、さてどうするか八王子から出るかそれとも、と漠然と今後の行動予定を思い浮かべつつ妙に人だかりが激しいロビーの大型TVをちらと何気なく眺めたやった江嶋は。

 なにもかもがどーでもよくなった。それは衝撃だった。

 集中豪雨からの造語か、集中落雷、という耳慣れないフレーズが踊っている。

 朝の顔の女性レポーターが現地から絶叫している。

 泣き叫んでいる。演出ではなく素のようだ。

 ヘリからの俯瞰画像。これと似た映像は見たことがある。

 戦争で炎上する市街地。

 国外の。中東とか、近年はもちろん台湾のそれ。

 画面の向こうで、吉祥寺が、燃えていた。

 違う、ちがうんだ、それは。

 自然現象でも人為でもないんだ、それは。

 江嶋には心当たりがあった。

 最悪の予感の的中でもあった。

 歌舞伎町の現場から逃げ出した二人は酷い有様だった。

 大地震で全壊した家屋から6時間振りに救助された住民のような、粉塵まみれの格好だった。そしてカナンが奇妙な反応を示していた。

「この服、くさーい」

 放っておくと全裸にでもなりかねない、妙にむずがるカナンに抗しきれなくなり、降りたのが吉祥寺駅だった。ここならこの時間でも開けてる服屋があるだろうと。

「んーなんでもいいけどこれがいいかな」

 カナンはパンツルックが気に入ったらしい。ちょうどいいのでブラを含め彼女の下着を3セットほど見繕ってもらう。江嶋も適当に地味なスタイルを選ぶ。

 なんだか御機嫌なカナンの手を引き再び中央線に乗る。

 着て来た服は、駅前のゴミ箱に突っ込んできた。それを。

 付けられたのか。

 原理は判らない、しかし、そうだ。

 吉祥寺駅を中心に半径約10キロの圏内、とアナウンサーが切れ切れに読み上げている。

 死傷者、行方不明者のリストがえんえんとスクロールする。

 いったいどれだけの被害が出たんだ。

 千か、万か。

 衛星軌道上からの艦砲射撃、という具体的な単語ではないが、それを指すイメージを江嶋は想起する。

 (おれと)カナンを殺すために。

 奴ら、町一つ焼きやがった。

 なんてことを。憤怒の裏に恐怖がある。

 おれと、カナンで焼いたのか。吉祥寺を。

 おれたちがとっと殺されていればこんな犠牲は防げたのか。

 カナン、おまえ、これを知っていたのか。

 そして、絶望も。この地上のどこにも逃げ場はない、と。

 それらにもみくちゃにされ。

 個人が堪えられる負荷の限界、臨界でもあったか。だから江嶋はなにがなんでもどーでもよくなった。

 す、とカナンが体を寄せてきた。ささやく。「孝憲」

 初めて下の名で呼ばれたことにも、彼は気付かなかった。

「なんだ、カナン」

「明日の今、生きてるか、わからないよ」

 低い声で、言う。

「ああ」

「生きてる内に楽しまなきゃ、だめだよ」

 呪文を唱えるように、そう言う。

「だから、しよ。ね」

「する」

「孝憲がしたがってるの、わかるから。だから」

「ああ」

 じゃ、いこ。彼女は男の手を引いて歩き出す。


 4.


 磐石のクリアランスが確保された東シナ海後方海域。

 そこで、作戦目的が進行しつつあった。

 それは、奇妙な光景から始まった。

 標準型、海上作業用プラットホーム。

 それ自体はありふれた構造物だ。海上にあるなら。

 空輸されていた。間違いなく世界初だろう。

 3機の、一見ヘリに似た飛行体。

 断じて、ヘリではありえなかった。プラットホームを空中に懸架しているのだ。ヘリどころかどのような航空機にも不可能なはずだ。

 プラットホームは静かに慎重に海上に下ろされ海面に着水するやいなや、その上では直ちに作業が開始されている。

 飛行体。コードネーム「ロング・ランス」その1機の操縦士が上空から何気に作業の様子を眺めている。

 彼はテスト・パイロットの一人だった。いや、今もテスト・パイロットであることに変わりはないのだが。しかし、今の彼にはこの機以外を飛ばすことは出来ない。事故で職業生命の終わりを宣告された身だ。

 翼のない飛行体だが興味はないか、いやヘリじゃないとスカウトされた。私にも飛ばせるのか、彼は尋ねた。飛ばせる、”頭”で飛ばすんだ。

 ヘリに似ている。ボディに開発中止にされた偵察ヘリをが流用されている、一種のカモフラージュを兼ねて。当然、ローターはない。それがあるべき機体上部には、畳み損ねたローターの様な形状の装置が二対、張り出している。

 今では彼も判っている。この機は、如何なる意味でも航空機ではない。

 浮揚、推進機関は、ふだんは単にモーターとのみ呼ばれてそう呼ばれたことはないしそれが正しいのかも判らないが、感覚的直感に正直に言えば、反重力機関、それしか無かった。今も3機はプラット・ホームを”場”の展張で包みこみ、ここまで懸架してきたのだ。

「任務終了、各機帰還せよ」

 命令が響く。3機の姿が掻き消えるとまるで始めから存在しなかったかの様だ。

 小型の潜水艦のようなものがデリックで海上に下ろされる。

 DSRV。深海救難艇。本来の任務は名称通り、沈没潜水艦の救難作業だ。

「なんだこれ。始めて見る素材だな」

「ああ、めちゃくちゃ軽量なくせに鋼鉄より剛性が高いんだそうな。”スカイフック”とやらの実験資材なんだとさ。これならまず千切れる心配はないからって」

 潜行したDSRVは海上に向け直ぐに目標発見を報じて来た。経過は順調だ。長くても半日後には作戦目的は達成されるであろう。それでこの”お祭り騒ぎ”も終る。


 彼の名誉の為にここははっきりさせておきたいところで、別に江嶋は鼻の下を伸ばし切ってカナンに付いて行ったワケでは断じて、ない。

 最も適当な表現を探すのであれば、それは心神喪失に他ならないだろう。

 だが事実としてはどこまでも、男は少女に促されるままに、彼女を手近な休憩所に引き込んだ。

 引き擦り込まれた。

 シャワーを浴びることもしなかった。

 ベッドまでくると、女はあっさりと身にまとうすべてを脱ぎ捨てた。

 そして、男を剥きにかかった。

 男は自分から動こうとはしなかった。

 女は少し楽しげに、男を1枚ずつ剥いでいく。

 そしてすべてを曝け出した男を、誘う。

 きて、孝憲。

 男は求められるままに女に組み付く。

 ここ。

 示されるがままに、男は女の秘所に顔を埋める。

 丁寧に舐め上げる。

 てなことを繰り返してお互い十分に昂ぶった頃。

 男は女の中に入って行く。

 女の口から細い声が漏れ。

 その手が、男の頬を包み、下り。

 両手で首を掴み。

 渾身の力で一気に締め上げた。

 江嶋は薄眼を開いて。

 え、え、なにがどうしたここはどこだうわかなんなんてかっこでおれもかどうなったんだ待て! ちょっと待てカナン! おれが悪かったから取り敢えずその手を除けろ声が出ん息も出来ん間違ってるお前絶対何か烈しく勘違いしてるからてゆうかオチるからおいカナン……。

 カナンは娼婦のような妖艶な薄笑いを顔に貼り付け江嶋を見下ろし。

 しかし、その眼からつ、と涙が伝い、江嶋の顔に伝い落ちた。

 そして手に掛かる力は尚強まる。

 えじまは、オチた。

 その手が小刻みに震える。震えは肩に伝わる。

 カナンは眼を見開き、いやいやをするように首を振る。

 全身を震わせながら、とめどなく涙を流しながら、しかし両手に加わる力は衰えない。

 カナンはその場に引っくり返った。震える両手を目の前に差し上げる。

「えじま?!」

 叫んだ。取りすがった。

 えじまは、しんだ。

 暗がりに絶叫が弾ける。

 

 白い天井、白い壁。照明はやや暗い。

 目覚めた男は、名状し難い絶望感に駆られた。

 誰でも一度は経験があるだろう、最低の、この世の総てを呪いたくなる感覚。

「ここはどこだ。おれは、誰だ」

 ベッドから半身を起こしながら本当にそうならいい、と強く願いつつ男は叫んでみた。

「お早う、江嶋二尉。今回は苦労を掛けた」

 全く感情を含まない事務的な口調で、傍らから相庭忠光(あいば・ただみつ)二佐が声を掛ける。

「二尉?」

 江嶋の訝しげな声に何でもないように相庭は応える。

「戦死したからな。でも蘇生したから折半で一階級上げだ」

 それで以上ですか。江嶋は心底げんなりする。それはともかく。

「精薄欺瞞して見張りを色仕掛けで篭絡して”咥え込んで”殺害して脱走って、どこの3等国のゲリラ戦ですか」

「判ってるなら防げよ」

「いや、日本の営業のおれは知りませんから、てかふつう判りませんから」

 江嶋は、バックアップ要員だった。市井に潜伏する予備兵力。必要に応じ適宜呼び起こされ、行動する。そうした非常の用がなければ、自身記憶を封印したまま日常を送る。

「カナンは、彼女は」

「うむ。人格制御プログラムの誤動作だな。我々としてもこれが初の”実戦”だ。些少の齟齬も致し方ない面はある」

「……鬼ですか」

 人格制御。別人格”ではない”。彼女は一連の総てを意識していたということだ。

「彼女は、今は」

「ああ、そう、江嶋二尉。貴官に重大な任務を申し付けるところだったんだ」

 えーとそれはまさか。江嶋は地雷を思い切り踏み付ける気分で自分から言った。

「彼女を赦し慰めること、ですか」

「賢察だな。貴官を害したことで伊射野二尉は大きく士気阻喪している。彼女の戦意回復に尽力して貰いたいのだが。いや、これを命じる」

「おれの、ケアは?」

 一応言ってみる。

「必要か?」

 へ、と江嶋は軽く肩をすくめ。

「一つだけ教えて下さい、二佐殿。彼女の、本名は」

「伊射野佳南(いさの・かなん)、伊豆のいに射撃のしゃに野原のの、佳作のかに南、だな。階級は今は貴官と同級の、二尉だ」

「拝命、します、が、可能であれば一つだけ条件を」

「……何だ」

「自分の一階級特進を取り下げて貰えませんか」

 江嶋が発した不意の言葉に相庭は軽く眼を開いた。

「良かろう、検討する」

「有り難くあります」

 佳南が傷ついている。それを救うことに異存はない。

 DFはDF、あくまでディーエフでそれが正式名称だ。法人格としてはNPOとなる。

 母体となる組織は多数の特許を持つ天才発明家が自身の権益を組織の活動源として譲り渡し成立した。志を同じくする有志が立ち上げた。活動方針は地域社会の恒常的発展に寄与し、かつそれを阻害する要因の排除の推進。これが日本全域に対象が拡大され、組織の発展と活動の活性化に伴い存在は逆に地下へ潜伏し、秘密結社的性格を醸成するに至る。現在部内では非公式に「防衛軍」の呼称が定着している。自衛軍に偽装し活動することも多く、部内階級はこれに準じた構成となっている。政財界に対してはそれほど動きを見せてはいないが、行政各機関にはそれとなく巧妙かつ広範に浸透しており、活動基盤は時と共に強固なものへ育ちつつある。おちゃらけて見せてはいるが江嶋もそうした無私に忠勇を示す戦士の一人であるのだ。


 がちゃ。ノックも名乗りもなしで江嶋は扉を開けた。

 だれ。何しに来たの。暗がりから女性の声がする。

「暗いな」

 江嶋は壁を探り、明かりを付けた。

「勝手なことしないで」

 怒声が上がる。続く言葉は呑み込まれた。

「おれだよ」

 部屋の隅に佳南はうずくまっていた。

「江嶋……」

 その眼が見開かれ、す、と細くなる。

 再び顔を伏せ、ぶつぶつと聞き取れない何かを口にする。

 江嶋はその総てを無視し、すたすたと彼女の元に歩み寄ると。

「え、なにす」

 その手を握り、抵抗も無視して強引に引き立たせ。

「きゃ」

 ベッドに、押し倒した。

「ふだんから営業とかしてるとさ。仕事以外の交渉とか折衝とか面倒なんだわホント」

 無表情に契約書の特記事項を確認する平板な口調で、言う。

「だからさ。1発ヤらせなさい。それで全部ちゃら。これでどうよ」

 口にしつつ我ながら随分とクラシカルで無粋なアプローチだとは思う、思うが。

 たぶんこれでいい、ここはシンプルにストレートに彼女に対そう。

 佳南の顔が、呆然、激怒、そして。

 ぷ。

「で」

「いいわよ。何発でも、気の済むまでどうぞ」

「今ココでいいのか」

「いいけど、ドアは閉めて。明かりも落として欲しいな」

 佳南は初めて恥じらいのようなものを滲ませながら、ほのかに顔を赤らめる。

「むー少しもったいないが了解」

 暗がりの中、男女はさっさと脱ぎ捨て、互いに向かい合う。

「いつもこんななの、あ」

「いや、厳選してるぞ。穴があればいいってタイプじゃないなおれは。メンクイかな」

 入念に彼女の女を、今は自分の意思で舐めほぐしながら江嶋は応える。

「それよりお前は。誘われれば直ぐに開いてやるのか」

「じょう、だん、でしょ」

「ああ。だろうな」

 まったく使われた形跡はない。身体もその反応も。

「……ばかみたい」

 江嶋の動きに合わせ身体を揺らしながら佳南が言葉を漏らす。

「なにが」

 ふと止まり、男が問うと。

「なんでもない!」

 怒ったような、拗ねたような口調でぴしゃりと言い返してきた。

 闇の中で男は微笑を浮かべる。そうだ。思い悩む必要なんかないんだ、佳南。事故だったんだ。不幸な偶然だ。取り敢えずこうして生きてるしな。

「どうだ。感じるか」

「わかんな、あ、あ」

「こうか?」

「う、あ」

 江嶋の心停止を確認したDFの応急班が現場に雪崩込んだとき、自分が絞め殺してしまった男の上に跨りながら佳南は江嶋の救命措置、即ち肋骨を総て折る形の心臓マッサージを的確に継続している最中であったらしい。わたしがころしたしんじゃやだだめえじまえじまえじま!!と泣き喚きながら。動作は正確だったが狂乱状態だった彼女を引き剥がすのに苦労したと。

 そろそろいいかな。直接聞いてみる。

「入れていい」

「いい、よ」

 少女は切れ切れに応える。

 江嶋が差し入れると、佳南は小さい悲鳴を漏らした。

「ひ、あ」

「だいじょうぶか」

「い、い、つづけ、て」

 江嶋が根元まで差し込むと佳南は短く痙攣し、声を張り上げた。

 達してしまったらしい。ありゃ。

 江嶋は構わずそのまま揺すりあげる。

 佳南は男の動きに身を委ねながら、短い声を上げ続ける。

「このままいいか」

 再度、聞いてみるが。

「は、あ、い、あ」

 明瞭な回答はなかった。

 そのまま江嶋も達した。出来てもいいよと思いながら。


 5.


 英雄になりたいか。

 『ナイナの戦闘艦などチャクルの玩具にも劣る』というのは、アルカ族の共通認識であり彼も強く同意する。但し須らく常に聡明誠実謙虚であることを自らに科するアルカとしては、それが事実であるにせよ只相手を貶めるだけで終ることを佳しとしない。

 『しかしながら、その戦意の高さは賞賛に値する』

 と、必ずこれもまた一面の事実を以って、対象の美点を称えることを忘れない。だが最後に。

 『そのナイナが我々に連戦連敗であるのは何故か。高い戦意は寧ろ彼ら自身を阻害してる。残念ながら我々はこれを評価することが出来ない』

 と結ぶ。傍からだと蹴たぐった相手に止めの追い討ちを掛けてるようにしか見えないが、これがアルカ流だ。

 チャクルとは、地球でいうビーバーに似た生物で、手先は器用だが相応の頭脳と知能が欠落しているので、知能は高いが工作能力など物質面では劣性なアルカ族が精神干渉でこれをありがたく使役し、今に栄える物質文明を興隆させた。

 アルカとは自分、という意味だ。アルカ族の外見は、地球でいえばクジラと、イルカのキメラのような姿をしている。頭部がクジラの様に大型化したイルカ、のように見える。その頭部には、自我の希薄な他種族に干渉出来る、強力な通信機のような構造を併せ持つ高度に発達した頭脳がある。

 何しろモノと縁のない環境だった。指がない、海草一つその手にすることがない、出来ない。海洋にたゆたいながら、アルカはただひたすらに思索を重ね、理論を積み重ね続けていた。言語は持たなかったがその代わりアルカ族自身、今に至るも構造原理は定かではないが交感波、精神感応による意思疎通、共有を持ち発達した。場合によりアルカは各個の頭脳を共有連接させ大規模回路のように思考出来た。もうこの世に考察すべき対象など無いのではないかと結論しかけながら1頭のアルカが頭上を振り仰いだ。満天の星空を。

 あれらは、どうか。

 天体運行など単純な数式に還元出来る。あれが何だというんだと即座に反対の声。

 いや、我々はその運動を観測しただけだ。あの光それぞれを実際に観察したのではない。

 意味がない。天光は天光だ。我々と関わり無い存在だ。

 違う、とそのアルカは強く否定し、主張した。関わりがないのではない、我々から関わるべきなのだ。

 確かに。アルカ族は沈思する。この世界にはこれ以上の何かは、ない。期待できない。

 天光を目指す。議題が掲げられた。

 その準備段階として、地上への進出を実現する。

 物欲に拠るのではなく。彼らはそれを難解な課題を解決する知欲として計画立案実行へと突き進んで行った。それは爛熟した精神文明から物質文明の萌芽に向けた、偶発的契機に発するダイナミックな転回現象だった。

 ”幸運”なことに、完全海棲生物であるアルカは地上進出の計画段階で大きな躓きを見せた。何より”モノ”を造るというその概念の確立だけでも相当な時間が費やされ、ネジ1本を発明するだけでも気の遠くなるような歳月が流れた。

 しかし彼らは諦めなかった、どころかこれらに嬉々として臨んだ。課題が困難である程に彼らの知欲は強く刺激され、歓喜した。結果、彼らはその後の宇宙服とあまり変わらない環境具を身に付け地上進出を遂に実現した。

 「この一歩は地上への最初の一歩である。しかし同時に、天光に続く最初の一歩でもある」そして地上世界は地獄だった。呼吸はもちろんできず、浮力の助けもなく何をするにも海中の倍以上の労力を有する。何とも克服し甲斐のある課題が山積する環境だった。彼らはまた小躍りしながらこれに立ち向かっていった。

 ……なんかエラいマゾヒスト集団にも見えるが、これは事象の見え方ということで一種の錯視なので注意願う。

 地上進出実現から先での彼らの発展は、変わらず苦難と辛苦の歳月となった。

 彼らは所謂”化石燃料”を持たなかった。であるが故に、蒸気機関の次に一足飛びに開発されたのが水素エンジンだった。その道は先の見えない苦難の海を押し渡ることそのままだったが、この実現で天界への道は一気に現実的問題まで前進した。液体酸素・水素を獲得した彼らが山を削り海を埋め立て赤道上に築き上げた軌条から、スクラムジェット形式の推進機構を持つ母機が離床する。十分に速度と高度を稼いだ母機から、更なる高みに向けちっぽけな無頭機が射出される。天光観測所の職頭が興奮しながら張り上げた”波”は瞬く間にアルカ全頭に伝達された。それはアルカ初の頭工天光の誕生であり、天界観察時代の幕開けを示すものだった。

 そしてアルカは天界に向け大いなる雄飛を……遂げなかった。観察はあくまで知欲による活動であり、移住やら生活圏の拡大といった覇権確立とは無縁だった。アルカ族の特長の一つに、危険なほどの繁殖意欲の低さがある。それは群体生命として振舞う際にいつでも各個体間での意識共有を可能とし、各個体に対する増殖要求圧力が極めて乏しいことを理由とするようだった。物質文明への転換によりそれでも種族総数は微増傾向にはあったがあくまで微増で、本拠を食い潰して新天地を求める、などとは程遠い状態にあった。

 天界への進出を果たした、実際にその身を置いたアルカは驚いた。呼吸が出来ないのは地上と同じで、でも自由落下状態なだけ地上よりよほどマシな環境に思えた。もちろん本拠の地上は何かあれば運河にも逃げ込むことも出来るが、覚悟を決めれば我々にとって天界も快適な環境たりうるではないかと。

 アルカは貪欲に、広く深く天界の彼方に向け突き進んでいった。手段と目的が完全に合一化している彼らのこと、その意志には迷いも躊躇いもない。何しろ彼らは天界へ進出することを目的として物質文明を勃興し、今それを識るために天界に在るのだから。

 天界は果てが無かった。やがて彼らもそれを天の向こう側に広がる宙、宙界と呼び改めていた。天光もまた、単なる光などではない実体を持った存在であることが直ぐに認識された。地上からの事前観察によって予見されてはいたが、観察そのものは天に昇ってからでも遅くないとされ、優先順位は低かったからだ。

 彼らはそれ、宙界に浮かぶ存在を星、と呼び習わした。つまりは自分たちが泳ぎ暮らしていた本星に類似する存在が、かつて天光とされていた恒久(に近い)熱光源星に伴なわれ系を形作りそれが宙界には無数に存在するという組成構造を直ぐに理解した。

 そして我々は奴らと接触した。相手が悪すぎたと彼、アルカ宙軍第18独立宙隊司令、パデナ・クラヤ特長は思う。

 ナイナは信義を重んじるという。だがそれはアルカに向けてでのものではないのだろう。騙まし討ちを仕掛けて来たのはあの又尾どもではないか。

「我々に領土的な野心はない」

 この言葉にどれだけの説得力があるだろうか。

 アルカに二心はなかった。それは紛れもない事実ではあったし、アルカ側には余りに明白な自明だった。だが、相手が信じるかは別の問題で、それこそが交渉なのだ。

 外交、ではこれに信じさせ信じない、という原則が加わる。

 ナイナ側は最後までアルカの主張を額面通りに受け容れられなかった。

 両者の悲劇で喜劇は、アルカ側にとりこれが”他者”との初めての接触であったことだ。

 交感すればそれだけで完全なる相互理解(同意共感はともかく)を実現出来るアルカにとり、”他者と交渉”するという概念そのものへの理解が不自由だった。ましてや相手は異星の異界の生物なのだ。

 全く体裁を装うことなくただ本音だけをぶつけて来るアルカ式に、ナイナは全く対応出来なかった。実は存在しないアルカの主張の”真意”を探ると、結果は余りにも不穏当な、その主張とは間逆なものが導き出される。

 両者の関係は不幸な遭遇としか評し得ない。交渉決裂と断交から約半年後、ナイナはアルカ領に向け進撃を開始した。

 アルカの本星系まで、ナイナの艦隊は抵抗らしい抵抗を受けなかった。アルカが各所に設営していた純粋な科学技術拠点である観測所に、その存在を暴露されたぐらいだ。

 だがその意味は小さくなかった。

 あっさりアルカ本拠まで攻め寄せたナイナの艦隊は1度だけ、アルカに向け投降の呼び掛けを発した。くどい様だが我々には領土的野心も覇権確立の意志もないというアルカ側の公言にウソは無かった。ナイナの急速な軍事力整備とは対照的に交渉決裂直前に至るも彼らが保有する戦力は皆無に等しかったのだ。

 魚共、ホントに非武装でそれを真顔で喚いていたのか、科学は高度みたいだが真性のバカだな。ナイナの艦隊で既に漂う戦勝気分の中、根強い慎重意見も無くはなかった。ここまで無抵抗であるにも係らずなぜアルカは交渉決裂を看過したのか。ありきたりだが、これは何かの罠ではないのか。

 そう、アルカ側にも勝算はあった。

 天測が一時中断され、総ての観測機材が索敵に振り返られた。ナイナの艦隊は光学的にも電子的にも完全な不可視状態の実現を努力していたがしかし、アルカが磨き抜いてきた宇宙を視る観測能力即ち索敵能力はそれを凌駕していた。ナイナ側による侵攻の有様はアルカが心血注いで描き上げた宙界図の上にシミのように浮き上がっていた。ましてや本星圏内では。

 後に判明したことだが、この時点で両者戦力の有効射程距離には、2~3倍の開きがあった。天測という観測目的に特化して発展したアルカ側の宇宙技術体系が索敵照準技術として軍事転用されると結果、彼我の戦力が持つ有効射程距離の絶対的な格差としてハネ返った。加えて本星圏内の詳細な事前観測と座標化により、この戦場での極地的環境で両者の差は実に5倍に及んでいた。

 そして威嚇目的でナイナ艦隊がアルカ本星近傍に向け射撃を行った時点で、アルカ側は敵艦隊の総てを必中射界に捉えていた。

 主に宙界技術者からの抜擢により臨編されたアルカ宙軍はこの時点で反撃を決意した。

 敵艦隊の先頭と尾部に向け照準は既に済んでいる。

「全砲斉発、撃て」

 アルカ、ナイナ間の泥沼戦争の号笛が鳴らされた。

 先に砲撃したのはナイナだったが、先に戦果を成したのはアルカだった。ナイナの威嚇射撃に呼応する形で放たれたアルカ側の一斉射撃は、その照準目標の総てを破壊した。手段そのものはありふれた準光速反物質砲弾による物理攻撃だったが、何よりそれが奇襲となったことが大きかった。

「半包囲、だと?!」

 確認された射線方向から浮き上がったアルカの布陣と彼我の位置関係に、ナイナ艦隊は戦慄する。アルカ軍はナイナ艦隊を半球状に取り囲む形に展開しており、艦隊はそのポケットの奥深くに踏み込んでしまっている。しかも敵は総て我が方の射程距離外だった。

 全滅。我々はここで全滅するのか。

 攻略部隊を逃がせ、戦闘艦は盾になれ。苛烈な下令が為されたが反応は鈍い。横溢していた勝利の予感から一転、惨敗の気配に艦隊の士気は崩壊寸前だった。アルカ側が放った二度目の統制射撃と為すすべなく目前で爆沈する友軍の姿が、ナイナに残る最後の秩序を打ち崩した。アルカが一斉に開始した能動探査がナイナの艦艇を死神の鎌の様に撫で回し、ナイナ艦隊を包囲し全周から降り注ぐ。それはナイナ軍に向け、自分たちが今いる場所と状況を、アルカの庭先で思うがままに翻弄され切り刻まれようとしているその現実を痛烈に突き付け、彼らを打ち砕いた。

 ナイナ艦隊は壊走した。もはや如何なる指揮命令も機能しない。前方と後方を友軍の残骸に塞がれた残存戦力は残された軌道要素に向け無秩序に四散する。

 ところで宇宙というと無条件に三次元を想起し勝ちだがこれは少し違う。航宙する者は自然と星系内の重力勾配を思い描きこれに沿った動きを好み、よほどの事情がない限り天頂方向に向けては進もうとしない。アルカ艦隊の敗走でも同じだった。殆どの艦は星系の公転面に沿って左右に向けて機動し、極少数片手に足りる隻数だけが上下に動いた。

 アルカが仕掛けた最後の罠が、火を吹いた。ナイナの想定逃走経路の至近に配されていた、ここまで存在を秘匿していた砲列だった。

 両軍が交戦すること地球時間で約10分でナイナ軍の侵攻艦隊は壊滅。戦闘は掛値なしアルカの圧勝で幕を閉じた。

 アルカの戦争準備は彼ららしい簡潔かつ合理的な消去法で進められていた。

 航宙戦闘艦を建造整備する、彼らには意志も能力も時間も無かった。元よりナイナへの侵攻は企図していないしアルカの現状に照らして実現可能性も低い。必然、戦いは侵攻してくるナイナを迎え撃つ迎撃戦となろう。であれば捜索索敵能力を密に、敵の動向を詳細確実に把握しこれへの柔軟な対応が必要になる。敵の侵攻を早期に検知し動きを的確に予測しその行動可能性を、討つ。

 アルカの観測圏にナイナ艦隊が侵入した時点からアルカの戦いは始まっていた。観測を続ける内にアルカはナイナ側の直線的な機動にいち早く気付いた。やはり遠征軍である敵軍には、いろいろな意味で余裕がないようだった。艦艇ではなく工数が少ない無頭砲が設計製作量産され、観測網が早期警戒及び索敵、弾着照準機能に改装され無頭砲群と連動する迎撃砲陣地が構築された。

 あとは如何に敵の予測進路上に配置するかだったが、ナイナ艦隊はここでも直線的、(重力勾配に即した)最短進路でアルカ本星に向け進撃して来てくれた。結果は既に示された通りに。

『ナイナの戦闘艦などチャクルの玩具にも劣る』

 この戦いでアルカ全軍を指揮した宙界観察技術担当出身の初代アルカ総軍官が戦いを評して念じたその第一波こそが、この思念なのだった。

『我々は今、圧倒的な勝利を実現した。そしてこれからも我々は勝利し続けるだろう。これは願望でも予測でもなく、もちろん驕慢でもない。単なる事実に過ぎない。そして我々はこれからもこれを確認し、観測し続けるのだ』

 その思念に熱狂的な響きはなかった。既にある様にただ淡々と観測事実を冷静確実に伝える、無味乾燥な事実確認以上の響きは無かった。それ程に彼我が隔絶した一戦だったともいえる。しかも初期戦力皆無というこれ以上なく絶望的な状況から開始しての輝ける勝利でもあった。ナイナが今少しの拙速を自らに許容したのであれば抵抗する手段も無くなすすべもなく敗北したのはアルカ側であったこともまた間違いではなかった。

 要するに彼は強運だったのだとクラヤは思う。およそあらゆる諸要素が彼に味方し、ナイナはその総てに裏切られた。ナイナは慎重であり過ぎた。なにしろこちらは空手だったのだ。初期戦力でさっさと攻め寄せられていたなら、もとより我々は投降以外の選択肢を持たなかった。攻略部隊など衛星軌道を掌握した後に余裕を持って投入すればそれでよかったのだ。時間は常に敵で、相手はこちらの都合など待たない、準備万端整った戦いなど理論上不可能なのだ。それが可能な状況を戦いなどとは表現しない。互角だから戦いなので、その均衡が崩れるなら一方的な虐殺であり制圧だ。

 ナイナにも十分な勝機は存在した。必要なときにこそ慎重な選択を行えていたならアルカの迎撃布陣を何事もなく迂回し、本星を陥落させることは十分に可能、どころか容易ですらあっただろう。彼も知っていたはずで、あの「演説」は精一杯の戦意高揚だったのだ。

 その”容易”が起こらない、出来ないのが戦いの妙味で、つまり自分は魅せられているのだなとクラヤはしみじみ我が身を思う。

 そして尚、にも関わらず。この輝ける大勝利を前にも歓喜や惜しみない賞賛とは無縁のアルカ族の反応だった。あるのは素朴な安堵と、絶望的な困惑。

 アルカの史家の一頭はこう遺している。

 そのとき、波が静かに広まり不本意な同意が応じあった。我々はこんな戦いや勝利を望んで宙界へ乗り出したのではない。何をどこで間違えたのだろうか、永久に海洋の揺籃に漂いそれに満足していれば良かったのだろうか。更なる知欲に身を委ねその命じるがままに宙界へと赴いたことそれ自体が罪悪であったのだろうか。我々はナイナとの衝突回避を真摯に望み全精力を尽くしたが星界事情の複雑怪奇なること、天然の精緻だが単純合理なる様に魅了され耽溺していた我々など遠く及ぶものでは無かったのだと思い知らされた一戦であり、「勝利に優る敗北などない」以上の意味はない結果だったのだ、と。

 もちろんだからといって、我々は愛するべきだったのだなどという抽象的な戯言を吐く者は一頭も無かったにせよ。

 宇宙空間で星が瞬く。空間が歪曲し、小刻みに振動するその様を伝えて。

 虚空間を無限速で疾駆していた艦隊は亜光速まで減速し次々と実空間側へ展出、実体化し出現する。漆黒の防眩、電磁波吸収塗装に加え光学迷彩の発動中はそこに何物も存在しないかの如く、星々の輝きを透過させる。どんな探査手段でもよい、熱も光も全く発することなく慣性航行状態にある艦隊を捕捉することは「そこに居る」ことが判っていてさえ容易ではなく、知らずにいればその発見は極めて困難になる。見るものが勝つ。この不朽の戦闘原則から巧みに身をかわすべく艦隊はその全能力を傾けており、アルカは特にその性向が強い。勝者は学ばないとも言われるが勤勉なアルカならではなのか、緒戦の大勝利の戦訓が勝者の側に強く刻み込まれている。

「よーしとっと始めるぞ!」

 クラヤがちょいと投げた”波”に。

「応!」

 全艦全艦隊から呼応の波が返った。完全に同期している。

 宜しい、たいへんに、宜しい。クラヤは満足げに背びれを波打たせる。

 前出通り、アルカ族自身もその原理を解明出来ていない交感波だが宇宙規模での至近距離、例えば艦隊内での交信くらいは十分可能だ。機械的な通信手段よりよほど迅速精確でこれもアルカの大きな強みだ。

 因みにここで”彼ら”の艦隊勤務についても少し触れておきたい。

 既に推察の向きもあるだろうが彼らは生身、ではない。所謂電子的仮想空間に意識を置いている。これはアルカに限ったことではなく、宇宙で戦う定めのものに普遍的な”仕様”だ。戦闘準備段階ではともかく、基本的に(地球でいう)秒以下の時間単位で推移する宇宙戦闘に生身の反応速度で対応することは不可能なので、電脳空間に転写された自我によりナノセカンドで思惟を巡らせマイクロセカンドで戦術を組上げミリセンカンドで決断実行、これを実現することで自動兵装同士が応射し合う戦場になんとか追随することが出来る。ときどき随分と悠長に戦っているように見えることもあるが実態は以上の通りなので了承願いたい。

 クラヤたちがこれより従事する予定の作戦行動は、任務の性格上かなり後ろ向きな内容となっている。

 伴星強襲降下作戦演習。

 これが実戦で行われる状況は唯一、彼らの本星が侵略された際の逆降下という局面しか想定できない。有体にいって大敗北後の絶望的な戦況の中で決行される、成功が疑わしい悲愴な博打とでも表現しようがない類のものだ。

 だが、そうした背景事情を敢えて無視すればなかなか興味深い作戦だと彼は前向きに捉えた。数例の概念研究はあるが、実際に部隊を動かしてみるのは今回が初になる。いってみればこれは一種の実地試験でクラヤにはその実行に際しての各種検証が求められている。机上だと顕在化しない問題や課題が実際の現場ではいろいろと洗い出されてくる。それが期待されている。

 クラヤは改めて情報を確認する。軍の連中、さすが専業でやってるだけはある、いい仕事をする。よくもまあこんな星を見付けて来たもんだ。彼は素直に感心した。正直、本星と殆ど変わらない。海陸比が若干、陸寄りなくらいだ。

「準備宜し。特長、状況開始して宜しくありますか」

 副長がクラヤに個別波を投げて来た。クラヤは優雅に右前ヒレを振りながら副長に返信する。

「状況、開始!」

「了解、状況……あ、少し待って下さい」

 おおっと。

「なんだよいったい」

 クラヤは副長にくだけた調子の波で問う。

「ウソでしょ?!目標に……ナイナの文官が駐在しています。星間共通緊急通話回線で交信を求めて来ていますが如何致しましょう」

 戸惑った様子の副官にクラヤも硬い波を返さざるを得ない。

 前言撤回、いいかげんな仕事しやがってここでナイナかよ、と小声でぼやきながら。

「無視も出来んな。回線開け」

 繋がった。映像を伴わない音声回線だ。

 天は、人の上に人を作り下にも作るかもしれないがエネルギー保存則と光速度の前には誰でも平等で、コストは低いに越したことはない。

「ようやく応じて戴けましたな。こちら、ナイナ地球駐在部、プルマ・ケンポフです。造作を掛けます」

 チキュウ、ね。クラヤはその語を頭脳の片隅にメモりながら言葉を作る。波での意志疎通に慣れている身からするとこのコトバを介しての会話というのはなんとも面倒に感じる。

「アルカ宙軍第18独立宙隊司令、パデナ・クラヤ特長であります。御用件を承りますが」

 ますが。クラヤは当然、やんわりと当宙域からの退去を勧告するつもりだった。ここは公宙で、然るべき手続きで使用権を獲得している我が艦隊は。

「申し訳ありませんが、貴官には当宙域から直ちに退去願いたいのですが」

 は?!と思わず発せずに済んだのは鍛錬の賜物だろう。しかし内心ではぐぎゅるると渦巻くモノがあった。この又尾野郎いきなり何を言い出す。同時に、なるほど、これが会話かこれが交渉か、と妙な得心も得るクラヤだった。

「失礼ですが、小官にも責務というものがあります。当宙域への進出は既に星際航宙交通管理機構へ申請、承認済みでして、星航管を通じて周辺各局へも周知済みです。ですから貴職も御了承のはずですが」

 おいおいだから、当てずっぽにこっちへ発信してきたんだろうが。

「それは、はい、存じております」

 不承々々、相手は認める。

「ところで差し支えなければで結構ですが、貴職はどのような権限で以ってこの宙域に滞在し、あまつさえ他種艦隊への退去要請などなされるのでしょうか。ここは、公宙にして如何なる主権も及ばないはずですが」

 クラヤはさくりと斬り込む。

「貴官の目的は」

 質問で返されクラヤはむ、と背びれを立てるが言葉には出さず。

「軍機により、申し上げられません」

 しかし口調は強張る。

「地球は、貴種、アルカの本星に良く似ていますな」

 世間話のようにケンポフが言う。

「それが、何か」

 クラヤは怒鳴り付けたいところを辛抱強く言葉を続ける。

「貴官と艦隊の目的は第三伴星を目標とした、強襲降下演習及び研究。違いますかな」

「同じく軍機により、申し上げられません、それより」

 とっとと失せろよ。艦隊が演習すんだぞ生命財産保障しないぞ。

 て、あれ。

 副長が突然、波を割り込ませてきた。

(まきまき)

 え、適当に切り上げろって?。いやそうしたいんだけどさ。

「それが、困るのです!」

 ありゃ。正面きって妨害してきたよ。

「とは、一体何用でしょうか」

 深みに嵌ってるなと思いつつ流れから問わずにはおけない。

 ケンポフは”海が干上がるような”ことを言い出す。

「我が族は、地球と友好条約を締結しております。地球は我が朋友にして保護観察対象なのです」

 クラヤ、さすがに絶句。

 副長を見る。副長は変わらず、まきまき。

「……それはその、突然のお話ですが。しかし妙ですな、当方は全く存じ上げないのですがこれはどうも。星連ではこの事を何と」

 星連、星間種族連絡協議会は名の如く星間進出を果たした種族が加盟を打診される、各種族間での緩やかな合意形成の場だ。加盟は任意だがもし加盟を拒否する場合、少なくとも星連加盟各族からは「この世に存在しないモノ」として扱われるので、条件未達で加盟拒否される場合はあっても自ら拒否する種族はまずない。

「星連には申請中ですが」

 ですが、何だ。

 妙な話だ。公式に保護観察対象だというなら軍の連中だってそこまでいい加減ではない、下調べ中に直ぐ判るはずだ。

「つまり貴種が星連への申請代行を?」

 いえそれが。

 観念したようにケンポフが告げる。

「当地はその、現在未だ勢力混在状態でして」

「はぁ?!」

 クラヤの自制は限界だった。

「それはその、つまり地球には未だ種族代表がない、小官にはそう聞こえましたが?!」

「その、通りでして」

 びち、とクラヤの背びれが、張った。

「それはつまり。小官の知り及ぶ範囲に於いてはですが、彼の地がそうした環境では如何なる規約に照らしても保護基準規定を満足し得ないかに思われますがその点は如何なのでしょうか?!」

 彼の口調はもはや罵倒に近い。これだ、これだからナイナは、又尾共は!。

「貴官の、仰る通りです。星連とは条件交渉中なのですが」

 通るか、阿呆。……クラヤは全くほんといい加減アホらしくなってきた。知能の有無はこの際関係ない、要は法の問題だからだ。そも種族統一は智性の最低条件だしな。その連中について現段階での扱いはそれこそ我が正当なる資産であるチャクル以下で、そこらを漂ってる微小塵と同等の存在だ。

 資源としての価値すら認められない、伴星にこびり付いた”コケ”だ。

「ああすみません、実はそれ以上に大事なことが……!」

 相手が言い終わる前に現在進行形でクラヤはそれを知る。

「航出警報発令! 近傍宙域内に実結する反応複数探知! 増大中!」

 航法参謀が波を張り上げる。

 あ、くそ。

 やられた、のか。

「当、宙域に於いては当隊を制約する如何なる権限、法的根拠も存在せず当隊の行動もまた、申請認可された範囲内に於いてはこれ、如何なる基準に照らしても合法であると当職は確信します。以って当職はその責務を全うするのみです。以上交信を終わる、御機嫌よう」

 早口に伝え終えわめき掛けた相手をぶっちして切断。

「や、すまん。艦隊を出して来てたか」

 航星船が長距離跳航、虚散から空間に再実結してくる際には空間震揺が観測される。

 副長はそれを警告していたのだった。

「ナイナ艦隊展開終了。チキュウ、を完全に抑えられました」

 クラヤはしばし、無反応だった。

 そして。

 歓喜の波を、断続発信した。

「結構だ。大いに結構ではないか! 何をしている、状況再開だ!!」

「……特長??」

 さすがに副長も背ビレをすくませる。

「こうしてる間にも給料は溶けてるんだぜ。ほら再開さいかい!」

 そうなのだった。

 元々、アルカの特性として、物質的関心が希薄という問題がある。

 そんなアルカにとって、戦力の維持はなかなかに悩ましい問題だった。

 徴兵ではもちろん志願にしても、どうして戦意の維持が困難で。その一点でのナイナへの賞賛にはウソがない。

 現在のアルカ軍は、つまりは志願制の傭兵で編成されている。

 出入りは激しいが、辛うじて体裁は保っているというトコロだ。

「チキュウはナイナが領有していると……」

「奴らの国内法と不受理案件だろ。カンケーないよ。」

 どーでもいーと左胸ヒレをてきとーにひらひら。

「それよりどうだこの局面! 攻略目標にモノホンの仮想敵! こんな機会は二度とないぞ! さあ再開だ!!」

 右胸ヒレを激しく打ち振るう。

「星務がいい波しませんよ」

 副長、最後の抵抗。

「奴らが練度上げてくれるのかよ。それがあいつらのシゴトだろ? 言わせとけよいつものコトだ」

 副長は左右の胸ヒレを等間隔に2回振ったあと、おもむろに。

「各尾、背ビレを振り立てろ!! 状況、再開!!」

 発令した。

 彼女も内心では、完全に同意していたのだった。

 自然と背ビレも逆立つ、波零れ尾すら伸びる、”演習”としては最高の舞台だと。

 これがアルカと思われては困る、と一般魚民が波をしかめる。

 彼らのいう、物カブレ、片ヒレ者、異常水質愛好家、星狂い、つまりは病者の濁り磯。

 これが、アルカ傭兵艦隊だった。


6.


「……警告する、アルカ艦隊指揮官に警告する!現在貴官並びに貴艦隊は我がナイナの主権を不当に侵犯している!直ちに第3伴星専管区域内、及び当宙域から退去することを強く勧告する!貴官並びに貴艦隊がこれを拒否する場合、当方は実力を以って勧告内容を実現する用意があることを、併せて通達する!!こちらは……」

「アルカ艦隊、前進します!」

「回線開いてないぞ」

「平でいい全周波帯で呼び続けろ! 」

「肉魚に通じるのか」

 最凶の蔑称が飛び出す。ナイナ本星にはアルカ族に酷似した食用魚が棲息している。主に飼料用だが。

「全群、最大級戦闘配備、即時戦闘準備、威嚇射撃を許可する! 突雷隊、並速前進! 敵艦隊を”腹”から圧迫しろ! 敵進路をネジ曲げろ、断じてチキュウに近づかせるな!!」

 司令官席から立ち上がり、左右の尾を共にピンと伸ばしながら黄緑ノ二打撃群、司令、カヤパマ・ポト・ペルコムは声を張る。

 ナイナ族を一言で呼ぶならそれはカンガルー、である。

 但し、それを想起出来るのであれば、カンガルーのスタイルをした馬、が、より正しい。そして尾は、既出通りに棒状のものが、2本。ついでにフクロも彼らにはない。直立した馬が、重力の要請に従いその下半身を強靭なものに変容させ、逆に上半身は小型化、しかし反比例して4本の指を持つ前肢は複雑高度な発達を遂げた。これが、ナイナ族の外観だ。

 ナイナとアルカ。

 両者の出会いと衝突、その後の経過は返す返すも不幸な偶然の連鎖、とでもしか表現出来ない。

 アルカにその進出路を阻まれたナイナは未だ我が太陽系より更に端、銀河腕のその一終端、辺境での逼塞に甘んじている。

 だが、アルカ側にも好んでナイナの前に立ち塞がったという事実は、ない。それがこの件を巡る両者の何ともし難い不幸な関係である。

 ナイナは信義を重んじる。

 それはしかし、草食という食性に似つかわしくないナイナが持つ獰猛さを自身戒める為の、言葉の枷である様にも思える。

 獰猛、そう、ユーモラスというよりむしろファンシーですらある彼らの外観にもまた幻惑されるが、紛れもなく彼らの重大な特質である。

 では彼らは血飛沫の中、同族間で抗争に明け暮れるやくたいもない種族であるのか。

 一面では、正しい。彼らの歴史にもそうした側面が存在したことは事実だ。がしかし、彼らが持つ今一つの特質が彼らをして”正しく歪んだ存在”としてなさしめている。

 ナイナは同族殺しをしない、出来ない。

 これは、能力の欠落であるのか、極めて秀でた特質であるのか。彼ら自身にも判別出来ずにいる。創造主の意図が那辺にあるやはともかく、事実としてそれはあり、またこれあるが為にナイナの歴史は確実に巻き上がった。都度何も得る物がない、バツの悪い疲労感のみを残す”おしくらまんじゅう”のような、自分たちが起こす内部抗争にナイナの全種族が倦怠しその愚を悟り、故になるか統一政府の樹立は随分と早期の段階で実現する。

 そこから星間進出まで少しの足踏みがあったのだが、それでもその歩みは十分な速度を維持していた。戦争が科学技術を牽引するというのはウソで、戦争という濫費がなければ文明が当然より以上の効率と速度で進捗するのは自明である。試しに一度戦争を根絶してみれば直ぐに確認できるはずだ。

 恒星間世界に進出した彼らは、まずは順調に近隣に存在した無主の星系をその領有下に収め、そして一方。

 銀央方向への進出は、アルカとの遭遇を招いた。

 複数の星系を領有する恒星間種族としての名分を獲得した時点で、ナイナは星連からの公式な接触を受けていた。

 星連。前出通りの星間種族連絡協議会、である。

「とつぜんの無礼を失礼します。私は星連渉外調整担当事務官のリヒャイェ・バンハーと申します」

 ナイナ全権代表が例会での質疑答弁中、唐突に喋り出した内容に野次と怒号が飛び交い、しかしこれが“現実”であることが判明するや議場は騒然となった。直ちにその場でこの件を巡る緊急動議が提出され、さしたる反対意見もなく星連への加盟は全会一致を以て決議された。

<迅速にして果断な意思決定能力の発露、直に見聞させて戴きまして、これは、たいへん結構です。素晴らしいと称賛致しましょう>

 ナイナ代表を制御から解放し、連絡手段として許可を得た上で議場に設置された端末から事務官が声を発する。というよりその端末そのものが事務官の一部でもある、らしい。

<認めましょう、貴方方の力を。認証作業終了しました。今この瞬間より、貴種は我が星連の加盟種族です。心より、歓迎致します。>

 議場に好意的な嘆声が重なり響く。星々に満ちる先達の者たちにまずはその存在を認めさせたのだ。最初の一歩を無事に踏み出した、朗報といって差し支えあるまい。星間種族としてこれより先、いかな苦難が待ち受けようと。

 苦難。これまで物語や学者の論文の中の存在でしかなかった、異族知性と対等以上に渡り合ってゆく必要を同時に突き付けられたのだ。指導層の責務は重い。

 そして結果ナイナは、”新参者”にありがちな錯誤に深く踏み入って行くこととなる。

『星連への本格参与並びに伴う星間活動には多大な労力、活力を要求されるので慎重に対処願いたい』と、文字通り山のような星連に関する諸則のその冒頭に”初めは情報化変換大使の送出で我慢なさい”と言外に強く勧告、謳われてあるにも関わらず、これも全会一致で星連本会議に”生身”の大使を送り出すことが決定された、されてしまったのだ。

 非力であるなら尚、見栄を張る。交渉の定石ではあるが何事も限度というものがある。政治の事務要件を種族の総力を掛けた冒険行として同時進行させるのは如何なものか。

 とにもかくにも。ナイナは隣へ送り出した10万頭仕立の移民船を上回る規模の超光速巡航艦を2隻建造し、それに生身と呼んでいいものやら生残性重視に改造され生体は脳幹の一部を残すのみの身体となった大使兼船長を搭載し出立させたのであるが。

 約15周期の航程で現地に到着する予定の2隻が2隻ともなぜか3周経たずに舞い戻ってきたなんでやねん。

 すわ、未観測の宇宙大規模構造、空間歪曲の顕現かと学者たちが色めき立つ中、2隻を仔細に検証していた技術屋たちはしけた顔でしかし深刻な報告を提出する。航法系への外部からの間接的な干渉の痕跡が検知されていた。そして大使船長は二頭とも死亡していた。

「具体的にはどういうことなのだ」

 公聴会での喚問の席で調査委員長は不規則な尾振りを交えながら不快げに応える。

「天測から現在位置を逆算しての航進です。その情報を欺瞞され出航点まで逆算誘導された公算が極めて高い。船長二人はその航法系とも直結していましたから、実測と欺瞞の情報格差に押し潰されての衝撃死、情報的に破壊、殺害されたものと推測されます。認めたくありませんがかなり高度な技術によるものです」

「”かなり高度”とは」

 一頭が追及する。

 委員長は尾振りを止め、左右をだらりと下げて答える。

「再現不能な程に、です」

 ざわめき。

 試しにもう一度やってみたらなどという不見識は冗談にもなかった。

 ”冒険”は”事業”に置き換えられた。目的地点までの段階的な啓開計画が策定立案され、新たに4隻の深宙探査艦が建造され、正副2隻2組、本部との緊密な連絡を維持しつつ、出撃する。いやどうみても泥縄だが、史上初の壮挙とかの虚辞に自家中毒してしまっていたらしい。や、事業より冒険の方がウケがいいし。ナイナではしばしばの悪弊。

 そして。闇夜に大砲を撃ち放ちながらのような、ナイナの濃密な能動探査波を継続投射しながらの進撃に、たまりかねた様に未確認の、他種知性による飛翔体が出現したのだ。

 アルカとナイナの、初の邂逅だった。


 我々アルカは領土的野心を持たない。星間進出について、これを積極的に推進する意思を持たない。

 アルカが真顔で主張する「ないない」を、ナイナで字義通りに受け止める者は無かった。

 それでは試しにと、銀河中心方向へ向けたアルカ既領有圏のナイナによる無害航過を打診するとこれが。

 だめ、なのだ。

 当時、その宙域ではちょうど、アルカ星態観測研究活動班による大規模観測、記録、解析が準備され、実行開始まで残り僅かとなっていたのだった。

 一般では殊に、関心、理解、熱意に乏しい星間探査事業。その有志が集いキメ細かな折衝を重ねた成果としての、大規模統合星態観測計画の実現だった。その実施寸前にアヤを付けてきたのがナイナだ、と立場は逆転する。

 ナイナがアルカ領内航過を実現せんと積み上げる提案を、アルカは端から破棄していった。

 ナ:それではまず、航過実現の為の双方の要望の確認ですが。ナイナとして引き続き特に付け加えることはありません。

 ア:あらゆる意味、条件に於いて承服出来ません、以上。

 ナ:具体的に願います。

 ア:現在、ナイナが提訴している宙域は、永年、アルカ担当部局が観測計画を準備してきた星域に大分で重複します。今から計画の変更、延期は不可能です。貴種族と邂逅する以前からの、これは当方の既定事項です。

 ナ:計画の修正の可能性については、検討余地はないのでしょうか。

 ア:具体的に願います。

 ナ:当族が、貴種の計画を代行、或いは一部支援をしては如何か。

 ア:失礼ながら、貴種の観測ではまず当方とは度量単位の差異があり既に情報が歪む。次いで双方の原言語体系に於いて生じる、変換差分も無視出来ない。最後に、失礼ながら、貴種による観測では精度の問題により、当方はその結果を、我が方が同様に確保したものと等価であるとして扱えない。貴種の星間関係技術水準が当方に比較しては顕著な劣位にあることを、事実として留意願いたい。

 さんざんだった。要するに。

 前からやるって決めてたんだよ動かせないの、お前ら足手まといだから余計な手、出すなよ? 。いつまで、だって? それが判らないからこうして記録観測解析推論するんですけど大丈夫? あたま、悪い? わるいのかそうだよな。

 もはや交渉の段階は終わった、と、ナイナが絶望し腹を括ったのも、あながちムリとはいえない展開だった。

 本星の揺籃にあっては夢想に遊ぶ者、星界に対しては尽く現実主義者たるべし。

 というより、水も空気も”タダ”の大気圏内世界から、息をするだけでも”有料”の宇宙に飛び出せば自ずと各種認識も改められる、ざるおえない。

 銀河中央への進出がナイナの宿願であり大目標であることは百も承知。

 中央星界で、大国や多くの他星族と星際関係を締結し交歓する。

 ナイナの真の歴史はそこから始まるのだ、と。

 それを。

 星治家たちは事を急ぎすぎている。

 大目標であるならなおさら、事は慎重を期すべきだ。ここはアルカ相手に苦杯を舐めてでも堅実に、辛抱強く機を待つべきなのだ。

 ナイナ航宙軍軍令部の憂慮は深刻だった。

 現在アルカは、ナイナに対する如何なる敵意も、侵略意図も持ってはいない。

 ただひたすらに、無関心であるだけだ。

 彼らは我が方を無目的に阻害しているのではない。先方には先方の事情と目的があり、だから少し待ってくれと言っているに過ぎない。

 だが事態は悪化の一途の先に最悪の時を迎える。

 第6次交渉の席で、憤激したナイナ使節が遂にあの、

「実力行使も辞さず」

 を出してしまった。そしてアルカも平然と。

「では、戦場で」

 決裂した。

 この頃にはもう、指導層より諸族頭の方が燃え盛っていた。

 街中で公然と「征魚論」がぶたれ喝采があがる始末だった。

 事、ここに至ってはもはや星交努力による関係修復はまず不可能だった。それが可能であれば既に妥結してる。

 ナイナ全軍に動員が発令され、アルカもこれを受けて建軍を開始しする。何と、現時点ではアルカの保有戦力は皆無なのだ。ナイナも強気なはずだ。両種間の緊張は極限まで高まった。

 ナイナ航宙軍軍令部は最後まで抵抗した。

 中央進出の大望を果たすのであれば、最近隣であるアルカとの間に遺恨をなすべきではない。この1戦を得たとて、アルカを敵に回すに百害あって一利なし、必ずや大なる禍根となってナイナを脅かそう、と。

 その後の経過は前掲の通りで。


「”回収”はどうなっている! 終了報告はまだか! 」

 吼えるペルコムに。

「”目標”直上に微細な反応が散発しています。原生種間で交戦中の模様」

 ぐぐぐ。ペルコムはひづめを蹴り付け昂ぶりを堪える。

 尾無猿が。

 しかし代表を持たぬ蛮族と友好条約などと。どこの痴れ頭の仕業だ! 。

 それさえ無ければ、如何様にも手はあろうものを……。

 ペルコムを縛り付けているのは国内法だった。

 駐在部をその唯一の例外として、友好対象には一切、干渉してはならない。

 ナイナは信義を重んじる。

 自縄自縛もいいところだ。苦労するのはいつでもどこでも現場である。

 ペルコムは思考を切り替える。

 井戸の底の事は取り合えず詮無い。出来ることに注力しよう。

 現有戦力では最終的なアルカの地球突入は阻止し得ない。

 厳格な戦力見積により彼はその事実を直視していた。

 であるなら。1細でも2細でも時間を稼ぐしかない。

「アルカ前衛、突出止まりません!! 」

 艦隊機動で敵を牽制するのはもう限界だった。

 ここでまた、我が艦隊が敗れるのは構わん。

 しかし。

 今ここで、我が真意をアルカに気取られるようなことは。

 それだけは。断じて、阻止せねばならん。

 なれば。

 ここは我が身を囮としてでも。

「全群、全兵装使用自由!!よく狙って撃て、絶対に当てるな!魚共が当てて来ても応射はまかりならん!!」

 たてがみを切り落とす思いでペルコムは令する。


 もちろんクラヤも負けていない。

「又尾連中、本気で撃ってきてますよ!」

 戦術参謀の笑いと悲鳴が入り交る波に。

「それならもっと喜べ、戦参!よし、全防御兵装使用許可だ、本気で押し返せ!」

 叩きつけるように令しつつ、クラヤは違和感を覚える。

 こっちは始めから本気の演習だ。だが、ナイナがそれにつきあうのは、なぜだ。

 チキュウを防衛しているというのか、信義に掛けて?。

 ばかな。

 だが指揮官の当惑を他所にアルカ艦隊は発令に従い、全力発揮を開始していた。

 見るものが、勝つ。

 古今東西を問わず、これは戦場の数少ない真理の一つである。

 世界を視る識る為に磨き上げられたアルカの物質文明は、だから処を戦いの場に替えても十分以上に通用した。

 ”見る”技術は”見せない”技術にも通じ、更に”見せ掛け”もする。

 先にアルカの軍事技術が索敵を軸に尖鋭化している様を述べたが、それは同時に隠蔽に、そして欺瞞へ、裏へ、表へと拡がっている。

 それをして”牙を剥く”という表現は不適かもしれない。だが、アルカ艦隊が解き放ったのは攻撃的なまでの防御力だった。

 ナイナ情報参謀は声にならない叫びを発した。

 アルカ艦隊が、その数を一瞬にして10倍、いや目の前で100倍、1000倍に規模を増大する。

 当たり前だがこれは現実ではありえない。索敵情報を欺瞞されているのだ。

「何をしている、よく視て報告しろ!囮は全て削除しろ!」

 情報参謀の叱咤に。

「しています!」

 索敵担当士官が短く叫び返す。

 そう、している。見破ったものは情報表示面の端から消し込んでいる。しかし処理が追いつかない。

 熱反応的にも電子的にも質量的にも空間存在的にも当然光学的にも。

 アルカ艦隊が展開しているその”囮”は、情報的には実在と全く等価なのだ、少なくともナイナの”眼”には。

 ”脳”に直接情報を与えればそれを”現実”と認識するように、ナイナが受けているのは居ながらにしての仮想現実の世界だった。

 ナイナの砲火は自然に、完全に沈黙していた。もはや何をどう狙い、かつそれをどう外せばいいのか。間接的に全艦が戦闘不能に追い込まれていた。

「撃て」

 ペルコムは少し血走った眼で、口元に泡を滲ませながら低い声で命じた。

 司令?と副官が不安げに呼びかける。

「全てを撃て、破壊しろ」

 ナイナ艦隊は先に倍する密度の熾烈な射撃をバラ撒き始めたが、アルカ艦隊はそれをあざ笑うかの様に欺瞞出力を高める。

「だめです……能力限界を突破されました」

 画面の片隅に不正記号を明滅させながら固まった戦術情報表示面を前に、情報参謀が呆然と呟く。それはアルカが仕掛け成功した情報飽和攻撃だった。技術手法的には初期化しての再起動は不可能ではないが、その間に何もかもが終わってしまう。そして各個に撃て、の発令はない。それが可能ならさせている。

 除籍されたのは開戦直後、アルカの力を見せ付けられ一挙に前世代の遺物と化した生残艦艇群で、他の老朽艦もアルカの現役相手では敵に貢ぐ経験値”にすらならない”との評価で二線三線に退いていた、だから引っ張り出せたような兵力ばかりである。

 故にペルコムは練度の”れ”の字も怪しいまだ公試も済んでいない新鋭艦に将旗を掲げ、盲聾はそのままに管制を預かりそれでも無いよりマシな統制射撃を強行している、いた。だがアルカ最精鋭の実力はその遥か上を悠々と越えていった。

 各個射撃など。攻撃可能目標といえば眼前の友軍艦艇しかない。誤射が生じる可能性は悲しいまでに高い。。

 もう少し、どうにかなる目算はあった。だが現状に照らし、その予測材料の多くに自軍への無意識の期待と敵戦力への過小評価があったことは最早明白だった。

 結果は。

 損害は皆無。

 しかし、完敗だ。

 艦隊旗艦、作戦戦闘情報室、中央の司令席。ペルコムは指揮官の孤独と共に悄然と座に沈み込む。

 アルカ艦隊はナイナに肉薄し、その艦列を分断し突破しつつある。

 ように見えた。

 ナイナに向け直線的な軌道で突撃させたのは総て”囮”だった。実体、本隊はその遥か後方から航進微速、ナイナを側翼迂回で突破しつつのチキュウ突入を企図している。

 脆すぎる。

 クラヤはぶすりと放波する。

 副官が正しく上官の意図を察しつつ、同意。

「見ろよコレ。老朽艦はともかく、一度除籍されたのまで引っ張り出してやがる。そうかと思えばまったく情報がない新鋭艦も交じっている、右も左も判っていないような操艦振りのね。とにかく数を集めてウチの艦隊の前に並べてみせたワケだ。一目で張子のフグと看破されようがなんだろうが。なりふり構わず」

 クラヤは手元の戦術情報を眺めつつ波を練る。

 副官は再び静かに同波。

「しかし。一戦構えてでも、って布陣でもない。いやこれで総予備、稼働全力なのか、それを掻き集めての決死の布陣なのか。それはなんだ。やつら、そうまでしてぼくらを止めて、何がしたいんだ」

 なにか、ある。なにがあるんだ。チキュウに。


 副官の戦術情報系復旧しました、の報告に精魂尽き果てた無防備な無表情のままペルコムは無言で頷く。

 直後。

 喧噪が湧き起こった。

「反応、反応!」

「チキュウ近傍に反応多数!アルカ艦隊です!」

 大気圏突入前後の魔の時間帯。

 そのままであれば空力加熱でモロバレだし、かといって重力勾配を形成しなるべく静かに侵入しようとしても大気密度を観測されていればやはり欺き通すのは難しい。

 自然現象ではありえない、何本もの重力傾斜路が地球に向け穿たれている段階、その最中での捕捉だった。

 撃て。

 戦嗄れでしわがれた声が三度、命じた。

 目を見開き副官は司令を凝視する。

 ペルコムはその視線を正面から受け止めながら平静に続けた。

「目標、地球近傍空間、敵推定進路前方。各艦全力射撃」

 にたりと笑い、独語する。当たったときはそれはそれ、だ。

 火力の暴威、いや濁流。

 光の瀑布がアルカの前途をぶったぎる。

 地球上層大気は白濁し蒸散し煮え滾る。

 この拍子でか。クラヤならずとも神の一つも呪おうというもの。

 生き返りやがった、又尾どもが!。

 遂にこの局面でペルコムが揃えた兵力が、火力が活きた。

 いや。

「行けますよ特長、盲撃ちは盲撃ちでさ!」

 えらく威勢のいい波が飛んできた。

 強襲艦だ。

 文字通り強襲作戦の主力である。

 伴星への強襲降下、宇宙要塞等へ両用部隊を突入させるのもそうだ。

 自身、作戦を支援する有力な火力を備え、火線に晒される局面もいいので防御、耐久も堅牢な造りだ。

 地上、宇宙両域で戦闘可能な歩兵及び戦闘車両、舟艇を収容するだけにサイズも巨大だ。

 その意気や、よし。

「やってみろ!」

 クラヤも強く、返波。

 ナイナもその様を克明に追尾している。

「反応、出力増大!」

「強襲艦か。地球に向け突入を企図しあり!」

 戦列艦2隻が突入支援に向け前進。

 戦列艦。宇宙戦艦であり装甲艦である。

 これも文字通り艦隊艦列、攻撃正面に立ち艦隊、艦列の秩序を維持する為宇宙艦種多い中随一の強靭さを誇る体を張り、また敵を叩く強大な火力を持つ。

 1隻が小破。

 強襲艦は3隻の戦隊。1隻が中破し押し戻されるが。

「アルカ、2艦の地球突入を確認」


 ちょっと、どうしてくれんのよ高い金ふんだくってるクセに!ウチのおばあちゃん、この時間の水戸黄門だけが楽しみで……ええそうなんですよ、GPSが全滅みたいで。地図見て廻らせろ、ですか。今の若いのに出来るかなぁ……。

 空気のように、水のように。

 いつからか日常に溶け込んでいた人工衛星、そのサービス。

 混乱の兆し。だがそれはまだ始まりですらない。

 それはここでも。

「どうした。なぜ映像が来ない!」

 事務次官は少し平静を欠いた声を出す。

 JAXAに照会中ですが回答ありません、足を止め投げ出すように答えたスタッフの一人がまた駆け出す。民生も全滅らしいぞという声が上がる。なんだってんだいったい!。

 一方。

「衛星からのインフォはまだか」

 ラムソンの声には僅かな苛立ちと焦燥が交じる。

 最悪のタイミングだ。

 大陸で通信量が顕著に増大し、その内容が”分裂”を棚上げしての対米共同戦線の結成であることまでは直ぐに判明した。

 必要であれば即、投入すべく海兵ユニットも準備はしているが現段階ではまだ使用されていない。であるので。

 大陸が米軍を叩ける手段は先の通りに残存する貧弱な航空戦力のみ、である。

 そして実際にその兆候が観測された。沿岸部に存在する空軍基地の一つが活性化し、呼応するように内陸部の基地の数箇所でも活動が確認される。

 エアカバーを増強すべきか基地を空撃すべきか。それとも今こそ海兵を出して沿岸部を一時占拠すべきか。次々に上がってくる情報に対処すべくラムソンが戦場デザインを描いている真最中に。

 ぶち。

「え」

「あれ」

 その場の全員が呆けたようにブラックアウトした画面をただ眺める。衛星情報を基幹に据えた情報系であるので一瞬、全ての出力が途絶えた。

 が。文字通り抜けた間は一瞬だった。

「衛星情報途絶」

「戦略系一時切断、戦術作戦系優先処理」

「戦術作戦系回復。状況変化なし」

「NORADより回答、原因不明、現在調査中、尚民生を含め類例多数発生対処中」

 うそだろ。ホントかよ。軽いざわめき。ノーラッド。北アメリカ航空宇宙防衛司令部。合衆国とカナダが共同で運営する統合防衛組織であり、両国上空の航空や宇宙に関して観測、脅威の早期発見を目的として設置された組織である。24時間体制で軌道上の状況、核ミサイルや戦略爆撃機の様な潜在的空中核戦力等の動向を監視する。

 そのノーラッドが。口が裂けても”原因不明”などと。

 有り得ない事態が進行している。ラムソンの深い処で自分が教えられなかった何かと、目の前で示されている異常事態が繋がり、それが焦燥となって彼の胸を焦がす。

 何が起きているんだ。目の前の敵に向け努めて集中しようとするが、疑念は深い。

 

「チキュウの情報、来ます」

 それを一目見たクラヤは背ビレを小刻みに振り、吐き出す。

「あー同族で撃ち合ってるよこいつら、ばかだねー」

「共食いには見えませんね」

 と澄まして、副長。

「救いがたいなホント。見ろよこれ、カヤクだぜカヤク」

「物カブレに高く売れるでしょうね」

「いやそうじゃなくて。カヤクは空に向かって打ち上げるもんだろフツー」

「フツーに撃ち合ってますけどね」

 なんだえーと、こころおきなくやれるわ、この連中相手なら。

「よし、作戦其ノ二開始。伝えろ」

「了解。降下演習第二段階へ入ります」

 

「其ノ二だそうです」

「っても俺らだけだけどな。まぁ始めるかね」

 突入に成功した2艦は演目通りに行動開始。先任艦長座上艦側が一時指揮権発動。

「まず敵抵抗拠点への打撃、と」

 もちろん、そんなものは存在しない。原生種の集落を見立ててのことだ。その中から最も規模が大きいものが上位から列挙されていた。

 指示された座標を機械的に入力して。

 攻撃。

「戦果確認」

「とーきょ、にゅーよく、でりー、しゃんはい、かいろ、もすこー、ぺきん、ぱりを攻撃。生体反応消失、撃破と認む」

「攻撃効果十分。よし次」

 突入組がこつこつと仕事を進める一方、上の側でも変化が。

 始めに気付いたのは突入組の行動を精査していた副官だった。

「特長、これは……」

 その示唆にクラヤも直ぐに気づく。

「デカいな。何の上に陣取ってるんだ、尾無ザル」

「精度を上げさせますか」

「うん」

 そして。

 地球周辺で繰り広げられる乱痴気騒ぎを冷やかに見据える眼が、あった。


 副官に戦闘指揮を白紙委任で押し付けたクラヤは、機関長と交感しつつチキュウからの情報に噛り付く。

「これ、どうみる。チキュウ製じゃないよな!難破船?」

 興奮と猜疑が入り混じるクラヤの波に。

「星間航走機関である、ことだけは確言できます。待機出力でこれなら凄いな、実働だとどれだけ出るんですかね。しかし、この型は初めて見ます。実験機ですね、たぶん。理論検証実験機かな」

 専門家の血が滾るのか、抑えながらも機関長の波は震えている。

「特長、大当たりです!」

 航法参謀が割り込む。

「当、系外から進入してチキュウに交叉する航跡を確認しました。2細周程前ですね」

 どれ。ヒレ元に転送された当地の宙図にざっと視線を走らせたクラヤは、そこに示された宙域を縦断する航跡でも地球周辺でもない、別の情報に意識を吸い取られた。

 ぎゅきゅっ。

 尾ビレが縮む。

「特長?」

 ただならぬ気配に副官が波を発したがクラヤには届いていない。

「全艦、全力全周探査。いや待て!」

「特長?」

「副長、指揮権預かる!」

「指揮権戻します」

 しのごの個人的な惑乱を上官に押し付けることなく、副官は冷静に従う。

 そんな副官に束の間称揚の波をひらめかせ、クラヤは決然と発令した。

「こちら特長、状況終了!。撤収せよ。総尾直ちに撤収せよ!!」

 実に統率の取れた戦力だった。アルカは全軍撤退、忽然と消滅する。


「危なかったと思うよ、うん、たぶん」

 近在に展開中の”全”戦力から安全な位置まで後退出来たのを確認して、クラヤは再編成と、全周、全力探査を命じた。

 結果は直ぐに出た。

「特長、これは!いつの間に……」

 探査情報を確認した副長も、尾ビレを激しく縮めてみせる。

 それは微細な、微小な反応だった。

 ありきたりの探査であれば、ふつうに輝く無限の星たち、その中にあっけなく埋没してしまうような。

 だが。微小な反応と微小に”見せかけた”反応は、違う。

 その、正に僅かな差を辛うじて、しかし明瞭に見分けられるのがアルカの力だ。

「こういうのを見せ付けられるとさ、何だこう、ああ、大種だよな、って思わされちゃうよね。いい気になってさ、ぼくたち戦争ごっこだよセンソーゴッコ。こんな辺境にまで当然のように出てくる、その能力がある。違うよな。イヤになるね何もかも」

「しかし特長、よく気付かれましたね」

 色気のある副長の波に、しかしクラヤは。

「ぼくが気付けるはず、ないだろ?」

 ぶすり、と返す。

「え、だって」

 続けようとする副長をさえぎり。

「今のは全力探査、さっきのは標準探査、いや探査ですらない。わざわざ存在を明かしてみせて、それで判るぐらいの、つまり警告、恫喝を受けたんだよ。死にたくなきゃ逃げろ、おれはここに居る、とね」

 もっとも、ナイナの連中はまだ気付いてないみたいだが。

 副長は押し黙り、改めて結果を見る。

「こっちがズィーグですね、となると」

「相方はまぁ、そういうことだろね」

 クラヤは波を濁らせ、しかし。

「これで役者が揃った、な。よし皆! 、ヒレを休めろ。大種のやり方を勉強させて貰おうじゃないか」

 さっさと切り替え、張りのある波を放った。


7.


「随分と遠方に流れ着いたものだな」

 そこに慨嘆の響きは無かった。事実を淡々と発声したのみで。

 いや、そもそもの、感情に類する何ものも表現されてはいなかった。無感動、ですら。

 ズィーグ星間軍、第三遊覇群、筆頭翅、ボイデ・バクセス・カウツ。

 遊覇群は遊撃とは少し、違う。

 戦闘機が行う緊急発進を、宇宙艦隊規模に拡大したものと思えばそう間違いではない。

「最初に現地軍が捕捉した時点で全力加速中でした。無警告で迎撃させましたので、航路選定の余地が無かったものかと」

 副官が応じる。

「ケツが壊れるまで蹴りつけられた、というところか」

 副官は笑わない。カウツ自身も無論。

 サムかった、ということではない。感情というものはもとより無いのだ。

 ズィーグを一言でいえば昆虫、ハチ、である。

 ただし前肢は2対、後肢も2対。

 羽はそれほど退化してはいないが、平均2mに迫る巨体を支えることはできず今では滑空すら不可能。飛行能力は失われ、儀典に際して開かれるとき等の外観の美醜を測る指標の一つに、意味を変えている。

 彼ら自身が”表情”というものに乏しいからか、知能の発達の過程で、感情という精神的な”揺らぎ”が発生しなかった。

 彼らの歴史に、これは非常に有利に作用した。種族の繁栄という一点に見るなら、感情のような知性の雑音は阻害要因以上のものではない。

 必要に応じて生き、そして死す。

 殆ど理論値最大限界最大効率で彼らは繁殖、繁栄を続け今はこの島宇宙の一角を占める、銀河有数の大勢力として雄飛している。

 星間種族間での政治調整が行われる場である星間友愛連絡協議会、星連で元老会議に就く種族の一つでもある。

「アルカが退きます」

 副官が告げる。

「聡いな。噂に違わずよい逃げっぷりだ」

「そのようで。ナイナは如何に」

 む。とカウツは、自他共に高評価の適度な太さと形の触覚を軽く、しごく。

「させておけ」

 と一言。

 この艦隊は旗艦である戦闘母艦の航試中にあった。

 探りの目を避け辺境に在り、今回の事態だった。この戦力が直近だったのだ。

 戦闘母艦。

 艦隊旗艦であり、強大な指揮命令能力と絶大な火力、そして膨大な艦載機搭載を誇る、正に文字通り1艦で宇宙戦闘の総てを司る艦種である。

「先行翅の準備は」

 カウツが尋ねると。

「準備宜しとの報告が既に」

 抜け目なく副官は即答する。

「はい。先行艦載翅準備よろし。」

 巣営長も直接回答する。

「出せ」

「出します」

 2機の艦載機が射出される。

 機、といっても中小の種族が保有する戦闘艦並みのサイズだ。

 それは易々と光速に達し、そのまま超光速巡航に突入する。


 ペルコムは冗談でなし、泣きたくなった。指揮権をこの場で投げ出し、故郷に逃げ帰ってそのまま隠棲したくなっていた。

 それほどまでに彼我の、我がナイナとアルカの差は隔絶していた。

 当、部隊が最新鋭ではない、どころか急場の員数合わせで取り敢えず出しとけ群、であることを割り引いてもだ。

 さんざん既出の通り、連戦連敗の苦境にあるナイナ軍のフトコロは非常に厳しい、火の車である。一つ、群を出してくれ、それも遠方に、との要請に、はいそれではと応じられる状況にはない。

 今回、何とか数だけはそれなりに揃えたが、内実は予備役からの復帰があり完熟訓練中あり、修理待ちの損傷艦あり、とにかく艦隊を編成する各艦、状態も所属も出自がばらばらだったのものが、全艦揃っての艦隊行動訓練一つ行われることなく、そのまま最前線に投入されている。

 一言でいって、当然、ただでさえぐちゃぐちゃのばらばら。

 それがアルカの、仕事熱心な艦隊の演習に、無理やり付き合わされるハメに陥った。

 向こうにしては謂わば”遊び半分”なのだろうが、こちらは真剣勝負だった。

 ズィーグ領内の研究施設から強奪、乗り逃げされた新型機関を搭載した実験機。

 それが、ナイナが領有準備を進めていたここ、地球に落着するとは。

 領有とはつまり、委任信託の形まで関係を進めてしまうことだ。現地からの要請の形で保護下に置く。

 地球及びその星系は、銀河で開設されている様々の航路の、何れに、遠い。

 戦略的価値は著しく低い。維持管理を思うと結局、持たない方がマシ。

 独力であれば。

 原生している種族を巧い具合に育成、自律的に維持管理させその成果にタダ乗りだけ出来れば、ないハナシでは無くなってくる。ナイナもその通り、アルカ攻略のための支援、補助の役割を地球領有に期待していた。

 そしてこうした直接攻略と別に、間接的攻略が試みられていた。

 中央の有力種族に支援を願い出る。上がった名の一つがズィーグであった。

 大きすぎないか、という懸念も何度か出されたが、交渉はそれなり順調に進捗した。

 そして、ナイナから提示されたアルカ攻略への支援要請に対し、「検討したい。その価値も認める」という割と前向きな発言が得られた。

 しかし、ナイナからの地理的感覚では遥か銀河の対岸に本拠を固めるズィーグの存在は余りに、遠い。

 我が忠誠を示すに如何なる方策を以ってありや、なしやと、煩悶していたところに今回の事件、である。

 ナイナは1も2もなく跳び付いた。地球駐在部が落着を確認した時点でもう、ズィーグ星務事務局に向かい、標的の回収代行の任を申し立てていた。そして。

 今、結果はさんざんだった。

 時々、戯れのように照準信号を放ってくる以外、アルカは1発も撃ってこなかった。

 アルカが持つ、策敵、探査能力、技術は裏返すとそのまま、妨害攻撃と変わる。

 一つの目標が少なくとも千。或いは億、場合によって兆の単位の”影”を纏っている。

 それは何もない空間だが、火器管制装置はそこに敵がいると喚き散らす。端から撃ち、また虚信を発して”影”を掻き消さんとするが、間髪置かず別の出力に切り替えられる。

 威嚇どころか本気で狙ってかすりもしない。

 アルカと戦争を始めたのはどこの痴頭なんだ。ペルコムは言葉の限り叫びたかった。

 それはもちろん、諸族頭の総意であり、星治屋どもの失策と怠慢であり最後に、軍の無能の成せる業なのだ。

 勝ててさえいれば。そう繰言しながら歴史の深淵に消えていった軍の、その種族の、なんと……。

 副官がしきりに叫んでいる。

「司令! 」

 副官の声が明瞭な響きとなって届いた。

 ペルコムは眼前の事実に引き戻された。

 直ぐに気付く。

 静かだ。

 何が。

 アルカが。

 居ない。居ない? 

 ここ短時間での自軍と、強引に手を取られ引きずり込まれ引き回された舞踏会の、その疲労そして倍加する困惑が、ペルコムに指揮権の委譲と僅かな休息を囁いていたが彼は負けなかった、踏み止まっている。

 アルカの撤収は、よい。今はそれ以上に情報はない。

 そうだ。我々が今ここに展開している大目標は。

「回収は、まだかね」

「まだです。それどころか」

 ペルコフは怪訝な目つきで先を促す。

「突入、降下したアルカの一部部隊は標的近隣に展開しました、

 奴らは直ぐに野戦築城を始めたのですが、撤収の際、それらの一部施設が稼動放置されたままです」

 くわ、とペルコムは目を剥いた。

「天祐である。全軍、突撃せよ。

 緊急避難である。アルカが構築した海上陣地を破壊後、

 総ての元凶である実験機関を我が方の手により回収する」

 配下から初めて、歓声のようなものが上がった。

 ようやくこの地獄を抜け出せる、と。歓声、歓喜の叫びだった。

 ペルコフは独り、疲れた表情を隠そうともせず黙然と、思った。

 こうしていれば良かったのだ。始めから。責任などあとで幾らでも被ってやればそれで良かった。

 とうの昔に、終わっていたものを。


 ズィーグが放った先行部隊は、貪欲に情報を貪り後方へ送り伝える目、であり、必要であれば取得した情報を元に、脅威目標へ母艦の攻撃を直協支援として誘導するムチでもあった。大昔の戦艦と弾着観測機との関係に似ていなくもない。

 尤も既にお判りの通り、例え単機でも並みの戦闘艦相手なら遅れを取らない。

 そして、部隊はその存在を補足し、直ちに母艦へ申し送った。

「ベイファス、本体は継続して主星を軸に我が方と反航進路にありますが、両用部隊を分離、地球に向け突出させる気配。最新です、ベイファス両用部隊、地球に向け進発。更に打撃戦力が追随。本格介入を企図しあり」

 カウツはしばし、無言で下の手をこすり合わせていたが。

「星務がどう躾けているかは知らん。ナイナに退去勧告を出せ。顔は潰すが命までは取らん、とな」

 仄かに、いらだちに似たものを織り交ぜながらカウツは令する。

「応答ありません。回線は開いているようですが」

 副官の声が僅かに驚愕の響きを伴った。

「……応答あるまで続けてやれ」

 カウツは後悔に似た何かを頭脳に宿らせながら思う。

 忠義とは不便なものだな、と。肝心要で紙きれに還る。

 馬面どもにこうした小器用な真似は無理だったか、と。

 ベイファスが傍観に徹するのであったらよし、ナイナのケツを拭いてやるだけだ。

 しかし当然、仕掛けてきた。

 綺麗な幕引きの時期は過ぎた。

 今は、どう、始末をつけるか。

 ただそれだけだ。

 情報表示面を、そこに表示される青い星をカウツは見る。

 地球か。

 水球の名が相応しいようだが。

 カウツは密かに、その星が持つ外観に高い評価を与えた。そして。

「破砕砲撃準備。目標、地球」

「破砕砲砲撃準備。砲撃照準波勃起させます」

 副官が静かに復唱する。


「ナイナの連中、気張るな」

 司令の声に。

「戦意は高いようですね、変わらず」

 副官はあまり興味なさげだ。

「そうしたものでもないぞ。戦意というのはあれで存外、やっかいだからな」

 ベイファス宇宙軍、緊急展開派遣第2群、司令、ダイノス・バイドベインは諭すでなく、続ける。

「どれだけ堅牢凶悪な兵装を持とうと、兵が戦意を失えば棺桶以上の役にはたたん。戦場を決することもある。太古ではそれが総てだったしな」

 とはいえ、と。

「宗主を無視して眼前の戦場にしがみ付くのは、あまり巧い遣り方ではないよな」

「宗主、ですか?」

 笑いを含んだ副官の声に。

「ナイナのズィーグ詣では有名だろ?」

 とぼけた声で。

 ズィーグが発した退去勧告はベイファスでも受信している。

 当然そこには、ベイファスへの威嚇も含まれている。

 手を出すな、と。

 ベイファスを表現するなら、トカゲ男(女)の一言だ。身長は3m前後。

 但し、うっすらと体毛をまとっている。ウロコの間から。

 そして、冬眠の能力を保持したまま恒温生物への発達を獲得した。

 素で冬眠しながら星の海を泳ぎ渡れる能力は、種族繁栄にとってこれも大きなアドバンテージとして作用した。

 加えて頑健な体躯。改造された兵は生身で真空暴露に堪える。

 彼らもまた、銀河に覇を唱える条件を存分に満たしている。そしてやはり、元老会議の1席を掌中に収めている。

 しかしなんだ、とバイドベインはぼやく。

「子供が必死にしがみ付いている玩具を力任せに取り上げる、なんてのはあまり行儀よくないよな、な」

「仕事ですよ、しごとですって」

 副官が軽い調子の声を出す。

「まぁなぁ、こんな島のド外れくんだりまで出向いてさぁ、ぶつぶつ」

「先行降下部隊、ナイナに接触します」

「そおか、よしそれじゃ」

 バイドベインは声を張ったが。

「楽しいたのしい綱引き合戦の始まりだ、ぞ、と」

 カケラも嬉しそうではない。むしろうんざりと。


「照準波投射、準備よろし」

 誰が悪いのでもない。

 地球種よ。己の不幸を呪うのだな。

 カウツは胸中で祈りにも似たものを、何かに捧げだ。もちろん宗教はない、神もない。

 地球よ。

「撃て」

 告げた。


 破砕砲撃というのは、字面ほど力任せな暴力ではない。

 寧ろ数学、科学的に対象を破壊、消滅させる。

 準備段階としてまず、対象の空間存在情報を読み取り。

 得た情報を反転させ。

 現在の存在情報に”上書き”攻撃する。

 存在情報を消滅させることで、対象を空間から”削除”する。

 その、照準波の照射を受けた段階では。

 人は、無傷だった。動植物も。

 人間が創り上げた建造物を始めとする無機物も。

 しかし、深刻な、破滅的な影響……攻撃を受けた一群が、存在した。

 存在情報の読み取り。実時間はナノ秒単位の刹那であったが。

 電子計算機を機能させるプログラムは、一種の純粋情報である。

 無論、個々の機体が狙い打ちされたわけではない。しかし。

 地球を覆い瞬時、これ以上ないほど凶悪に吹き荒れ狂った情報的暴風雨に曝され。

 地球上に存在する電子計算機、電子機器の殆ど総てが、損害を受け、機能を停止し、そして破壊し尽くされた。

 

 知識として知ってはいるようだった。

 だが、実際に見るのは初めて、或いは久しぶりのことなのだろう。

「でけぇ」

 呆れて、見上げ、眺め渡した。

 全長、約500m。

 全幅、約80m。

 機体後部の機関部の張り出しが、それだ。全体的には細長い円錐、棒状だが、そこが不自然に出っ張っている。

 その張り出しにエンジンらしきものが、計3機。

 ジェットエンジンではないようだ。タービンブレードが見えない。

 知識があれば、それが真のジェット、スクラムエンジンであることが判るだろう。

 翼らしきものは一切、ない。

 全長500mだぜオイ。

 それが飛ぶのか! 。

 音速の数倍で。

 しかも。

 乗るのか。おれが。

「何をしている江嶋三尉」

 搭乗口に手を掛け振り向いた、佳南の鋭い声が江嶋の背を打つ。

 直ぐ声を掛けられたようで、それほど呆けてはいられなかったようだ。

 機体は支持架で支えられ、搭乗口にも回り込んでいる。そこから楽に乗り込めた。

 キャノピー、ではない。

 そこが機体の質量重心なのだろう。機関部の少し前方にハッチがあり、そこから機体中心軸まで降りた場所に操縦席がある。

 前後2席。これだけの図体で二人乗りだ。

「孝憲、遅いっ!!」

 という声には、出来の悪い部下を叱責する上官、であるより、待ち合わせるといつも平気で5分遅れてくる彼に向けての拗ねた甘えの響きが、意識するとせざるとに関らず漏れ出てしまっている。10分遅刻! だって私はいつも5分早く来てるから。

 えええっ、なんでえぇ! ! 。

 二尉、ぼ、と顔が真っ赤に染め上がるのをこれは、意識しながら。モトヘ。

「遅いぞ江嶋三尉」

 二度叱られた。

 一度は恋人として。

 二度目は部下として。

 待て、恋人?いつフラグ立ってどう回収されたんだ?。まあそれもいいが。

「申し訳ありません、二尉殿! 」

 口と右手が同時に勝手に動く。見えない前席に向けぴしりと、敬礼。

「宜しい。発進前点検、開始する。読み上げ任せる」

 完全に士官の声で、佳南が命じる。

「発進前点検、開始します」

 江嶋、復唱。

 ほぼ同時に。

 鈍い音と共に、頭上のハッチが閉じる。

 視界が暗闇に閉ざされる。しかし次の瞬間取り囲む壁面全体、操縦席周りの全周表示面が1回瞬き、壁が、天井が、足元にも、外部の光景を映し出す。

 浮いているような感覚。

 そして眼前に、空中に浮き上がる様々な数値と、指標。

 なんだこりゃ。

 孝憲の意識はそれらを拒絶しかけるが、眼と頭脳は完全に理解していた。

 江嶋三尉の口が動く、読み上げる。

「主機動作」驚いているヒマは無かった。いまさら。

「動作正常」

 落ち着いた声で前席、佳南が応える。

「始動準備」

「準備正常」

「電力確認」

「供給正常」

「主機、始動」

「始動、開始」

 同時に背後から、巨大な野獣が発する唸り声のような音が1回だけ、轟いた。

 その後に続く爆音は、しかし存在しなかった。

 ただ、小刻みな振動が伝わってくる。

「主機出力」

「定格上昇」

「出力確認」

「発進十分」

 二人は唱和した。

『乙号、発進準備完了! 』

 発進準備は管制で続行される。100秒からの秒読みの中、二人は自主点検を進める。

「副機動作 めんどくせえなぁ」

「正常確認 私語しない! 」

「主機動作 なぁ佳南」

「出力定格 タメ口しない! 」

「機体温度 お前、実はいくつだ」

「温度平常 女のコに年、聞くんだへー」

「航法動作 ムリには聞かん」

「正常確認 16と2ヶ月ですけどなにか」

 はた、と点検を放り出し。

「そのくらいだよなー。青春まっさかりじゃん」

 三尉は、ボヤく。

「わ、私だってせいしゅん、あるもん! 」

 二尉、ムキになって反論。

「ふーんそうか。どんなんだ? 」

 突っ込みよりはむしろ、ビリなのに脱水でヘタりこみそうなランナーに送る声援の響きで。

「ど、どんなって、えーとえーと、筋トレでしょ、遠泳でしょ、あ、只の遠泳じゃないよ全備重量負荷で! 」

 三尉は前席の背に無言で突っ伏す。

「……悪かった。おれが悪かったよですよ二尉殿。そうですねせいしゅんばんざい」

「そ、そうよ! 私だってせいしゅんまっさかりなんだから! ! 」

 気まずい沈黙の中、秒読みは最終段階に進む。

「発進、10秒前」

「乙号、各部正常、発進準備以前宜し」

「射出軌条準備宜し」

「5秒前」

「4」

「3」

 秒くらいだった。

 ふ。

 と辺りが暗くなる。

 総ての照明が。

 電源が。

「どうした!」

「原因不明!」

「非常電源反応なし!」

「電力寄越せ軌条が冷えちまう!」

「手動切り替え!」

 暗闇に指示が、怒号が飛び交う

「反応ありません、あ」

「何だ!」

「原因判明、復旧します」

 照明が、電力が戻る。

 操作卓が息を吹き返す。

「旧型電子設備、ほぼ全滅。切断完了。原因不明です」

「核でも爆発したか?」

「電磁放射検出されません」

 同時に世界では。

 例えば飛行場で。

 着陸姿勢にある大型旅客機が突然、ギアも出せずにそのまま鉄の塊となって滑走路に叩きつけられる。

 上空で旋回していた機体が、バンクの姿勢で空をずるずる横滑り、市街地に落ち辺りを薙ぎ払う。

 各駅停車はプラットホームを轟音と共に駆け去り、引き込み線から宙に身を投げる。

 時速100kmを越える鉄塊が正面から、或いは互いにカマを掘り合い激突する。

 大型タンカーは進路上の総てを撃沈した挙句に港湾施設に突撃する。

 工場が爆発している。病院にも修羅場がある。

 宇宙種族達がゲームを始めると同時に、地球では少なくない血が流れた。流れ続けた。

 しかしそれは、すりむいた傷に血が滲み続ける、程度のものだった。人間にとっては大事だが、大都市の幾つかが焼け落ちたとて、グロスで見れば微々たるものに過ぎない。

 だが、これは違った。

 その時、今度こそ全地球規模で、億の単位で死体が積み上げられた。

「乙号発進復行、50前から」

「了解、50秒前」

「待て時間が惜しい! 乙号、自機発進する! 」

 佳南は復行に割り込む。

「駄目だ佳南!行動時間が!」

 相庭がを叫ぶ。

「乙号出る。支持架開放、前扉開け」

「支持架開放」

「前扉開放」

「おまえら、くそ」

「発進用意宜し」

「乙号、発進」

「発進」

 信州の山奥、私有地につき立ち入り禁止のその山麓で。

 山は割れこそしなかったが、巨大な鐘を衝くような重い鳴動と共に山腹の一角に深く広い丸い穴が現れ。

 そこから何か輝く影が幻のように閃き。

 気が付けば、穴もどこに開いていたのか判らない。

 乙号は太平洋側に向け飛翔している。

 これは基地の構造の問題で、仕方がない。蒸気機関車のターンテーブルのようにはいかない。

『進路、太平洋。定常加速後転針開始、右維持旋回1.3。』

『航法了解』

 そして江嶋は気付く。

『私、発音してません』

『乙号の交信支援だ。気にするな」

 そっけなく、佳南。

 のうみそだだ漏れですか、気にするYOそれフツー! 。

『なんかそれと、時間がゆっくり過ぎる様な』

『保護場の作用だ以下同文だ気にするな三尉』

 乙号の定格作戦行動限界は12秒。

 それが今回、自機発進により8秒まで削られている。

 鼓膜や声帯や言語中枢、それに顔筋を用いた意思伝達と合意形成これを1,2秒でやれというは不可能だし精度が下がるし操作操縦もあるしで絶望的だった。

「速度読み上げ、1」

 マッハ、である。

「2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、副機切断、主機全力」

「切断確認。主機出力正常上昇」

 スクラムジェットによるマッハ15迄の加速とその切り離しは、自動だ。

 主機が地球の大気と重力圏に切り拓く壁と坂を乙号は飛ぶ。

 その航路は大気圧にも、重力にも妨害されていない。

「旋回開始」

 空がゆっくりと回り、凄まじい勢いで流れていく。このまま地球を半周する軌道になるがそれでも最短だ。


 ズィーグの攻撃照準波を受けて。

 ベイファスには影響、損害共に皆無だったが、対していたナイナには止めの一撃の格好となった。

 老朽艦が、全身から火花を散らしそのまま眼下の海原へ、或いは東シナ海に面する土地へ、市街地へと向かって落ちていく。撃沈されずとも不調を訴えてくる艦は、多い。

「全軍、撤収!」

 涙を滲ませながらペルコムは叫んだ。

 既に退却の指示もあるし、ペルコムはそして凍りつく。

 我々にはズィーグと何の関係もない。

 通商条約一本すら締結されていない。あるのは嘘寒い友好関係のみだ。

 この戦場に、どれだけの意味があったというのか。

 まんまとアゴで使われた、そういうことだな。

 ペルコムは再び、全軍撤収の声を上げる。

「ズィーグの旦那、星ごと吹き飛ばすってか?剛毅だねえ」

「全軍、撤収させますか?」

 うろたえる副官に。

「まあまて、あれは”ナイナごと”ならで、ウチと一戦交える気はないよさすがに。

「ナイナ、後退する模様」

「よし!」

 バイドベインが勝利、を確信したとき。

「識別不能反応高速接近!」

「なんだあ」

 何が、何だってこの時になって。もう終わりだぞ。

 あと一息で回収作業は終了する。

「原生種の模様、あ、標的を攻撃してきます」

「なんだとぉ?!」


 雲、一つとて見えない快晴であるのに、東シナ海は台風直下の如く荒れ狂っている。

 その波浪の中、ゴムボートが一隻、木の葉の様に揺れていた。

 その側面に大きく、CASCADE、のステンシルがある。

 乗っているのは全員が軍人、否、第7艦隊旗艦、「カスケード」の乗り組み員だった者達だ。膝を抱えうずくまり足元を見詰めながら何かを呟いている者、頭を抱えただ震えているもの、海原を眺めながらひたすら何かを数えているもの。

 ラムソンは合衆国国歌を繰り返し吹いている。

 眩く輝く光となって消滅した艦。

 溶けるようにぐずぐずと波間に消えた艦。

 蜃気楼のように淡い姿になりそのまま消え失せた艦。

 ふつうに爆沈する艦。

 カスケードは突如転舵してきた僚艦のフリゲートと接触、沈没の已む無きとなった。

 このゴムボートとそこに居る一握りの将兵が、第7艦隊に残された最後にして唯一の戦力なのであった。

 何がいけなかったのだろう。ラムソンの中で健在な、妙に冴え渡る部分が自問を繰り返している。大陸軍は全く寄せ付けなかった。私の任務はそれで完遂されたはずだ。しかし、我が艦隊は壊滅した。これは私の職掌外ではないのか。私は知らされていなかったのだ。軌道軍なり戦略空軍なりの仕事だろうあれは。なぜ、私の第7艦隊が壊滅せねばならなかったのだ。だが、彼にはそれを解くべき材料は最後まで与えられていなかった。

 そこにいたややマシな状態の、唯一の女性が彼方を指差し突然、自身が引き裂かれるような高く長い悲鳴を上げた、上げ続ける。幸福にもそのまま彼女は発狂出来た。笑い声と共に海面に身を投げる。

 或いは健在なりし第7艦隊であっても深刻なダメージを巨大な水の壁が、全自然を代表して人間にその尊厳を教育するとでも宣言するかの如く、高層ビル並のサイズの波濤がゆっくりと彼らの視界を閉ざしていった。

 それが過ぎ去ったとき、海面には何も存在していなかった。


 標的が照準環に収まる。実際はまだ水平線の向こうで視認出来ないのだが。

「照準、よし」

「安全解除」

「解除」

「MB砲、射撃開始!」

「いっけー!!」

 前席は機体制御、そして後席は機関制御並びに、射手、だ。

 MB砲、マイクロ・ブラックホール生成投射機。

 1秒間で10発の弾丸を発射する。

 1発の威力は約1500億トン

 と表現してくると何だかスゴイみたいだが、頑張っても所詮質量、素手でぶん殴ってるのと原理的には大差ない。ように見える、一見。

 MBだってブラック・ホールの端くれだ。しっかり特異点を持っている。

 どういう意味か。

 特異点はこの世、4次元の時空連続体と切り離された存在だ。

 MBが蒸発する際が重要だ。

 時空連続体の連続性に特異点が干渉するのだ。

 どうなるか。連続性が極所的に喪失する。

 その一瞬断続、不連続な存在となるのだ。

 この世が同時に、量子的不確定世界であることはご存知の通り。

 不確定であるが故、存在は存在し同時に存在しない。よくいうシュレディンガーの猫である。

 時空の断続、不連続はこの存在確率を僅かに、極僅かに非、存在閾値に向け押しやる。

 MBは質量のみならず対象を、量子的確率論的な性質により攻撃しているのだ。

 どうでしょう。尤もらしく聞こえますか?。

「効いてる?!」

「判らん。くそ、あと何秒だ」

「3秒、2.5。」

「MBに突っ込む」

「ええ?それじゃ」

「後がないんだ!許せ!」


「火力増大!保護場飽和です!防護持ちません!」

 バイドベインは難しい顔をしていたが、突然。

 笑い出した、実に愉しげに。

「司令?!」

 副官が恐ろしげな声を向ける。

「ああ、すまん、大丈夫だ。破壊されたんだな」


 限界は突然だった。

 重力井戸の底の分厚い大気に叩き付けられた乙号が、機体各所の応力集中点で破断、ばらばらに空中分解しながらそれらの破片はなお慣性に従い空中を前方に移動する。

 機体中央から投げ出された操縦席もそうだった。

 それは緩やかに縦回転していた。

 孝憲は薄れゆく意識の中、必死に前席に目を向けた。

 がぼ、ぼぼ。蛇口を開いたように血が流れる。あふれる。止まらない。内臓破裂か、ぼんやりと。

 前に差し出した手が、握られた。

 その手も赤く染まっていた。

 か、な、ん。

 喉から息が漏れた。

 たけ、のり。

 答えが聞こえる。

 目はもう開かない。

 行こう、いっしょに行こう。

 返事の代わりに、手が引かれた。

 これで、よかったのか。

 いいのよ、これで。

 幸せになろうね

 ああ、そうだ。


8.


 右見て。

 左見て。

 じっと手を見る。

「おれ、いきてる、のか」

 天井は低い、異様に。

 それが、少ししたら、開いた。

 立ち上がる、見下ろす。

 棺桶と大差ないトコロに押し込められていたことが判る。

 部屋の扉が開いて。

「気が付いたか」

 話掛けてきたのは大男の、トカゲ男だった。

 慌てて自分の姿を見下ろす。

 すっぽんぽんだ。パンツ1枚、ない。

「ここは、風呂場なのか」

 それがファースト・コンタクトの第1声になった。

 男は軽く、笑う、素振り。

「肝があるな。いいぞ」

 孝憲も、何となく事情が飲み込めて来た。

「このまま、喋っていいのかな」

「ああ、おれの声、判るな?1、2、3、4、5」

 声に応じて、孝憲は指を開いて折ってみせる。

「ふん、大丈夫だろう」

 だから、孝憲は名乗った。

「日本国、防衛軍所属、三尉、江嶋孝憲」

「ベイファス宇宙軍、緊急展開派遣第2群、司令、ダイノス・バイドベイン」

「うわ、偉いさんじゃないですか。尉官ふぜいとタメでいいの?」

「本当に面白いヤツだな。口でいいながら敬意は抜きか」

 地球外知的生命体とそのまま漫談を続けようとし。

 気づく、思出だす。

「佳南は!彼女は収容したのか?!」

 バイドベインは苦笑で応える。

「えらい剣幕だな。どっちが捕虜か判らんじゃないか。いるよ、隣にな。じきに連れて来る」

「そうか」

 ほ。吐息を漏らす孝憲に。

「あれは、おまえの何だ」

 バイドベインが静かに訊いた。

「なに、って」

 孝憲は言葉を濁す。恋人、っていって通じるのか。それとも。

 だが、バイドベインは衝撃的な言葉を発した。

「そうか、サルが趣味か」

「……あ?」

 理解出来なかった。冗談、とも。

「サルでなければイヌか。何でもいいが、人外趣味か」

 少しずつ、ようやく少しずつ。トカゲ男の言葉の意味が通ってきた。

「彼女が?!」

「そうだ」

 衝撃。

 かちわられた頭部から脳みそが垂れて来て視界を白く隠している様な気分だった。

 バイドベインは冷静に続ける。

「例えばそうだな、彼女の”水かき”を見たことはあるか。

 指の水かき。進化の残滓。

「無いだろう?無いはずだ。指の自由が増すと楽になる局面はあるな。演奏、操縦、格闘とか。覚えは」

 ある。

 そして追い討ち。

「ああ、それとシッポがないな、盲腸も。お前さんはどっちもあるな。何れも切除の形跡はないそうだが」

 足元の闇を見据え、孝憲は何か叫びかけ、しかし枯れた声で、いった。

「彼女は、知っているのか」

「知ったはずだ」

 そうか。孝憲は俯き考え、バイドベインを見上げた。

「彼女と、会いたい、会わせてくれないか」

 倉庫を急に片付けたような、少し狭い何も無い部屋に二人は通された。

 今はもう素っ裸ではなかった。太古の、貫頭衣のような服装を与えられている。

 部屋の片隅に箱が置いてあり、ベンチの様なそこに二人は並んで腰掛けた。

 どちらもなかなか口を開けずにいたが、先に沈黙を耐えられなかったのはやはり佳南の方だった。

「ね、孝憲、知ってる? 」

 調子っ外れの明るい声で佳南は話始めた。

「私ってね、産まれてまだ2ヶ月なんだって。2ヶ月でこれだけ話して歌って踊れるのってすごいと思わない」

「それは。」

 口を開く孝憲を無視して。

「あ、肉体年齢はきっちり16だけどね。でもどうせならもうちょい若くても、ねぇ」

 孝憲は不自然にならない程度に、体を傾けた。

 佳南の顔を、眼を、今は見たくなかった。

「だから、だ、だぁら、わた、たし」

 黙って、その頭を膝に抱え込んだ。

「言うな」

「た、か、の、り、ぃ、ぃ」

「佳南」

「わたし、にんげんじゃなかったんだよ? 」

 江嶋は佳南の顔を見つめ、言う。

「良かったじゃないか」

「……え、え??」

 江嶋は視線を逸らし、吐き捨てる。

「人間なんてロクなもんじゃない。君の様な存在を造り出しては使い捨て、だ。姉さんか妹さんもそうだったんだろ、甲号もろとも」

「……それは……でも」

 江嶋は再び佳南と視線を絡め、訊く。おれでいいのか、と。

 それもプログラムじゃないのかという胸中の痛ましさは押し殺しつつ。

 そんな江嶋の心理を見透かすが如く、佳南は苦笑。

「しょうーがないけど信用ないなー。私にだって自由意志くらいあるんだよホントだよ?。既定約定の範囲でしか行動不可能な生体ユニットなんかだったら電子機械の方がまだマシだって」生体ユニット。自ら言い切ってみせた。

「わたしは、ホラ、だいじょうぶだから」

 すいと立ち上がり、バレリーナの様に片足爪先立ちでくるりと優雅に回ってみせる。

「ね。こういうふうに、出来てるの」

 なるほど、人間なんかじゃないなと江嶋は妙に得心した顔で彼女に向かい、頷く。

 凡てを赦し、受け容れる。もし天使が存在するなら、こんな感じなんじゃないか。

 あーそろそろいいかな。どういう表情なのかはいまいち不明だがトカゲ男入室。

「有難う、バイドベイン」

 江嶋は素直に頭を垂れ、はっと顔を上げる。

「ああ!今のは地球の、日本でのローカルな」

 判ったわかったというようにトカゲ男は長い舌を出し入れしてみせる。

「ばいどべいん、さん?」

 佳南の呼びかけに何だ嬢ちゃんと気さくに応え。

「わたしを……人間にして下さい!!」

 ぶ、と江嶋は噴き出す。

 佳南おい何を言い出……!!。

「それはまあ、出来ない相談じゃねぇけどな」とくにもったいもつけず、バイドベインあっさり首肯。

 それみ、え。

「で、きるの、か?!」

 トカゲ男はわらった、ように見えた。

「半分はおれの趣味みたいなもんだが、ウチの所帯はけっこうカオティックでね。軍医もそれに適したのを頼んでる。確か前にも種族転換みたいなムチャをやって成功させた記憶があるんでな、亜種間同士なら造作もないと思うが」

 が?。なんだ。やはり悪魔の取引か、魂をよこせの類の。

「記憶が無くなる。脳も作り替えるから当然なんだが。それでもいいか」

 佳南は少しだけ戸惑い、しかし決然と頷く。江嶋を見据え。

「貴方の子供が欲しい。だめ?」

「君が望むなら、もちろん、よろこんで」

 ノータイム、力強く、返答。

 バイドベインはしばし宙をにらんでぶつぶつ唱えていたが、向き直ると。

「二月、長くても半年、だそうな」

 告げた。

「どうする?」

 今度も佳南の言葉は早かった。

「今から、おねがいします」

 バイドベインはちらりと江嶋を見る。

「いいのか」

 江嶋は佳南を、見た。

 思えば。彼女と出合ってまだ3日、なのか。

 彼女が呼び出されたカーリーであるなら。

 おれこそが捧げられた供物であるのやもしれんな。

「ああ」

 バイドベインは素早く舌を出し入れしてみせ。

 部下らしき者がす、と佳南の手を引いた。

 佳南は背中越しに一度だけ手を振ってみせた。

 バイ、バイ。

 またね。

 少し、待ってて。

 あなたのこと、信じてる。だから。

 扉の向こうに、消えた。

 バイドベインも束の間、それを見送っていたが。

「さて、と」

 江嶋も身構える。

 そう、おれたちをわざわざ生かした理由、だ。

「一つ、頼みがある」

 もちろん命令だ。基本的に拒否出来る立場ではない。

「その前にそうだな、今回の”事件”について少し説明しようか」

 そしてバイドベインは、取り敢えず今彼が把握している情報を江嶋に向けブチ撒けた。

 ベイファスに内通した者がズィーグ領内から新型機関を搭載した航宙機を奪取したこと、それが迎撃され地球に落着したこと、偶々アルカが地球を舞台に降下演習を計画したこと、アルカと敵対しているナイナがそれを阻止、回収を企図したこと、結局ズィーグが直接介入に乗り出して来ていたこと、そしてベイファスもまた。

 なんてことを、なんてことをしてくれたんだ。

 江嶋は淡々と告げる目の前のトカゲ男を殴りつけたくなったが必死に堪えた。バイドベインには罪はない。人間だって軍隊が動けば山一つ、島一つ消し飛ばすことは珍しくない。宇宙種族の国軍4つがそれぞれの思惑で行動したのだ。地球が文字通り吹っ飛ばなかっただけでもマシと思ってここは諦めるしかなさそうだ。

「で、だ。なるべく穏便に済ませたかったんだがどうも収まりそうにない。星連の安全保障理事会は最低限避けて通れなさそうな見通しなんだ」

「そこで、証言しろ、と。地球代表としてか」

「早いな」

 バイドベインは嬉しそうに言う。

「そうだ、そこで一言、”はい”と言ってくれりゃそれでいい」

 一言で総てを肯定しろと。無条件に。

 それが要求か、代価か。

「判った」

 取り敢えず即答。

 最終的にどうするか、その瞬間まではまだまだ猶予はあるだろう。

 ふんふんとトカゲ男は上機嫌のように鼻を鳴らす。

「それとその後のハナシだが。別に一生、飼ってやるのは構わないんだがどうだ、おれの下で働いてみるつもりはないか」

 江嶋はまじまじとバイドベインを、見た。

「はたらく?おれが?あんたの下で??」

 正気か。

「本気だぞ。お前は見所がある。知識なんてすぐ揃う、問題はそれを扱う知性と、戦略的センス、そして決断力だ。お前にはその全てがある」

 そりゃどーも。

 それじゃ、用が出来たらこちらから呼ぶ、と個室を一つを与えられると江嶋はそのまま放置された。面積は三畳ほど、寝床と、奥にはスイッチ一つで切り替わる炊事場兼浴場兼御不浄がある。

 ”オリ”に放り込まれなかっただけましか、いや同じなのか。

 することはこれしかないので与えられたアカウントでネットに接続してみる。

 結果後悔した。激しく。

 銀河(彼らは正しく銀渦、と呼んでいるようだ)はズィーグ、ベイファス、そしてミャウを加えた三種族により大別されているらしい。ズィーグがもっとも旺盛な勢力拡張を行っており首位、ベイファスが次位、ミャウが三位。当然のようにズ族とベ族は各所で接触衝突し、ミ族はその間を機会的に行き来するという構図が成り立ち、しかしその紛争に毎回巻き込まれる諸族はたまったものではなく、ズベ対立を牽制する目的で立ち上げられた弱者連合が星連の母体となったモノらしい。そして星連は有力中小諸族を招致し発言力を高め、遂にズベ両族をもオブザーバーとして帰属させるに至った。国連と字面は似ているが全くの別モノだ。実質空気の国連と比べ、所属各族の利害と対立を肯定した上で積極的に調整を図る場としての実務機関として機能させている。”愛”などというおためごかしは一切存在しない。各プレーヤが誠実に全力を以って臨むパワーゲームの盤上だ。

 自由、平等、博愛。なんとまあ空疎な、無力な掛け声であったことか。

 自分たちがそうした環境に取り巻かれていることを示してやりさえすれば。人類だって一晩で一丸に……無理か。

 なるほど。プレーヤとして盤上に駒を持たないものがゲームに参加出来るワケがない。その場に存在しないモノとして無視されるのは寧ろ当然、必然だ。

 翻って我が手を見下ろし、江嶋はとほうにくれる。

 ましてやおれに出来ることなど、何もない、何も。

 奇矯な玩具を手に入れ喜んでいるトカゲ男のその興味を繋ぎ留めることに腐心し、ささやかな地球の男女一番の生活の場を確保していくこと、雄の役目として。

「今の説明の通りです」

 江嶋は昂然と胸を張り、言い切った。

「付け加えることは何もありません」

 江嶋の最前、バイドベインは随分長々と言葉を連ねた。それが江嶋に翻訳されることはなかった。江嶋は最初それを必死に聞き取ろうとしたが直ぐにその努力を放棄した。いい、もういい。

 もちろんここまで江嶋が悩まなかったといえば嘘だ。

 どころかさんざん七転八倒している。

 地球に恩義はないか。

 地球、地球人に。

 地球人?。そんなものどこにいる、いた。

 おれは日本人だ。

 日本政府には恩義はたんとある。生命財産の保障、公共の福祉、就業の保障、エトセトラえとせとらetc。

 だが、DFは。

 おれと佳南を遣い捨てただけだ。

 では、日本を救う為に?。何を。

 まさかやつら、辺境の蛮族の、そのまた下部の部族にまで眼を届かせまい。

 眼に見える地球ですら、そこにないかの如く無視して見せたんだ。

 地球ですら。

 無駄だ。何をしても考えても徒労だ。

 ほんとうか、真実そうなのか。

 ただ諦めただけじゃないのか。

 腹が冷える。それは、憤怒だった。江嶋は自分に驚く。この時までそうしたものとは無縁だと思っていたので。

「議長!」

 気付くと江嶋は叫んでいた。まったく、自分でも意外だった。

「一度でいい。発言の許可を願いたい」

 議場が幽かにさざめく。それを破り江嶋に声が届いた。

「宜しい、私の裁量で認めよう、化外の者よ。但し、簡潔に」

 江嶋は無意識に唇を舐め、口を開く。或いは。この発言に人類の未来が。思考の端を過ぎる影を振り払いつつ。

「まず。この機会を賜った寛大な処置に最大限の感謝を捧げる。真に、有難う」

 一瞬言葉を切り、江嶋は虚空を見据える。広大な議場は向かいまですら肉眼では見果たせない。

「しかし。私は問いたい。貴方方はこれだけの文明を、技術を、力を持ちながら一片の慈悲をも持ち合わせてはいらっしゃらないのか。我々にも悲しみがあり、命がある。一方的に踏み付け」

「その通り」

 突然、議長が遮る。

「我々は貴君等のチキュウを一方的に踏み付けた。その事実は認めよう」

 江嶋は戸惑う。議長の言葉に感情の揺らぎは、下等生物からその矜持に唾された高貴なるものたる感情の揺らぎは、江嶋の戦術の効果は、微塵も確認されなかった。

 内心舌打ちしながら江嶋は口を閉じる。

 絶叫したい。

 小指1本でいい、我々の為に動かしてくれ、くれないか、たのむ。このとおりだ。

「なれば私も問おう、エジマよ。貴君は数億の微生物を踏み付けるとき、何らかの痛痒を感じながら足を動かすかね。いや、”アリ”を誤って踏み殺してしまったとき、彼の生を歪めてしまった非を天に向かって詫びるかね、そうした経験はあるかな」

 ぐにゃり、と足元が歪んだ。いや視界が。

 そこまで隔絶、断絶しているというのか。

 議長の声は続く。

「貴君等”ジンルイ”についての資料も拝見した。一言でいおう、狂気だよ。通例であれば恐怖で自滅するか、それを回避する為の統合圧力に負けるものだ、しかし貴君等は。訂正しよう、通例、ではない、絶無、なのだ、貴君等はこの”狭い”銀渦の中では無二に異端な存在なのだ。それに思い及ばない貴君等の異常さが理解出来るかね」

 江嶋は軽く口を開き、浅い呼吸を繰り返していた。

「改めて、ジンルイを代表して、問おう、エジマよ。貴君等は限定的ながら航宙能力をも獲得し、こうして私と対話する知性も理性もある。しかしその存在はアリ以下に過ぎん。このことを認めるかね」

 江嶋は、無言で頷く。頷くしかなかった。

「我々は、貴君等を救済する価値を認めない。その存在を認知した今、可能であれば抹殺してしまいたい、小指1本でそれは実現する。しかし我々にも慈悲はある。無害である限りに於いて貴君等の存在を容認する。狂気は伝播する、故に早急に処置したいのが本意ではあるのだが、な。貴君の問いに対する回答は以上だがまだ異議があれば受け付けよう。如何かな」


 そんなものはなかった。ありませんよ、ええ。

 江嶋はこの時初めて、産まれて来たことを後悔していた。


「すまなかった。許しは請わないが謝罪申し上げる」

 バイドベインとの再会一番、江嶋は和式に思わずその場で土下座していた。

 それを悠然と見下ろしながらバイドベインは応える「初めてだよ」

 江嶋は怪訝にトカゲ男を見上げる。

「そのまま証言台に立たせたのは、お前が初めてだ」

 ただでさえ怪獣のような面構えのトカゲ男が更に凶悪に顔を歪める。

 江嶋も気付いていた。

 洗脳するなり何なり、ただのスピーカーにしてしまうことは容易だったはずだ。それをしなかった。

「お前を信用したんじゃない、逆だ。信頼はしてたがな。議長もおったまげたろうな、”自由意志”を維持した星連外の証人と対面させられちゃな。効果十分だ。即興にしちゃ良くやってくれた」

 やはりか。やはりバイドベインの策の上で踊らされただけか。或いは一服盛られたかな。

どこが”そのまま”なんだか。

 それとほれ、とバイドベインは背後に首を回す。

「えじま」

 おずおずと、トカゲ男の背後からあどけない表情の少女が顔を出す。

「嫁さんだ」

 か、なん??。

「えじま?」

 わかるのか。おれが?。

「えじまー!!」

 少女は叫び、江嶋に駆け寄る。

 佳南。

 江嶋は身を起こし、抱き止める。

「苦労したほどじゃないが、一部記憶の移植に成功したらしいそうだ、ああ礼は無用だ、奴もこれで10本は論文が書けるって喜んでたからな、そう伝えてくれればだと」

「また、あえたね!」

 泣き笑いの顔で少女は声を上げた。

 ああ。

 悪いことばかりでもない。

 佳南と向き合いながら、江嶋は顔がほころぶのを感じる。

 それを素直に嬉しく思う。今は。


 そういえば。

 江嶋は後に気になり尋ねたことがある。

「あれ、はよかったのか」

「あれ?」

 バイドベインは怪訝な表情を見せた。

「3種族で争った、あれ、実験機」

 合点がいったようだ。

「ああ、あれか」

 平然といった。

「あれで良かったんだ」

 不思議だ。

「良かったって。おれたちに壊されて、か」

 バイドベインは舌肯する。

「ある意味最良の結果だった」

 全く意味が判らない。

「何が、どう?」

 そこで初めて打ち明けられた。

「あれは、失敗作だったんだ」

 江嶋は更に判らなくなったのでそのまま。

「失敗作を、何故、いや知っていたのか?!」

「ああ」

 そして、話した。

「あれのお陰で図の動き方が、その情報が随分取れた」

 そ、そう来るか。

「おまけにこちらの内部でもだいぶ不審な動きが確認された。諜報屋は大喜びだ」

 江嶋は二の句が継げなかった。

 そんなことに、地球は巻き込まれていたのか。

 バイドベインは止めを刺す。

「あれはな、一時的に標準現行機の約20倍の出力と5倍の速度を叩きだす。だが、あくまで瞬間最大出力、速度、だ。巡航に耐えられん。それでも安ければまだ使いどころがあるがバカ高い。競技にちょっと使えるくらいかな、だが軍の蛮用には到底ついていけん。図が恐れたのは技術の流出じゃない、逆だ。こんな下らんものを作ってしまった事実そのものを隠蔽したかったんだ、恐らく。捕獲出来んで良かったんだ。成功してたらこっちの得点が高く付き過ぎるところだった。ま、表立って手抜きも出来んし。ああ助かった、礼を言う……まだだったな」


9.


 佳南は少し柔らかくなった。

 以前の彼女には正直、美という純度イレブン・ナインの結晶を精密作業で削り出した彫像の様な、一種近寄り難い、触れるものを引き裂かずにはおかないような危うさが可憐さと並存していたが、今の彼女にはそうした、光強ければ闇また深しという一種妖しい陰影はかけらもない。

 眺めていると。

「?なあに」

 不思議そうな表情で問う。

「ああ、いや。かわいいなと思って」

「きゃ、やだ」

 恥ずかしげに顔を染め俯くさまは、ほんとうにふつうだ。

 江嶋は安堵する。そして問いかけてみる。これで良かったんだよな、佳南。今はいない彼女たちへ向けて。

 そして江嶋は就業した。

 バイドベインの立場と口ぶりから、いきなりどっかの最前線にでも送られるのかと、それならそれで止む負えないと覚悟していたらデスクワーカだった。

 これには江嶋も拍子抜けした。いや助かったが。

 『いますぐ戦るか』という身も蓋もない名称がバイドベインが長を務める一方の組織、警備保障会社の社名だった。独自の艦隊さえ保有する、傭兵会社といえばそう、バイドベインの私兵といえばそれも正しくそう。そこでの資料係りに江嶋は配属され、勤務することになった。役職は主任。部下、ミャウ族出身の作業補助員も一人付けられた。因みにミャウ族というのはネコミミ族だにゃん。ネコ系の哺乳類が知性を獲得し発達した一族である。語尾に”にゃん”は当然付かないざんねん(ざんねん?)。

 職務は情報をひたすら収集すること。何のスキルもコネも権限もないので当然ソースは公開情報、但しもちろん安全保障に関連するコトを。評価も分析も解析もなし。それはまた別の部署が行う。右へ左へがんがん投げ飛ばすだけだ。休まず遅れず定型業務を時間内だけこなし定時で退勤。そんなある種平穏な日常が続き、二人ともそれを喜んだ。が。

 江嶋は直ぐにその意味に気付いた。学習させられているのだと。これは一種のOJTだ。日々の業務に没頭する中、彼の中で次第に銀渦の趨勢が、そこでのベイファスの位置が始め朧げに、そして克明に把握されるようになっていった。

 必然的にその日は来た。

 江嶋はいつものように定時に出勤し朝の挨拶を交わし、漫然と情報をスクラップしていて、手が止まった。漫然と。もう無意識の内に目の前にある情報の断片とベイファス領の最新情勢をリンケージさせ重み付けする、一連のプロセスが彼の内に組みあがってしまっていた。

 だから気付いた。気付いてしまった。

 これは越権なんじゃないかと思いつつ手は勝手に動く。打ち上げた文書をバイドベインへの信書扱いで送付していた。効果は即現れた。

 主任、社長がお呼びです。回線お回してして宜しいですか。

 部下が呼び掛ける。

 返事を待たずにバイドベインは江嶋を回線に引っ張り込んで来た。仮想会議回線だ。

「よく書けてる。よく見たな」

 前略後略。いつもこれ、いきなりだった。

「どうも」

 江嶋が答えるのを待たずに。

「で、これを”どう”するつもりだ」

 どうするって。それを決めるのはお前さんだろ。と顔には出さず仰せのままに待ち受けていると。

「正規のラインはちょっと野暮用で塞がってる。」

 僅かな苛立ちを含んでバイドベインが告げる。

「そうですか」

 平然と応じてみせる。

「気付いたのはお前だ。今はお前がこの件の主務者だ、判るな」

 頷く代わりに江嶋は短い舌だが出し入れしてみせる。

「行ってくれんかな」

 バイドベインの問いに江嶋は怪訝気に答える。

「くれんかな?行け!の間違いだろ?」

 バイドベインは顔を歪める。江嶋もこれだけの付き合いなので、にやりと笑った、のが理解出来た。

「いいぞいいぞ。そうだ命令だ、行ってこい、今これからだ。結果が出るまで戻らんでいい報告も不要だ。ああ、チチュカミを連れて行け」今の部下を随伴していいという。

 江嶋は素直に受け取った。彼の優秀さは既に存分、目の当たりにしている。

 軍の艦籍簿からはとおい昔に除籍され、艦名もなく識別符号のみの、元、教導宙雷艦(この宙雷という兵装からして既に過去の遺物だ)俗称、「逃げ足と耳だけご立派」で本当にその場から出張になった。

 ベイファス。それはフィクションにいう銀河帝国でありまた連邦、でもある。

 伝家の宝刀一振り以外の実権は無いが皇帝を頭上に戴き、領有する版図は3億六千万の星系。だが各地の自立性向が強く、制度としては緩やかな連邦制を敷く。

 そして単一種族でもない。

 自らその強大な庇護を求め幕下に赴いてきた者、拡大の途上で踏みつけた者、他族から寝返らせた者。あれやこれやで現在、その純血種は過半を割り込む。

「到着まで半月ほどですね」

 ナビに着くチチュカミが告げる。

「そうか。じゃその間精査しよう」

 一時的に付与された管理権限により閲覧可能になった上位情報を加え、更に検討を進める。導かれるものはやはり芳しくない。

 到着したのは銀渦腕末端の一つ。中期進出部。ベイファスの”脆い爪先”に当たる領域の一部だ。

「では始めようか」

 ”表”の駐在部にも存在を秘匿しつつそのまま作業を開始する。

 希望的な観測は外れ、悲観的な推定は的中する、ものだ世の中。

 この一角は正に”拡大の途上で踏み付けた”典型例といっていい場所だった。

 これから星間に雄飛せんと希望に輝いていたその種族を無造作に頭の上から土足で踏み付けにした、からといってそれが即、搾取であるとかそういうネガティヴな意味に直結するわけではもちろん、ない。地球の歴史でいう植民地経営の維持費破綻に例を引くまでもなく、恒星間植民地経営などその字面からして既に自己矛盾を孕んでいるようなものだし、収奪したにせよ星の海を渡って分捕り品を持ち返ったらやはりそれだけでコスト割れである。どこで採っても鉄は鉄、炭素は炭素、ならコストは当然低減すべし。航宙なんぞは軍隊(含む学者)と移民だけに任せておけばよく、生産産業活動は現地に限る!これ宇宙の鉄則である。航宙交易なぞうそっぱち物語構造が都合必要した法螺に過ぎない。因みに金融もない、というより貨幣経済自体が消失している。冷厳たるエネルギー収支の前に共同幻想など何の役にも立たない唯の記号でしかないからだ。

 話が逸れた。

 そういうわけでベイファスも逆に、「必要最低限の福祉の提供保障受諾による服属か、死か」の選びようがない二者択一を突き付けて円満に併合、領有を果たした。

 必要最低限の福祉というのは当然、知的存在が社会的存在として満足される保証、つまり最低限の衣食住の無償供与の保障である。知的存在がその知、故にこそ明日を知りその飢えるを恐怖する今日を生きるが為に組織した社会及び各種構造、その存在理由にして目的である食、及び社会存在を裏付けする住、そして文化を添える衣。これを無条件無制限に担保するというのだから訝しがって当然だが、いやならこのまま轢き潰して更地にして入植するよそっちの方がこっちも面倒無いんだけどどうする、と訊かれれば首肯するしかない。そして当然、契約は履行された。つまりベイファス入植者が当地に確保した生産能力の譲渡により現地政府の福祉提供能力を補完、当地の社会不安を一気に解消したのだ。

 ベイファスの、否、ベイファスに代表される様な千万規模の版図を領有する大規模種族の大前提として、そのエネルギー収支は常に巨額な余剰を維持する黒字経営である。でなければ安定まで膨大な蕩尽を必要とする星間入植の継続維持なぞ到底不可能である。未開種族にちょっと”エサをやる”くらいは出来て平然、自治体の定型業務以下の仕事だ。

 最早そこには当初の猜疑も対立構造もその要因も消失したかに見えた。初期では。

 好事魔多し。最初の火の手が上がるまで結局1年保たなかった。

 奴隷の幸福という言葉はあるが、乞食の幸福という言葉は存在しない。

 もちろんベイファスも昨日の今日ではない。さりげなく、無償供与の形にならない様に労務も要請していたし、自助促進の技術移転も推進していた。

 それでも反乱は起こる、何故か。

 もちろん、外部からの介入だ。

 矜持を囁き自尊をくすぐる。種族自決という甘い媚薬だ。

 腕端宙域は一見、銀渦の最辺境の様であり安全な後方であるかに見え事実一面そうであるのだが、同時に最外縁でもありつまり容易に出入りが可能な、護るに難く攻めるに易い一角だ。しかしくどいが辺境は辺境、こんな片田舎に軍事タワーを積み上げたとて兵站はどうする、自重で自壊するは必然、どうしても手薄になる「脆い爪先」の由縁である。だが条件は平等。ガチンコ正面決戦勃発の際の奇襲突破口にするとでもいうならともかく。かくして平時は寝返り寝返らせる不安定化工作謀略合戦の舞台になる。現地民には全くいい面の皮だが。けしかける側はどうでもいい。成功したらおめでとう、公認は任せろ。燻っているだけで、ベイファスの銀央への注意をいくらかでも削げればそれだけでも成功なのだ。そんなこんなであっというまに領内有数の不穏情勢地帯となりおおせた。なら放っとけばよかった?敵に、ズィーグにでもツバを付けられた日には煩わしさ1千万倍である。それは、出来ない。

 そして今、江嶋は現地に居た。

 周辺を廻り調査を続けながらここに辿り着いた。調査、といっても特に何をしたものでもない。ただ軌道上に居座ったまま下界に向け「虫」を撒いただけだ。それが上げてくる情報の奔流に少しばかり、ほんの1週ほど不眠不休でつきあっただけ、である。

 不眠不休といっても休息は取った。主人格が眠る間、就業と同時に実装され今まで使う機会も無かった代理人格が覚醒し業務を継続する。二つの意識にでも体は一つ、流石に疲れたはしたが。

 「虫」は自己増殖を繰り返しながら貪欲に情報を喰らい、精力的に発信する、存在する情報経路に従って拡散する。まず公開情報にもある、それ自体は何の意味も持たない”表”の顔が浮かび上がってくる。通勤、通学する固体数、生産され消費されるエネルギー。産業構造規模。それをてきとうにフィルタリングしている内にもう一つの、あってはならないはずのしかし実相が顕現する。

 目の前でリスト化されていくそれを眺めつつ、江嶋は溜息を漏らす、むしろ自身のオペレーションを目の当たりにすることで。実際敵わんよな、なんでこいつら性懲りも無く反乱を続けるんだ?。

 判読出来ない固有名詞の群れ。表で有名なもの、高位にあるもの無名のものが等しく混在。命令系統、細胞。そして夥しい数量が示される何かの存在、それらと彼らの定期的なマッチング。

 きっかけは偶然といえば偶然だった。ズィーグ側のステートメント。ベイファスの存在を銀渦の安寧を乱す根源悪といつもの様に断じてみせた後、自己防衛を目的とした大規模軍事演習の開催を通告、そのついで、というように現地の意向を圧殺する悪しき統治の場の具体例の一つとしてこの地が挙げられていたのだ。

 そしてここ最近2、3年は手放しで喜んでいいほどの安定、鎮静を示していた。諸外種族の執拗な干渉を撥ね退け、永年の融和と対話の路線が遂に結実したのだ、現地産業も堅調、活性化……。

 活性化。にしては微妙に低くないのかこれは。親善も温情も排した、特に第三者的元地球人の目にデータはそう映った。頭数成長は良好、産業成長も。であるなら本来得られるべき種族総生産期待量を微妙に下回る現在の実勢は何なのか。無いものが、其処には在る。説明がつかない欠損が。

 テロだデモだ抵抗運動だが日常であったのが、この平穏を獲得したのであるから評価が甘くなるのは避けられないだろうそれは判る。だが、事実は異なる。

「真っ黒だな」

 ぼそりと呟いた江嶋に。

「そうですね」

 チチュカミも疲れた声で同意する。実際疲れているはずだ。

 別に手柄を、スタンドプレーを望んだわけではない。ただ見えてしまった疑問をストレートに投げてみただけだ。嵐の前の静けさ、暴挙の前の静穏。そんなもの歴史でも、現実にも江嶋はイヤになるほど見てきた知り尽くしている。実際、ベイファスでも少し余裕があればその内誰かがこの戦争を目的とする”偽りの平和”に気付いていただろう。だが主力のそれは、この件に関してはまるでそれこそが囮であるとでもいうようなズィーグが公表した大規模軍事演習にリソースを奪われてしまっていた。これは当然だ。演習を口実に始められた戦争などそれこそ……ここでもそれは普遍であるに違いない。

 朝鮮、ベトナム、アフガン、中東、そして全世界で。見た、聞いたもの。同じだ、こいつらは大種のコマだ。それが判らないのか。それを知っているのか、知ってなお戦って得たいものがあるというのか。

 江嶋は心底うんざりした。てんしょくしてー。

 だが同時に、バイドベインに見込まれた自分の才も自覚せざる負えなかった。何とも非建設的なと自嘲しつつ。嗅覚はあるのかもしれん、あと悪運も。

 計六個の星系が同一の指揮系統に従い画策している大規模同時武装一斉蜂起。

 このレポの結果がどう処理されるのか。首謀者を暗殺して廻るのかそれこそかつてのバイドベンの艦隊の様に緊急派遣して奇襲、正面から戦意を挫くのか。どうするのかしらん、しらんがもうこの件には関わりたくない。

 だから出来心だった。

「あれさームカつくよなー。ウザいし」

 江嶋は戦術戦闘情報面を指して口を歪める。

「やっちゃいますか」

 チチュカミも平板な調子で応える。

 アレ。付かず離れず追尾してくるスターダストに偽装した所属不明の航宙艦。どこから見ても直径1kに満たないそこらを漂っている微小粉塵なのだが、それが偽装であること、自然物には有り得ない情報特性を持つ物体であることを「足耳」は看破していた。

「能動探査出力最大投射」

 並みの船ならそれだけで情報破壊を免れないような大出力アクティブ・センシングを受けた対象は平然と、そして忽然と消失する。

 要対処至急、任務終了の一報を打電したのみで、江嶋は帰還軌道に乗った。

「50点」

 バイドベインは評点する。

「最後のはマナー違反だ。ま、気持ちは判る」

 そこまで無表情に評すると珍しく満足気な、やわらかい笑顔を見せる。

「よくやった。帰って休め、家族に顔を見せてやれ」

 家族?。

 ああ、確かに。ここ最近平穏な夫婦生活を送っていただけに、佳南の顔が懐かしい、その笑顔が待ち遠しい自分に江嶋は久しぶりに気付く。

 社宅は中層階にある。あまり地面から離れるのを厭うベイファスの習性から高層建造といっても100階は越えないがそれでも居住区の有効活用として課せられた最低限積層で、高層部はまた別の需要はあるがだもんで中層階は一番人気が無く、大抵社宅として賃貸されている。

 52階。ベランダからの眺望は十分だと江嶋は思う。

 その眼下に瞬く、適度に輝く各々の生活の灯を眺めながら。

「夢みたい」

 佳南が囁いた。

「あなたとこうして、毎日過ごしているなんて」

 地球をとおく離れて二人、だけどな。江嶋は僅かに苦笑。

「そんなのどうでもいいわ」

 隣の胸に顔を埋める。

「こうしていられるだけで、しあわせ……」

 江嶋も抱き直し応える。

「おれもだよ」

 地球の番二匹は、そうしてしばらく異界の、今は近所の夜景を陶然と眺め遣っていた。

 帰宅し、江嶋はほんのりとした違和感を覚える。

 ただいまー。すまん、随分遅くなった。

 お帰りなさい、あなた。

 佳南が少し目を潤ませて迎えた。何かを両脇に抱えて。

 ほら、お父さんよ。

 おかえい

 なちゃい

 交互に発声する。


 ……えーと、なに?。


 二卵性双生児。二児の父親だった。


10.


 航宙の感覚では1月ちょいだが、そうか、地上では約2年の時間が流れていたのか、それも1日32時間の星の。

 現代ではとうぜんの流れというか、子作りは人工子宮の体外受胎だ。だが佳南は古式に拘った、自分の腹を痛めて産みたい、と。

 随分説得もしたがそれでもいつものように、さすがに危ぶみながらも最終的に江嶋は佳南の意思を尊重するしかなかったのだったが、良かった、無事出産したらしい。てかいつ止まったんだ。いつの間に。まあいいか(いいのか)母子これ健在で。

 江嶋の目に佳南は変わらず可愛く愛らしいが、否微細な丸みを帯びてより美しく輝いて見えたがそれはそれとして別に、強い母の表情を時折、垣間見せるようになっていた。そうか、うんうん。

「あしたはふつうに退勤出来るの?」

 4人で食卓を囲みながら。もう食事が出来るのか。ベイファス式の強健教育の成果なのか。内心驚き感心しつつ。

「わからん。バイドの胸先三寸だこればかりはな。今回もなー……」

「まあお世話になってるからしょーがないけどねー」

「お世話さまー。まあなー」

 一気にみょーに所帯じみた会話になった。

 お世話になってる。真に確かに。何しろ命の恩人で今は家族ぐるみで面倒見て貰ってるもんな、労務提供してるけどさ。

 地球人たちが無心に家族団欒を過ごすその傍らで江嶋の声望は密かに、破格に高まっていた。

 スタマツェ地方でまた大規模反乱準備が進行してたって、鎮撫に成功してたんじゃないのかいつの間に?!またズィーグかいやトルルカ経由らしい、バックはそりゃズの字だがな。未然に防いだって?どこの誰が?エズマってあの頭領のおもちゃがか??しかも部下一人「足耳」1艦でってマジかよおい!!。

 バイドが田舎で拾ってきたお気に入りのおもちゃ。それが江嶋への評価だった。

 それが一晩で、「頭領の隠し牙」に変わった。蛮族恐るべしのやっかみもまだ含まれてはいたものの。

 頃や佳し。

 翌朝出勤した江嶋を待っていたのは転属通知だった。

「情報第五課?」

 短い間でしたがお世話になりました、いやこちらこそ。

 その足で人事に行くと。

 情報五?ああ新設部署ですね。

 新設だぁ。ますますわけわかめ。

 わかめのまま仕方なし案内通りに移動すると。

 先の職場の2倍くらいの敷地のがらんとした部屋に大きめのデスクが二つ。それと。

「来たな。お前は課長、課員は1頭だ」

 またバイドベインが謎の笑みを浮かべて突っ立ているがそれはともかく。

「これは何の冗談だ」

 江嶋は固い声を出す。

 宜しく御願いします、ぺこりと頭を下げたのは。

「佳南」

「審査はした。優秀だぞお前の嫁さん、おれが欲しいくらいだ。ま、これ以上航行時差が付いても困るだろうし、いいんじゃないか」

 なんか、うまく表現できないが物凄くハメられた気分全開。

 目の前のバイドを無視して江嶋は佳南に食って掛かる。

「子供は!」

「預けてあるわ」

「今が一番大事な時期なんじゃないのか?!」

 だが佳南は強い意志を宿らせた瞳で敢然と受け止め、口を開く。

「ねえあなた。あの子達、二人きりでも立派に生きて行けるように育ててあげなきゃ。今この瞬間からでも。愛情はもうたっぷり注いだから。あの子達に今必要なのは」

 穏やかな口調だったが脳天を強打された衝撃を江嶋は味わった。

 それでか。この地での最強最上の教育を与える為にか。

 バイドに相談したのか。確かにおれは反対しただろうな。

 ぱんぱんとバイドが手を鳴らす。

「さて、家族会議がすんだら仕事の話をしたいんだが宜しいかなご両人」

 ああその通りだ。

 が、

 業務内容を聞いた江嶋は腰が抜けたと思った。

 要約するとバイドベインと同格の権限代行を任された副社長。

 それも、単に社長を補佐するという役柄ではなく社長と別の視点に立ってベイファスを、全社を見渡せ、と。そして然るべく必要な働きをせよ、と。

 全幅の信用と信頼が無ければ出来ない”蛮行”だが。

 勝ち得たというのか。いつの間に。いやそもそんなこと許されるのか。総ての前任を飛び越えたパラシュート人事などが。

「おれの一存だ、問題ない。人事も前向きに承認した」

 げははとバイドは高笑い。収めて。

「お前には欲がない。いい意味でな」

 バイドは江嶋に向け脳内成績表を読み上げはじめた。

「しかし能力がある。そして忠義。それもただの茶坊主じゃない、”使える”比類なき忠義をだ」

 忠義、ねえ。証言台で叩き潰されてからこっち、自分たちの最上幸福最大利益を常に追求して来てはいたが。

「ああそれでいいんだ。それは私利を貪ることじゃない、そうだろ」

 ナンセンスだ。4人で食えればそれ以上は要らない。

「権勢を笠におれの目を盗んで専横を振るう、なんてのも微塵もないわな」

 だから、それに何の意味がある。アホな質問は止めてくれ。おれは悪代官か。

「大変結構。じゃ今日から頼むぞ」

 ちょっと待て。

「具体的にその、何をすればいいんだ?!」

 バイドはそのとき初めて真顔で。おいおい。

「おれと同じ権限を与えるんだぞ。そんなの少し考えりゃ判るだろ?」

 むー。そーくるかー。

 じゃ、宜しくなー。尾を左右に悠然と振りながらバイド、退場。

 宜しくって。つまりまたOJTか。

 佳南と二人、思わず顔を見合わせ力なく笑いあう。

「あーじゃー、取り敢えずデスクのセットアップから行くかー。垢はあるの?」

「はい、バイドベイン氏と同格の情報関与権限を持つ認証鍵が、課長と私、2件発行済みで既に使用可能な状態にあります」

 有能な、というより怜悧な秘書の態度で佳南が応答する。その様を見て江嶋は認識を改めた。そうだ、一時ではあったが彼の直属上官だった彼女だ。バイドの言葉にも嘘は無さそうだ。

「宜しい伊射野君。では我々の職務を果たすとしようか」

 応じて江嶋はつまらないことに気付く。そうか、おれら夫婦別姓だったな。こうなるとこれは便利だ。

 ……

 ………

 …………

 か、佳南!ちょっとタンマ!!。

 悲鳴を上げながら江嶋は蒼褪める。まずい、これじゃ主夫業行きだぞ。

 そうはならなかった。

 江嶋を立てるとかそういうことで無しに、それが彼女の本質でもあるらしかった。必要な情報はてきぱきと整える、請われれば短期的な見解や意見も口にはする。しかし決断は総て江嶋に任せる。自然と司令官と参謀の役割分担が出来上がっていた。

「えー昨日のアレまだ未決なのー?」

「えーあー。ごめん」

 参謀に尻を叩かれひーこら這いずるコマンダーではあるが。

 語学は日本語と英語とベイファス語と、あと星連共通語。

 すっかり教育ママになった佳南が組んだカリキュラムに異存はない江嶋だったが、前々からの疑念が再発した。

 日本語。

 何故だ、何故ベイファスに日本語が存在する。

 データベースも不要なくらい自動翻訳が高度に発達しているというのか。いや。

 再び江嶋の表面意識に浮き上がったこの懐疑は収まるどころか膨らみ続け、ある日の休息時間中、遂に堪え切れず彼は与えられた権限を始めて私用で行使した。

 あっけないほどあっさりとそれは見つかった。ベイファスと、辺境未開部族”ニホン”との交信記録。

 否、ベイファスと、ではなくベイファスが放った情報収集、というより更に攻撃的な、未知の脅威を見つけ出し事前の叩くことが目的のその早期警戒網を構築する探査機の1機が、日本が送り出した探査機と接触したのだ。火星を見るひとみ、だか日本人の願いを載せたのぞみ、だかそんなんだったと思う。何しろ産まれる前のことだししかも失敗だし、記憶は怪しい。表では失敗扱いで予算を打ち切られたそうした宇宙ゴミの継続監視の委託もDFは引き受けていた。ああ”ノゾミ”とある。この火星に辿り着けなかった失敗衛星を通じてDFは地球外知性とコンタクトを果たした、のか。

 つまり。と江嶋は背筋が寒くなる。DFはベイファスを知っていた。乙号だってそうだ、何をどうしてあんなハイパーテクノロジーが信州の山奥に実在出来るというんだ。そうなると、今回の事態を相当の精度で把握していた可能性がある。

 おれが今ここでこうしていることを含めて。

 相庭二佐の無表情な顔が脳裏に蘇り、それが薄く、笑う。江嶋は激しく頭を振りそれを追い出す。二佐。俺たちはどこまであんたの掌で踊らされているんだ。

 二人が討議し当初指針として定めたのは、「各部の痒いトコロを掻いて回ってあげる係」だった。その中でも最初に手を付けたのが適材適所、というよりマンパワー配分の再確認と適宜の再配置による最適化だった。

 無能という理由でなしにタスクの不均衡により組織内失業が発生するのはスケールデメリット、巨大組織の宿痾といえる。タスクフォース制等のフレキシブルでフラットなマネジメントを極力努力すればある程度の回避は期待出来るがしかし、傭兵会社にはあまりそぐわない。組織の性格上、どうしても正規軍のそれの官僚性向と同様の形質を帯びてしまう。こっちで遊んでいるのをそっちへ投入する、だけでも全体効率は格段に向上する。

 もちろん人事の頭越しの強権発動”などではなく”さり気無い意見としてそっと耳に忍ばせる形を取りながらどこの顔も潰すことなく(ここ重要)円満に、進める。そうしているとやがて現場から有用な情報が上がってくるのでそれに従いまた廻していく。この好循環が一度生まれたらもう仕事は片付いたようなもので、あとは制度に書き加え必要書面を整えてやれば定型化する。

 一見、人事を二系統に増やす業務の自己増殖のようだが、暇だ、仕事くれ、という声を徴収し還元することに特化した新制度であるので最終窓口を人事に一本化することさえ徹底すればむしろ全体での負荷は低減する。もうあらかた済んだし。

 次に着手するのは当然コストダウン……。

 違った。

「すまんな、もう一度行ってくれるか」

 呼び出したバイドベインは珍しく不機嫌を隠さない。

 実空間での対面だ。

「スタマツェか。なんか泥沼化してるようだが」

「ああ、その通りだ」

 投げ出すように言う。

「で。行って何をすれば宜しいので」

「増援部隊の指揮、そして現地での継続指揮だ。お前に任せる」

 今度こそ江嶋は絶句した。

「……正気か。実戦経験皆無だぞ」

「知っている」

 バイドベインも向き直る。

「戦争屋ではもう収まらん、根切りにするしか出来ん。硬軟使い分けられる甘ちゃんで丁度いいんだ、今必要なのはそういうやつなんだ、お前のような、な」

 まずい、このままだといつものように押し切られる。

「程度問題って気もするが。そも既に傭兵で火消し出来る段階じゃないだろ、正規軍は」

「地方軍はもう出てる、知ってると思うが」

 ぴしゃりとバイドベインは抑える。

「地方軍じゃなおさらだ。ここは中央の特殊」

「中央は動けん」

「何だ。戦争準備でもしてるのか」

 バイドベインは僅かに、眼を開いた。そして素早く手を動かす。

<なんでもいい、口を動かせ>

 手元の電化紙にいきなり書きなぐった。

 えーあー。

 江嶋は白みかける頭と言語中枢を切り離し必死で言葉を続けた。

<よし。これは最高機密だ。洩らしたら殺す>

 いりません。

<図との秘密交渉が今協議中だ。大筋はもう固まった。***を分割占領する>

 達筆すぎて一番重要な箇所を読み落とす、はともかく。

 江嶋の中で一瞬、総てが止まった。

 仇敵じゃないのか。いやそれこそ愚問か

 結局江嶋が判読出来ないままバイドは上書き、イメージ入力処理されている先の文章はそのまま消去される。

<しかし決裂の可能性もまだある。だとそのまま図と戦るかもしれん>

 呼吸が浅くなる。

 銀河大戦勃発かよ、勘弁してくれもう。

<中央は動かんし動けん、以上理解したか>

 作法を忘れ思わず二度、三度頷く。

<白紙委任だ。遣り方は任す。始末を付けて戻れ。なるべく早くだ>

 バイドベインは顔を上げ、低い声で発した。

「判ったな。よし行け」

 バイドベインが自分を一見、要職に就け使い倒す意味を今なら江嶋は正しく認識出来ていた。

 いつでも使い捨てに出来るから。それだけだ。

 だから必死に働く。なんとか結果を残す。そしたらまた使われる。

 面クリ型のキャンペーンゲーム、いやフルコミの営業そのままだ。江嶋は一人苦笑。

「……なにが可笑しいの」

 佳南の少し尖った声に。

「あ、ごめん。思い出し笑い」

 素直に詫びる。確かに笑う場面ではない。

 航宙はオートナビに任せ二人で現地の状況を読み込んでいる最中だ。

 もちろん江嶋は黙って独り出撃するつもりだったが時既に遅し、業務命令は佳南にも届いていた。

 ぜったい置いてくゼッタイ付いてくえーい勝手にしろくそ。

 結局拒否できるわけが無いのを知りつつ、つい無駄な抵抗を重ねてしまう自分が少し可愛いく、かなり惨め。

 その後の経緯を追ううちに江嶋は頭痛がしてきた。なんだよこれ。

 中央軍からの作戦指示を受けたスタマツェを管区に持つセルヴ州は軍を動員、直ちにこれを差し向けた。セルヴ軍は抵抗皆無の内に各星軌道を制圧。江嶋が上げたレポに基づき幹部を実名で読み上げた上で生命財産の保障を掲げた寛大なる降伏勧告を通達、これを受けて革命指導部は機、在らずとの見解で一致、投降条件協議の交渉の場についた。ここまでは極めてGJな流れ。

 問題はその後だった。

 事前交渉が行われるウラでセルヴ軍は革命指導部拠点を襲撃、居合わせた全頭の拘束に加えその内、表で実業家の顔を持つ者、資産家等を3頭選びその場で処刑したばかりか彼らの遺産を”保護”の名目で接収する。革命指導部残余はこの協定違反を強く非難する声明を発しそのまま潜伏、だが実働部隊には報復禁止を厳命しなんとか抑え込むことに成功していた。しかしながら末端まで統御仕切れるものではない。細胞化が進められていた民兵組織が怒りに任せて徹底抗戦を呼号し蜂起、民衆が続々とこれに続き穏健派と強硬派、それにセルヴ軍を交えた三つ巴の抗争があっという間に炎上した。

 あほか。

 一言言い捨て投げ出せるならそうしたい江嶋だが、事態解決の指揮命令権者として飛ばされていく以上逃げも隠れもできない。

 情報を漁るほどに悪い材料しか増えてこない。

 どうすべぇよ。

 適正を無視して無理遣いを続けてきたツケが回ったな。バイドの旦那、今回は流石にしくじりなんじゃねぇのこれ。

 他人事のように評する江嶋だった。

「スタマツェ派遣軍参謀本部を預かりますツージン少長と申します、宜しく願います」

 如何にもキレそうな若いベイファスが出迎える。

「中央軍から委託されて来た、エジマだ。宜しく頼む」

 軽く答礼するとツージンは怪訝な顔を見せる。

「中央からの援軍と伺っているのですが、その」

 オレがそうだとモーデルごっこをしたいところだがぐっと我慢し。

「援軍はない。貴官も承知と思うが現今のズィーグの動静に鑑み即応態勢を動かせん。現有戦力で事態の解決に尽力すべしとの厳命だ」

 因みに乗り付けた艦はまた「足耳」。機動力での選定でもあるがつまり気楽なのだ、バイドが自分を遣うように。

 持ち付けないモノを手にすると大抵破れを招く。バイドの承認もあり、両用部隊を含め戦隊ぐらいの戦力投入であれば許可されているが江嶋は結局、見送った。手元にあれば使いたくなる、その誘惑に打ち勝つ自信はない、つまりは小心者ということかと自嘲。

「現刻を以って全軍の指揮権を預かる。貴官らには苦労を掛けた。司令は仮眠中だな、後に改めてご挨拶申し上げよう。少長殿、現在までの経緯と最新情勢について御教示願えれば有難いのだが」

 命じつつ、江嶋はいやーな予感を覚えていた。

 そして見事に的中した。

 おまえか、おまえのおまえがこのくそ。

 しね。

 臨機に敵の虚を突き、襲撃を成功させた判断の的確さと決断の素早さ、司令を説き伏せた交渉能力を滔々と解説する。

 そうか、おまえはその一存でベイファスの名で約した生命財産保障の協定を、威信と信義をドブに捨てたわけかい。

 更に幹部処刑に及び、江嶋はせいぜいマヌケ面で敢えて聞く。

「後学の為に確認したいが、その根拠は」

 ツージンは白けた、あからさまな侮蔑さえその眼に浮かべ、応える。

「敵の策源を断つは兵理の初等かと小官は心得ますが」

 感心しつつ、江嶋は腹の底で虚ろに笑う。

 敵、敵、敵。

 その初手から間違いなんだよ少長殿。

 元来敵対関係にあるものを如何に融和し丸めこみ同化させるか。これが軍政の要諦だ。

 我も臣民、彼も臣民、敵だと。どこに居るんだそれは。

 策源の破壊か。大いに結構。

 だが、一握りのブルジョワが動かす資産と、この星全土の生産力と、どちらが大きいか判別出来んほどの愚物には見えんのだが貴官はどうなんだ。その結果を予測出来なかったのか。

 否。

 そもそもこれは、敵を掃滅する軍事作戦、ではなく。

 住民の不満が醸成した事案を解消する行政業務だったのだよ、軍事力を利用した。

 士官学校では教えられなかったか。残念だが教本にもないな。なればそれこそ、自ら状況を踏まえ、臨機に判断し決断すべき作戦目的だったのだ。

 この初手を見誤ったのが貴官の不幸だ。いや幸運だったのかな、ツージン少長殿。

 総てに劣る下等種を一方的に狩る極上の遊戯は存分に堪能されたかな。

 だが、誠に申し訳ないが、遊びの時間は終わりだ。

 臣民としての仕事をして貰う。

「宜しい。概略は把握出来たと思う。」

 腸が焼け爛れそうな情動を表に出さぬよう、出来ればこの場でこの表現自粛野郎をどうにかしてしまうしてしまいたい衝動を抑える為に、江嶋は言葉を使った。

 この上に敵要衝に軌道爆撃を敢行した、だと。

 司令が寝込むのも無理はない。だが地方官僚上がりの据え物にこの”秀才”参謀相手で何が出来るわけもないなくそ。中央進出への箔付けが欲しかったか。余計なことを。

 軌道爆撃。それが必要なら誰が両用部隊など投入するものか。

 無制限攻撃でとっくに更地にしてるわあほお。

 するか。江嶋はよろめく。それも一つの解決手段だ。

 まてまてまて。

 もちつけ、おれ。

 江嶋は言葉を続けた。

「貴官が今日まで最善を尽くしてきた事を今、私も知った」

 平然としてツージンは舌肯しつつ当然の判断としての、引き続き権限移譲されるべき瞬間を待つ。彼は正しい、今もそれを確信しており実際、事実でもあった。唯一戦略的に、政治的に致命的な迄の欠落が、そしてそれが欠落であるが故に自覚がない事を別にすれば。しかもまたそれは元来彼に求められるべき素養ではなく、指揮官の判断にこそ委ねられるべき性質の要素であるからだ。ここでもまた不幸な偶然の連鎖が不幸な現実を拡大生産している。

 次に江嶋の口から出た音声は、ツージンの栄光に満ちた頭生に在り得ない衝撃と、僅かな瑕疵を与えた。

「だが大変申し訳ないが、私は満足出来ない」

 何を言い出したんだこの尾無は。中央から来た茶坊主は。

 ツージンをして全く理解も想像も出来ない事態が起ころうとしていた。


11.


「へ、へへ、お、おれさ」

 少し足りなさそうな兵が大事そうに立写を撫でながら言う。

「いきなりひ、引っ張られてきたけど、で、でも」

 立写を指差しながら。

「か、帰ったらけ」

 ばかこんなとこでフラグ立てるな、は、旗がなんだ。

 ぱしゃ。

 突如血反吐を吐きながら声も上げずに兵が倒れていく。

 銃声はない、マズルフラッシュも。

 狙撃か。

 いんかみん、めでぃっく、めーでぃく。

 ぱしゃ。

 肉眼でもセンサでも捉えきれない距離を置き彼は存在した。かるく二百は数える現地の老頭だ。テッティ。その前身は亀、であるらしいが陸上進出がその契機と推察されるものの、知性獲得の詳しい経緯はまだよく判らない。恐らくはいつもの、神の気紛れな一撃というやつなのだろうが。その姿はその、所謂、トレードマークのあたまのお皿が欠け落ちた河童、が一番近いだろうか。但し毛髪を含め体毛はない。そして背の甲羅はずいぶん小さく退化している。しかし近親憎悪かベイファスは彼らを被りビビりと呼びテッティも負けず裸族蛮族と遣り返す。

 実際の彼らは名を成す傭兵も多い勇猛な種族だ。頑健な身体能力はベイファスをも上回る。しかし体長は平均して1mを越えない。頭身も4、5程度の寸詰まりのユーモラスなもので、その外観は何かと誤解の種でもある。

 老頭は狙撃銃と一体化した照準筒を片目で睨みながらゆっくり少しずつ銃身を動かし、次の標的を求めた。

 そして銃を静かに降ろす。視界内は狩り尽くしたようだった。

 その黒に近い蒼色の狙撃銃から、蒼槍の狩頭の二つ名を持つ彼だった。前の紛争で100殺目くらいを過ぎた、ちょうど数えるのを止めた頃からそう呼ばれ始めた。彼にとってはどうでもいいことだったが。

 だから、今期の紛争でも彼を知る者は早くから声を掛けた。だが今回、彼は頑なだった。思いがけず授かった初孫の為を思い、重い決意を固めていた。

 昨夜まで。

 今の彼には再び、この禍々しい相棒しか残されていなかった。

 裸族蛮族、全くその通りだ。彼は冷静に胸中で罵る。見栄っ張りで臆病で、練度は低い最低の軍隊、彼にはそう見えた。動く物は見境なく撃ち、狙撃者1頭にこうしてあっさり1個小隊を狩り取られる。

 銃は皮肉なことにベイファスからの鹵獲品だった。テッティでもとりわけ短躯な、だが幸運にも強壮だった彼は与えられた装備に始め苦労させられたが、扱いに慣れると最高の銃だった。大雑把に表現すれば、標的の内部に原子反応を勃起させ散弾状の物を爆散させることで、破壊する。ただし威力は低い。しかし対頭用の狙撃には必要十分。

 射程は見通し距離内無限遠。再装填に少しかかるが弾薬も原則無限。標的を見つける能力と隠蔽の慎重さ、そして殺す意思。これさえ揃えば誰でも狙撃手になれる。

 この銃に生かされるおれがこの銃で殺す、か。

 天をも呪っていた。

 一度与えておいて喜ばせ、次いで悉くを奪ってみせる。

 そうか、それが御意思か。

 ならばおれは。殺して、殺して。捧げよう。

 殺し尽くしてやろう、せいぜい受け取れ、天にまします我等が豚にも劣る何者かよ!。

 不意に場違いな笑いの衝動が彼を襲った。その衝動に身を任せた。疲労を自覚しつつ。

 暗い笑いを貼り付けながら次の射座を求め身を起こしたとき、彼に天の彼方から祝福が、呪縛からの解放がもたらされた。

 砲撃管制士官は青く充血した眼で覗き込みながら素早くもう一度、監視筒を周回させ遂に、望むものを得た。空間作用波が次元を揺らした僅かな痕跡を。

 みつけた。

 全く似合わない酷薄な笑みを刻みつけ、躊躇することなく砲撃支援を要請する。セルヴ軍が降下させた貴重な砲兵戦力は過労で後送を出すほど商売繁盛だったが、このとき偶々キャンセルが出て手が空いていた。

 昨夜の軌道爆撃が瓦礫の山に変えた街の一つ、まだ負傷者も生き埋めの住民も蠢くその一帯を砲火は無造作に耕し直した。

「どうだ。まだ少し廻せるぞ」

 立ち込める粉塵越しに弾着を確認した彼女は、ちいさな笑い声と共にそれをやんわりと断った。

「効果十分。いい仕事を有難う、また宜しくね」

 おうよ、という掛け声一つ。通信は終わる。

 やったよ、と呟きながら彼女は遠方を見つめた。あの青槍をやったよ。

 そして、倒れていった。

 もし戻れたら。

 ごめんね、わたしもどれないけど。

 あなたは、がんばって。

 かならず。

 少し粗暴で、それに自分でいらついていて。でも私にだけは絶対優しかった彼。

 彼に出会えて良かった。最後の力で微笑みを浮かべ、彼女も止まった。

 総てが静止した光景は、既にこの星から命あるもの尽くが消え去ったかの錯覚を与えるものだった。

 錯覚でしかないのは間違いない。とおく響いて来るのは疑い無く、闘争のみが奏でる無秩序なしかし力にだけは溢れた戦場楽曲のそれだ。

 やがてこれだけは変わらぬ夜の闇が今日もしずしずと舞い降り、等しく穏やかに抱き取って行く。だが現代の戦争技術は夜が促す休息も跳ね除け、営々と回り続けるのだ。

 なので日が落ちた宵のうち。

 ようやく再攻撃の準備が出来た組を率いる組長の大旗は、思わず手にした通話器を少し遠ざけしげしげと見詰めた。

 これは唯の通話器だ。当たり前だ。

 奇異だったのは伝わった音声だ。

「撤収、でありますか」

 一音ずつ区切るよう、飯を咀嚼するように聞き返す、否復唱する。

「その通りだ大旗」

「自分にはその、撤収、を命じられたように聞こえたのですが」

「その通りで宜しいのだ、大旗」

 ツージンは辛抱強く繰り返した。

 大旗は初めて気付いた声で更に問う。

「では、夜間攻勢は」

 ツージンは思わず鼻を鳴らしそうになるが止まり。

「取り下げる」

 なるべく平静を保ちながら続ける。

「だからといって漫然と退くな。最後まで敵の脅威で有り続けるのだ。但し、準備そのものは速やかに行え。回収予定は追って伝える」

 そのまま一方的に通信を切る。

 江嶋はその様子を顔も上げずただ耳と気配だけで確認していた。まあ今のところは従順らしいからよい。こっちはこっちで進めている。

 かつて虫で集めた情報を現状に照合させているが……あまり役立ちそうにない。だがここから拾い上げるしかない。佳南とその作業を進め、なんとか目星をつけた江嶋は立ち上がった。

「宜しい、貴官はこのまま降下部隊の撤収指示を継続してくれ。副官を置いていく。詳細すり合わせを協議して決定するように」

「どちらへ」

 ツージンは不意を衝かれた本物の驚きと共に尋ねる。

 江嶋は地表を指差し。

「交渉相手を探しにいく」

 ツージンは僅かに眼を剥いた。これはなんだ。作戦ではないのか。これではまるで政治ではないか。そんなもの我々の職掌ではないだろう!。

 彼の直感はまた、正しい。

 そして江嶋は、軍人である前に全権を委託された大使であり軍使であった。

 少なくとも江嶋は、この事態を収拾する術の道具の一つとして、その自覚があった。

 交渉相手を探す。

 言葉にすれば一言だが無論、容易な作業ではない。

 先の通り、手掛かりは前に虫で拾ったデータだった。

 当時、セーフハウスと目星をつけた所は、既に総て軍が耕した後だった。

 虫は、原則経路を伝い情報を得るので、状況がここまで混迷してしまうと余り役に立たない。普通の偵察センサと同様、ピンポイントに情報を得る道具としての運用は可能だが、今欲しいのはどこの情報を得るべきかのマッピングなのだ。

 それでもまあ、ないよりマシなので。最新情報と当時の情報経路痕跡を丹念に辿っていくと、仄かに浮かび上がるものがある。江嶋と佳南はそれを地道に読み取って行き、彼らが現在の潜伏先/活動拠点としているポイントを何点かに絞り込んだ。

 あとは江嶋が実際に現地で接触を試みる。

 佳南は当然、心配したが。今度こそ江嶋に同行すると更にやっかいを引き起こすのはかなり明白だったので、軌道上、この旗艦に留まることに決めた。

「じゃ、行って来る」

 「足耳」から艦載機を引き出し、何でもないようにいう江嶋に佳南は小さく頷いた。

「気をつけて」

「そっちもな」

 出た。

 旧式センサにはカスリもしない万全の不可視、ステルスで艦載機は飛ぶ。江嶋は何もしていない。完全なオートパイロットだ。

 一つ目の目標近くに機は音も光も無く滑るように降りる。降り立った江嶋は、しかし聞こえてくる会話を聞いて落胆した。全員、唯の戦争屋だ。その意味ではまあ優秀そうだが、それだけだ。使えない。江嶋は引き上げながら後の面倒なのでその場で全員拠点ごと処分する。次は生体反応がなくスルー。次は……逆に穏健派の集まりだった。確かに穏健だが柔佳く剛を制すの類でもなく、これはただの仲良しクラブだ。やはり交渉相手にはならない。まとめて処分して次へ。

「なあ、このへんが頃合なんじゃないのか」

 一頭が、やわらかい言葉遣いとは真逆の、強い決意を宿らせた目付きでいう。

 その場の視線が集まった。

「頃合、どの辺がだ」

「攻勢限界だ」

 端的に言い切る。

「確かに今回、準備に時間を掛けた、従来よりはな。だがそれでも発覚し、蜂起は前倒しになった。否。蜂起そのものを取り止める計画だったはずだ」

「それは裸が」

「現実を見ろ」

 手を振る。

「奴らは帰らない。このままだと何もかも失うことになるぞ。もしこれ以上抗戦を継続し、仮に、仮にだ、勝利出来たとしてもだ。干上がり切った財布で何が出来る。飢えた民衆を抱えて、だ。今以上に悲惨なことになる。誰にでも理解出来るはずだ」

 そう、誰にでも理解出来る。

 だから、だ。誰もそれを見ない。

 一頭の手が素早く腰に伸び。だが。

 そのままぐにゃりと床に倒れた。

 それでスイッチが入った、いや切れた、という様に。

 彼を残し、その場の全頭がくたりとしてしまった。くたりと。

 死んだ。

 まるで通りすがりの死神が気紛れに鎌を振るいまくったように。

 そこに江嶋はなに食わぬ顔で現れた。

「失礼」

 おれがその死神だ、まるでそう宣言するように不意に出現したその異種族に、彼は不審以上の何かを覚えた。

「誰だ!お前は!」

 威勢というより虚勢交じりの、怯えを隠せない声が誰何する。

「エジマという。軍使だ。決定権者と話がしたい」

 しばらく顔を見合わせた後で。

「ここにはいないが」

 男は慎重に言葉を選ぶ。

 理屈ではない。こいつは、危険だ。

 そうか、とエズマを名乗る異種の男は平然と受け流し。

「では君でいい。少し話そう」

 死体、若い女だ、を蹴落とし、目の前の椅子に勝手に腰掛ける。

「おれは名乗った。君は」

「……ボーゼフだ」

 少し躊躇い、応える。

「よしボーゼフ。君の認識は大体合致しているが、致命的に誤っている点がある」

 ボーゼフは憑かれたようにエズマの次の言葉を待つ。

「我々には撤収する用意がある」

 言葉を切り。

「君の態度如何では、だが」

 ボーゼフは唾を飲み込んだ。

「なぜ僕、いや私なんだ」

 ん、とエズマは見つめ。

「話が付きそうだから」

「それ以外は殺したのか。邪魔だからか」

 んー、と周りを見渡し、初めて気付いた顔つきで。

「ああ、随分死んでるね」

 向き直り。

「寿命だろ?」

 事もなげに言い切る。

 ボーゼフは、奇妙な笑いの衝動が突き上げてきた。

「それで、何がどう私次第、なんだ」

 江嶋は、今度こそ真剣な表情でボーゼフと向き合う。向こうからどう見えようと。

「軍隊てのはムダの塊だ。紙幣を焼いて湯を沸かし、風呂に入る様なもんだ。実際、今回の動員でこっちの財政も悲鳴を上げている。判るか」

「まあ、そうだろうな。徹底抗戦派の論拠もそれだ」

 ボーゼフは首を回してみせる。

「だが同時に、結果を出さなきゃ退けん。これも、判るな」

 ボーゼフは再び、今度は黙って首を回す。

「そこでだ。今後10年、君たちの寿命に照らせて出来れば100年、安全を保障してくれ。そうすればいつでも俺達は喜んでここから引き揚げよう」

 佳南は旗艦艦橋、司令官席の床に手足を投げ出し仰向けで転がっていた。胸にぽっかりと貫通創が開いているが、焼き切れているので出血は少ない。その容姿の美しいだけにどこか妖しく艶めかしい光景だが、残念ながら美醜への感覚が異なるベイファス種たちにはただの尾無しの雌が引っくり返っている、としか見えていない。

「こやつ等は賊だった。皇国が、我等が臣民が労苦で勝ち得た利権を不当に損ねる害毒に他ならなかったのだ。そうだな?異存はあるか」

「否!」

 その場の全頭が一斉に応える。拒んで得する局面でもない。

 一頭がすいと前に出、じゃこいつは私が始末しときます。言うが早いかつい先刻まで次席指揮官の素振りで派遣軍全軍を隷下に掌握していたつもりでいたその肉塊を、死体袋に放り込むと素早く退室した。余りに鮮やかな手際であったのでツージンも一瞬戸惑い、しかしそうなるとむしろ好都合にも、気付けばそんなもの始めから存在していなかったのだと、その場での合意はたちどころに醸成されていた。

 次は、そう、確定している。

 エズマを消す。

 ツージンは眼下を見下す。例えそれこそこの星を更地にしてでも。

「話は判った。少しだけ時間が欲しい、それと」

「それと」

 ボーゼフは思い切って、さけんだ。

「軍使としての、証を見せろ。今すぐにだ」

 江嶋はちょっと首を捻った。

「そいつは困ったな。うん」

 指を鳴らす。

「こいつでどうだ」

 凄まじい破壊音と共に、青白い火花を周囲に散らしながら巨大な何かが側壁を突き破り、出現した。煽りを受けホールは半壊する。

 艦載機だ。

 こんなものは確かに中央の産物だ。証としては十分だろう。

「乗れ。詳細を詰めよう」

 が。

 江嶋は不意に異変を察し、ボーゼフを衝き伏せながら自身も床に身を投げる。

 建て残っていたホールが崩落する。

 ボーゼフは笑い掛け、江嶋の手を引いて起こす。

「仲間割れか。撤収か徹底抗戦か」

 江嶋は真顔で一瞬、怒りを表し。

「どうやらそうだな。佳南、おい佳南!!くそ、だから気をつけろとあれだけ」

 どん。

 砲撃が着弾。

 ボーゼフを庇い江嶋は吹っ飛ぶ。

「エズマ?!」

「見てくれほどじゃない!、こっちは重装だからな」

 上着は綺麗にふっとんでいたが、裸同然、ではなく黒光りするインナーを全身に着込んでいる。スキンタイプの戦闘強化服だ。佳南も同じものを着ているハズなんだが。それでもやられたか。

 ツージン!!。

 江嶋も容赦しなかった。

 一時的に二人の笠になった艦載機を、地表を這うような高度で脱出速度を発揮させ周りから群がり集まる兵の群れに突っ込ませる。

 プラズマ化した大気が紅蓮を放ち、衝撃波が吹き飛ばし、長く曳くブラストが残りを灼き尽くす。だが所詮非武装、活躍はそれほど長くはなかった。だが一山の死体を築き、極めて限定的だがこの戦場で主導権を掌握するくらいは十分に働く。

 それでも散発的な火線が周囲から集まる。

「何ぼっとしてる、応戦しろ!銃は使えるな?」

「あ、ああ」

 応えたボーゼフは手近の小銃を構えると、訓練されたものが示す慣れた姿勢と手付きで応射を始める。

 それを見届けた江嶋は前進、さっき吹っ飛ばした部隊の装備を探る。分班支援火器を見つけ、両脇に抱え敵火点を一つずつ潰していく。が。

「伏せろ!!」

 辺りの瓦礫と共に江嶋の体も宙に放り上げられた。全身をばらばらに引き裂く衝撃の中右手がもげる。即座に痛覚が遮断され痛みはないが痛い、利き腕を失った、戦闘力大幅低下だ。

 同時に気付く。

 当然だが標的はおれ一人か。

 ならやりようはある。

 這うように跳躍し、観測兵を探し、撃つ。

 観測兵は大抵女性士官だ。

 恋人も夫も子供もいるだろうが関係なかった。

 支援火器の一連射で吹き飛ばす。

 全力で動けるのは後何分だ。

 まだか、佳南。

 衝撃。

 直接照準で野砲の直撃を受けた江嶋は更に左腕と、頭部も左半分を失いながら吹き飛ばされ、地面を何度も跳ねとばされながら叩き付けられる。

 ツージン。

 佳南。

 さすがに意識が飛びそうだった。

 その主を三度替えた派遣軍艦隊旗艦。

 ばしん。

 総ての探査系、索敵系、眼と耳が白目を剥く。一気に塞がれた。

「何事だ」

 僅かな苛立ちを交えツージンが副官を問う。

「し、至近距離からの弾幕妨害です、あ。回線強制接続されました、来ます!」

 佳南は「足耳」の戦闘司令室で仁王立ちになり、立体映像を叩き付けてきた。

「ウチの旦那はあまあまでどーしょーもないけど私は違うかんね!ツージン少長!非を認めて大人しく投降するか最後まで足掻くか、好きに選べ!!」

 佳南は本気で激怒していた。それは用心の隙を衝かれまんまと”殺された”自身の間抜けさ加減もついでに上積みされている。

 中央の技術に欺瞞されたのか、このおれが、という事実認識からして最早苦痛以外の何者でもなかった。この男の剥き出しの地金が鈍く光る。

 震えながら無意識に舌を振った。そしてツージンは絶叫した。

「わた、私は間違っていない!正しいのは私だ!!私のはずなのだ、それを」

 佳南はどこか疲れた顔でしかし鋭く、立てた親指を一閃。これは或いは宇宙共通のサインなのかも知れなかった。

 旗艦ブリッジの内壁に沿うように幻の如く6体の影が出現し、その中ツージンは音も無く床へ倒れこむ。

「中央軍だ。抵抗するものは殺す」

 威嚇ではなく、ただ法がここにあるを示す判決読み上げのような声が辺りを払った。

 江嶋が唯一引き連れた増援、最も高い練度を誇る皇都親衛第一特殊藩群第一組第一特戟班。名誉称号である特戟の名乗りを許された、精鋭であることそのものを任務であるとするような部隊だった。

 抵抗?冗談でしょ、という目つきで互いがちろりと舌を揺すると、ツージンに従うべき全頭がその場で即時に上半身を平伏し掲げた尾をゆっくりと振って回す。

 正直既に派遣軍の誰もがツージンが振りかざす、正当で攻撃的な戦理にうんざりしていた。撤収、邦に返してくれるというエズマの言葉は福音に他ならなかった。

 あらら、ちょっとだけ可哀相かも、と思いながら佳南のその憐憫は1ミリ秒も続かなかった。傍らのミャウ一頭に振り返り。

「それにしても助かりました。改めて有難うございます」

 礼に、反応は慎ましやかな一言だった。

「いえ、職責を全うできただけです」

 佳南は黙って頷きつつ。

「でも、すみません、ただのその、事務方の方かと」

「いえ、ただの事務方にしておいて下さい」

 江嶋のもう一枚の伏せ札、チチュカミはそう答えるとしかし、満更でもない表情でつるりと顔を一洗いしてみせた。

 攻撃は今度こそ止んでいた。

「お、繋がった」

「あ、あなた?!大丈夫、生きてる?!」

「だからこうして通信してるんじゃないか」

 安心させるように、慰めるように江嶋は囁く。

「ごめんなさい、私、ほんとうに殺されちゃって。チチュカミさんに蘇生して貰って、だから手間取って、御免なさい!!、わ、私が」

「いいから。大丈夫、大丈夫だから」

 ちょっと軽く100回くらい死にそうだけど死にそうに痛いけど。

 体組織が再生中で、痛覚は断続的に試験されがんがん来る。

 しかし気絶する贅沢も彼にはない。そんな暇はない。

 あやすようにいい、傍らに立つボーゼフに。

「ああ、妻なんだ」

 そうか。ボーゼフは言った。私のは一週前に私を残して皆、死んだ。

「殺された」

 江嶋は暫く無言で対した。

「大変、申し訳ない」

「いいさ。手を挙げたのはこっちなんだ」

 全くそうではない口調でボーゼフがいう。

 しかし頑丈だな。ちょっと賛嘆した口調のあと。

 一転、妙に明るく。

「取り決めは以上でいいんだな」

「ああ、我々は退く。しかし君を通じて援助は続ける。君自身へを含めて」

 江嶋はボーゼフを、見た。

「君がこの星の王になれ。我々はそれを全力で支える」

「裏切ったら」

 江嶋はにたり、と笑い、告げた。

「今度こそ、全力で叩く。草木一本遺さず、最後の一頭まで刈り尽くす」

 ボーゼフは、笑った。

「了解だ」

 背を向け、誓う。

「この甲が落ちるまで、忠誠を誓おう」

 テッティの背の甲羅は、主が死ぬとしばらくして剥げ落ちる。

 ボーゼフが去ると詰め寄ってきたのは佳南だった。

「ツージンを赦すって、あなた、いえ司令、本気ですか」

 私を殺した。言い募ろうとする佳南を眼で留めて。

「痛て、てて!!」

「きゃ、ごめんなさい!!」

 ちぎり取ってしまった右腕を慌ててくっつける。

「左ももげたんだ、気ぃつけてくれよ」

「いやそうじゃなくて」

 江嶋は真面目に佳南の眼を覗き込んだ。

「彼は優秀だ。彼の職掌の及ぶ範囲に於いて。それに、彼は間違っていない。私心で動いた訳じゃないんだ」

 だが、暗い顔で吐息した。

「私は彼を赦す。しかし。一度軍に背いたものを、軍は赦さないだろう。その裁定に任せよう」

 もちろん、極刑しかなかった。


 12.目標地球


「50点」

 バイドは評した。

「傀儡を据えたのはいい。なぜ洗脳してやらん。それが互いの幸福だろうが」

 洗脳、ねえ。

「どうした。宗教なんぞよりよっぽどマシだぞ」

 言葉を切り。

「ところで、お前も見とくか」

「へ、何をです」

 バイドはイヤな顔をした。

「おれがお前に見るかと言えば一つしかなかろう」

 あ、ああ。江嶋も合点がいく。

「後学の為に、可能なれば是非」

「よし、ついて来い、銀央までブッ飛ばすぞ。」

 バイドの”足”は、足耳など及びも拠らない、50km級の重巡航艦だった。ようするに宇宙戦艦、艦隊の主力艦である。

「よし、お前ら、いくぞ!」

 そして江嶋は圧倒されていた。

 あの光が、総て戦闘艦だというのか。

 まるでそこに一つの星雲があるようだった。

 バイドは一瞥して一言。

「億は居るかな。兆は居らんだろ」

 億?兆?!。

 それは、戦闘員の??。

「ばぁか!」

 江嶋は頭から一喝を浴びた。

「艦の頭数に決まってるだろ。今まで何を見、どう学習してきたんだ」

 ここまで来ておれを失望させるなや。バイドは嘆き小さく鼻を鳴らした。

「なに、九割九部九厘無頭だ、コケ脅しもいいとこだって」

 げはは。

 そして怪訝そうな目つきで江嶋を見る。

「どうした、何故笑わん、今のは笑い処だぞ」

 艦隊、いや、艦雲が演習を開始した。

 太陽が1000個ほど爆発したような閃光がぼうぜんとしていた江嶋の眼を灼く。

 バイドは素早く遮光グラスを掛けていた。

 江嶋も慌てて支給されていたそれを付けた。その向こうからでも凄まじい光量が溢れて来ていた。

 高真空、宇宙空間で光線兵器の射線は発光しないので、放たれているのはレーザとかそういった類と既に違う何か、だ。

 一つ一つが惑星規模の標的が次々と消滅していく。

「ああ、ハリボテだが一応無垢だな」

 バイドが言語矛盾のような感想を洩らす。

「まあこのくらいの火力はなきゃおハナシにならん」

 砲撃、それを砲撃などという俗な用語で表現してよいのであればだが、それは威力を増したようだった。それは質的にも量的にも、言語の領域で表現可能な閾界を飛び越えた光景、というより世界、だった。

 江嶋も当然、その眼でみたことなどないのだが、連続するその一つ、一つが彼のビッグ・バンのような光芒が空間を歪め、引き裂き、爆滅させている。

用意されていた、こちらも艦雲に負けない規模の標的が、瞬く間、文字通り瞬きする間に総て消滅していた。

「ほう、次元撃縮空間作用場斉投射か。少しはやるな」

 いったい、バイドベインが何を言っているのか全く理解出来なかったが、少しだけ感心を示しているだけに彼は目の前の出来事を根源的にではないにせよ、戦術作戦運用的の基準に於いては十分、理解しまた自身、それを使える立場にいるのであろうことは推察出来た。こんな途方もないことを、実際の水準で、当然と。

 江嶋には、何が起きているのか、バイドベインが何を呟いたのかどう感心したのか、全くなにも、想像すら出来ない、正に別次元の存在だった。

 言葉にするなら、想像を絶する規模の破壊力が眼前にある、というところか。

 こんな文言の羅列、何の意味も持たない。一桁以上の数値を認識する術を持たない未開を全く笑えない。理解能力の貧困さに於いて両者は全き等価の関係にある。

 隣に立っているこの巨大なトカゲ男が、久しぶりに、いや初めて、遥かとおい存在に感じられた。

 こいつらは、地球外知性体なんだ。

 そのことを、腹の底まで沈み込むほどに実感した瞬間だった。

 そして、唯一、これだけは確かなことと把握出来る現実があった。

 は、はは、ははは。

 勝てねえ、この連中には勝てねえよ、佳南。

 太平洋の前線でご先祖さま達もかつて敵軍の偉容を前にそう言って笑ったに違いない、とそう思った。

 戻って少しして。

 江嶋は、相当なやんだ。

 佳南とも何度も相談した。

 しかし結論が出ない内に一月が過ぎ、半年が過ぎ。

 また一年が経過しようとしたとき。

 バイドベインの名代で、中規模艦隊を率い見事堅勝を収め帰還したその足で。

 遂に江嶋は申し出た。

「バイドベイン、すまない、貴方に頂いた恩義は」

「まどろっこしいな」

 バイドは一喝した。

 間を空け。

「邦に帰るか。それも佳かろう」

 つと、視線を外す。

「ま、お前もお前なりに良くやってくれた。本当だぞ」

 視線を戻し、言う。

「何でもいい、餞別だ、一つやろう。おれの女房以外なら何でもな。何がいい」

 短い挨拶を済ませ、退職恩給代わりにそれを受け取ると佳南を呼び出した。

「こっちは済んだ」

「こっちもいつでもいいわよ」

 江嶋が貰い受けたのは、もう完全に足として馴染んだ「足耳」一隻だった。

 二人で地球復興に必要と決めて買い付けた物資を、搬入する。

「目標、地球」

 なけなしのペイロードに、カーゴルームから通路にまで溢れる積めるだけの物資を抱え込むと、命名「K&T」号は静かに発進した。

 地球に関しての情報収集は、敢えてして来なかった。

 還るときには還るだろう。そう思いながら。

 或いはもう滅んでいるかもしれない、そう思いながら。

 敢えて、意識の片隅の、その外に置いてきた、今日まで。

 太陽系外縁に実結した直後その通信を傍受した。

「聞こえるか、江嶋三尉。応答せよ」

 内心驚愕しつつ、江嶋はワンコールでそれに応じた。

「感度明瞭」

 僅かなざわめき。

 続いてやや高揚した声が続く。

「私はDF本部付、特等一佐の相庭だ」

 江嶋はさすがに衝撃を受けた。

「相庭……一佐。昇進おめでとうございます」

 往信が少し遅れる

「……それは流石にムリだよ、江嶋さん。僕は五世です。あなたとのコンタクトに最適と見込まれて引っ張って来られたただのメッセンジャーですよ」

 声は苦笑を交えながら伝える。

 かつてケスラーシンドロームによる閉塞さえ案じられていた地球軌道はさっぱり片付き、捕捉した反応は唯一それのみだった。全長1.5Kの「K&T」はシャトルを収容し代わりに地球軌道を占位する。

 この存在に気付いた地上からものすごい数の呼び掛けが浴びせられたが江嶋はこれを無視……余りに煩わしいので弾幕妨害でその総てを沈黙させると、ようやく諦め……NASAだけがまだ唯一粘り強く発信を続けていたが無視し、五世との対談に臨んだ。

 互いに軽く頭を下げる。久しぶりだこの感触。

「その、何とお呼びすれば」

 全身で緊張を伝えながら五世が口を開く。

 確かに、あの相庭二佐の面影がどこかに残る、20少しの青年だった。だがかつての二佐に比べ、はるかに柔和な感触だ。

「江嶋でいいよ」

 ざっくばらんに応じる。

「では、江嶋さんと。まずはこれを」

 そう言い、彼は一片の封書を差し出した。

「初代から預かっているものです。江嶋さんとお会いすることがあれば必ずお渡しするように今日まで代々言い付かってきました」

 江嶋は手に取り、くるくると眺め回す。それほどの厚みもない。

 五世をみやり、確認する。

「ここで?」

「是非に」

 ぺりぺりと封を開け、眼を通す。

 万年筆による二佐らしい、硬い几帳面な字が並んでいる。

 黙って隣の佳南に手渡す。

 佳南も口を閉ざしたまま、食い入るように何度も文面を追っているようだ。


 拝啓


 久しぶりだな、江嶋三尉。いや、虚勢は止めましょう。良く戻ってくれました、江嶋様。貴方がこれを眼にする確率は低いと思いますが、私はこれを残すことにします。

 どこからにしましょう。

 まず、既に貴方もご存知の通り、私達の組織は、地球外知性体の一つである、ベイファスとの接触を果たしていました。当時、地球周辺で進行していた事態についても、私達なりの手法で、正直、かなりの確度で把握に成功していたと思います。

 あなたはこう、私達を糾弾するでしょう。お前達はそれを傍観していたのかと。

 弁解になりますが、私達もその能力の限りに於いて、最大限の努力は尽くしたつもりです。当初、件の実験機の落着地点は日本の関東平野中央にありました。

 私達はこれを迎撃しました。結果、実験機の軌道を逸らせることには成功しましたが、甲号と、正操作員である伊射野東雲一尉を喪失し、また副操作員であった伊射野佳南二尉も一時的に戦列を離脱しました。

 そして、事態そのものへの介入についてですが。これは、見送られました。

 まず一つ、その効果が疑わしいこと。地球を軸に4カ国軍が各々の意向で作戦するというのですが、私達はどこの誰にどのように懇願すべきだったのでしょうか。ましてや地球は彼らに認知された存在ではありません。ベイファスが持つ膨大な辺境資料のそのサンプルの一つに加えられているだけの存在です。また当時は、米国がナイナと接触済みであることも、迂闊にも私達は知りませんでした。もしかしたら、両国が協力することでなにがしかの成果は得られたかもしれませんが。

 次に、その結果が予想出来なかったことです。ベ国とズ国が、往時の米ソを彷彿させる険悪な関係であったことも、私達はベ国を通じて見知り得ていました。それ故、もしベ国になんらかの請願が可能であったとしても、ズ国の対応次第では更に事態を悪化させる可能性がある、最低最悪の場合、この地球という星ごと総てが消滅することすら有り得る。この可能性は私達を怯えさせるに十分なものがありました。怯懦を罵って頂いて結構です。しかし私達にも重過ぎたのです。

 最後に、過ぎた打算がありました。地球外に重大な脅威が存在することを広く世間に知らしめることは、またとない地球統一の契機と成り得ようとの、思えば浅慮でありました。外圧による変革を期待するのは、全く、我が民族の悪弊に他なりません。当時は結果、それを最悪の形で思い知らされました。雨降って、地、固まるを能天気に期待しながら、実際に招いたものは既にご承知通りの洪水による世界の滅亡でした。アルカの悪意に拠らない蹂躙と、ズィーグの、事態に歯止めを掛ける目的の威嚇攻撃で、脆弱な私達の文明は破局的な被害を蒙りました。

 我が日本もその余波を受け、諸外国からの影響で史上最大級の国難の中にあります。


 江嶋様。


 貴方がこれを眼にされるとき、或いは既に日本は滅びた後かも知れません。

 しかし、これを誰かが、貴方に手渡したということは、地球は、人類は、まだ生残している筈だと小官は未練します。

 日本は仕方ないかもしれません。

 しかし、地球は、人類は。

 否。銀河を広く見聞されて来た貴君のこと。もしや、人類は滅ぼす手間を掛ける程も無意味な、下等で下劣な存在であるやもしれぬかと、その一人として恥かしく思い、危惧も致します。

 しかしながらそれでも、小官は貴君に懇願したいのです。

 もし叶うことであるなら、地球をお救い下さい、御願いします。


 これは唯のわがままです。貴君は、貴君の正しきを行うことでしょう。

 ただ、その慈悲におすがりするだけなのです。

 出来ることでしたれば、何卒、宜しく、御願い申し上げる次第なのです。

 地球を、お救い願います。宜しく御願い申し上げます。


 そして伊射野様。


 江嶋様の近くで、貴方様も必ずやこれを御覧頂いていることと存じます。

 私達の手前勝手な都合で貴方方を産み出し、使い捨てに致しました。

 貴方方には、殊に貴方の兄上には大変申し訳ないことを。いや、詫びても詮無きことながら、末筆にて申し訳ないことながら、小官としては唯、お詫び申し上げる他術が有りません。誠に、心から申し訳なかった。赦しは請いません。一同を代表しここに謝罪申し上げる次第に御座います。


 もし、貴方方にて人類の盲が拓かれるなら。人類に幸多かれしことを切に願いつつ。


 敬具


 二佐が遺したのか。これを。

 江嶋はその書簡に、びりびりに引き裂き罵倒したい衝動と、号泣したい衝動の二つを与えられた。少し、目頭が熱くなった。愛国者であり、愛星者であった、そんな素振りなどカケラも示さずにいたかつての上官を想い。

 DFが存続していたことにはあまり意外を覚えず、むしろこれで当然と思える江嶋だった、が。本部の移設先には少しばかりの奇異を感じた。

 あんから、ってどこよ。

 トルコの首都である。

 トルコ共和国。欧州とアジアに跨り存在する領土面積的には大国、世界へのプレゼンス的には中小国の、だった、そして現今は中東勢力の欧州侵攻の玄関口として南から激しい圧迫を受け、北の欧州からは前進防御としてボスポラス及びその対岸を制圧され領土的にも見事弱小の地位に転がり落ちた、なかなかに不幸自慢が出来る境遇にある。

 そして、このような悲惨な状況にありながらこの国は最後まで自ら掲げた友誼を尊守せんと残されたなけなしの力を振り絞り、DFもまたそれに最大限の支援を与えていた。

 地球最後の日本の友好国家としての責務を。その保護を。

 日本の、日本人の保護、って、一体。

 激しい違和感を江嶋は解決すべく、五世に訊く。

「つまりその、日本はどうなったんだ」

「ないよ」

 江嶋は一瞬、日本語まで変化したのかと自分の耳を疑う。

 うん、ないんだ。指差し示しながらどこかさばさばとした声で五世は言う。

 江嶋もあぜんとして眼下を見下ろしていた。

 なるほど確かに、ない。日本はきれいに消滅していた。

 富士も当然、沈没もせず物理的な列島はあるべき場所に健在だったが。

 皇居が、ない。国会議事堂も。首都高もJRも通天閣も五稜郭も原爆ドームも熊本城もあれもこれもそれもとにかくこれが”日本だった”ものが何もない。あぁ何と表現すべきか、日本全土がかつて江嶋が闊歩していた”あの”歌舞伎町に作り替えられていた。

 当時それはエア・ピープルと呼ばれた。海、という城壁を持つ豊かな堅城目掛け、世界中から”持てる者たち”が難民となってなだれ込んで来ていたのだ。何もせず真水が確保出来る一点に於いてでさえそこは楽園だった。加えて日本は、コスト故に世界には普及しなかったが、国内の産業を総て水素エンジンに置き換えていたエネルギー、そして環境の超が付く優等国だった。ちっぽけな蒸気動力船に驚嘆し威圧され国策を力任せにねじり切られたその同じ国が、世界有数の空母機動部隊を編成し最強クラスの戦艦を進水させる。環境推進の提灯を掲げながら環境後進国と蔑まれていたその同じ国が、光より早く総ての列強を抜き去り彼方へ駆け去り気付けば世界中の排出権を一手に握りふと背後を振り返る。いつもの様に。

 しかして、相変わらず変事に弱い、弱かった、呆れるほどに。

 難民たちは日本本土上で原住民の意思とは全く無関係に割拠ししかも各間で抗争を開始し、また日本に橋頭堡を確保したことから更に本国から仲間を呼び入れた。電子兵装と無関係な大昔のホビーレストア機や博物館から引き出された骨董機体がグライダーを曳航しながら続々と日本に漂着した。自衛軍が正に自国民を護る為に各地で独自に防戦する以外に、変転し続ける事態に対し政治行政共に何の有効な反応も示せなかった。それは天変により首都の、東京の人材を失っていたから、だけの言い訳では済まないだろう。生活圏を略取され糧道を断たれ、日本人はその間にも様々な要因から減り続け、挙句少数部族に転落し吸収され、消滅した。本土からはほぼ完全に。

 そして片や。

 かつて統合まで漕ぎ着けた旧大陸は千千に乱れ、ばしばし国境線が引き直され各所が火を噴き、ECどころか合従連衡を繰り返す世界大戦以前までに退行していた。

 新大陸、合衆国はカナダを巻き添えに東西南北へ分裂し相撃、北米の影響及び支援が途絶した中南米は無法の一言に尽きる。

 中東は、一斉にイスラエルを踏み潰した後、西欧化の影響が強い組と原理派に別れ、これも激突していた。原理派内だけでも衝突が頻発する有様で。

 アフリカは……ここだけは以前とあまり変わらない。

 世界各地が好き勝手に戦い争う、第三次世界大戦、ならぬ大惨事地方対戦。

 電子を焼かれた故に、偶発核戦争だけは回避出来た事実を僥倖と慶ぶべきなのか。

 お前ら。本当に滅びを望むか。

 気分のままに。江嶋は地球を更地に戻し、佳南と二人でのイニシャライズをかなり真面目に思い悩んだ。食さえ保障してやれば人口なぞ。産めよ、増えよ、地に満てよ、後は野となれもとい、今度こそまっとうな種族を文明をこの手で。

 同時に情けなく、哀しくなった。

 足りんのか。それは何だ。

 致命的な欠落、それは何なんだ。食か、礼節か、技術か、知能か、愛か。それともそれ以外の何かなのか。

 だがしかし結局江嶋は諦めがついた。いんしゃらー。なるようになるさ。

 だから江嶋は、奴隷貿易による国力破壊についてもよく知らぬままに、まず最初にアフリカ復興へと着手してみせた。

 なぜだ。それが当然のように強い非難が、特に旧大陸を主軸に湧き上がった。独裁者エズマ打倒を掲げ、みるみる地表は、特に旧大陸は一つに纏まっていく。

 江嶋はその様子に手を叩き、笑い興じる、そうそう、そうなんだよなお前ら。WW2といいその後の冷戦といい、敵が出来たときは団結心の強いこと。

 が。

 遊びは終わりだ。教育してやろう。

 江嶋がポルトガルとフランス、それとオランダあとついでにグレートブリテン本島を地表から消してみせると、少し静かになった。よし、これで人類は自らを省みる羞恥と礼節についてをより深く学んだ筈だ、そうであって欲しい。

 娘と五世がいつのまにかデキていた。江嶋は素直にそれを祝福した。日本語教育の勝利だ、佳南の大手柄だ。全人類も挙げてそれを慶んでみせた。

 やがて江嶋にも孫が生まれた。

 孫だって。いつの間にかじじぃだよ参ったなオイ。

 抑齢処置により30直前で凍りついた自身の容姿を見下ろしながら、江嶋は当惑する。2、3千年はこのままメンテナンスフリーだと聞くが。

 孫を抱きかかえあやしながら、江嶋は淡々と指揮を執り続けていた。佳南以下家族たちも彼を支えよく従った。

 やがて地表で”エズマ教”が勃興し、キリスト教他既存の宗教の総てを駆逐し、世界はほぼ一色に塗り潰された。更に各国で自由の女神を凌ぐ巨大な”エズマ”像が建立され、しかもその大きさ、華美さが競われた。江嶋は暫くそれを眺めていたが、北米に築かれた最も巨大で最も壮麗なそれを、序幕式のクライマックスで虫1匹を送り、世界が見守る中半壊させてみせた。

 ”エズマ教”は即日解散され、各国の像も慌てて取り壊され、北米の半壊像のみが遺訓として残置された。江嶋は少し感心した。連中、ルールが判ってきたみたいじゃないか。


 トルコ・イスタンブール、日本人租界。

「ヤッタゾ!!バンザイ!!」

 これも自省と自戒か、否エズマが遣うからか。地表では日本語が一種のステイタス・シンボルとなっていた。プロジェクトに参加していた一人、ネイティブ・アメリカン。

 というか恥を学んだ新世代は、WAPSを筆頭にかつての持ち主にその土地を返還しアメリカと呼ばれていた土地を退去、消滅した、否消滅”された”旧大陸跡地を中心に海上プラットホームを構築しそこに引き篭もっており、合衆国は事実上今度こそ消滅していた、ので言語矛盾につき訂正……精霊の大地はシャイアン族のエンジニアが発したその歓喜は、コミュニケータに乗りいつもの様に超光速で世界を巡った。

 そして世界中から瞬時にして、1000を超えるオーダーの祝福の言葉が返された。同時に、世界各地に存在するコミュニケータを基点に、核爆発の様な勢いで幸福の情報が伝播する。「食糧安全保障省が『マジック・ボックス』の複製に成功したぞ!」

 土を入れれば食糧を、鉄を入れればコミュニケータを産み出す奇跡の箱。畏敬の念を込めて『マジック・ボックス』とのみ呼び習わされてきた、天帝エズマが上界から地表に投げ与えた星界の匠。それを人類の手により遂に先ほど、複製製作に成功したという。

 現状は”複製”と表現するには程遠い。

 容積はオリジナルの万倍以上の一大コンビナートであり、しかも投入するのは純度イレブン・ナインの純粋炭素で、さらにトン単位のインプットに対し吐き出されるのは数個のペプチドだ。またコミュニケータに関してはその動作原理ですらまだ全く不明。

 だが、一方の、理論実証プロジェクトとしての成果はこれで十分といえる。

 見てますか二佐、俺たちここまで来ましたよ。江嶋は胸中で一人告げた。

 どんどんぱふぱふー。もちろん、江嶋一家もこの日ばかりはお祭り騒ぎだった。

 というか。

 江嶋一家は既に100人の大台に乗っていた。江嶋は一度だけバイドベインに頭を下げ、手術システム一式と担当医を送って貰っていた。医者はS級AIだが。術式そのものは既に定型化していたのだ。

 あ、抑齢処置の、だ。家族は人間算式に増えていく。お忍びで地上に降りた曾ひひひ……孫達が、現地で咥えて連れ帰って来ていた。

 月か、火星への移住を本気で検討し始めている江嶋家だった。


 王とは。自ら望む者が就く座ではない。

 望まずとも担ぎ挙がられ投げ落とされる、呪われた席であるのだ。

 地球帝國初代皇帝、そして常任皇帝、エズマ。

 その名は史家たちに限らず既定事実として人々の。

 成らしめされた、地球人の額に、深く刻み込まれていた。


 了

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あるとら 大橋博倖 @Engu

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